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第40話:食いしん坊から、フードファイターへ〜涙の塩むすびと決意の夜〜

夜の帳が完全に下りた、中国地方の山間部にあるひなびた道の駅。

街灯の少ない薄暗い駐車場に停められたシルバーの中古ミニバンの中で、エルフちゃんねるの二人は、かつてないほどの重苦しい沈黙に包まれていた。


カチッ、カチッ……。

ダッシュボードの時計が、無機質に時間を刻む音だけが、車内に響いている。

いつもなら、この時間はシルフィリアの腹の虫が『ギュルルルルッ!』と爆音を轟かせ、「結衣殿! 本日の夕食は何でしょうか! お肉ですか!? お魚ですか!?」と無邪気に騒ぎ立てているはずの時間だ。

だが、今日のシルフィは、後部座席に倒されたフラットなマットレスの上に膝を抱えて丸まり、毛布をすっぽりと被ってピクリとも動かなかった。


「……シルフィ、体調はどう? まだお腹、苦しい?」

運転席から身を乗り出し、篠原結衣が心配そうに声をかける。

毛布の山から、小さな、本当に小さな声が返ってきた。

「……はい。お腹が……重くて、熱いです。身体の中に、行き場を失った熱い空気がパンパンに詰まっているような……」


シルフィの額には、うっすらと汗が滲み、呼吸も少し荒かった。

それは、風邪などの病気の熱ではない。エルフの身体が抱えきれなくなった『魔力マナ』の飽和状態――オーバーフローの症状であった。

昼間に挑んだ『特大カツカレー十キロ』。

そのうちの九キロを平らげたシルフィの体内では、豚カツの強烈な脂とルーの炭水化物が猛烈な勢いで魔力へと変換された。だが、現代日本において魔法を行使しない彼女には、生み出された莫大な魔力を消費する手段がない。

限界容量タンクを超えた魔力は、消化器官の活動を強制終了させ、これ以上のカロリー摂取を物理的に不可能にした。

それが、エルフ・シルフィリアが人生で初めて味わった『絶対的な満腹』の正体だった。


結衣は、痛ましそうなシルフィの姿を見て、唇をギュッと噛み締めた。

脳裏に蘇るのは、数時間前の町中華『黄龍亭』での光景だ。

『ごちそうさまでした。領収書は株式会社……でお願いします。経費精算に必要ですので』

まるで事務作業を終えたかのように、一切の感情を交えずにそう言い残し、空っぽになった巨大なタライを残して去っていった、グレーの事務服を着たメガネのOL・四宮凛子。


味も、熱さも、苦しさも感じない。

食事を単なる「カロリーの処理タスク」と定義し、メトロノームのような正確なリズムで十キロの重量を踏破した、無貌の機械。

「美味しく食べることで魔力変換を加速させる」という、シルフィの最大の強みである『感情』を、凛子は「脳への無駄なノイズ」と完全に切り捨て、そして結果として圧倒的な大差で勝利していった。


(悔しい……!)

結衣は、ハンドルを強く握りしめた。

自分の事務所のタレントが負けたから悔しいのではない。

シルフィの「食への純粋な愛」が、あんな血の通っていない機械的な作業に負けてしまったことが、結衣にはどうしても許せなかったのだ。


「……結衣殿」

毛布の中から、シルフィが顔を覗かせた。その碧眼は赤く腫れ、今にも泣き出しそうに潤んでいた。

「ごめんなさい……。私、エルフの誇りにかけて、出されたお料理は必ず綺麗に食べ切ると誓っていたのに。店主殿が作ってくださったお料理を、残してしまいました……」

「シルフィ、もうそのことはいいの。店主さんだって怒ってなかったでしょ? あんたの食べっぷりを、最高の笑顔だったって褒めてくれたじゃない」

「でも……四宮凛子殿の言う通りでした。私が『美味しい』と感じる心は……限界を超えるための邪魔なノイズでしかなかったのでしょうか……。感情を捨てなければ、十キロの壁は超えられないのでしょうか……」


シルフィのその言葉に、結衣はハッとした。

(ダメだ。シルフィが『美味しく食べること』を否定しちゃったら、それはもうシルフィじゃない!)

