第28話:決勝戦「1ポンドステーキ」と鋼の顎〜肉の壁とシュレッダーの女〜
「――全国の、いや全世界の大食いファンの皆様! 大変長らくお待たせいたしました!!」
関東メガ・エキシビションホールを揺るがすほどの、熱血実況MC・陣内拓海の絶叫が響き渡った。
予選での『激辛地獄カレー』、そして『特上海鮮丼』。さらには準決勝の『巨大流しそうめんサバイバル』という、常軌を逸した修羅場を乗り越えてきた者だけが立つことを許される、最後の闘技場。
会場の照明が一旦落とされ、ステージの中央だけに神聖なピンスポットライトが降り注ぐ。五千人の観客が固唾を飲んで見守る中、決戦の時がいよいよ迫っていた。
「数多の猛者たちが散っていったこの『大食い新人王決定戦』! ついに、次世代の頂点を決める【決勝戦】の幕が開きます! 激戦を勝ち抜き、このステージに歩を進めたのは、わずかに二名!!」
陣内が右手を振りかざすと、ステージの左側のゲートからスモークが噴き出し、一人の女性が姿を現した。
「まずはこの方! 本大会の最大のダークホースにして、圧倒的な胃袋と美貌で会場を熱狂の渦に巻き込んだ異世界の美少女! 『エルフちゃんねる』のシルフィリアァァァッ!!」
大歓声に包まれながら、シルフィリアがステージに登場する。
緑色のファンタジー風ワンピースに身を包んだ彼女は、全く疲労を感じさせない足取りで、満面の笑顔を振りまきながら観客席に向かって大きく手を振った。
「皆様、ありがとうございます! 私の胃袋は、準決勝のそうめんが良き準備運動となり、今まさに完全なる空腹状態を迎えております! 決勝戦の宴が楽しみでなりません!」
シルフィの明るく透き通る声に、会場から「エルフちゃーん!」「いっぱい食べてね!」と温かい声援が飛ぶ。
だが、次に入場してきたもう一人の決勝進出者の姿が現れた瞬間、会場の空気はピリリと引き締まった。
「そして! シルフィリア選手の対角線上に立つのはこの女! 別ブロックの予選を、誰よりも無慈悲に、誰よりも暴力的な咀嚼力で粉砕して勝ち上がってきた、戦慄のベテラン新人! 『鋼の顎』を持つ女、鮫島沙織だぁぁぁッ!!」
ステージ右側のゲートから現れたのは、年齢三十代前半、黒いタンクトップにデニムという無骨なスタイルに身を包んだ、がっしりとした体格の女性だった。
彼女の容貌で最も目を引くのは、その『輪郭』である。
顔のエラが極端に張り出しており、首から顎にかけての筋肉(咬筋)が、ボディビルダーの大胸筋のように異様に隆起しているのだ。ただ黙って立っているだけで、ギリッ、ギリッと奥歯を噛み締める音がマイクに拾われそうなほどの、圧倒的なプレッシャーを放っていた。
「……鮫島沙織。あの人、別ブロックの予選で『フランスパン百本勝負』を圧勝したって噂の……」
ステージ袖で祈るように見守っていた篠原結衣が、顔を強張らせて呟いた。
フランスパンという、固く、水分を持っていき、顎を極限まで疲労させる食材を、顔色一つ変えずに噛みちぎり続けたという怪物である。
「両者、ステージ中央のテーブルへ!」
陣内の合図で、シルフィと鮫島が向かい合う形で巨大な長机にスタンバイした。
鮫島はシルフィの可憐な姿を一瞥すると、鼻でフンと笑った。
「……あんたがエルフ? 可愛い顔してんな。テレビのバラエティやお遊戯会ならそれで通用するだろうが、ここは本物の限界勝負だ。その細い首ごと、へし折ってやるよ」
「首ですか? 私は首ではなく、ご飯を食べに来たのですが」
シルフィが不思議そうに首を傾げると、鮫島はギリッと顎の筋肉を鳴らして凄んだ。
「さあ! それでは発表いたしましょう! 新人王の栄冠を賭けた、決勝戦の種目はこれだぁぁぁッ!!」
陣内が天を指差すと、ステージの奥から、数十人のコックコートを着たスタッフたちが、一斉に銀色のクローシュ(ドーム型の蓋)を被せた巨大な鉄板の乗ったワゴンを押し出してきた。
『ジュワァァァァァァァァァァァァァァァッ!!』
クローシュが開けられた瞬間。
会場全体に、暴力的なまでの肉の焼ける音と、ニンニク、醤油、そして熱せられた牛脂の混ざり合った、理性を吹き飛ばすほどの凶悪な匂いが充満した。
「おおおおおおおっ!?」
シルフィの碧眼が、これ以上ないほどに見開かれ、その瞳の中に燃え盛る炎が映り込んだ。
「お、お肉! ついにお肉の登場ですね結衣殿ぉぉっ!!」
シルフィは興奮のあまり、その場でピョンピョンと跳ね回った。
「決勝の食材は! アメリカ産USビーフの最高峰、赤身の旨味が凝縮された極厚肉!! 『1ポンド(約450グラム)ステーキ』の大食い対決だぁぁぁぁっ!!」
分厚さ五センチはあろうかという、レンガのような巨大なステーキ肉。その表面には見事な網目がつき、特製のガーリックソースが鉄板の上で焦げて、マグマのようにブクブクと泡を立てている。
一杯一キロの海鮮丼ほどの重さはないが、一枚450グラムという質量が、塊として襲ってくるのだ。
「ルールは単純明快! 制限時間は六十分! この極厚1ポンドステーキを、一枚でも多く胃袋に納めた者が、次世代の大食い新人王となります! それでは……決勝戦、スタートォォォッ!!」
ゴングが鳴り響いた瞬間。
「シャアアアアッ!!」
凄まじい気合の声と共に動いたのは、鮫島沙織だった。
彼女の動きは、大食いというよりも、野生の肉食獣の狩りそのものだった。
鮫島は両手に持ったナイフとフォークを使い、極厚の1ポンドステーキを、サイコロ状などという生易しい切り方ではなく、縦に大きく三等分にだけ切り分けた。
そして、その巨大な肉の塊をフォークで突き刺し、大きく口を開けて放り込んだのだ。
――ゴリッ、メキッ、バキバキバキッ!!
