第2話:寝返り一歩が命取り
ロサンゼルスの閑静な高級住宅街にある我が家は、とにかく広い。
広すぎて、赤ん坊の視点から見るとちょっとしたダンジョンだ。
前世で30年社畜をやった魂を持って生まれた俺だが、悲しいかな、生後4ヶ月の肉体は自分の意志をこれっぽっちも反映してくれない。首はようやく座ったものの、基本的にはリビングのふかふかのマットの上で、天井を見上げて寝転がっているだけの毎日だ。
(はぁー……早く大きくならないかな。自分の足で歩いて、親の金で買ったゲーム機で、1日中部屋に引きこもって遊ぶんだ……)
おしゃぶりをチュパチュパと吸いながら、俺は優雅なニート生活へのロードマップを脳内で描いていた。
今のところ、計画は順調だ。何せまだ赤ん坊だからな。野球のやの字も始まっていない。
だが、その平和な時間は、あの男が遠征から帰ってきたことで一瞬にして破られた。
「真美子、ただいま! 翔、パパだよー!」
玄関の扉が開く音がしたかと思えば、リビングに193センチの巨体――父親(翔平)が飛び込んできた。遠征帰りの疲れなど1ミリも感じさせない、相変わらずの超人っぷりだ。
「クゥン!」
足元では、愛犬のデコピンが千切れんばかりに尻尾を振って親父を出迎えている。
「あ、翔平お帰りなさい。ちょうど今、翔のおむつを替えたところよ」
キッチンから真美子さんが笑顔で顔を出した。
「ただいま、デコ(デコピン)。……よし、翔、パパと遊ぼうか!」
親父はドサッと荷物を置くと、すぐに床に膝をつき、俺の目の前に顔を近づけてきた。
いくら父親とはいえ、メジャーリーガーの顔が至近距離に迫ると、前世の凡人SEメンタルは本能的な恐怖を感じる。デカい。とにかくデカい。
「バブ、あー(お疲れ、ゆっくり休めよ野球星人)」
俺は愛想笑いのつもりで、赤ちゃん特有のクーイング(喃語)を返した。
「真美子、見てよ! 翔が僕の顔を見て笑った! いやあ、遠征の疲れが一気に吹き飛ぶね」
親父はデレデレの笑顔になり、俺の小さな手をそっと握った。
……と、その時だ。
俺の背中のあたりに、強烈なかゆみが襲ってきた。
赤ん坊の皮膚はデリケートだ。ちょうどおむつのゴムが当たっているあたりが、無性にムズムズする。
だが、今の俺の手の長さでは、背中まで手が届かない。
(あー、クソッ、かゆい! ちょっと身体を捻って、マットに背中をこすりつけたい……!)
俺は必死に、上半身を右側に ぐっ と捻った。
前世の感覚で、ただ「寝返りを打って背中を床にこすりつける」だけの、ごく自然な欲求。
だが、俺は失念していた。
この肉体が、大谷翔平と真美子という、人類最高峰のアスリート夫婦のハイブリッドであることを。
――グワッ。
(……え?)
ほんの少し、背中のかゆい部分を意識して腹筋に力を入れただけだった。
それなのに、俺の右足の太ももが驚異的なバネのように床を蹴り、腰の骨盤が完璧な角度で回転を始め、上半身が流れるような連動性を持って右側へと反転した。
物理法則を無視したような、一切の無駄がない、美しすぎる『寝返り』。
ゴロン。
気がついたら、俺の視界は天井から、床のカーペットへと切り替わっていた。
生後4ヶ月の赤ん坊が、何の前触れもなく、教科書のような完璧なフォームで寝返りを成功させたのだ。
(あ、やべっ……!)
しまった、と思ったがもう遅い。
目の前で床に膝をついていた親父が、まるで特大のホームランを打たれた投手のように、目を見開いて硬直していた。
「…………真美子」
親父の声が、妙に低く、震えている。
「どうしたの、翔平?」
真美子さんが不思議そうにリビングに近づいてくる。
「いま、翔が寝返りしたんだけど……」
「あら、そろそろ時期だもんね。よかったじゃない」
「違うんだ、真美子。時期とかそういう話じゃない。……今の寝返り、骨盤の開き方と、内転筋の使い方が完全に『イチローさんの全盛期の盗塁のスタート』と同じだった」
何を言ってるんだ、この親父は。
「バブー(ただ背中がかゆかっただけだわ!)」
俺は必死に抗議の声をあげたが、親父のガチのアスリート脳の暴走は止まらない。
「普通、赤ん坊の寝返りって、もっとこう、ジタバタしながら勢いで回るものなんだ。でも翔は違った。体幹の軸が1ミリもブレずに、最小限の出力で、股関節の回旋だけで回りきったんだよ……。真美子、この子のインナーマッスル、生後4ヶ月のそれじゃない」
親父の目が、キラキラとした「野球少年の目」から、対戦相手の配球を分析する時の「本物のバケモノの目」へと変わっていく。
「ちょっと翔平、大げさよ。たまたま上手くいっただけでしょ?」
真美子さんが笑いながら俺を抱き上げ、仰向けに戻してくれた。ナイスお母さん。これで事態は収束するはず――
「いや、確認させてほしい。翔、もう一回できる?」
親父が、床に這いつくばるようにして、俺と同じ目線になった。
目がガチだ。完全に、スカウトが金の卵を見つけた時の顔になっている。
(やるわけねえだろ!!! これ以上怪しまれて、0歳児用のトレーニングメニューとか組まれたらたまったもんか!!!)
俺は即座に、手足をわざとバタバタと無軌道に動かし、よだれをダラリと垂らして「頭の悪そうな、ただの生後4ヶ月の赤ん坊」の演技(プロ意識高め)を開始した。
「バブー。あうー、ぷー」
ほら見ろ、さっきのは偶然だ。俺はただの凡人赤ちゃんですよー。
「……そっ、そうだよね。ハハハ、僕の職業病かな」
親父は少しホッとしたように頭を掻いて笑った。
(ふぅ……危ねえ。なんとか誤魔化せたか……)
俺は心の底から安堵の息を漏らした。
だが、一度火がついた大谷翔平の探究心は、凡人のカモフラージュごときで完全に消せるものではなかった。
親父は真美子さんがキッチンに戻ったのを見計らうと、ポケットからおもむろにスマートフォンを取り出し、何かを高速でメモし始めた。
チラリと見えたその画面には、日本語でこうタイピングされていた。
『長男・翔。生後132日目。右方向への寝返りにおける骨盤主導の連動性を確認。将来的に、右打席でのバッティングセンス、または盗塁技術において世界トップクラスのポテンシャルを秘めている可能性大。要観察。』
(観察するな!!! メモを消せ、メモを!!!)
俺は心の中で全力のツッコミを入れたが、声にはならず、ただ「バブッ!」と虚しく響くだけだった。
やばい。この肉体、本当に俺の意思に関係なく「天才」をアウトプットしやがる。
早くも、俺のニート計画と、親父の英才教育(無自覚)の、静かなる心理戦のプレイボールが切られてしまったのだった。
(第3話へ続く)




