第50話(最終回):次元の扉と秋の味覚〜ごちそうさまは、まだ言わない!〜
全日本大食いチャンピオンシップが幕を閉じ、東京ビッグサイトの巨大アリーナから響き渡っていた一万人の大歓声が、ようやく心地よい余韻へと変わろうとしていた頃。
大会関係者と選手のみが立ち入ることを許された、静かなバックヤードの特別控室では、新たなる日本一のチャンピオンの誕生を祝う、ささやかで、しかし最高に温かい宴が開かれていた。
「うへへへへ……。いっせんまんえん……これで新しいカメラ買って、防音のタワーマンションに引っ越して、ついでに高級焼肉も食べ放題……うへへ」
篠原結衣は、テーブルの上に置かれた『優勝賞金一千万円』と書かれた巨大な目録パネルに頬ずりをしながら、完全に怪しい笑いを漏らしていた。弱小動画制作会社のブラックな労働環境から一転、ついにYouTuberとしての成功と莫大な富を手にしたのだ。限界ディレクターの顔は、かつてないほどに緩みきっている。
「結衣殿、よだれが出ていますよ。それに、その紙は食べられません」
呆れたように突っ込むのは、本日の主役であり、日本最強の大食い王となった美少女エルフ・シルフィリアである。
彼女は、黄金に輝く巨大な優勝トロフィーを大事そうに抱えながら、相変わらずペタンコのままのお腹をさすっていた。
「ああ、でも結衣殿の言う通り、早くお肉が食べたいですね! ゲンさん殿、この後の祝勝会は、本当に最高級の焼肉をご馳走してくださるのですか!?」
「おうよ! 俺の奢りだ、腹がはち切れるまで食わせてやる! ……って言いたいところだが、あんたの胃袋は十二キロ食ってもはち切れねぇんだよなぁ。俺の財布の方が先にはち切れそうだぜ、ガハハハ!」
定食屋『満腹亭』の頑固オヤジ、ゲンさんが豪快に笑い飛ばす。
「ちょっとシルフィ! あんた、あの地獄のトライアスロンと十二キロの白米の直後によく焼肉なんて言葉が出るわね。私の胃袋は、もう一滴の水すら受け付けないっていうのに……」
ソファーにぐったりと寄りかかっているのは、準決勝でシルフィと死闘を演じたトップアイドル・姫野くるみだ。彼女は疲れ切った顔をしながらも、その瞳にはどこか清々しい光が宿っていた。
「フッ、若手は回復が早くていいことだ。アタシも今日はもう、日本酒をちびちび舐めるくらいしかできそうにないね」
レジェンド・轟牡丹も、極彩色の和服の帯を少し緩め、キセルをふかしながら満足げに笑っている。
かつてのライバルであり、親友であり、師匠である者たち。
そして、自分をこの世界で拾い、育ててくれた最高の相棒。
シルフィは、控室にいる大好きな人たちの顔を順番に見渡し、胸の奥が温かくなるのを感じた。
(私は、なんて幸せ者なのでしょうか。この現代日本という素晴らしい世界に迷い込み、こんなにも美味しいご飯と、優しい人たちに出会えた。……この幸せな日々が、これからもずっと、ずっと続いていくのですね)
シルフィが、極上の笑顔を浮かべて、結衣に「早く焼肉屋さんに行きましょう!」と声をかけようとした、その時だった。
『……ピシッ』
突然、控室の空気が、不自然に震えた。
「え……?」
シルフィの尖った耳が、ピクンと反応する。
続いて、空間そのものにヒビが入るような、ガラスを引っ掻くような甲高い音が室内に響き渡った。
「な、なに? 地震?」
結衣が目録パネルから顔を上げ、周囲を見回す。くるみや牡丹、ゲンさんも、ただならぬ気配に立ち上がった。
『ピシィィィィィィッ!!』
次の瞬間、控室の中央――何もない空中の空間が、まるで鏡が割れるようにバリンッ!と音を立てて砕け散ったのだ。
「きゃあっ!?」
くるみが悲鳴を上げ、牡丹がとっさにくるみを庇うように前に出る。
砕け散った空間の亀裂から、眩いばかりの青白い光が溢れ出し、それは瞬く間に巨大な渦となって、一つの『扉』の形を形成していった。
