改革室、初めての出張
改革室が設立されて、およそ一か月。書類改革、相談窓口、整理券制度。次々と生まれる改革は帝国中へ広まり、人々の暮らしを少しずつ変え始めていた。そして当然のように、改革室には今日も大量の書類が届いていた。
…どさり
机の上へ置かれた一通の封筒を見て、エルシアは小さくため息をつく。
「……また陳情書ですか?」
マルティナが封を確認する。
「いいえ、陳情ではございません」
「では?」
「視察のご依頼です」
その一言に、エルシアとレオンは同時に動きを止めた。
「……視察?」
レオンが嫌な予感しかしない表情で封を受け取る。中から現れたのは数枚の報告書だった。
『皇都南市場の商人一同より。改革のおかげで役所は便利になりました。ぜひ一度、現場をご覧いただき、ご意見をいただければ幸いです』
さらに別の手紙。
『西地区職人組合より。改善された制度が実際にどのように役立っているか、ご確認いただきたい』
さらに。
『農民代表より。ぜひ畑までお越しください』
エルシアは静かに机へ額を乗せた。
「……外に出るの?」
レオンも同じように机へ突っ伏す。
「資料じゃ駄目?」
オズワルドは紅茶を注ぎながら答える。
「皆様、直接お話ししたいのでしょう」
「書類で十分だと思う」
「私も同感です」
二人は完全に意見が一致した。その時だった、扉が軽く叩かれる。
「入るぞ」
現れたのは皇帝カシウスだった。エルシアとレオンは慌てて立ち上がる。
「陛下」
「お父様」
カシウスは二人の机に置かれた依頼書へ目を向ける。カシウスの登場に嫌な予感しかしない二人。
「もう読んだようだな」
「はい。」
「……できれば」
エルシアが恐る恐る口を開く。
「お断りしても……」
「駄目だな」
即答だった。
「ですよね…」
レオンも一応挑戦してみる。
「資料で十分では?」
「駄目だ」
「そうですよね」
二人は同時に肩を落とした。カシウスは苦笑しながら椅子へ腰掛ける。
「お前たちは優秀だ」
「だからこそ、一つだけ欠けているものがある」
レオンが首をかしげる。
「何でしょうか」
「現場だ」
部屋が静かになる。
「書類は結果しか書かれていない。だが、人々が何に困り、何を喜び、何を望んでいるのか…それは現場でしか分からぬ」
エルシアは少し考え込む。
「でも、相談窓口でお話は伺っています」
「もちろん、それも大切だ」
カシウスは穏やかに頷いた。
「だが、人は自分でも気付いていない不便さを抱えていることがある。歩いて初めて見えるものもある」
その言葉に、レオンは腕を組んだ。
「確かに……」
「現場を見て、相談される前に気付けていたら、もっと早く改善できたかもしれない」
エルシアも静かに頷く。
「資料だけでは見えないこと、ありますものね」
「そういうことだ」
皇帝は満足そうに微笑んだ。
「今回は命令ではない」
一拍置いて続ける。
「父としてのお願いだ」
その言葉に、エルシアは観念したように笑った。
「……分かりました。行ってきます」
レオンも諦めたように息を吐く。
「僕もお供します」
「ありがとう」
カシウスは立ち上がると、そのまま部屋を後にした。扉が閉まる。静寂。そして…。
「はぁ……」
「はぁ……」
二人のため息がぴったり重なった。
「外かぁ」
「歩くのかぁ」
マルティナが微笑みながら言う。
「今回は、お忍びでございます」
「お忍び?」
「皇女としてではなく、一市民として街をご覧になるそうです」
オズワルドも続ける。
「平民服をご用意しております」
しばらくして、二人は着替えを終えて戻ってきた。エルシアは淡い青色の質素なワンピースに白いケープを羽織り、長い銀髪を後ろで一つにまとめている。皇族の華やかさは隠されているものの、その整った顔立ちは隠しようがなかった。レオンも濃紺の上着に白いシャツという落ち着いた装いで、普段の貴公子らしい豪華さはない。それでも、爽やかな雰囲気は自然と人目を引く。マルティナは満足そうに頷いた。
