第30話:栄冠の新人王と、ご褒美の超高級寿司〜無限の胃袋と消えゆく賞金〜
「十! 九! 八!」
関東メガ・エキシビションホールの巨大空間を、五千人の観客による地鳴りのようなカウントダウンが揺るがしていた。
大食い新人王決定戦・決勝戦。
制限時間六十分という過酷な耐久戦が、今、まさに終わりを迎えようとしている。
ステージの中央には、二人の女性の明暗が残酷なまでにはっきりと分かれていた。
一人は、『鋼の顎』の異名を持ち、序盤から圧倒的な咀嚼力で他を寄せ付けなかったベテラン新人・鮫島沙織。しかし彼女は今、両手を力なく膝の上に落とし、虚ろな瞳で目の前の鉄板を見つめていた。彼女の胃袋にはすでに十一枚(約五キロ)のステーキが収まっているが、限界を迎えた顎は完全に硬直し、ピクリとも動かなくなっていた。
そして、もう一人は。
「七! 六! 五!」
「美味しいです! 本当に、最後の一口まで最高です!!」
緑色のファンタジー風ワンピースに身を包んだ美少女エルフ・シルフィリア。
彼女の身体の周囲には、未だに黄金色に輝く熱気(魔力)が陽炎のように立ち上っている。胃袋の奥の扉――マナ・クラフター(魔力変換器官)のリミッターを完全に解除した彼女は、咀嚼の疲労も、肉の脂の重さも一切感じることなく、信じられないスピードでステーキを『消滅』させ続けていた。
ナイフとフォークが光の軌跡を描き、分厚い肉塊が次々と口の中へと吸い込まれ、瞬時に魔力へと変換されていく。
「四! 三! 二!」
シルフィは、十五枚目となるステーキの最後の一切れをフォークで刺し、たっぷりとガーリックソースを絡ませて、パクリと口に放り込んだ。
モグ、モグ。
至福の笑顔と共に、ゴクリと飲み込む。
「一! ゼロォォォォォォォォォォッ!!」
『ブーッ!!』
六十分の死闘の終わりを告げる、重低音のゴングが会場に鳴り響いた。
その瞬間、シルフィは両手をパンッと合わせ、深く、そして優雅に頭を下げた。
「ごちそうさまでした! 素晴らしいお肉の宴、私の血肉……いえ、魔力として、永遠に胸に刻み込みます!」
静寂。
わずか一秒ほどの、奇妙な静寂の後。
――ワァァァァァァァァァァァァァァァァッ!!
五千人の観客が総立ちになり、割れんばかりの拍手と、悲鳴のような大歓声がステージに降り注いだ。
「エルフちゃーーーん!!」
「すげぇぇ! マジで勝ったぞ!!」
「あのスピード、人間じゃない! 最強だ!!」
極彩色の紙吹雪が天井から舞い散り、会場全体が勝利の熱狂に包まれる。
「け、結果発表です!!」
実況席の陣内拓海が、感動で声を震わせながらマイクを握りしめた。
「大食い新人王決定戦・決勝戦『1ポンドステーキ限界食い対決』! 死闘の果てに、ただ一人、笑顔で食べ続けた者がいました! 記録……なんと驚異の『十五枚(6.75キログラム)』!! 顎の限界という肉の壁を、純粋な食への愛と底なしの胃袋で粉砕した美しき捕食者!! 優勝は……エルフちゃんねる・シルフィリア選手だぁぁぁっ!!」
陣内の絶叫と共に、ステージの照明がシルフィリア一人を強烈に照らし出す。
シルフィは、降ってくる紙吹雪を両手で受け止めながら、満面の笑みでピョンピョンと跳ねて喜んでいた。
「シルフィィィィィッ!!」
ステージ袖の柵を乗り越え、篠原結衣が猛ダッシュで駆け寄ってきた。
「結衣殿! やりましたよ! お肉、本当に美味しかったです!」
「あんたって子は、あんたって子はぁぁっ……!」
結衣はシルフィに飛びつき、首に抱きついてボロボロと大粒の涙を流した。
序盤で顎の疲労により手が止まった時は、生きた心地がしなかった。しかし、レジェンド・轟牡丹の檄をきっかけに覚醒したシルフィの姿は、ディレクターである結衣の目から見ても、神々しいほどに圧倒的だった。
「よく頑張った! 本当に、よく最後まで美味しく食べてくれたね……!」
「はい! だって、結衣殿が『勝ったら一番美味しいものを食べに行こう』と約束してくれたではありませんか! あの約束があったからこそ、私は限界を超えられたのです!」
シルフィの無邪気すぎる言葉に、結衣は泣き笑いしながらシルフィの頭をクシャクシャに撫で回した。
その時。
「……おい。エルフのお姫様」
隣の席から、ドスドスと重い足音を立てて、鮫島沙織が歩み寄ってきた。
結衣がハッとしてシルフィを庇うように前に出ようとしたが、シルフィは結衣の肩を優しく押しとどめ、真っ直ぐに鮫島と向き合った。