高さ三メートルほどの、古代の石造りのような荘厳な装飾が施された、光り輝く門。
そして、その門の向こう側には――東京の夜景とは全く違う光景が広がっていた。
鬱蒼と生い茂る、見たこともないような巨大な樹木。
苔生した古代遺跡の柱。
そして、空には、巨大な二つの月が妖しく輝いている。
さらに、開かれた扉の向こうからは、現代日本には存在しない、強烈な『魔力』を帯びた風と、むせ返るような土と緑の匂いが吹き込んできた。
「こ、これは……」
シルフィは、抱えていたトロフィーを取り落としそうになりながら、呆然とその扉を見つめた。
間違いない。
それは、彼女がかつて遺跡を散歩中にうっかり踏み抜き、この現代日本へと落ちてきた、次元を繋ぐ転移の扉であった。
「な、なんだよこれ……! 空間に穴が空いてるぞ!?」
ゲンさんが腰を抜かしそうになりながら叫ぶ。
「シルフィ……これって、まさか……」
結衣が、震える声でシルフィを見た。
「……はい。私の故郷、エルフの森に繋がる『次元の扉』です」
シルフィの言葉に、室内の全員が息を呑んだ。
なぜ、今になって突然扉が開いたのか。
理由は明確だった。
先ほどの決勝戦。四宮凛子という強敵を打ち破るため、シルフィは自らのマナ・クラフターの限界を力ずくで突破し、体外へ向けて莫大な量の魔力(黄金のオーラ)を爆発的に放出させた。
その時、東京ビッグサイトの上空に滞留した膨大なエネルギーが、かつて彼女がこの世界にやってきた時の空間の歪みと共鳴し、偶然にも、奇跡的に『帰り道』を再びこじ開けてしまったのだ。
「故郷に繋がる……ってことは。シルフィ、あんた……」
結衣の顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。
シルフィは異世界の住人だ。魔法のないこの世界では、いつか餓死してしまうかもしれないという理由で、食費を稼ぐためにYouTuberになった。
だが、今、扉は開かれた。
もう、魔力変換の枯渇に怯えることもなく、大食いをして無理にお金を稼ぐ必要もない。彼女の帰るべき本当の場所が、目の前にあるのだ。
しかし、扉の輝きは、少しずつ、少しずつ弱まり始めていた。
おそらく、シルフィが放出した魔力の残滓だけで維持されているこの扉は、あと数分で完全に閉じてしまい、二度と開くことはないだろう。
今、この瞬間に飛び込まなければ。
「……」
シルフィは、無言のまま、光り輝く次元の扉へとゆっくりと歩み寄った。
扉の向こうに見える懐かしい森。澄んだ空気。争いもなく、静かで穏やかな、エルフたちの悠久の時が流れる世界。
帰らなければならない。それが、本来の自分の居場所なのだから。
「……シルフィ」
結衣の声が、微かに震えていた。
シルフィが振り返ると、結衣は両手で顔を覆い、ボロボロと大粒の涙をこぼしていた。
「結衣殿……」
「ダメよ……私、泣かないって決めてたのに……。いつか、あんたが元の世界に帰る日が来るかもしれないって、ずっと覚悟してたのに……っ!」
限界ディレクターとして、いつもシルフィを引っ張り、叱咤激励してきた結衣。しかし今は、ただの一人の女の子として、親友との突然の別れに肩を震わせて泣きじゃくっていた。
「私……あんたと出会って、人生が変わった。ブラック企業で死んだ魚の目をしてた私を、あんたのそのバカみたいに美味しそうな笑顔が、救ってくれたの。……一緒に動画作って、デカ盛り食べて、本当に……本当に楽しかった……!」
「エルフもどき……っ!」
姫野くるみも、完璧なアイドルメイクが崩れるのも構わず、大声で泣きながらシルフィに駆け寄り、その背中をバシッと叩いた。
「なによ、勝手に日本一になって、勝手に帰るなんて……ズルいじゃない! 私、まだあんたに勝ってないんだからね! ……でも、向こうの世界に帰っても、絶対に……絶対に私のこと忘れないでよね!」