「よくお似合いでございます」
オズワルドも穏やかに微笑む。
「これなら目立ちすぎることもない…」
そこで一度言葉を切る。
「……ないとは申しません」
「隠せてないよね」
「全然隠せてないわ」
二人は鏡を見ながら苦笑した。それでも、これが今日の装いだ。改革室の四人は、静かに皇宮の裏門へ向かって歩き始める。初めての現場視察。その第一歩を踏み出しながら、エルシアはぽつりと呟いた。
「皇女なのに歩くの……?」
隣でレオンが遠い目をする。
「今日は休みの予定だったんだけど」
皇宮の裏門を出ると、朝の皇都はすでに活気に満ちていた。石畳の大通りには荷馬車が行き交い、焼きたてのパンの香りが風に乗る。露店では野菜や果物が並び、店主たちの威勢のいい声があちこちから聞こえてきた。
「新鮮なリンゴだよ!」
「焼き菓子はいかがですか!」
「今日の魚は朝獲れだ!」
エルシアは思わず足を止める。
「……皇都って、こんなに賑やかだったのね」
レオンも辺りを見回した。
「馬車の窓から見る景色とは全然違う」
皇女と公爵家の次男として育った二人は、街へ出ることはあっても、護衛に囲まれ、人々から距離を置かれてきた。こうして一市民として歩くのは初めてだった。少しだけ新鮮で、少しだけ落ち着かない。その後ろを、マルティナとオズワルドが自然な距離を保ちながら歩いている。護衛らしさを感じさせないのは、長年仕えてきた二人ならではだった。
「まずは市場をご覧になりましょう。」
マルティナの案内で、一行は皇都最大の市場へ向かう。
「おや、お客さん!」
八百屋の店主が笑顔で声をかけてきた。
「見ていってくださいよ!」
エルシアは並べられた野菜を興味深そうに眺める。
「きれいなお野菜ですね」
「今朝採れたばかりですよ」
店主は嬉しそうに笑った。
「最近は役所の手続きが早くなってね。地方から野菜が届くのも早くなったんですよ。」
「そうなんですか?」
「ええ!」
店主は大きく頷く。
「前は許可証が出るまで何日も待たされたんです。今じゃあっという間!助かってますよ」
エルシアとレオンは顔を見合わせた。
「……良かった」
「ちゃんと役に立ってる。」
二人は小さな声で呟いた。少し歩くと、今度は布地を扱う店が見えてきた。若い女性店主が商品を畳みながら話しかける。
「最近、お客さんが増えたんです」
「どうしてですか?」
レオンが尋ねる。
「役所へ行く日が一日仕事じゃなくなったからですよ。手続きが終わった帰りに、皆さん買い物してくださるんです」
「なるほど……」
「商売が前より楽しくなりました。」
女性は心から嬉しそうだった。その笑顔を見て、エルシアは少しだけ頬を緩める。
「良い笑顔ね」
「うん」
レオンも自然と微笑んでいた。市場の広場では、子どもたちが元気に走り回っていた。
「待てー!」
「捕まえてみろー!」
勢いよく駆けてきた男の子が、エルシアへぶつかりそうになる。
「あっ!」
転びかけた子どもを、エルシアは素早く支えた。
「大丈夫?」
「うん!」
男の子は元気いっぱいに笑う。
「ありがとう、お姉ちゃん!」
その無邪気な笑顔に、エルシアも自然と笑みを浮かべた。
「気を付けて遊ぶのよ」
「はーい!」
子どもたちは再び元気に駆け出していく。その様子を見ていた老夫婦が微笑んだ。
「優しいお嬢さんですね」
「ありがとうございます」
少し照れながら頭を下げるエルシア。一方、レオンの方では、小さな女の子が困った顔をしていた。
「どうしたの?」
「風船が……」
見ると、木の枝に風船が引っ掛かっている。
「なるほど」
レオンは近くにあった長い棒を借りると、器用に風船を落として手渡した。
「はい」
「わあ!」
女の子は飛び跳ねるように喜ぶ。
「ありがとう、お兄ちゃん!」
「どういたしまして」
「助かりました」
女の子の母親が頭を下げてお礼を伝える。レオンは少し照れくさそうに笑うだけだった。市場を歩きながら、二人は何度も耳にした。
「改革室のおかげです」
