第51話 黒川真希の本性
◇◆◇◆◇
彼女の足音が遠ざかっていく音だけが、やけに長く耳に残っていた。
追いかけなかった。
追いたくなかったわけじゃない。
追う資格なんて、もうないとわかっていたからだ。
彼女の手に握られていた白いハンカチは、公園の角を曲がって消えていった。
そして――いつも俺に向けられていた、あの笑顔も一緒に。
「……」
沈黙が重い。
重すぎた。
胸元に手を当てる。
鼓動は速い。
でも、これはときめきなんかじゃない。
罪悪感。
気まずさ。
そして、名前をつけたくない感情。
「……バカだな、俺」
気づけば、いつの間にかベンチに座っていた。
視線を落とす。
彼女が蹴っていた小さな石が、まだアスファルトの上をゆっくり転がっていた。
まるで、何もなかったみたいに。
何も変わっていないみたいに。
でも、そんなわけがない。
もう全部、変わってしまった。
「……」
しばらく目を閉じる。
彼女の声。
彼女の言葉。
彼女の告白。
全部、頭の中で何度も繰り返されていた。
それでも――
後悔はしていなかった。
拳を強く握りしめる。
「できない……」
嘘はつけなかった。
彼女にも。
自分自身にも。
ほとんど反射みたいにスマホを取り出す。
深く考えるより先に。
気づけば、指はもうその名前に触れていた。
「黒川さん……」
そこで止まる。
「……やめとくか」
ゆっくり手を下ろした。
今じゃない。
さっきのことがあった直後に、こんな声を聞かせたくなかった。
スマホをしまい、静かに息を吐く。
夕方の冷たい空気が、さっきよりずっと重たく感じた。
「……先に、やることがあるな」
俺はもう一度、ショッピングモールへ戻った。
さっきから、気になっていたものがあったからだ。
坂本さんと歩いていた場所へ戻り、そのままあるコーナーへ向かう。
プレゼント売り場。
たくさん並ぶ商品の中で、一つだけすぐ目に入った。
白と茶色のくまのぬいぐるみ。
子供っぽすぎない。
穏やかな表情をしていて……どこか愛嬌がある。
なぜか、それを見た瞬間、黒川さんのことを思い出した。
あの冷たそうな視線の奥にある、本当の彼女を。
深く考える前に、それを持ってレジへ向かっていた。
彼女に何か渡したかった。
ただ、それだけだった。
俺から、彼女へのものを。
プレゼント用の袋に包んでもらってから、部屋へ戻る。
何もなかったみたいに振る舞うつもりだった。
まだ、何も話さない。
まずは隠さないと。
静かにドアを開ける。
幸い、リビングには誰もいなかった。
音を立てないように気をつけながら、自分の部屋へ向かう。
……いや。
もっといいことを思いついた。
「ただいま」
なるべく音を立てないよう、小さく呟きながら部屋に入る。
ちょうど自分の部屋へ入ろうとした時、隣のドアが開いた。
黒川さんが部屋から出てきたところだった。
「……」
慌ててプレゼントの袋を隠そうとする。
けど、その瞬間また別の問題に気づいた。
……これ、どこに隠せばいいんだ?
もし偶然でも部屋に入られたら、一発で見つかる。
とはいえ、誕生日までもう時間はあまり残っていなかった。
「くそっ……」
焦って辺りを見回し、とりあえず机の引き出しを開ける。
今はここに入れておくしかない。
袋を押し込んでから、何事もなかったように部屋を出た。
キッチンへ行くと、彼女は有線イヤホンをつけたまま、コップに水を注いでいた。
「おかえり」
落ち着いた声だった。
「ちょうどよかったわ。まだやることが山ほどあるの。特にあなたがね。今日はすごく筆が乗ってるから」
彼女は執筆モードに入ると、いつもこうだった。
「坂本さんも言ってたぞ。無理しすぎるなって。たまには休んだほうが、次の章のアイデアも浮かぶかもしれないし」
「……その発想はなかったわね」
彼女は少し視線を落として、小さくため息をついた。
「少し休んでみようかしら」
「そのほうがいい。体にも感謝されるぞ」
それでもまだ半信半疑みたいな顔をしていたけど、最終的には受け入れたらしい。
「じゃあ、私が休んでる間にあなたの分、進めておいて」
そう言ってソファへ倒れ込むと、ほとんど同時に目を閉じた。
「たった十ページだもの。大した量じゃないでしょ」
「たった十ページ!?」
思わず声が大きくなる。
「まだ半日も経ってないのに、よくそんな書けるな!?」
「叫ばないで。耳悪くなったらどうするの」
目を閉じたまま返事が飛んできた。
「一つの話に集中するのって、別に悪いことじゃないでしょ……少なくとも、私はそう思ってる」
「お前、本当に想像力おかしいよな……」
呆れながらため息をつく。
「とにかく、全部読むよ。直せそうか確認する」
「ええ……終わったら教えて。私はちょっと……」
「ちょっと、何だよ?」
「……」
返事はなかった。
「なんだよ……寝てるのか」
どうやら、目を閉じた瞬間そのまま眠ってしまったらしい。
思わず小さく笑ってしまう。
自分の部屋へ毛布を取りに戻り、それを手にした瞬間、さっきのことを思い出した。
「……言わないとな」
小さく呟きながら、リビングへ戻る。
もう、これ以上誤魔化したくなかった。
彼女のことが好きだって。
本気で付き合いたいって。
ちゃんと伝えたかった。
でも、考えれば考えるほど緊張する。
「簡単じゃないな……」
そっと毛布をかける。
その時、彼女のスマホの画面がまだ点いていることに気づいた。
どうやら、ついさっきメッセージが届いたらしい。
[頑張れ]
その下に表示されていた名前は――
「坂本さん」だった。