鮫島は、かつて見せていたような好戦的で凶暴な笑みは消え去り、ただ純粋な驚愕と、脱力したような表情を浮かべていた。
「鮫島殿。素晴らしい闘いでした。あなたのあの強力な顎の力、まるで鋼鉄の歯車のように肉を砕く音……エルフの私には到底真似できない、素晴らしい力でした」
シルフィが心からの敬意を込めてお辞儀をすると、鮫島は大きく息を吐き出した。
「……負けたよ。完敗だ。アタシの顎が、テメェの胃袋に完全に屈した」
鮫島は、シルフィの平らなお腹をジッと見つめた。
「六キロ以上の極厚肉を食って、しかも後半はアタシの倍のスピードで食い進めてたってのに、なんだそのペタンコな腹は。呼吸も乱れてねぇし、汗もかいてねェ……。あんたの胃袋、一体どうなってんだい……」
「私の胃袋は、森の精霊の祝福を受けたブラックホールのようなものです! 美味しいものを食べれば食べるほど、力がみなぎってくるのです!」
「ははっ……意味が分からねェ。だけど、負けは負けだ。テメェの実力は、本物中の本物だよ」
鮫島は、ゴツゴツとした大きな右手をスッと差し出した。
シルフィはパァッと顔を輝かせ、その手を両手でしっかりと握り返した。
「はい! ありがとうございます、鮫島殿! またいつか、一緒にお肉の宴を開きましょう!」
「……おう。次は絶対に負けねェからな」
二人の健闘を讃え合う握手に、会場からは再び温かい拍手が巻き起こった。
「さあ! それでは、表彰式へと移りましょう!」
陣内の声で、ステージの中央に黄金に輝く巨大な優勝トロフィーと、一枚の『巨大なパネル』が運び込まれてきた。
特別解説席から降りてきた轟牡丹が、トロフィーを受け取り、シルフィの前に立つ。
「おめでとう、シルフィリア。あんたのあのフルスロットルの食いっぷり……久々に血が沸き立つような良いものを見せてもらったよ」
「牡丹殿! あなたの『奥の扉を開けろ』という魔法の言葉のおかげで、私は真の力を解放することができました! 感謝いたします!」
「あっはっは! あんたが自分で気づいただけさ。さあ、受け取りな!」
牡丹から黄金のトロフィーを手渡され、シルフィはそれを天高く掲げた。
そして、陣内からもう一つの目玉である『特大パネル』が手渡される。
「栄えある大食い新人王の称号と共に! 優勝賞金、百万円の目録の授与です!!」
バンッ! と渡された『1,000,000円』と大きく書かれたパネル。
シルフィはそれを受け取り、不思議そうに裏表をひっくり返して眺めた。
「結衣殿、これは何ですか? とても大きな硬い板ですが、食べられる素材ではなさそうです。これも現代の錬金術で作られたクッキーの一種でしょうか?」
「食べられないわよ! それは賞金! お金よ! 百万円っていう大金をもらえたの!」
「おおっ! お金ですか! つまり、これを持っていれば、お肉やお魚と交換できるのですね!? これ一枚で、先ほどのステーキは何枚食べられるのでしょうか!?」
マイクが拾ったシルフィの純粋すぎる質問に、会場中がドッと大爆笑に包まれる。
「いやぁ、最後までブレないですねぇ! シルフィリア選手、新人王に輝いても、その頭の中は次の美味しいご飯のことでいっぱいのようです!」
陣内が笑いながら実況を締めくくる中、フラッシュの嵐が焚かれ、シルフィと結衣、そして牡丹や鮫島たちが並んで記念撮影が行われた。
* * *
熱狂の大会から数時間後。
東京の夜の帳が下りる頃。篠原結衣とシルフィリアの二人は、ネオンが煌びやかに輝く『銀座』の街を歩いていた。
手には、大会運営から即日手渡された『百万円』の分厚い現金が入った封筒が、結衣のバッグの奥底にしっかりと抱えられている。
「ふふふ……。百万円。百万円よシルフィ。これで、ボロアパートから引っ越しする資金もできたし、新しいカメラも買えるし、しばらくは食費の心配もしなくて済むわね……」
結衣はニヤニヤとだらしない笑みを浮かべながら、バッグをポンポンと叩いた。
「結衣殿! 引っ越しも良いですが、まずは『約束の宴』ですよ! 一番美味しいものを食べさせてくださると仰ったではありませんか!」
「わかってるわよ! 今日くらいは、パァーッと贅沢しちゃおうじゃないの! シルフィが頑張ってくれたご褒美だしね。何が食べたい?」
「はい! 私は……昨日食べた『海鮮丼』に乗っていた、あのオレンジ色の珠と、黄金色のぷりん(ウニ)が忘れられません! あと、溶けるお魚(大トロ)も!」