「くるみ殿……」
「行っといで、お嬢ちゃん」
轟牡丹が、優しく微笑みながらキセルを下ろした。
「あんたのその見事な食いっぷりは、この国の大食いの歴史に、永遠に語り継がれる。アタシたちにとっても、あんたは最高のチャンピオンだったよ。……向こうの世界でも、元気に食いな」
「嬢ちゃん! うちの唐揚げの味、忘れるんじゃねぇぞ! 向こうの世界に帰っても、腹ペコになったら思い出してくれや!」
ゲンさんも、首に巻いたタオルで何度も目元を拭いながら、力強くサムズアップをした。
結衣、くるみ、牡丹、ゲンさん。
みんな、泣きながら、それでもシルフィの背中を押してくれている。彼女が本来帰るべき場所へ、迷わず帰れるように。
「皆様……」
シルフィの碧眼からも、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。
本当に、最高の仲間たちだった。
言葉も通じない、常識も違うこの現代日本で、彼女が一度も孤独を感じずに済んだのは、この温かい人たちがいつもそばで笑っていてくれたからだ。
「結衣殿。私を拾ってくれて、美味しいご飯をたくさん食べさせてくれて……本当に、ありがとうございました」
シルフィは、結衣に向かって深く、深くお辞儀をした。
「くるみ殿、牡丹殿、ゲンさん殿も。私、この世界でいただいたお料理の味も、皆様の優しさも、永遠に忘れません!」
涙で顔を濡らしながら、シルフィは最高の笑顔を見せた。
そして、光の弱まり始めた次元の扉に向かって、クルリと背を向ける……いや、正面から向き直った。
「さようなら、みんな……」
シルフィは、扉の縁に手をかけた。
結衣たちは、涙で前が見えない中、彼女が光の中へと消えていくのを必死に見届けようとした。
エルフの少女が、異世界への扉を潜る。
感動の別れ。美しいフィナーレ。
――のはずだった。
バァァァァァァァァァァンッッッ!!!
突如、ものすごい轟音が控室に響き渡った。
「……えっ?」
結衣が、涙で潤んだ目をパチクリとさせる。
くるみも、牡丹も、ゲンさんも、ポカンと口を開けて固まった。
シルフィは、次元の扉を『潜った』のではない。
扉の縁を両手で掴むと、渾身の力を込めて、その光の扉を『手前に引っ張り、勢いよく閉めた』のである。
物理的に閉まるはずのない次元の扉だが、エルフの力技によってバタン!と無慈悲な音を立てて閉じ合わされた空間の亀裂は、そのままパリンッとガラスのように砕け散り、跡形もなく消滅してしまった。
控室に、静寂が訪れる。
誰もが、今目の前で起きた光景を理解できず、フリーズしていた。
「……あ、危ないところでした」
シルフィは、手をパンパンと払い、安堵の息を吐いた。
「うっかり、あのまま吸い込まれてしまうところでしたよ。いやぁ、焦りました」
「…………は?」
結衣の口から、間抜けな声が漏れた。
「えっ……? ちょ、ちょっと待って? シルフィ、あんた今……自分で扉、閉めた?」
「はい! 力一杯、バッチリと閉めさせていただきました!」
シルフィは、満面の笑みで親指を立てた。
「な、なんでよぉぉぉぉぉっ!!?」
結衣の絶叫が、控室を震わせた。
「あんたの故郷への帰り道でしょ!? 感動のお別れシーンだったじゃない! 私、一生分くらい泣いたのに! なんで自分で扉閉めてんのよバカエルフゥゥッ!!」
「えええええっ!? だって結衣殿!」
シルフィは、不思議そうに首を傾げ、至極当然のことのように言った。
「私、まだ日本の秋の味覚である『サンマ』というお魚を、食べていませんから!!」
「…………さんま?」
結衣たちが、呆然と聞き返す。
「はいっ! テレビの魔法の箱で見たのです! 秋になると、細長い銀色のお魚を炭火で焼いて、大根おろしとお醤油でいただくという、至高のご馳走があると! 私、それを食べるのをずっと楽しみにしていたのです!」