「暮らしやすくなりました」
「ありがたいですよ」
そんな言葉ばかりだった。市場の外れにある噴水の前で、一息つく。エルシアは静かに空を見上げた。
「……嬉しいわね」
「うん」
レオンも頷く。
「僕たち、自分たちが楽をしたくて始めたのに」
「結果的に、みんなも楽になった」
エルシアは少し照れたように笑う。
「そんなに感謝されると、恥ずかしいわね」
「同感」
二人は照れ隠しのように笑い合った。その穏やかな時間は、突然破られる。
「だから困ってるんだ!」
市場の一角から、大きな怒鳴り声が響いた。人々が一斉に振り返る。
「何事だ?」
「喧嘩か?」
商人らしい男が、役人へ詰め寄っている。
「役所の手続きがまだ遅い!」
その一言に、市場の空気がぴんと張り詰めた。エルシアとレオンは表情を引き締め、互いに視線を交わす。どうやら、この視察にはまだ終わりがなさそうだった。市場に響いた怒鳴り声に、人々の視線が一斉に集まる。声の主は、三十代ほどの商人だった。腕を組み、目の前にいる若い役人へ詰め寄っている。
「改革室のおかげで良くなったって聞いてたのに!」
「結局、俺の申請は一週間も止まったままだ!」
若い役人も負けじと頭を下げながら答える。
「申し訳ありません!」
「ですが、私どもでは判断できない案件でして…」
「またそれか!」
「担当が違う、担当が違うって、そればっかりじゃないか!」
周囲の人々も心配そうに見守っている。エルシアは小さく息を吐いた。
「行きましょう」
「うん」
二人は人混みをかき分け、商人たちの前へ歩み出た。
「少し、お話を聞かせていただけませんか?」
穏やかな声に、商人は少し驚いたように振り返る。
「……あんたたちは?」
「市場を見学している者です」
レオンが自然に答える。
「事情を聞いてもいいですか?」
商人は不満そうな顔をしながらも、大きく頷いた。
「聞いてくれるなら話すよ」
近くの休憩用の長椅子へ移動し、一行は腰を下ろした。商人は机の上へ数枚の書類を並べる。
「新しい倉庫を建てようと思ったんだ。許可を申請した、そこまではいい。でも…」
書類を指差す。
「商務局へ行け。次は建設局。その次は税務局。さらに衛生局。最後はまた商務局…」
深いため息。
「何度も行ったり来たりだ。全部終わるまで一週間、商売にならない」
エルシアは静かにメモを取る。
「なるほど……」
レオンも頷いた。
「確かに時間がかかる」
今度は若い役人へ向き直る。
「あなたのお話も聞かせてください」
役人は少し緊張しながら頭を下げた。
「はい。私どもも早く終わらせたいのです。ですが、担当部署ごとに確認しなければならない決まりでして…勝手には進められません。私が止めているわけではないんです」
商人は驚いたような顔をする。
「そうだったのか?」
「はい。私も毎日催促しております。ですが順番がありまして……」
役人も困り切った表情だった。誰かが怠けているわけではない。誰かが意地悪をしているわけでもない。ただ、それぞれが決められた仕事をしているだけだった。話を聞き終えたエルシアは、静かに腕を組んだ。
「……なるほど」
「どう?」
レオンが尋ねる。エルシアは苦笑しながら答えた。
「どちらも悪くないわ」
「ええ」
レオンも同意する。
「商人さんは早く仕事を始めたい」
「役人さんは規則どおりに仕事をしたい」
「「どちらも正しい」」
商人は目を丸くした。
「俺は役所が悪いと思ってた」
役人も困ったように笑う。
「私は怒られてばかりで…」
エルシアは優しく微笑んだ。
「きっと、お互いの事情を知らなかっただけ……話を聞かなきゃ分からないわね」
その言葉に、商人も役人も静かに頷いた。市場を後にしながら、レオンは空を見上げた。
「書類だけじゃ見えなかった」
「うん」
エルシアも歩きながら答える。
「資料には『処理中』って書いてあるだけ。でも、現場では困っている人がいるわ」
「役人さんも困っている」