「なっ……!?」
袖で見ている結衣は、マイクが拾ったその異様な音に戦慄した。
咀嚼音ではない。それはまるで、工事現場で稼働する大型のシュレッダーか、あるいは木材を粉砕する破砕機のような、暴力的な破壊音であった。
鮫島は、極厚の赤身肉が持つ強靭な弾力と繊維を、その異常に発達したエラと顎の筋肉(咬筋)だけで、一瞬にしてすり潰してしまったのだ。
「飲み物だろ、こんなもん!」
鮫島は、わずか十回の咀嚼で巨大な肉塊を飲み込み、すぐさま次の肉を口に放り込む。
たった一分。開始からわずか一分で、彼女は一枚目となる450グラムのステーキを完食し、「次!!」と空の鉄板を突き出した。
「す、凄まじいぃぃっ!! 『鋼の顎』の異名は伊達ではない! 鮫島選手、あの分厚い1ポンドステーキを、まるで豆腐でも噛み砕くかのように一瞬で粉砕していくぅぅっ!」
陣内の絶叫に、観客たちはドン引きに近い驚愕の声を上げていた。
「マジかよ、あの顎どうなってんだ……」
「噛む力が強すぎる……あれは人間の食べ方じゃないぞ……」
解説席の轟牡丹が、マイクを取って静かに語った。
「大食い競技において、最も恐ろしい難敵……それが『肉』だ」
牡丹の言葉に、会場の空気が引き締まる。
「ラーメンやカレー、海鮮丼などは、水分と共に流し込む技術でカバーできる。だが、極厚のステーキ肉だけはごまかしが効かない。肉の繊維を断ち切り、飲み込めるサイズにするためには、絶対に『咀嚼』という物理的な力が必要になる。肉の大食い勝負とは、胃袋の大きさの勝負じゃない。どれだけ顎の筋肉を酷使し、疲労に耐え抜けるかという『顎の持久戦』なんだよ」
牡丹は、シュレッダーのように肉を噛みちぎる鮫島を見つめた。
「その点において、あの鮫島って女は完全に『肉に特化』したバケモノだ。あの咬筋の発達具合……並大抵の訓練じゃない。この勝負、シルフィリアには最悪の相性かもしれないね」
牡丹の危惧は、現実のものとなろうとしていた。
一方のシルフィリアは、目の前に置かれた巨大な1ポンドステーキを前に、至福の笑顔を浮かべていた。
「それでは、命の恵みに感謝して……いただきます!」
シルフィはナイフとフォークを上品に使い、ステーキを一口サイズに綺麗に切り分けた。そして、滴る肉汁をこぼさないように口へと運ぶ。
「っっっっ!!!」
咀嚼した瞬間、シルフィの碧眼に星が輝き、身体がフワリと浮き上がるような歓喜のポーズを取った。
「美っっっ味しいですぅぅぅっ!!」
マイクを通して、シルフィの感動の食レポが会場に響き渡る。
「外側はカリッと香ばしく焼かれているのに、中から溢れ出すのは、大地の力強さを凝縮したかのような濃厚な赤身の旨味! そして、このニンニクのお醤油ソースが、お肉の魔力を何十倍にも引き上げています! 噛めば噛むほど、口の中が幸福の肉汁で満たされていきます!」
シルフィは目を閉じ、肉の旨味を余すところなく味わい尽くすように、モグモグとしっかりと咀嚼を繰り返した。
「素晴らしい食レポです! シルフィリア選手、極厚ステーキの美味しさに感動し、極上の笑顔で味わっています!」
陣内が実況する中、シルフィも一枚目を約三分で完食し、二枚目、三枚目へと順調にペースを上げていった。
エルフの体内にあるマナ・クラフター(魔力変換器官)は、高カロリーな肉の脂とタンパク質を瞬時に魔力へと変換し、彼女の胃袋を常に空っぽの状態に保っている。
海鮮丼やそうめんの時と同じように、このまま圧倒的なペースで食べ続けるはずだった。
しかし。
勝負が開始二十分を過ぎ、シルフィが『五枚目(累計2.2キロ)』のステーキに差し掛かった時、彼女の動きに明確な『異変』が生じ始めた。
「んんっ……。モグ……モグモグ……」
シルフィの咀嚼のスピードが、明らかに遅くなっていたのだ。
これまで、どんな強敵食材を前にしても一切乱れることのなかった彼女のペースが、ここに来て急激なブレーキを踏んでいた。
「はぁっ……ふぅっ……」
シルフィは、小さく息を吐きながら、ナイフを持った手を一旦止めた。
そして、自分の両手で、ほっそりとした美しい顎のラインを、さすり始めたのである。
「し、シルフィ……!?」
袖にいる結衣が、その小さな仕草を見逃さず、息を呑んだ。
(顎を気にしてる……!? もしかして!)