「なるほどね。海鮮がお望みと。……よし、じゃあ決まりね。日本で一番美味い海鮮が食べられる場所……『回らない超高級寿司』に連れてってあげるわ!」
「回らない、すし……?」
「そう! エルフのあんたにはまだ早いかもしれないけど、職人さんが目の前で握ってくれる、芸術品のようなお魚の最高峰よ!」
「おおおおおっ!! 行きます! 絶対に行きます!」
二人がやってきたのは、銀座の裏路地にひっそりと佇む、看板すらない完全予約制(結衣が大会終了直後にダメ元で電話したら、たまたまキャンセルが出て入れた)の超高級寿司店『鮨・久兵衛』であった。
打ち水がされた石畳を抜け、白木の引き戸を開けると、凛としたお酢の香りと、静寂に包まれた別世界が広がっていた。
檜の一枚板で作られた美しいカウンター。
その奥に立つ、坊主頭にねじり鉢巻、職人肌という言葉を絵に描いたような厳格な大将が、二人を鋭い目で見据えた。
「いらっしゃい。……ずいぶんと若いお嬢さんたちだね」
大将の低く響く声に、結衣はド緊張でガチガチになりながら「よ、予約した篠原です……」と挨拶をした。シルフィの緑のワンピース姿が浮いていないか心配だったが、大将は特に咎めることなく、カウンターの特等席へと二人を案内した。
「メニューはないよ。その日一番いいもんを、一番うまい握りで出す『お任せ』だけだ。嫌いなものはあるかい?」
「あ、いえ! なんでも食べられます! よろしくお願いします!」
「私は、限界などありません! 海の命の輝き、すべて受け入れる所存です!」
シルフィが元気よく答えると、大将は「ほう、威勢がいいね」と少しだけ口角を上げた。
「へい、お待ち。まずは『ヒラメの昆布締め』だ」
大将の流れるような手捌きから生み出された、芸術品のような一貫が、シルフィの目の前の漆黒の皿に置かれた。
シルフィは息を呑んだ。
海鮮丼のように大量の魚が乗っているわけではない。ほんの二口サイズほどの酢飯の上に、透き通るような白身魚が乗っているだけの、極めてシンプルな食べ物。
シルフィはそれを指でそっと摘み上げ、口に放り込んだ。
「っっっ!!!」
瞬間、シルフィの碧眼から、昨日の海鮮丼の時と同じように、一粒の美しい涙がこぼれ落ちた。
「なんですか……これは……!!」
シルフィは両手で頬を覆い、感動に打ち震えた。
「海鮮丼の時は、お魚とお米がそれぞれ自己主張をしていました。ですが……これは違います! 口の中に入れた瞬間、お魚の旨味と酢飯の酸味が完全に『一つ』に溶け合って、爆発しました! 職人殿の温もりと技術が、二つの素材を奇跡の魔法で結びつけているのですね!!」
「ほぅ……」
大将の目が、驚きに見開かれた。ただの若い娘かと思いきや、握りの真髄である『一体感』を一瞬で言語化してみせたのだ。
「お嬢ちゃん、わかるかい。……よし、次だ。ウニの軍艦巻きだ。海苔は有明産の最高級品を使ってる」
「いただきます! ……うおおおおっ!! 海苔の香ばしい磯の香りが、ウニの濃厚な甘味を完璧に閉じ込めています! パリッとした食感の後に押し寄せる、黄金色のクリーム! 最高です!!」
「へっへっへ、いい食いっぷりだ。次は大トロの炙りだ!」
「と、とけましたぁぁっ!! 脂が、脂がぁぁっ!!」
そこからは、完全にシルフィと大将の『一騎打ち』となった。
大将が握る端から、シルフィは至福の笑顔と完璧な食レポを響かせながら、瞬時にそれを胃袋へと納めていく。
最初は「お任せ一通りで終わるだろう」と思っていた大将だが、シルフィの食べるスピードは一向に落ちない。
「職人殿! 先ほどの赤い溶けるお魚(大トロ)、あと十貫ほどお願いします!」
「じゅ、十貫!? おう、やってやろうじゃねえか!」
「それと、ウニの軍艦を二十貫! イクラも二十貫! あと、アワビという硬いお魚も美味しかったです! 全部、どんどん握ってください!」
シルフィの魔力変換フルスロットルの食欲が、銀座の超高級寿司店で猛威を振るい始めたのだ。
大将のプライドに火がつき、厨房の奥から次々と秘蔵の最高級ネタが運び出されては、光の速さで握られていく。
「はぁ〜っ……美味しいです! お寿司、最高ですね結衣殿!」
「あ……あははは……美味しいね、シルフィ……」
隣でその光景を見ていた結衣は、最初は一緒に美味しい寿司を堪能していたものの、徐々に顔面が蒼白になっていた。
(ちょっと待って。一貫いくらか分からないけど、大トロとかウニを何十貫も頼んでるわよね? これ、お会計どうなるの……?)