シルフィは、熱弁を振るい始めた。
「それに、考えてもみてください! あちらの世界(故郷)に帰ってしまえば、大根おろしも、お醤油も、マヨネーズもありません! 木の実やキノコを焼くだけの、塩すらない粗食の毎日に逆戻りです! あんな、油もスパイスもない世界に、どうして私が喜んで帰ると思ったのですか!?」
異世界スローライフへの、強烈なダメ出しであった。
「それに!」
シルフィは、結衣の前に歩み寄り、その手をとった。
「私、まだまだこの現代日本で、結衣殿と一緒に食べたいものが星の数ほどあるのです! ゲンさん殿の最高級の焼肉パーティーもまだですし、冬になれば『カニ』という甲殻類の魔物のお鍋が美味しいと聞きました! 春になればお花見でお団子を食べて、夏になれば冷やし中華を食べなければなりません!」
シルフィの碧眼は、故郷への郷愁など微塵もなく、ただひたすらに日本のグルメへの食欲でキラキラと輝いていた。
「日本の美味しいご飯を全部食べ尽くすまで、私のごちそうさまは、まだ終わりません!!」
堂々たる、日本残留宣言。
そのあまりにもブレない、清々しいほどの『食い意地』の前に、結衣たちはしばらく言葉を失い……。
「……っ、ぷっ」
最初に吹き出したのは、牡丹だった。
「アハハハハハッ! 傑作だ! 故郷への扉より、秋のサンマを選んだってのかい! さすがはアタシが見込んだ、日本一の大食いチャンピオンだ!!」
レジェンドが腹を抱えて大笑いし始める。
「ガハハハッ! 違いねぇ! そんなに日本の飯が気に入ったんなら、しょうがねぇなぁ! 冬のカニも、来年のサンマも、俺が最高のやつを仕入れて食わせてやるよ!」
ゲンさんも、嬉しそうに涙を拭いながら大笑いする。
「……ちょっと、あんた」
くるみは、鬼の形相でシルフィに詰め寄った。
「私の涙を返しなさいよぉぉぉっ!! 感動してソンしたわ! このバカエルフ、食い意地オバケ!!」
「ひゃああっ! くるみ殿、ポカポカ叩かないでください! カロリーが消費されて、またお腹が空いてしまいます!」
ポカポカとシルフィの背中を叩くくるみも、その顔はどこかホッとしたように、笑っていた。
そして結衣は。
「……もうっ。本当に、あんたって子は……」
結衣は、泣き笑いの顔で、シルフィをもう一度、今度は力強く抱きしめた。
「責任、取りなさいよ。私が一生、あんたのお腹を満たすための動画、撮り続けてやるんだから。……覚悟しなさいよ、日本一の大食いエルフ!」
「はいっ! よろしくお願いします、結衣殿!」
シルフィは、結衣を抱きしめ返し、満面の笑顔で頷いた。
故郷への帰り道よりも、現代日本のジャンクフードと温かい仲間を選んだ美少女エルフ。
彼女の並外れた魔力タンクは、今日も美味しいものを求める熱い感情によって、絶賛拡張中である。
『……きゅるるるるるるるるるるるるっ!!』
突然、シルフィのお腹から、ビッグサイトを揺るがすほどの凄まじい腹の虫の音が鳴り響いた。
十二キロの白米を食べたばかりだというのに、限界突破した彼女の魔力変換システムは、すでに次なる獲物を求めてアイドリングを完了させていた。
「はわっ……」
シルフィは、少し恥ずかしそうにお腹を押さえ、そして、極上の笑顔で宣言した。
「結衣殿! ゲンさん殿! 私、すっかりお腹がペコペコになってしまいました! さあ、焼肉パーティーに出陣しましょう!!」
「……十二キロ食った直後にそれ言う!? あんたの胃袋、本当にどうなってんのよぉぉっ!!」
結衣の悲鳴にも似たツッコミが、平和な控室に響き渡る。
エルフの胃袋は底なしです。
彼女の美味しい冒険は、これからもずっと、この日本の空の下で続いていく。
次に彼女が日本中の度肝を抜くのは、果たしてどんなデカ盛りメニューなのか。
それは、神と彼女の胃袋のみぞ知る。




