月の導き(1)
すっかり夜の帳が下りた空に、白い月が輝いている。黄色と青の二つが重なった月を、二重の月と呼ぶらしい。この世界の月は満ち欠けをしない代わりに、別々に動く月の位置で、夜の明るさが変わる。二重の月は、白々と明るく、故郷の月を思い起こさせた。
伯爵の執務室を辞して、回廊から月を眺めていると、金属が微かに擦れる音が近づいてきた。
「レーナ。」
やはり近衛隊長だ。この声色は、何か注意がある時のそれだ。おそらく、あの商人の言いがかりに言い返したことへの注意だろう。
振り返ると、案の定、眉を顰めていた。
「先ほどは申し訳ありませんでした。名指しで非難されたので、つい余計な口出しを。」
先んじて謝ってみたが、隊長は眉を顰めたままだった。
「お前のいたところでは、地図は気軽に見られるものなのか。」
「地図、ですか?どこにでもありますが。」
「誰でも見られるものか。」
「見られます。」
「禁じられはしないのか。」
「むしろ義務教育の必修項目です。」
あの商人も地図にやたらと反応していたけれど、何なのだろう。
「お前の故郷には、戦はないのか?」
「ありますが?」
隊長が軽く嘆息する。若干呆れの色が混ざってきたような気がする。
地図と戦争に何の関係があるのか考えを巡らせて、気が付いた。もし敵国に攻めていくなら、道や地形や町の位置が分かると、とてもやりやすくなる。逆に、敵国にその情報は知られたくない。
「もしかして、地図は機密情報ですか?」
「そうだ。安易に地図を見せろというのは、誤解を招きかねない。相手が他国の人間なら尚更だ。我が国の地図を他国の人間に見せるなら、どういうことになるか、分かるな?」
そう言われると、冷や汗ものである。私自身、最近までこの国の地図すら見ることはなかった。王城に保管されているような詳細なものではないが、ファリエン本部には、討伐の場所を確認するための、簡易的な地図がある。もしかしたら、それですら、外部に漏らしてはいけないものかもしれない。
日本でも、昔、シーボルト事件というものがあったことを思い出す。詳細な地図は、国家機密だったのだ。ここの認識も似たようなものだろう。取り返しのつかない失態を犯す前に知ることが出来て、良かったかもしれない。
「注意します。」
「他にも色々ありそうだな、お前は。」
呟くように言われてしまったが、本当にそうかもしれないので反論はできない。
その時、フイと意識の中に潜り込んでくる感覚があった。
「リール?」
空を見上げると、月に照らされた夜空を滑空する影がある。
挨拶もそこそこに、急いで見張り塔へと移動した。最上部に登ると、明かりが溢れ夜でも賑わう街と、月の光で仄かに浮かび上がるクル川と、闇に沈むラーエ川の対岸が一望できた。
「レーナ。お前はまた。」
近衛隊長が再び眉を顰めて現れた。
「勝手に見張り塔に登るな。ここはビフェルン伯の館だぞ。許可を得ずに上がって良いところではない。」
「すみません。飛竜が来ていたもので。今回は町の傍ですから、来ないはずだったのですが。」
「飛竜?」
沼地と化したままの廃墟の上を、飛竜が飛んでいる。
契約を交わした飛竜を、私はリールと名付けた。彼らは今回の討伐に、姿を見せていなかった。元々人里に近づくのを嫌う傾向がある。二千年以上、ずっとそうだった。こんな明るい月夜に、こんな町の近くを飛ぶのは珍しい。
飛竜と感覚がつながる。
水に沈む廃墟を眼下に、翼に風をはらみ、滑るように旋回を続けるのは、何か引っかかりを感じているからだ。街には騒々しい人間の営みがあるが、風は凪ぎ、川の流れも緩やかで、獣達も大方は寝静まっている。それなのに、どこかざわつく気配がある。
静寂と闇がわだかまっていた廃墟の水の中に、不意に青白い光が浮かび上がった。ゆらゆらと揺らめいていたそれは、次第にはっきりとした質量を伴い、周囲の澱みを凝縮させるかのような動きを見せると、明瞭な気配を発し始めた。
(魔物?)
何もなかったはずのところに、魔物が出現している。近づいてよく見ようと、風に乗るのを止めて降下した。水面がみるみる近づく。ほぼ同時に体が後ろに強く引かれた。前進する視界と後方へ下がる体の感覚が奇妙だ。
「何をしている。」
咎めるような声に、我に返った。遠く上空にいた飛竜は、今は地に近いところを飛んでいた。
私は今、何をしていただろうか。
上空から魔物の気配を感知して、確認するために降下しようとしていたのだ。
いや、違う。それは飛竜であって、私ではない。私がいたのは街中の塔の上であって、空中ではない。飛竜の感覚に引きずられた私がしようとしたのは、端的に言えば塔からの身投げだ。さすがに飛竜も拾いに来れないし、間違いなく地面に激突する。後ろで見ていた隊長は、さぞ驚いたことだろう。
であるならば、こうして抱きかかえられている状態は、致し方ないかもしれない。
首を捻って顔を見上げる。
「すみません。もう大丈夫です。」
薄暗い中でも、疑わしそうに見られているのが分かる。
がっちり抑え込まれて身動きが取れない。目の前で飛び降りようとしたのだから無理もない反応ではあるが、信用してもらいたいものだ。
「飛竜とのつながりは切れています。ですから、大丈夫です。」
もう一度言うと、ようやく解放された。衣服を整え、正面に向かい合う。
「魔物が発生しました。」
「発生した?どういうことだ。」
隊長の顔が険しくなった。
「あの廃墟の中に、魔物が現れたのを飛竜が感知しました。直前まで何もなかったところから、発生したのです。」
隊長が廃墟の方を見やった時、鐘の音が響いてきた。それは、昼間聞いたベレンの鐘の音とは違い、低く静かに、遠くから響いてくるようだった。
しばらくすると、見張り塔が騒がしくなった。
複数の人が話しながら階段を上ってくる音がする。夜間に鳴る鐘の音は、緊急事態の合図なのだ。
「どういうことだ。この音は何だ。」
「分かりません。この町の鐘ではありません。」
「城壁にも人を遣って確認させています。」
ややあって、家来と共に姿を現した伯爵は、先客がいるのを見て、少し驚いた顔をした。
「来ていたのか。今呼びにやろうとしていたところだが。」
「許可もなく、失礼致しました。」
近衛隊長に倣って謝罪から述べるのが礼儀ではあるだろうが、今は報告を優先する。
「閣下。魔物があの廃墟に出現した模様です。」
「なに?」
さすがに、伯爵の顔に笑みはない。
「では、本物の魔物が、別にいたのか。」
「様子を見て参ります。門外に出るか、飛竜を城壁に近づける御許可を。」
評価をして下さった方、いいねを押して下さった方、ありがとうございます。
励みになっています。