結衣は、バンッと手を叩いて立ち上がった。

「ちょっと待ってて! 今、最高の薬を作ってあげるから!」

結衣は、ミニバンの後部に積んでいたキャンプ用のポータブルコンロと、小さな飯盒はんごうを取り出し、車の外へと飛び出していった。


外は、秋の夜の冷たい風が吹いていた。

結衣は道の駅の水場で米を研ぎ、コンロに火をかけた。

(シルフィの魔力タンクが満タンなら、普通のご飯は受け付けないはず。でも、あのカツカレーの油と重さで胃が疲れているなら、絶対に『これ』が効くはずよ)


三十分後。

「シルフィ、お待たせ!」

車に戻ってきた結衣の手には、小さなお皿に乗せられた、二つの『おにぎり』があった。

炊きたての白いご飯を、ふんわりと三角に握り、粗塩をまぶして、上質な海苔を巻いただけの、究極にシンプルな『塩むすび』。

具は何も入っていない。


「おにぎり……ですか?」

シルフィが、毛布の中から不思議そうに目をパチクリとさせた。

「そう。お米の甘みと、塩のしょっぱさだけの、一番シンプルなご飯。……お腹がいっぱいなら、無理して食べなくてもいい。でも、温かいうちに、一口だけでもかじってみない?」

結衣は、優しい笑顔でおにぎりを差し出した。


シルフィは、微かに湯気を立てるその真っ白なおにぎりを見つめた。

胃袋の奥の魔力タンクは、未だに「これ以上は入らない」と熱を発して警告している。カツカレーの脂の記憶が、食欲に蓋をしている。

だが、結衣が自分のために、寒い外でわざわざ炊いて握ってくれたそのおにぎりからは、言葉にできないほどの温かい、優しい匂いがした。


「……いただきます」

シルフィは、震える両手で、そのおにぎりをそっと受け取った。

海苔の磯の香りが、鼻腔をくすぐる。

口を少しだけ開け、一番上の角の部分を、小さくかじる。


パクッ。

モグ、モグ……。


咀嚼した瞬間。

シルフィの身体の奥底から、熱いものがこみ上げてきた。

炊きたてのお米一粒一粒が立っていて、噛み締めるほどに、お米本来の優しい甘みが口の中に広がっていく。

そこに、絶妙な塩梅で振られた粗塩が、甘みをさらにくっきりと引き立てる。海苔の香ばしさが、全体の味をキュッと引き締める。

脂っこさもない。強烈なスパイスもない。

ただ、どこまでも優しく、心に染み渡る『白米』の味。


それは、シルフィリアが異世界から現代日本に迷い込み、公園で行き倒れていた時に、結衣から初めて恵んでもらった『シャケ弁の冷めた白米』を食べた時の感覚に、とてもよく似ていた。


「っっっ……!!」

ポロッ、と。

シルフィの碧眼から、大粒の涙がこぼれ落ちた。

「お、美味しい……です……」


「美味しい?」

「はい……。とっても、とっても美味しいです……。結衣殿の作ってくれたおにぎり……世界で一番、優しい味がします……」

シルフィは、おにぎりを両手で大事そうに抱えながら、ボロボロと声を上げて泣き始めた。


「私……機械になんて、なれません。ご飯を『カロリーのタスク』だなんて、絶対に思えません……っ!」

しゃくり上げながら、シルフィはポツリポツリと胸の内を吐き出した。

「ご飯は、命です! 大地と海と太陽が育ててくれた命を、人間の方々が愛情を込めて調理してくれた、奇跡の結晶です! それを食べて『美味しい』と感動することの、何が無駄なノイズですか! 何が非効率ですか!」

シルフィの泣き声が、静かな車内に響く。


「……悔しいです、結衣殿。私は今日、四宮凛子殿に負けました。胃袋の容量でも、処理のスピードでも負けました。……でも、私の『美味しいと思う心』が、あの冷たい機械に負けたのだと思われることだけは、絶対に、絶対に嫌なのです!!」

それは、ただの「美味しいものが食べたい」という食いしん坊の少女が、初めて自分自身のプライドと存在意義を懸けて『勝ちたい』と強く願った瞬間であった。

大食いという競技において、自分の美学を証明したいという、本物のフードファイターとしての自我の目覚め。


「……シルフィ」

結衣も、こらえきれずに涙をポロポロとこぼしながら、シルフィを強く抱きしめた。

「うん、そうよ! あんたのその気持ち、絶対間違ってない! ご飯は美味しく食べてナンボよ! あんたのその『美味しい』って笑顔が、何百万人の視聴者を幸せにしてるんだから!」

