第30話 迷いと決断
色のない空間みたいな、ただ暗いだけの部屋。
その中で、黒川さんが目の前にいた。ほんのり頬を赤らめている。
「和泉くん、私……あなたのことが好き。ずっと一緒にいたい」
あんなふうに緊張して、どこか可愛らしい黒川さんは、顔を近づけてきた。まるでキスでもしそうな距離まで。
「黒川さん……」
唇が触れ合う、その瞬間――音が鳴った。
(目覚ましの音)
ゆっくりと目を開ける。さっきまでのは……ただの夢か。
思い出して、一気に恥ずかしさがこみ上げてくる。何か言う前に、ドアをノックする音がした。
「起きて。朝ごはんできてるよ」
「あっ! 黒川……さん、か……」
彼女は不思議そうにこちらを見た。
「どうしたの? そんなにびっくりして」
声をかけながらドアを開けた彼女は、制服の上にエプロンをつけていた。
ふと、いたずらっぽい笑みを浮かべる。そんな表情、あまり見たことがない。
その姿に心臓が跳ねた。同時に、さっきの夢の記憶が一気によみがえる。
思わず顔を覆った。恥ずかしすぎる。
「違う、そうじゃなくて……変な夢を見ただけだ」
「変な夢?」いたずらっぽく笑いながら、顔を近づけてくる。
なんで今日に限ってこんなに距離が近いんだ……? からかってるのか?
なら、やり返すしかない――
「お前と俺が……キスする夢を見た」
彼女の笑顔が固まった。顔が一気に真っ赤になる。
効いたな……。
心の中でほくそ笑む。
「バカなこと言わないで。そんなことあるわけないでしょ。今のままでいいんだから……夢で済んでよかったわ」
まだ顔が赤い……完全に想像してるな。
おかしい。一週間近くまともに話してなかったのに、いきなり部屋に来て……しかもこの態度。
「機嫌いいな。何かあったのか?」
さっきから様子がおかしい。今日になって急に――
「いいから起きなさいよ。それとも、起こしてほしい?」
「やってみろよ」
(どうせ自分の距離感は崩さないだろ……)
……と思ったのに、彼女は普通に部屋に入ってきた。
俺の挑発に乗る形で。
見下すような視線に、少しだけ気圧される。それでも負けじと布団を持ち上げて抵抗する。
だが、彼女はそのまま布団を引っ張り始めた。
思ったほど力は強くない……けど、じわじわ距離が詰まってくる。
「どっちが上か、思い知らせてやる」
強く引き返そうとしたが、彼女は離さない。
――そのまま、彼女が俺の上に倒れ込んできた。
向かい合ってはいない。それでも胸の上に彼女の体重を感じて、心臓がうるさくなる。
視線を落とす。
さっきまでの柔らかい表情は消えて……少し冷たい、暗いものに変わっていた。
それでも……彼女の鼓動も速いのが伝わってくる。
「おい……起きろって言っただろ」
不機嫌そうには見えない。緊張してる様子もない。
でも……落ち着いているとも思えなかった。
「お前、意外と硬いな……」
そう言って、もう一度布団を強く引っ張る。
今度は――完全に向こうの勝ちだ。
「ほら、起きて」少し勝ち誇ったように言った。
「はいはい……あ、今日はやけに機嫌いいな。何かあったのか?」
さっき答えてもらえなかったから、もう一度聞いてみた。
一瞬、照れたような表情を見せたが……すぐに、いつもより自信ありげな顔に戻る。
「別に……評価が上がっただけ。それじゃダメ?」
……まあ、確かに。
でも、あの作品はもう台無しだ。
「もう……あの話は続けられない」
彼女は真剣な顔でうなずいた。
「わかってる。あの話はもう『完璧』にはならない……あなたがやったことのせいで」
思い出すのも嫌なのか、手を額に当てる。
「あんたに止められなかったら、今ごろどうなってたか……」
正直、自分でも何をしたのかよくわからない。
でも、一つだけ言えるとすれば――
「お前が急に距離を置き始めたあたりからだと思う……」
途端に、彼女の顔が赤くなった。怒ってる感じではない。
「それ、私と何の関係があるの? それとも、私がいないと書けないって言いたいの?」
「バカ、違うって……もういい。この話は今はやめよう」
恥ずかしいわけじゃない。
ただ……作品を崩した理由が、自分でもわからないだけだ。
胸に手を当てる。
答えを探すみたいに。
でも何もない。ただ鼓動しているだけだ。
まるで、彼女とは関係ないみたいに――