二人はゆっくり歩き続ける。マルティナが穏やかに微笑んだ。
「皆様のお話を直接お聞きになったからこそ、お気付きになれたのでございますね」
オズワルドも静かに続ける。
「数字や書類は事実を示します。しかし、人の気持ちまでは書かれておりません」
レオンは深く頷いた。
「……現場って、大事なんだね」
「ええ」
エルシアも笑顔を浮かべる。
「少し歩いただけなのに、こんなに気付くことがあるなんて…」
改革室で机に向かっているだけでは見えなかった景色。人々の声、表情、そして、本当の困りごと。二人はようやく、「現場を見る」という皇帝カシウスの言葉の意味を理解し始めていた。だからこそ、その問題をどう解決するか。改革室らしい答えを見つけるために、二人は再び役所へ足を向けるのだった。市場を後にしたエルシアたちは、商人と若い役人に案内され、商務局へと向かった。皇宮の一角にある役所は、今日も多くの職員が忙しく行き交っている。廊下には書類を抱えた役人たち。部屋の奥では、机に向かって羽ペンを走らせる文官たち。改革によって以前より落ち着いたとはいえ、活気は失われていなかった。
「ようこそ」
商務局の責任者が頭を下げる。
「現場をご覧になりたいと伺いました」
「はい」
エルシアは穏やかに微笑んいた。
「実際に書類がどのように動いているのか、見せていただけますか」
「もちろんです」
責任者は若い役人へ視線を向ける。
「君、案内して差し上げなさい」
「承知しました」
市場で会った若い役人だった。少し緊張した面持ちで、書類棚の前へ案内する。
「まず、こちらが申請書です」
一枚の書類を取り出す。
「商人の方が提出されると、最初に商務局で内容を確認します」
「ここまでは分かるわ」
エルシアが頷く。
「その後です」
役人は書類を隣の机へ置いた。
「建設局へ回します」
さらに別の棚へ。
「終わると税務局」
また別の棚。
「衛生局」
さらに。
「消防局、治安局、最後に商務局へ戻ります」
レオンは書類の動きを目で追いながら、小さく口を開いた。
「……遠回りだ」
「はい」
若い役人は苦笑する。
「この書類一枚が、何日も皇宮の中を旅しております」
「旅…まるで観光ね」
エルシアも思わず苦笑した。その場にいた役人たちからも、小さな笑いが起こる。だが、それは笑い話ではなかった。一枚の書類が六つもの部署を回る。そのたびに担当者が確認し、印を押し、次へ回す。もし一人でも不在なら、そこで止まる。だから時間がかかる。だから商人は待たされる。レオンは机に積まれた書類を一枚手に取った。
「全部必要なの?」
「はい」
若い役人は頷く。
「規則では」
「規則では、か」
レオンは静かに書類を机へ戻した。
「実際には?」
役人は少しだけ言いにくそうに笑う。
「正直に申し上げますと…半分ほどは、前の部署と同じ確認でございます」
部屋が静まり返る。エルシアは思わず聞き返した。
「同じ?」
「はい」
「内容を確認して、印を押して、次へ送る。次の部署でも、また同じことを確認します」
オズワルドが静かに腕を組む。
「つまり、重複しているわけですな」
「その通りでございます」
マルティナも優しく頷いた。
「皆様がお仕事を怠っているわけではないのですね」
「はい」
若い役人は少し嬉しそうに微笑んだ。
「決まりどおりに仕事をしているだけなのです。ですが…私たちも、この流れは長すぎると思っております」
その言葉に、エルシアはレオンを見る。二人の目が合う。それだけで、お互いが同じことを考えていると分かった。
「ねえ」
「うん」
「これ」
「減らせるね」
「うん」
レオンは羽ペンを手に取り、白紙へ簡単な図を書き始める。現在の流れは、商務局、建設局、税務局、衛生局、消防局、治安局、そして商務局。
「長い」
「長いわ」
レオンは新しい線を書き足した。
「似た確認をする部署は、まとめられる。同時に確認すればいい」
エルシアも図を見ながら頷く。
「最後に一度だけ承認。それなら何日も待たなくて済むわ」
