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第38話:不気味なメトロノーム〜機械の処理と狂い始めた歯車〜

開始から二十分が経過した、中国地方の山間部に建つ町中華『黄龍亭』の店内。

普段ならトラック運転手たちの豪快な笑い声が響くはずのその空間は、今や異様なまでの静寂と、息苦しいほどの緊張感に支配されていた。

響いているのは、ただ二種類の音だけ。


「はふっ、はふっ! んん〜っ、美味しいです! ですが、さすがに十キロともなると、なかなかの強敵ですね!」

一方は、シルフィリアの明るく弾んだ声と、特大スプーンが金属のタライに当たる賑やかな音。

そしてもう一方は。


――カチャリ。スッ。ゴクリ。

――カチャリ。スッ。ゴクリ。


四宮凛子が、一定のリズムでレンゲを動かし、咀嚼し、飲み込む音である。

総重量十キログラムを誇る『特大カツカレー』。

巨大なタライの中に盛られていた三升の白米と、豚ロース肉を丸ごと何本も使った六枚の巨大トンカツ、そしてナミナミと注がれた中華風の特製ルー。

その暴力的なまでの質量は、開始から二十分の時点で、すでに両者ともに六キログラム以上を平らげ、タライの半分以上が空になるという信じられないペースで削り取られていた。


「すごい……二人とも、本当に人間じゃないわ……」

カメラを回し続ける篠原結衣は、ファインダー越しにその光景を見つめながら、ごくりと生唾を飲み込んだ。

大食い競技において、六キロという重量は、一般のフードファイターが六十分かけてようやく到達できるかどうかの『限界点』である。それをわずか二十分で、しかも揚げ物とドロドロのルーという最悪の組み合わせで突破しているのだ。

だが、結衣の背筋に冷たい汗を伝わせているのは、その『量』の異常さだけではなかった。


「……なんだコイツ。息も乱れてないし、苦しそうな素振りすら見せない……」

結衣の視線の先には、グレーの事務服を着たメガネのOL、四宮凛子の姿があった。

普通、六キロものカツカレーを胃袋に納めれば、どんなバケモノでも必ず身体に『反応』が現れる。

胃袋が拡張することによる物理的な苦痛。脂とスパイスによる発汗。そして、噛み続けることによる顎の疲労と、呼吸の乱れ。

シルフィリアでさえ、魔力変換で満腹感こそ感じていないものの、額にはうっすらと汗を浮かべ、熱いルーを食べるためにハフハフと息を吐き出している。


しかし、凛子にはそれが一切ない。

汗一滴かかず、呼吸のペースは開始直後から一ミリも変わっていない。

そして何より不気味なのは、彼女が未だに『左手でスマートフォンの画面を操作している』という事実だった。


「……五月の経費精算データ、入力漏れが一件。修正してクラウドにアップロード、と」

凛子は、ボソリと独り言を呟きながら、左手の親指で画面をフリックした。

その間も、右手のレンゲは全く止まらない。

タライの底から白米とルー、そしてトンカツの一切れを、常にスプーンの八分目(約三十グラム)という完璧な分量で掬い上げる。

口に運ぶ。

右、左、右と、均等な力で十五回咀嚼する。

飲み込む。

そして再びレンゲをタライに下ろす。

その一連の動作のサイクルが、寸分の狂いもなく、まるで精密な機械時計――『メトロノーム』のように、正確なリズムを刻み続けていたのだ。


(ヒィッ……!)

結衣は、カメラを持つ手を震わせた。

怖い。純粋に、怖い。

目の前にいるのは、人間ではない。食事という行為から『感情』『味覚』『苦痛』といった人間的な要素をすべて切り捨て、ただひたすらに有機物を胃袋という処理層へと送り込み続ける、無機質な暴食の機械だ。


「結衣殿! この黄色いお漬物、とても良い仕事をしていますよ!」

結衣の恐怖を払拭するように、シルフィリアの明るい声が響いた。

シルフィは、タライの端に山盛りに添えられていた赤い福神漬けを、スプーンでたっぷりと掬い上げて口に放り込んだ。

「ポリポリとした食感と、強烈な甘酸っぱさ! このお漬物を食べることで、豚肉の脂とルーのもったりとした重さが一瞬でリセットされ、再び口の中が新鮮な状態に戻ります! まさに、過酷な砂漠の中に現れたオアシスのようです!」

「そ、そうねシルフィ! その調子よ! 福神漬けで口の中をさっぱりさせて、どんどんいっちゃって!」

結衣は努めて明るい声で応援した。

大丈夫。シルフィには無限の胃袋と、カロリーを瞬時にエネルギーに変換する『マナ・クラフター(魔力変換器官)』がある。どれだけ相手が機械のように正確だろうと、最後は絶対に容量の差でシルフィが勝つはずだ。


そう信じて疑わなかった結衣だが、勝負が三十分を過ぎ、残りの重量が三キロを切った頃。

シルフィの身に、微かな、しかし確実な『異変』が現れ始めた。


「んんっ……。モグ……モグモグ……」

シルフィの、スプーンを動かすスピードが、目に見えて落ち始めたのだ。

これまで、どんな強敵食材を前にしても、一口ごとに「美味しい!」と感動し、光の速さで平らげていた彼女の咀嚼が、明らかに重くなっている。

「ふぅっ……」

シルフィは、小さく息を吐き出し、スプーンを持った右手を一旦タライの縁に置いた。

「……シルフィ? どうしたの? 熱い?」

結衣が心配そうに声をかけると、シルフィは額に浮かんだ汗を手の甲で拭い、少しだけ困ったような笑顔を向けた。


「いえ、熱さではありません。……なんだか、お腹の底が、ズシリと重いのです」

「お腹が重い……?」

「はい。このお料理、本当に美味しいのですが……豚肉の分厚い脂と、片栗粉でとろみがつけられた中華スープのルーが、お腹の中で泥の塊のようにドッシリと居座っているような感覚がします。いつものように、スルスルと魔力に変わってくれないのです」

シルフィは、自分のお腹(未だにペタンコではあるが)を両手でさすりながら、不思議そうに首を傾げた。


(魔力に、変わらない……!?)