結衣の脳内に、嫌な汗が流れ始める。
シルフィの胃袋は、ステーキ十五枚を平らげた数時間後だというのに、全く底を見せない。むしろ、エルフの精巧な味覚が高級寿司の繊細な旨味に完全にハマってしまい、食べるスピードは加速していく一方であった。
二時間後。
「ぷはぁっ!! ごちそうさまでした!! 素晴らしい宴でした! 職人殿の魔法の手に、心から感謝いたします!」
シルフィが満足げにお茶(上がり)を飲み干した頃には、カウンターの中の大将は息を切らし、まな板の上には仕込んでいたネタがほとんど残っていない状態になっていた。
「はぁっ……はぁっ……。お嬢ちゃん、あんた、バケモノか……? うちの店の三日分の仕込みを、一人で食い尽くしちまったぞ……」
大将は呆れを通り越して、感嘆の笑みを浮かべていた。
「あのぅ……お会計、お願いします……」
結衣が、震える声で店員に声をかけた。
しばらくして、恭しく差し出された和紙の請求書。
結衣はそっと裏返して、そこに書かれた数字を見た。
「…………えっ」
結衣の目が点になり、魂が口から抜け出そうになった。
そこに書かれていた数字は。
『合計:854,000円』
「はっ、はちじゅうごまんんんんんんっ!?」
結衣の悲鳴が、静かな銀座の裏路地に響き渡った。
「し、シルフィ! あんた、一人で八十万円分も大トロとウニ食べたの!? どれだけ限界突破してるのよ!?」
「え? 高いのですか? ですが、あの板(賞金)のお金で足りるのですよね?」
シルフィがキョトンとして首を傾げる。
結衣は涙目で、バッグの中から大会でもらった分厚い封筒を取り出し、震える手で八十六万円を支払った。
たった数時間前に手に入れた『優勝賞金百万円』が、引っ越し資金にも機材代にもなるはずだった夢の資金が、わずか二時間のエルフのお食事会で、ほとんど消し飛んでしまったのである。
「ああっ……私の百万円……私の引っ越し計画がぁぁぁ……」
店を出て、銀座の夜道を歩きながら、結衣は燃え尽きた灰のように項垂れていた。
しかし、その隣でシルフィは、満腹(魔力満タン)の極上の笑顔を浮かべて、夜空を見上げていた。
「結衣殿! 落ち込まないでください! お金は減ってしまいましたが、私の胃袋と魔力は満タンです! また明日から、動画をたくさん撮影して、美味しいご飯をいっぱい討伐しましょう!」
シルフィの、どこまでも前向きで純粋な笑顔。
その顔を見ていると、結衣の中にあった絶望感も、なぜだかフッと消えていくような気がした。
「……はぁ。そうだね。あんたがこんなに美味しそうに食べてくれるなら、また一から食費を稼げばいいか。……新人王の称号もあるしね!」
結衣は、空になった封筒をバッグにしまい、シルフィの背中をポンッと叩いた。
「よーし! 日本一の大食いエルフちゃんねる、明日からまた再始動よ! 食費稼ぎの旅は、まだまだ終わらないんだから!」
「はいっ!! 次はどんな美味しいご飯が待っているのでしょうか! 楽しみです!」
星空の下、二人の笑い声が夜の街に溶けていく。
見事『新人王』の称号を手にしたはらぺこエルフの少女と、限界ディレクターのコンビ。
彼女たちの次なる舞台は、全国各地のデカ盛り店を行脚するツアー企画。
だが、そこには、シルフィの無限の胃袋すらも脅かす、恐るべき『見えない影』が忍び寄っていることを、彼女たちはまだ知らない。
胃袋の限界と、食への果てなき愛。
エルフの胃袋は、まだまだ底なしである。
新たなる波乱の幕開けとなる第4章へ向け、シルフィリアの腹の虫は、今日も元気よく鳴り響くのであった。




