山の主の話 - 2 -
草原に紛れる血痕を追いかけると、あちこちに矢と血が散らばっている場所があった。周囲の木々のうち細い木は折れてしまっている。更に爪跡や毛がこれでもかと付着しており、魔獣がかなり暴れたことは見て取れた。ここが彼らが一戦交えた場所であることは間違いないだろう。
ナナメは更に魔獣の足跡を辿る。それ程遠くない洞穴にそれは居た。尾先の赤い白狐。先ほど見かけた時の清らかな姿はどこにも残っておらず、傷や泥で汚れてしまっている。弓矢の威力が弱かった為か、中途半端に刺さっていたであろう矢は落とされて辺りに散らばっていた。深く刺さっているものは取ろうとして噛んだのか、矢羽がぼろぼろになっている。
傷を舐めていた白狐が、耳だけこちらに向けて警戒しており、ナナメが近付くと低く唸った。
「今朝のジンカンか。やつらの敵でもうちにきたか」
話しかけてくる白狐に、ナナメは、おや、と不思議に思い立ち止まる。
「いや、あの子達がまだやるって騒いでたから見に来ただけ。私の方が先についちゃったみたい」
質問に答えると、驚いたのは白狐だった。無関心を装って細めていた目が見開かれる。
「貴様、儂の言葉がわかるのか」
「私も会話ができる相手は久しぶり。……その背中の矢、痛そうね。とってあげようか」
白狐は、そのまま体を投げ出すことで答えとした。ナナメは自分の背より大きな白狐の背中によじ登り、その傷の状態を見る。真新しい傷の周囲の毛は血で汚れてはいたが、どれも傷は浅く血は止まっていた。そのうち深く刺さった矢を抜こうと触れる。
「随分古いわね。あの子達にやられた矢じゃないの?」
「それは昔やられたものだ。……こんな矢を何本受けようがどうともならん。だが、その矢のせいで体がうまく動かないのも事実。自分では抜けぬのだ、抜けるものなら抜いてくれればありがたい」
「もう半分同化しちゃってるから、取ろうとすると余計に傷ついちゃうけど」
「傷などすぐに塞がるから構わん」
ナナメは頷くと、ポーチの中から鎮痛剤を取り出した。ナナメは長年狩人として生きてはいるが、いくら慣れていても怪我はする。怪我をした時、治療をする時に使う、自分用の鎮痛剤だ。
その鎮痛剤を、量を確認しつつ白狐に打つ。それからナイフで切れ目を入れてから、矢を思いっきり引っ張り出す。血がぶわりと吹き出したその穴に、ナナメはジェル状の液体を流し込む。それはすぐに固まって蓋となった。
「話ができるってことは、ここのヒト達と交流があるんじゃないの? あの子達に襲われてるのが不思議なのだけど」
「昔はそうだったのだが、最近はもう話が通じる相手は少なくなってしまったのだ。もう幾年も、ヒトも、獣もだ。……移動を考えていたところで、傷を受けてしまってな」
「そう」
一連の動作を、刺さった矢の本数分繰り返す。全部抜き終わり、ふう、と息をつくナナメを見て、白狐は大きく息を吐いた。
「礼を言う。おかげで大分楽になった」
「フフ、お愛想なんていいのに」
真面目な顔をして言う白狐に、ナナメは顔を綻ばせた。体は動くだろうが、麻酔がかかっている。この状態で背中の感覚などあるはずがない。
「貴様はこのあたりで住む気はないのか?」
「そうね、数日はいるけど、通りすがりだから」
「……それは残念だ」
白狐は立ち上がると、頭を下げてナナメに目線を合わせた。暫くの間、大きな赤い目がナナメを覗き込んでいたが、耳をピクりと動かすと、さっと顔を上げた。
それを合図にしたように、洞穴の外から四人分の足音が聞こえた。
「ここだ、間違いない」
そう言いながら、男が入ってきた。男は白狐を目にして喜んだ後、その横に佇むナナメを見て、目を見開いて叫んだ。
「ここで何してやがる! くそ、やっぱり俺の言った通りだったろう、この闇憑き野郎が、横取りをするつもりだったんだ!」
先ほど別れた四人だった。残りの三人は男の背後で驚いた顔をしており、ナナメと目が合うと、各々手に持っている弓を握り直す。男を含めて全員が焦っている様子だった。
焦るのも無理ない、とナナメは思ったが、それは飽くまでも彼らが本当にこの白狐を追い詰めていた場合の話だ。ナナメはこの白狐の手当てはしたものの、そもそも大した傷は負っていなかった。白狐も、ヒトに対してそれ程警戒心はなかった。しようと思えば彼らに止めをさせたのに、あえて追いかけなかったのだろう。だが、それがこの四人には”尻尾を巻いて逃げ帰った”と見られてしまった。
男が弓を引いた。それに続いて三人も放つ。合計四本の矢が、白狐に向かって飛んだ。
けれど、白狐は地面を蹴ってするりと矢を避ける。そして洞穴から出るなり高く飛び上がって、落下と共に男に噛み付いた。
男は「ぎゃあ」と叫んだ。
白狐に胴体を咥えられて、白狐の口の横から手足をバタつかせて叫ぶ。白狐は噛み付いたままぶんぶんと男を振り回し、その度に男は声にもならない声で叫び続けた。
その様子を見てキーロとエンジはオロオロしっぱなしで、少女だけが震えながらも弓を構えていた。
そして、咥えていた男を少女に放り投げた。
受け取ることも、避けることもできなかった少女は、男をぶつけられて共に吹っ飛んでいく。少女の構えていた矢だけが明後日の方向に飛んでいった。
「ひえ」と、エンジはその様子を見て息を飲む。
「アージュとミドリが、闇憑きにやられた!」
様子を伺っていたナナメは、そう言われて驚いた。どう見ても白狐とじゃれているのに、急に自分のせいにされたのだ。だから彼らに「ちょっと、私じゃないわよ」と声をかける。
だが、その声は届かなかった。キーロとエンジが吹っ飛んでいった二人を追いかけて逃げ出して行ってしまった為だ。完全に怯えきっていた彼らの様子を見る限り、もう戻ってくることはないだろう。
私じゃないのに。と、未練がましくもう一度呟いたナナメを見て、白狐は愉快そうに笑った。
「ヒトの振りをするのも大変だな、ジンカンよ」
ヒトでないものがヒトと生きるその大変さはよくよく存じている。と、白狐が共感を求める言い草をするので、ナナメは「振りじゃなくて、ヒトだから」と口を尖らせた。そして四人の逃げていった先を見る。なんともない、ただ森があるだけだ。