結衣の顔から、サーッと血の気が引いた。

シルフィが太らず、無限に食べ続けられる最大の理由。それは、摂取したカロリーがすべて魔力に変換され、消化器官を空っぽにしてくれるからだ。

だが、その魔力変換のペースが、ここに来て急激に落ちているというのだ。

原因は明確だった。

特大カツカレーという、揚げ物の『油』、豚肉の『脂』、そして中華ルーの『片栗粉(炭水化物)』。これらが複雑に絡み合ったドロドロの塊は、胃の中で分解・吸収されるまでに、エルフの魔力変換器官をもってしても膨大な時間を要する、最悪の『遅効性トラップ』だったのだ。


「うぅっ……美味しいのに。もっと食べたいのに、身体が受け付けるのを拒んでいるような……」

シルフィの顔から、徐々に余裕の笑みが消え、代わりに苦痛の色が浮かび始めた。

スプーンを口に運ぶスピードが、さらに遅くなる。

咀嚼の回数が増え、飲み込むたびに喉の奥で「ゴクン」と重い音が鳴る。

限界。

無限の胃袋を持つはずのエルフが、現代日本のジャンクフードの結晶とも言える『カツカレー十キロ』という暴力の前に、初めて物理的な限界を迎えようとしていたのだ。


「……処理速度、低下。胃壁の拡張限界、および消化酵素の分泌不足による滞留」

突如、無機質な声が響いた。

シルフィが隣を見ると、四宮凛子が、相変わらず無表情のまま、メトロノームのような正確なリズムでレンゲを動かしながら、こちらを見ていた。

「やはり、感情で食べるという行為には限界がありますね。美味しいと感じることでアドレナリンを分泌させ、一時的に胃のキャパシティを広げたとしても、十キロという絶対的な質量の前では、必ず身体機能にバグが生じる」

凛子は、左手のスマホをテーブルに置き、初めて両手をタライに添えた。

「あなたの処理速度は、ここから反比例して低下していく。対して、私の処理速度は最後まで一定です。……勝負は、見えましたね」


カチャリ、スッ、ゴクリ。

凛子のレンゲは、シルフィが立ち止まっている間も、一切のペースを崩すことなく、淡々とタライの中のカツカレーを削り取っていく。

残り二キロ。

残り一・五キロ。


「……っ!」

シルフィの碧眼に、初めて『焦り』の色が浮かんだ。

エルフの狩猟本能が、隣にいるこの無機質な女性を「絶対に勝てない、未知の脅威」として認識し、警鐘を鳴らしていた。

(負ける……? 私が、ご飯を残して、負ける……?)

シルフィの心の中に、今まで感じたことのない恐怖が湧き上がる。

「だ、ダメです! こんなに美味しいお料理を、残すなんて絶対にできません!」

シルフィは、無理やりスプーンに山盛りのルーとご飯を乗せ、口に押し込んだ。


「シルフィ! 無理しちゃダメ! ペースを崩したら余計に苦しくなるわ!」

結衣が制止の声を上げるが、焦りに支配されたシルフィの耳には届かない。

「んぐっ……モグ……っ!」

十分に咀嚼しないまま、ドロドロのルーと分厚いカツを飲み込もうとした瞬間。

「――ウッ!!」

シルフィは口元を両手で覆い、激しくむせ返った。

「ケホッ! ゲホォォッ!!」

食道に詰まりかけた重い油の塊が、シルフィの華奢な身体に強烈なダメージを与える。

「シ、シルフィ! お水! お水飲んで!!」

結衣が慌ててグラスを差し出し、シルフィはそれを震える手で受け取り、ゴクゴクと呷った。

プハァッと息を吐き出すが、その顔面は蒼白になり、目には涙が浮かんでいた。


「……水分の過剰摂取。これで胃袋の中のルーがさらに膨張し、キャパシティは完全にゼロになります。チェックメイトですね」

凛子が、冷徹な分析結果を口にする。

その言葉の通り、水を飲んだシルフィのお腹の中で、片栗粉のルーと白米が水分を吸って急激に膨張し、もはやスプーン一口分すら入る隙間をなくしてしまった。


(うぅっ……苦しいです……。お腹が、破裂してしまいそうです……)

シルフィは、特大スプーンを取り落とし、タライの前に突っ伏すようにして肩で息を始めた。

視界がぼやけ、胃袋からの強烈な圧迫感が、マナ・クラフターの処理能力を完全にオーバーフローさせている。

その間にも、隣からは。


――カチャリ。スッ。ゴクリ。

――カチャリ。スッ。ゴクリ。


絶望的なまでに正確な、不気味なメトロノームの音が響き続けている。

「シルフィ……。もういい、もういいよ。無理しないで……!」

結衣は涙声で、カメラの録画ボタンを停止した。

勝敗は、誰の目にも明らかだった。


感情を排除し、自らを機械と化すことで、十キロという神の領域を淡々と踏破していく四宮凛子。

彼女の不気味なメトロノームの音は、シルフィリアという無敗の女王の心に、そして胃袋に、初めての『絶対的な敗北』を刻み込もうとしていた。

エルフの底なしの胃袋が、現代日本のジャンクフードの狂気と、感情なき暴食機械の前に、ついにその限界(底)を露呈したのである。

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おはようございます。 完膚なき敗北と、初めての挫折を味わってしまうのか…?
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