「おおっとぉ!? ここでシルフィリア選手のナイフが止まりました! どうしたことでしょう、これまでの圧倒的なスピードが影を潜め、一口飲み込むのに非常に時間がかかっています!」
陣内の声に、会場がざわめく。
モニターに映し出されたシルフィの顔は、先ほどまでの至福の笑顔から一転、苦痛をこらえるような痛ましげな表情に変わっていた。
「お、お肉は……お肉は、こんなにも美味しいのに……」
シルフィの碧眼から、じんわりと涙が滲み出していた。
「顎が……。私の顎の筋肉が、カチカチに固まってしまって……これ以上、動いてくれません……っ!」
悲痛な声が、マイクを通して会場に流れる。
牡丹が危惧していた事態が、最悪のタイミングで現実のものとなっていた。
エルフという種族は、本来、森の果実や木の実、柔らかな葉などを主食として進化してきた生物である。彼女たちの身体は非常に華奢にできており、特に顎の筋肉は、硬い肉の繊維を長時間にわたって噛みちぎり続けるような構造にはなっていないのだ。
胃袋の容量は無限(魔力変換)であっても、肉体を動かす物理的な『筋肉』には、明確な限界が存在する。
極厚1ポンドステーキという、圧倒的な弾力と繊維の塊。
それを五枚、実に2キログラム以上も咀嚼し続けた結果、シルフィの華奢なエルフの顎は、かつて経験したことのない異常な疲労物質(乳酸)の蓄積により、完全に悲鳴を上げてしまったのである。
「痛いです……っ。口を開けるのも、噛むのも、関節がギシギシと軋んで……っ」
シルフィは涙目で訴えながらも、必死に六枚目の肉を口に運んだ。
だが、噛み切れない。
モグ、モグと動かすたびに、こめかみから顎にかけて激痛が走り、肉の繊維が口の中にいつまでも残ってしまう。飲み込もうにも、十分にすり潰されていない肉塊は喉を通らない。
「ガハハハハハッ!! どうしたエルフのお姫様! もうお上品なお食事会は終わりか!?」
隣の席から、鮫島沙織の野太い哄笑が響いた。
鮫島の顎は、未だに微塵の疲労も見せていなかった。彼女はすでに『八枚目(累計3.6キロ)』のステーキに突入しており、ゴリッ、バキッというシュレッダーのような音を立てて、肉塊を次々と粉砕し続けている。
「言っただろう! 肉の勝負は顎の持久力だ! テメェみたいなヒョロヒョロの顎じゃあ、この極厚ステーキの壁は絶対に超えられねェんだよ!!」
巨大モニターのスコアボードが、無情な現実を映し出す。
『鮫島沙織:8枚(現在トップ)』
『シルフィリア:5枚』
その差は、三枚(約1.3キロ)。
シルフィのペースは目に見えて落ちており、鮫島は全くペースを落とさない。このままいけば、その差は開く一方である。
「絶体絶命!! エルフちゃんねる・シルフィリア選手、ここで魔の『肉の壁』に激突してしまったぁぁっ!!」
陣内の悲痛な実況が響き渡る。
「顎の疲労により、咀嚼ができない! 咀嚼ができなければ飲み込めない! 最強の胃袋を持つ美しき捕食者が、口という入り口の関門で完全に立ち往生しているぅぅっ!」
「シルフィ……っ! 頑張って! 無理しないで、でも頑張って……!」
結衣はステージ袖の柵にしがみつき、涙を流しながら叫んだ。
どうすることもできない。激辛カレーの時のように、ラッシーを飲めば解決するようなものではない。これは物理的な筋肉の限界なのだ。
シルフィは、結衣の声に応えるように、痛む顎を必死に動かし続けた。
「うぅっ……美味しいのに……食べたいのに……っ。顎が……」
ナイフとフォークを握る手が震え、大粒の涙が鉄板の上にポタポタと落ちる。
エルフの底なしの胃袋を封じる、最凶の敵「極厚ステーキ」。
鋼の顎を持つ女の前に、シルフィリアはかつてない絶望の淵に立たされていた。
制限時間は、まだ半分以上も残っている。
果てしなく続く咀嚼の地獄の中で、美少女エルフの心と筋肉は、完全に折れようとしていた。