結衣は、涙を腕で乱暴に拭い、キッと前を見据えた。

「あんな機械女に、負けっぱなしで終わるわけにはいかないわ! 勝つわよ、シルフィ。次の舞台で、絶対にリベンジしてやる!」


「次の、舞台……?」

「ええ。大会のプロデューサーの陣内さんから、内々に連絡が来てたの」

結衣は、スマートフォンを取り出し、一通のメール画面を開いた。

「年末に開催される、日本最強の大食い王を決める最大の大会……『全日本大食いチャンピオンシップ』。あんたは新人王のシード枠で招待されてる。そして……そのシード枠の中には、あの四宮凛子の名前もあるわ」


「全日本大食いチャンピオンシップ……! そこで、凛子殿と再戦できるのですね!」

シルフィの瞳に、涙を吹き飛ばすような強い闘志の炎が宿った。

「ええ。相手は全国のデカ盛りを食い尽くしてきたバケモノ。今のままじゃ、十キロ以上の重量勝負になったら、また魔力タンクがパンクして負けちゃう。だから……特訓よ!」

結衣は、ビシッとシルフィを指差した。

「あんたの『魔力変換』っていう才能に胡座をかいてちゃダメ。エルフとしての限界(魔力タンクの容量)を突破する訓練と、そして何より、人間側の大食いテクニック……『ペース配分』や『胃の負担を減らす食べ方』を身につけるのよ!」


「特訓……! 人間のテクニック!」

「そう! あんたは今まで本能のまま、最初から全力疾走して、勝手に魔力に変わるのを待ってただけ。でも、凛子みたいに一定のペースを保ったり、脂のダメージを減らす食べ方を覚えれば、タンクが満タンになるまでの時間を極限まで引き伸ばせるはずよ!」

結衣のディレクターとしての分析力と戦略が、フル回転を始める。

「ただの食いしん坊は、今日で卒業よ。あんたを、日本一の……いや、世界最強の『本物のフードファイター』に育て上げてみせるわ!」


「はいっ!! 結衣殿!!」

シルフィは、涙を完全に拭い去り、手に持っていた残りの塩むすびを、大きな口でパクリと平らげた。

モグ、モグモグ……ゴクリ。


「ああっ……結衣殿! 不思議です!」

シルフィが、ポンポンと自分のお腹を叩いて目を丸くした。

「満タンで苦しかったはずの魔力タンクが……結衣殿のおにぎりを『美味しい!』と心の底から感動して食べた瞬間、フワッと熱気が外に放出されて、少しだけタンクに『空き』ができました!」

「えっ!? 本当に!?」

結衣も驚いて目を丸くする。


なんと、エルフの魔力変換システムは、単にカロリーを魔力にするだけではなかった。

極限の満腹状態において、強烈な『感動』や『決意』といった精神的なエネルギーが加わることで、行き場を失った魔力がオーラとして体外へと放出され、タンクの容量そのものを強制的に拡張レベルアップさせたのだ。

「すごいわシルフィ! それ、限界突破の兆しじゃない! やっぱりあんたの『心で食べる』ってスタイルは、システムのエラーなんかじゃない、最強の武器なのよ!」


「はい! この美味しいおにぎりが、私に新たな力をくれました!」

シルフィは、満面の極上の笑顔を弾けさせた。

「結衣殿! 私、絶対に勝ちます! そして、凛子殿の前で、最高の笑顔で『ごちそうさま』を言ってみせます!」

「その意気よ! よーし、明日の朝から地獄のデカ盛り特訓ツアーの再開よ! 覚悟しなさいよね!」


夜の駐車場に、二人の明るい笑い声が響き渡る。

敗北の絶望は、結衣が握ったたった一つのおにぎりによって、希望と闘志へと見事に変換された。

感情を捨てた機械へのリベンジ。

そして、自分の「食への愛」を証明するための戦い。


大食い新人王としてではなく、一人のチャレンジャーとして。

ただの食いしん坊から、本物のフードファイターへと覚醒した美少女エルフ・シルフィリア。

彼女の果てなき胃袋は、限界という名の壁を打ち砕き、さらなる高みを目指して進化を始める。

いざ、全日本大食いチャンピオンシップへ。

決戦の地、東京ビッグサイトでの激闘に向け、エルフちゃんねるの本当の戦いが、今、静かに幕を開けたのである。

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