第45話 言えなかった過去
* * *
しばらくすると、もう一匹の白猫が彼女に近づいてきた。
その代わり、俺には一匹たりとも興味を示さない。まるで全員で示し合わせて、俺を無視することにしたみたいだった。
真希は、思っていた以上に楽しそうだった。
次から次へと猫を撫でては、また別の猫に手を伸ばしている。まるで小さな女の子みたいに、目を輝かせながら。
スマホを取り出し、彼女が夢中になっている隙に、黙って写真を撮った。
……全然気づいてない。
そういえば、真夜がずっと「こういう真希の写真送って」って言ってたな……。
後で使えるかもしれない。
とりあえず、今は保存しておこう。
「真希、笑って〜」
彼女が反応するより早く、シャッター音が鳴った。
「慧翔くん……ずるい」
文句を言いかけたその時、白猫が彼女の膝の上で丸くなった。
「彼女さん、猫お好きなんですね」
カウンターの近くにいた店員さんが、優しく微笑みながら声をかけてきた。
その言葉を聞いた瞬間、真希は猫を顔の前まで持ち上げ、隠れるみたいに顔を隠した。
何も答えない。
ただ猫を撫でながら、俺から視線を逸らし続けていた。
「はい。実は、ここに来たいって言ったの、こいつなんです」
「そうだったんですね。選んでもらえて嬉しいです」
真希は恥ずかしそうに小さくうなずきながら、白猫の背中をゆっくり撫で続けていた。
帰る前、彼女はもう一度その猫を抱きしめた。
「……いいよ。今なら」
「何が……?」
真希はじろりと睨んできて、自分のスマホを取り出した。
それで察した。
……ああ、そういうことか。
まだ間に合う。
「もう一回だけ撮らせて。今度はちゃんと撮るから」
彼女は数秒迷ってから、小さく諦めたようにため息をついた。
「……わかった。でも、誰にも見せないで」
思わず笑みがこぼれて、すぐにうなずいた。
「約束する。後悔はさせない」
「……どうだか」
真希は猫を胸に抱きしめ、もう一匹は膝の上で眠っていた。
その時だけ、穏やかで優しい笑顔を浮かべる。
……だけど、俺がしつこくカメラを向けているうちに、だんだん居心地悪そうな顔になってきた。
その瞬間を逃さず、何枚か写真を撮った。
それから、ずっと「真希のこういう顔が見たい」って騒いでいた真夜にも、何枚か送っておいた。
あいつが見た時の反応が、簡単に想像できる。
…………
………
……
* * *
そうして、猫カフェでの時間は終わった。
真夜はまだメッセージを読んでいない。
でも、今は別の問題がある。
この後、どこへ行くんだ?
「で、次はどこ行きたい?」
真希は少しうつむいてから答えた。
「……笑わないって約束して」
胸に手を当て、まるで本気で誓うみたいに言う。
「ああ、約束する。笑わない」
一瞬迷ってから、彼女は口を開いた。
「じゃあ……遊園地、連れてって……」
なんでそんなことで笑われると思ったのか、正直わからなかった。
「いいよ。行きたいなら行こう」
真希は、俺の返事が意外だったみたいで少し戸惑っていた。
それから、ほんの少しだけ微笑んで、また隣を歩き出した。
そうしてしばらく歩き、遊園地に着いた。
入口をくぐった瞬間、彼女の目が輝く。
光、音楽、アトラクションの音——全部が、その瞳に映り込んでいるみたいだった。
きっと、ずっと前から来たかったんだろう。
こんなにはしゃぐなんて……。
どんな子供時代を過ごしてきたんだろう。
突然、彼女が俺の手を握った。
すごく嬉しそうな顔で。
教室で見るいつもの真希とは、まるで別人だった。
「行こう、慧翔くん。時間ないよ」
答える暇もなかった。
そのまま彼女に引っ張られるように、人混みの中へ消えていく。
こんな真希を見ると、なんだか嬉しくなる。