若い役人は目を見開いた。
「そんなことが…」
オズワルドは静かに微笑む。
「改革室らしい発想でございます」
マルティナも嬉しそうだった。
「また皆様のお役に立てそうですね」
レオンは完成した図を眺め、小さく笑う。
「……また仕事を減らせそう」
その言葉に、エルシアも満足そうに微笑んだ。今回減らすのは、自分たちの仕事だけではない。役人の仕事も、商人の待ち時間も。改革室の新たな改革が、また一つ形になろうとしていた。
翌朝。改革室の執務室には、いつもの顔ぶれが集まっていた。エルシア、レオン、マルティナ、オズワルド。そして皇帝カシウス、第一皇子アルディオン、公爵家長男クラウスの姿もある。机の中央には、昨日レオンが描いた書類の流れを示す図が広げられていた。エルシアが羽ペンで現在の承認手順をなぞる。
「商務局、建設局、税務局、衛生局、消防局、治安局、最後にまた商務局」
読み終えた途端、部屋が静まり返る。アルディオンが苦笑した。
「……確かに長いね」
クラウスも頷く。
「同じ確認を何度も繰り返しています」
皇帝カシウスは腕を組み、静かに図を見つめていた。
「では、改革案は?」
レオンが新しい紙を広げる。
「似た内容を確認する部署をまとめます。それぞれ順番に回すのではなく、必要な部署が同時に確認する形です」
エルシアが続ける。
「最後の承認だけ商務局が行います。これなら書類は一度で済みます」
アルディオンの目が輝く。
「確かに!待ち時間が大きく減る」
クラウスも静かに補足する。
「役人の移動も減ります。無駄な確認も減るでしょう」
皇帝は満足そうに頷いた。
「よし。本日より試験的に導入する」
三日後、商務局。新しい手順で最初の申請が行われた。
「では、こちらへ」
若い役人が書類を受け取り、各部署へ一斉に確認を依頼する。以前のように何日も机の上を旅することはない。確認が終われば、その日のうちに商務局へ戻ってくる。
「承認いたします」
最後の印が押された。若い役人は驚いたように書類を見つめる。
「……終わった」
本当に、それだけだった。以前なら数日、場合によっては一週間。それが、わずか半日。近くにいた先輩役人も目を丸くする。
「早い…」
「こんなに違うのか。」
書類を受け取った商人も思わず叫んだ。
「もう終わりか!?」
「はい」
若い役人は笑顔で頷く。
「お待たせいたしました」
「これで建設を始められます」
商人は何度も許可証を見返し、嬉しそうに笑った。
「ありがとう!本当に助かった!」
その場にいた役人たちからも自然と拍手が起こる。
役所の外、商人は市場で仲間たちへ声を張り上げていた。
「新しい制度、本当に早いぞ!」
「もう許可が下りた!」
「嘘だろ?」
「昨日出したばかりじゃないか!」
「本当だ!」
話はあっという間に市場中へ広がる。
「改革室がまたやったらしい。」
「今度は承認が早くなった。」
「役所へ行くのが怖くなくなったな。」
人々の笑顔が次々と増えていく。その様子を少し離れた場所から眺める四人。もちろん、お忍びのままだ。若い役人が走ってきて、深々と頭を下げた。
「昨日はありがとうございました。私たちも、とても働きやすくなりました」
レオンは少し照れくさそうに笑う。
「役に立ったなら良かった。」
「はい!」
役人は力強く頷いた。
「これまで毎日、『まだですか』と謝ってばかりでした。今日は初めて、『ありがとう』と言っていただけました」
その言葉に、エルシアは思わず微笑む。
「それは、あなたが頑張っていたからよ。私たちは、少し手伝っただけよ」
若い役人は何度も頭を下げた。
「それでも、本当にありがとうございました」
役人が去ったあと、しばらく四人は市場の賑わいを眺めていた。改革とは、書類を変えることではない。人の時間を守ること。人の笑顔を増やすこと。そのことを、エルシアもレオンも少しずつ実感し始めていた。
そして、その日。皇都では再び、新たな噂が広がり始める。
