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第一話:ゲームセットからプレイボール

人間、死ぬ間際に見る景色は「走馬灯」だと聞いていたが、あれは嘘だ。

俺が人生の最後に見たのは、深夜2時のオフィスで無慈悲にバグを吐き出し続けるExcelの画面と、胸を鋭く突き刺した激痛だけだった。

いわゆる、絵に描いたような過労死。

前世の俺は、どこにでもいるただの凡人だった。

中小企業のシステムエンジニアとして、迫る納期と理不尽な仕様変更に追われ、すり減るように生きていた。趣味といえば、仕事帰りにスマホでプロ野球の速報記事を眺めることくらい。自分でバットを握ったことなんて、中学生の体育の授業が最後だ。120キロのストレートすら怖くて腰が引ける、そんな典型的な「見る専門」の野球オタク。

毎日終電まで働き、30歳そこそこで呆気なく人生のゲームセットを迎えた俺の魂は、深い闇の中を漂いながら、強い、強すぎる怨念を抱いていた。

(あーあ……もし、もしも次の人生があるなら。今度は絶対に働きたくない。めちゃくちゃな大金持ちの家に生まれて、親の脛を極太のストローで吸い尽くして、一生ぐうたらニート生活を送ってやるんだ……)

その不純極まりない願いが、どこぞの神様に届いたのだろうか。

暗闇の向こうから、急に光が差し込んできた。

同時に、肌を刺すような冷たい空気と、自分のものとは思えない高い泣き声が鼓膜を震わせる。

(え……? 泣き声? っていうか、身体が動かない……?)

視界がぼやけて、何も見えない。

ただ、自分が誰か大きな人間に抱きかかえられていることだけは分かった。

(まさかこれ、ネットの小説でよくある『異世界転生』ってやつか!?)

一瞬、前世のオタク脳が跳ね上がった。

剣と魔法の世界。ステータス画面。チート能力。

悪くない。いや、むしろ最高だ。今世こそは働かず、実家の権力を使ってスローライフを決めてやる。

そんな皮算用をしていた時、ぼやけていた視界が、急速に焦点を結び始めた。

天井の白いライト。清潔な室内。どうやらロサンゼルスの病院のようだ。異世界風の石造りの城ではない。現代の最高峰の医療施設。

そして、俺を上から覗き込んでいる人物の顔が、はっきりと見えた。

世界中の誰もがテレビで、ニュースで、街頭広告で見ない日はない、あの男。

日本人なら、いや、世界中の野球ファンなら、その顔を誤認することなど絶対にあり得ない。

まばゆいばかりの、少年のように無垢な満面の笑み。

体格の良さが一目でわかる大きな手が、俺の小さな、ふやけた手をそっと包み込む。

男は、泣き出しそうなほど感動した顔で、震える声を発した。

「……よかった。元気に生まれてきてくれて、本当にありがとう」

日本語だった。

聞き覚えがありすぎる、少し高めで、しかし芯のある優しい声。

大 谷 翔 平。

テレビの画面越しではなく、至近距離、わずか30センチの距離に、リビングレジェンドの顔がある。

(……は?)

俺の思考が完全にフリーズした。

横を見ると、ベッドの上で疲れ果てた、しかし幸せそうに微笑む、元バスケットボール選手のあのお母さん――真美子夫人の姿もある。高身長でスタイル抜群の、紛れもないあの「真美子さん」だ。

状況を整理しろ。前世のSE脳よ、高速でログを解析しろ。

異世界ではない。ここは現代。

そして、目の前で俺を愛おしそうに見つめているのは、メジャーリーグの歴史をすべて塗り替え、人類の常識を覆し続けている、あの『世界最強の野球星人』。

つまり。

俺は今、**「大谷翔平と真美子の長男」**として、この世に生を受けてしまった。

「翔平、あんまり強く握っちゃダメよ。まだ生まれたばかりなんだから」

真美子さんが、苦笑いしながら父親をたしなめる。

「わ、わかってるよ。でもさ、真美子……見てよこの指。赤ちゃんだけど、すごく綺麗で長い。……絶対にいいボールが投げられるよ、この子は」

父親(翔平)は、本当に嬉そうに俺の小さな指をツンツンと触っている。

その目が、未来の希望に満ち溢れていて眩しすぎる。悪気がない。純粋100%の期待。それが、前世凡人社畜の俺にとっては、核ミサイル級のプレッシャーとなってのしかかってくる。

(無理無理無理!!! 期待値のハードルがエベレストより高い!!!)

俺は心の中で全力で絶叫した。

大谷翔平と真美子の息子。

父親は193センチ、母親は180センチ。この時点で、俺の将来の身長とフィジカルは「高確率でバグる」ことが確定している。しかも世間からの視線はギガトン級。

「やっぱり大谷の息子だ!」と言われるか、「あの両親の息子なのに大したことないな」と叩かれるか。どっちを引いても地獄の二択。

前世で過労死した俺が求めていたのは、穏やかで、誰にも邪魔されない、のんびりとしたニート生活スローライフだ。こんなガチのアスリート精神の塊みたいな両親の元で普通に育ったら、血反吐を吐くまでスポーツ漬けにされるに決まっている。

(決めた。俺は、絶対に野球はやらない)

産婦人科のベッドの上で、俺は固く固く、心に誓った。

どれだけ親父に笑顔でキャッチボールを誘われようが、どれだけ周囲に「天才の片鱗」を期待されようが、のらりくりと躱し続けてやる。

「大谷家の、野球に全く興味がない残念な方の長男」

そのポジションを死守し、親の莫大な資産で一生ぐうたら生きてやるんだ。

これが、俺の第二の人生のグランドデザイン。

――しかし、この時の俺はまだ知らなかった。

自分の体に組み込まれた「大谷と真美子の遺伝子」という名の肉体チートが、前世の凡人メンタルを置き去りにして暴走し始めることを。

「クゥン……」

足元の方で、付き添いで連れてこられていた(あるいは許可をもらって一瞬入った)愛犬のデコピンが、不思議そうに俺を見つめて声を漏らした。

デコピンよ、お前だけが俺の味方だ。

これから始まる、世界一プレッシャーのきつい家庭環境での俺の奮闘を、どうか見守ってくれ。

こうして、俺の「絶対に野球の才能を隠し通す隠蔽生活」へのプレイボールが告げられたのだった。

(第2話へ続く)

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