でも……少し子供っぽくも見えた。
「あ……そうだ。どこ行きたい?」
「わかんない。とにかく、ついてきて」
「……わかった。だからまた急に冷たくなるなよ?」
「こんな場所でそんな風になれるわけないでしょ……ほら、あそこ行こ」
彼女が指差したのは、ジェットコースターだった。
近くで見ると、思っていたよりずっと高い。
何か言う前に、彼女はその巨大なレールを見上げ、どこか懐かしそうな目をした。
「こういう場所、来るの初めて……小さい頃からずっと来てみたかったんだけど、親が許してくれなくて」
だんだん声が小さくなる。
「家のイメージに傷がつくから、って」
「待って……真希、それってどういう意味だ?」
彼女はほんの少し迷ってから、静かに口を開いた。
「……私、家の跡取りなの。いわゆる上流階級ってやつ。だから、小説を書くのも嫌がられるの……家の望む通りに生きろって」
それは……予想外だった。
ただ厳しい家なんだと思っていた。
でも今なら、いろんなことに説明がつく気がする。
彼女の母親を迎えに来た、あの車。
彼女の話し方。
ずっと背負わされてきたプレッシャー。
……なんで今まで気づかなかったんだ。
「……慧翔くん?」
不安そうに、彼女の声が少しだけ揺れた。
「前から言えなくてごめん。どう話せばいいのかわからなかったの」
こんな時に、そんな顔をさせたくなかった。
だから深く考えるより先に、もう一度彼女の手を掴んで、アトラクションの方へ歩き出した。
「行こう。今はそんなの忘れろ」
少しだけ笑う。
「今日は、俺の彼女なんだから」
ただ、今日は楽しんでほしかった。
それだけだ。
彼女は数秒間、じっと俺を見つめてから、されるがままについてきた。
そして、ジェットコースターの最前列に座る。
安全バーが下り、ゆっくりと動き始めた。
上へ上がっていくにつれて、真希はどんどん強く俺の腕にしがみついてくる。
そして——最初の急降下。
「うわああああっ——!!」
彼女の叫び声が辺りに響き渡った。
完全に怯えている真希を見て、思わず笑いそうになる。
「真希……そんなに怖いなら、なんで乗りたがったんだよ?」
「……違うの……っ」
震える声で、必死に息を整えながら答える。
「楽しくて……びっくりしてるだけ……こんなに高いと思わなくて……っ」
言い終わる前に、再び急降下した。
今度はもっと強く、俺にしがみついてくる。
腕越しに伝わる震えのせいで、こっちまで妙に緊張してしまった。
「うわああああ——!!」
表向きは俺も一緒に叫んでいた。
でも内心では、彼女のオーバーな反応が面白くて、笑いをこらえるのに必死だった。
ようやく終わる頃には、真希はすっかり力が抜けていた。
手を貸して立ち上がらせ、そのまま車両を降りる。
まだ足が少し震えていた。
「ほらな、自分から乗りたいって言ったんだろ。俺のせいにするなよ」
「……わかってる。何回も言わないで……」
彼女は目を逸らしながら深呼吸した。
「もう……ちょっと座りたい。気持ち悪い……」
「わかった。ほら、肩貸せ」
肩を支えながら、ゆっくり近くのベンチまで歩いていく。
どうやら、本気で目が回っているらしい。
「何かいるか? 買ってくるけど」
「……水。あと……すぐ戻ってきて」
眉をひそめる。
「遅かったら許さないから……」
弱々しい声だった。
吐き気を我慢しているようにも聞こえる。
そのせいで、余計に急がなきゃって気持ちになった。
せっかくのデートの始まりを、こんなことで台無しにしたくない。
でも——
……そういえば、今ならチャンスかもしれない。
よし。ちょっとしたアイデアを思いついた。
迷わず、自動販売機へ向かって走り出した。