「改革室は、現場まで来てくれるらしい」
「相談するだけじゃない」
「本当に困っていることを、一緒に考えてくれる」
「やっぱり皇女殿下とレオン様はすごい!」
噂は人から人へと伝わり、再び皇都中を駆け巡っていくのだった。
夕暮れ。皇宮へ戻ったエルシアたちは、そのまま謁見の間へと向かった。皇帝カシウスをはじめ、第一皇子アルディオン、グランセル公爵家当主リヒャルト、クラウスも揃っている。お忍び視察の報告会である。エルシアが一歩前へ進み、静かに頭を下げた。
「ご報告いたします。市場を視察した結果、制度そのものよりも、運用方法に課題がございました」
レオンが続ける。
「担当部署が増えすぎたことで、役人の皆さんも商人の皆さんも困っていました。承認方法を見直した結果、処理時間は大幅に短縮されています」
カシウスは満足そうに頷いた。
「現場の反応はどうだった?」
エルシアは穏やかに微笑む。
「皆さん、とても喜んでくださいました。役人の方も、『働きやすくなった』と」
アルディオンは嬉しそうに両手を合わせた。
「良かった!現場へ行った甲斐があったね」
クラウスも静かに頷く。
「机の上だけでは見えない問題が、確かに存在していました」
リヒャルトは腕を組みながら感心したように言う。
「現場を見ることもまた、統治の一つか。良い経験になったな」
レオンは苦笑いを浮かべた。
「疲れましたけど、それは否定できません」
エルシアも素直に頷く。そのやり取りに、部屋は穏やかな笑いに包まれた。しばらく考え込んでいたカシウスが、ゆっくりと口を開く。
「決めた。」
その一言で空気が引き締まる。
「改革室は、これからも現場を見ることとする」
エルシアとレオンの笑顔が固まった。
「「……え?」」
皇帝は続ける。
「相談を受けるだけでは遅い。困りごとは、人々の暮らしの中にある。ならば、こちらから足を運べばよい」
アルディオンは大きく頷いた。
「賛成です!きっと皆さん安心します」
クラウスも賛同する。
「役所も現場も、さらに良くなるでしょう」
リヒャルトも異論はなかった。
「改革室にしかできぬ役目だ」
こうして、その場にいた全員の賛同を得て。改革室の活動は、皇宮の一室から帝国全土へと広がることが正式に決定した。
会議が終わり、改革室へ戻る四人。夕日が窓から差し込み、部屋を優しく照らしていた。エルシアは椅子へ腰を下ろすなり、大きく机へ突っ伏した。
「終わったぁ…」
レオンも隣の椅子へ座ると、同じように机へ額を乗せる。
「今日は本当に疲れた」
しばらく二人とも動かない。静かな時間が流れる。やがてエルシアがぽつりと呟いた。
「部屋から出ない改革じゃなかったの?」
レオンは天井を見上げたまま答える。
「どんどん外に出る改革になってる。最初は書類を減らすだけだったのに、気が付いたら市場を歩いてた。」
「そのうち帝国一周とか言われそうだわ」
「……ありそう」
二人は同時に遠い目をした。その様子を見て、マルティナは柔らかく微笑む。
「皆様がお待ちです」
オズワルドも静かに紅茶を差し出した。
「人気者の宿命でございます」
二人は勢いよく顔を上げる。
「「それは違う!」」
その瞬間だった。コンコン、と扉が叩かれる。
「失礼します!」
若い文官が慌てた様子で入室した。
「改革室宛てのご依頼が届きました!」
抱えているのは、一通や二通ではない。両腕いっぱいの書類である。
「地方都市からの視察依頼、港町から改善要望、街道整備のご相談、農村からもお手紙が!」
机の上に積み上げられる書類が一枚、二枚、三枚。あっという間に、小さな山ができあがる。エルシアとレオンは、その山を見つめたまま固まった。そして二人は顔を見合わせる。
「帰りたい!」
その悲痛な叫びは、夕暮れの改革室にむなしく響き渡るのだった。こうして、働きたくない二人の改革は、皇宮の中だけでは終わらなくなった。帝国中を巻き込みながら、まだまだ思いもよらぬ方向へ広がっていくのである。




