魔物の正体
「レーナ!下がれ!」
咄嗟に後方に跳び下がる、と同時だった。
足元の水面が大きく波打ち、鋭い牙の並んだ大きな口が飛び出してきた。心臓が縮み上がるような感覚を覚えながらも、腰にあるナイフを口の中に向かって投げる。それが刺さったか、首を振るように方向を変えたそれに、横から槍や石礫が投げられた。槍は勢いが足りずに深くは刺さらず、それは水の中に潜り込んでしまった。
着地した時には、全身から冷や汗が出てくるような感じがした。
間一髪で逃れることが出来た。全く気配を感じなかった。
あれは魔物ではなく、ただの生物だ。
ただし、魔物と同等に考えてもいいような危険生物だ。私達はあれとそっくりなものを知っていた。
「・・・ワニ?」
「ワニだね。」
「あれは何だ?魔物か?」
ベレンの守備隊長が慌てて近づいてきた。その声色には、驚きと怖れが感じられる。近衛隊長は、同じ質問はしなかった。私があれの接近に気づかなかったからだ。
「あれは魔物ではなく、普通の生き物です。」
「あれがか?」
「この辺りに生息していないのですか?」
「初めて見たぞ。本当にあれが魔物ではないのか?」
「魔物ではないのですが、対処としては同じで良いかと。魔物と変わりないような危険生物です。噛みつかれれば体の一部は持っていかれるでしょうし、水の中に引きずり込まれたら終わりです。」
それを聞いた守備隊は、ものすごく嫌そうな顔をした。近くにいたファリエンの隊員が宥めるように付け加える。
「皮は革製品として使えますよ。希少品です。」
「そうですね。何匹いるか分からないのが厄介ですが。」
「水抜き作業している人たち、大丈夫かなあ・・・」
青ざめた守備隊員達が川辺に走っていき、顔を引きつらせた守備隊長や応援に来ていた正規軍の指揮官が、部下に指示を出していく。
「海嘯石があればなあ。」
と、あの異民の兵士が言った。
「海嘯石?」
「水を出したり入れたりできるらしいぞ。見たことはないけど。こういう時にあると、便利だよな。」
「石が?これだけの量の水を?」
「いやあ、どのくらいかは知らないけど、バケツよりは絶対効率いいよ。水車よりもいいんじゃないかな。」
そんな不思議な石は、神話の中にしかないと思っていた。飛竜がいたのだから、その石も実在したりするのだろうか。
「それはどこでも手に入るもの?」
「さあ。そういうのがあるって聞いただけだから。知り合いには実物見た奴いないし。」
やはり、神話の域を出ないものかもしれない。
程なく、別の場所で守備隊員に襲い掛かろうとしていたワニが仕留められたと連絡が入った。
「魔物並みの危険生物か。それは思い至らなかった。一体どこから持ち込まれたものか。」
中間報告に伺うと、ビフェルン伯はそう呟いた。
「ここは外国の商人が集まるところだからな。それは中央広場に晒しておくことにしよう。近衛隊長も、ファリエンも、無駄足を踏ませて済まなかったね。」
「いえ。我々も予想外でした。正規軍には引き続き捜索に協力するよう要請をしております。」
ビフェルン伯と近衛隊長のやり取りの後、伯爵はこの場にいるもう一人の人間に目を向けた。あの異民の兵士だ。初めて会うこの土地の権力者を前にして、兵士は緊張しているようだった。
伯爵は一見温厚な人に見える。口調も口元の笑みも穏やかだが、目は笑っていない。王城に上がるようになってから、こういう笑い方をする貴族達をよく見かける。特に中枢にいる人達の笑顔は、見た目通りに受け取ってはならない。粗野だが裏表のない一般兵士達が、早くも懐かしく感じる。
「さて、君が雨と洪水を予測したという兵士だね。天候の変化が分かるそうだが、君の仲間は皆そうなのか?」
「はい、そう聞いています。」
「興味深いな。日照りも洪水も分かると?」
「はい。程度によって感知する時期は変わりますが、分かります。」
「非常に興味深い。なぜ今まで明かさなかった?」
「その・・・気味悪がられるだけなので。」
「なるほど。それも道理だ。うん、君達のことは、内密にしておこう。」
「ありがとうございます。」
兵士はホッとした顔になった。伯爵が本当は何を意図しているのか、まだ分からないのだが。
「ところで、海嘯石というのは、どういうものかな?」
「ああ、それは、波を消したり出したりできるものだと聞いたので、あの沼地もどうにか出来るのではないかと思いまして。」
「まるで海神の指輪のようだね。実際にそのような物が存在するとは聞いたことがないが。どのような石だろうか。」
「海の色をしているそうです。海に溶け込みそうな。」
「海晶石か。しかし、それならありふれている。」
「ええと、他の石のことは良く分からないんですが、海から生まれた石のほんの一部にその力が宿るんだそうです。見ればそれと分かるそうですが。」