……そう思いたかった。
彼女は不思議そうにこちらを見ていたが……すぐに何か察したようだった。
くるりと背を向け、ドアの方へ向かう。
「早く着替えて。遅れるよ」
少しだけ緊張した声。
でも、言ってることは正しい。
「はいはい……今行く」
ドアが閉まり、彼女はキッチンへ戻っていった。
表情は見えなかった。
それが、妙に引っかかった。
……まあいい。
今はそんなこと考えてる場合じゃない。
急がないと、本当に遅刻する。
* * *
結局、間に合うように慌てて家を出た。
とはいえ――
さっきのあの目つき……本気で怖い。
「起こしに行ったのに起きなかったあなたが悪いんでしょ」
「そんな時間だって知らなかったんだよ! 先に言ってくれればよかったのに」
彼女は何も言わない。
自分が正しいとわかってるからだろう。
……まあ、それでいい。
「ただ……真昼ちゃんが変に誤解しなきゃいいけど」
「今聞くことじゃないのはわかってるけど……なんでそんなに一緒にいたがるんだ? 何かあったのか?」
「───……女の子の気持ちがこんなにわからないなんてね。私じゃなくてよかったよ……可哀想な真昼ちゃん」
最後のほうは小さすぎて、よく聞こえなかった。
「女の子がはっきり言わないのが悪いんだろ。告白すれば済む話じゃないのか?」
「じゃあ、告白されないと付き合わないってこと?……バカなの?」
「違うって……好きなやつがいれば別だ。ちゃんと好きなら言う。でも、タイミングは考える」
俺の答えに、彼女は少し驚いたようだった。
まあ……無理もない。
立ち止まって、じっとこっちを見る。
鋭い目つき。でも、顔は赤くなっていない。
「じゃあ……もし私がキスしてほしいって言ったら、それって好きじゃないってことになるの? あくまで仮定だけど」
その質問にはさすがに驚いた。
でも……少し考えてから答える。
「……いや、それは別だろ。でも、その前に好きになる必要はあるんじゃないか?」
「……そっか。まあいいや、急ごう。時間ないし」
(どうやら真昼ちゃんは、和泉くんを落とすのに、もう少し頑張らないといけないみたいね)
結局、二人とも急ぎ足で歩き続けた。
しばらくして……ギリギリで学校に着く。
坂本さんが入口で待っていた。
心配そうな顔をしていたが……黒川さんを見た瞬間、ぱっと表情が明るくなる。
どこか雰囲気が違う。
一目でわかった。
髪の色が黒じゃない。
金に近い色……どこかで見たことがある感じだ。
似合っている。思っていたより、ずっと。
「もう、心配したんだから……」彼女は少し頬を膨らませて言った。「なんでこんなに遅かったの?」
二人とも、すぐには答えなかった。
黒川さんは、それよりも彼女の変化が気になるみたいだった。
校内に入りながら、彼女は俺を指さす。
「この人が遅れた原因です」息を整えながら言った。
「俺のせいかよ!? お前が部屋に入ってきたのも原因だろ」
「はいはい、どっちもどっち……って、え? ちょっと待って、え?」
今さら理解したらしい。
「真希ちゃん、和泉くんの部屋に入ったの?」
坂本さんの表情が一変する。
どこか警戒しているような目だ。
黒川さんはすぐにフォローに入った。
「違うの、真昼ちゃん。ただ起こしに行っただけ。それに全然起きなくて……それに、私がこの人と変なことするわけないでしょ」
「おい、俺が誰とも付き合う気ないって知ってるだろ。だから変な想像すんな」
「…………気にしないで。ただの言葉だから。そのうち考え変わるよ。ところで……それ、地毛? すごく似合ってる」
「───……ありがとう、真希ちゃん。染めてよかった」
そう言って笑う。
でも……二人ともこっちを見ていた。
俺の反応を待っている。
「……似合ってるよ」
明らかに……親友に言われたときより、嬉しそうだった。
気まずくなりかけた空気を断ち切るように、黒川さんは坂本さんの手を取って、小声で何か話し始めた。
「行こう、時間ないよ。あなたは……先に行って。真昼ちゃんと話があるから」
二人はそのまま先に行った。
俺は少し遅れて、息を整える。
「……なんなんだ、あの二人」
そういえば――
今朝の夢を思い出して、顔が熱くなる。
それだけで、また心臓がうるさくなった。
……気のせいだろ。
きっとな。