「ふむ。漠然としているな。君はその話をどこから聞いたのかな?」
「これもずっと伝えられてきたことです。決して外に漏らすな、と。なので、これも秘密の話にしていただきたいのですが。」
そう聞いたビフェルン伯は、何度か目を瞬いた後、にっこりと微笑んだ。なんというか、先程までと比べて、人の悪そうな笑顔に見える。
この兵士は、もう少し先人の教えを心に留めおくべきかもしれない。もしかしたら、これは単なる神話ではなく、とても重要な秘密を暴露してしまったかもしれないのだ。そう思ったから、この伯爵はこんな笑い方をしているのではないだろうか。
その後、あの廃墟のことに話が及ぶと、兵士は熱心に集落の再建について訴えた。住処を追われた住民達が、故郷にいた頃の自分に重なったらしい。
伯爵は苛立つこともなく相手をして下さったのだが、傍に控えている人が睨んできたので、そろそろ止めた方が良いと思う。そう思って口を出したら、なぜか急に伯爵が興味を持ち始めて、話が思わぬ方向に進みだした。あっという間に兵士の方が伯爵のペースに巻き込まれ、訳も分からず振り回された末、仲間ともども、伯爵の構想に協力することを約束させられて、目を白黒させながら退出して行った。
なんとなくこちらも疲労感を覚えて、事務的なやり取りをしたら退出しようと思った時だった。
「ときに総長。」
「はっ」
まだ何か、という言葉はかろうじて飲み込んだ。
「縁飾りのあるハンカチーフが話題になっているようだね。」
「・・・ご覧になられたのですか?」
「見てはいないが、話は聞いているよ。繊細で美しい細工だそうだね。誰に作らせたものかな。」
「あれは、隊員の結婚祝いに、隊の者が作って贈りました。貴族の方々が通常用いられる品を、我々が用意することはできませんので。」
オリビアの結婚祝いに、ヤナが作って贈ったのは、レースの縁飾りがついたハンカチだった。この国では、刺繡はあるが、レースは存在しないらしい。ヤナは子供の頃に、祖母からレース作りを教わっており、手先の器用な隊員に手伝ってもらいながら、お祝いの品を作成していた。相手の家族にも贈り、反応は悪くなかったと聞いていたのだが、その後、宮廷内で静かに話題になっていたようだ。
それにしても、王都から離れたところにいるのに、伯爵はよく知っている。
「婚約者に贈りたいのだが、仕立ててもらえないだろうか。目新しいものがないかと探していたところでね。」
「婚約者の方に、ですか?」
「うん。ハンカチーフではなく、何か別のものを、とは思っているが。」
「閣下のお相手であれば、名門の御令嬢と存じます。生半可なものでは失礼ですし、我々の作る程度のもので宜しいのか心配です。」
「話を聞く限り、その心配はないだろう。ああ、材料はこちらで用意するから、必要なものは何でも言ってくれ。」
「それだけではなく、隊員は専門の職人というわけではありませんので、閣下に御満足頂けるものが出来ますかどうか。」
「代理人を行かせるから、必要な指示はその者にさせるよ。その者が良いというものなら、大丈夫だ。」
うちは工房ではないので丁重にお断りしたいのだが、伯爵は穏やかに見えて押しが強い。要求が通らないことなど微塵も考えていないようだ。さすがに大貴族というべきだろうか。
なにしろ、三公爵家の一角ライヒス公の継嗣なのだ。現在伯爵を名乗っているのは、公爵領の一部であるビフェルン伯領を統治しているからに過ぎない。公爵位を継いだ暁には、顧問議会の一員となる。
つまり、王に次ぐ権力を持つ可能性がある人なのだ。
「銀糸を使いたいのだが、どうかな?彼女はプラチナブロンドでね。」
「・・・他の糸と同じ細さならおそらくは。ただ・・・」
「そうか。どのくらいの期間が必要かな。ひと月でどうだろうか。」
「私は制作に関わっておりませんので、この場ではお答えしかねますし、一存ではお受けしかねます。ファリエン内の仕事もありますし。」
「ああ、そうか。では、本部の方に人を遣るとしよう。」
「・・・・・・」
承諾しますとは一言も言っていないのに、受けること前提で話が進んでいく。伯爵は至って穏やかなので、やんわり断れそうなのに、それが出来ない。
ヤナは事務の責任者をしているので、何かと忙しい。後輩は育ってきているが全て任せることはまだ出来なかった。オリビアのお祝いと違って、伯爵の依頼は余計な仕事なのだが、将来のライヒス公の要求を無下にもできない。これを機に、他の貴族も依頼をしてくるようでは本当に困るのだが。
「ああ、外部に漏れないよう内密にしてくれるかな。彼女には秘密にしておきたいのだ。」
内密にして欲しいのはこちらの方だが、サプライズとかはどうでも良い。
結局、伯爵に押し切られる形になってしまった。この方と対していると、簡単にペースに巻き込まれる。今後、直接関わるのは避けたい気がする。




