異境の民
そこは、石造りの大きな建物の、中庭のような場所だった。階段を数段上がったところに薄暗い入口があって、その前に、厚地の白い服を着て、髪をまとめ上げた女の人が立っていた。
その人はこちらを一瞥した後、兵士に向かって口を開いた。
「コレɣ¤ǂɬ∅ʕ†⌘?」
「*ɕ」
一瞬、日本語に近い音が聞こえた気がしたが、他は全く分からなかった。
女の人の後をついて歩く廊下は薄暗かった。壁も床も荒削りの石で出来ていて、所々に、古びた木の扉があった。
やがて明るくなり、中庭を囲む回廊に出た。質素な石柱が並び、庭側は腰かけられる程度の高さの壁になっていた。
なんとなく、修道院みたいだと思った。女の人の服装や髪形も簡素で、巫女か修道女のようだった。
回廊の入り口には格子扉があり、それをくぐって連れていかれたのは、飾り気のない石壁の小部屋で、先客が一人いた。周囲にも似たような小部屋が並んでいて、それぞれ人がいるようだった。
同室になったのは、暗い色の髪と目をした、若い女の人で、優しそうに微笑んでいた。軽く会釈をして、とりあえず座ろうとした時、柔らかい声がした。
「Hello」
「・・・・え?」
英語が聞こえたように思い、思わず顔をあげて、女の人の顔をまじまじと見ていると、彼女は軽く顔を傾げた。
「Do you speak English?」
少しアクセントに癖があるが、やはり英語に聞こえる。少なくとも、この数日聞いていた、なんだかさっぱり分からない言葉ではなさそうだ。
「・・・a little」
私の答えに、彼女が頷く。通じているようだ。
「I’m Jana」
ヤナ。彼女の名前だろうか。
「I’m Reina」
英語は決して得意ではないが、片言でも意思疎通の手段があるのは嬉しかった。
ここの待遇は、今までに比べれば悪くなかった。まず、食事が一日二回になった。相変わらずパサついてはいるけれど、パンは欠片ではなく丸ごと出てきたし、スープに入っている野菜は切れ端ではなく、形があって、イモや豆も入っていて、味もついている。雑用はあるけれど重労働ではなく、水浴びもできた。
この一角は、他の場所とは鍵付きの格子扉で隔てられていた。扉の向こうからは、毎日白い服を着た女の人がやってきて、ヤナ達に何か指示を出している。私達は、その人の許可がなければ、扉の向こうには行けないのだった。
数日経つうちに、奇妙な現象が起きた。
理解できる言葉が増えている。日本語に聞こえる、もしくは、全員が日本語を話すようになってきている。もちろん、そんなことがあるはずはないと分かっている。ただ、現実に私の耳にはそう聞こえるのだ。もっとも、対面で話すと、何か違和感を感じてはいた。
ヤナ達とは、片言の英語とジェスチャーで話していたはずだったのだけれど、八割がた理解できるようになった頃、思い切って尋ねてみた。
「ヤナ。」
「何?」
「今、日本語でしゃべってる?」
ヤナは少し目を見開いた後、にこりと笑った。
「そろそろいい頃かしら。私が今話していることは分かる?」
頷くと、ヤナも頷いた。
「私はね、今、自分の言葉で話してるの。レイナは čeština分かる?」
「チェス・・・え?」
一部分からない単語が混ざっていたので、聞き返すと、ヤナは有名な曲を口ずさみ始めた。出だしですぐに分かる、私も好きな曲だった。
「モルダウ・・・じゃなくて、ヴルタヴァ川・・・チェコ?ヤナは、チェコ語で話してるの?」
「そう!私達は、みんな自分の言葉で話しているの。ここの言葉もね、最初は全然分からなかったんだけど、しばらく暮らしてると、分かるようになったのよ。」
いや、あり得ない。
とは思うが、実際にこの数日経験している。英語が通じるヤナ達だけでなく、扉の向こうの人達の会話も同様だったのだ。
「・・・どういう仕組みで?」
「分からないわ」
考えても仕方ない、というように、ヤナはあっけらかんとしている。自動翻訳機能を会得したようなものだろうか。新言語の習得をせずに済むのは有難いが、釈然としない。今更なことではあるけれど。
ヤナが続けて言うには、
「私は、食べ物じゃないかと思うわ。ここのものを食べているうちに、適応してきたんじゃないかしら。」
とのことだ。それはちょっと、イザナミ神話を連想してしまって、嬉しくない。
ただ、違和感の理由は分かった。吹き替えの映像を見ているのと同じで、口元と言葉の流れが合っていなかったのだ。
「ここは、どこ?」
ずっと聞きたかったのはそれだ。自分が今、どこにいるのか。なぜ、ここにいるのか。
「ここは、ローヴェルンという国よ。」
予想はしていたが、聞いたことのない名前だ。これでも高校生。主要な国の名前は知っている。ここの人達の顔立ちから、欧米のどこかだとしても、そんな国は覚えがない。大体、私は日本にいたはずなのだ。船にも飛行機にも乗った覚えはない。
「それからね、ここに、私たちの国はないのよ。」
私達の国はない。その言葉はすっと耳に入り、それから、じわじわと、胸の中で重さを増していった。
そんな予測もしてはいた。しかし、わずかな望みのようなものは持っていた。それが事実なら、時間と空間どちらを超えたにせよ、元の場所には容易に戻れないということだ。そんなことが、これほど簡単に起きるものだろうか。壮大なイタズラと言われたほうが、まだ真実味がある。
「私たちは『異境の民』と呼ばれてる。どこにも属さない異質な者、なんですって。」
異境の民。
異民とも呼ばれるそれは、どこから来たか分からない者達。
人と魔の境目にいる者。
ときに災厄を連れてくるとも言われる、忌避される存在。
そういうものらしく、この世界に生まれた、流民とも区別されていた。
それらは、時々世界の壁を越えてやってくる。しかし、得体の知れない彼らに積極的に関わりたい者はあまりいない。だから、見つかると警備隊や守備隊に通報され、神殿付属の収容所に隔離される。私も、そうしてここに連れてこられたということだ。
最初は、修道院のようなところだと思ったけれど、当たらずとも遠からず、だったようだ。
「ここに来るのは、二~三年に一人くらいだったらしいんだけど、このところ、ちょっと多いのよね。」
ヤナが三年前に来た時、ここには十人もいなかったというが、一年くらい前からペースが増え始めたそうだ。私が来てからも既に一人増えている。もっとも、国中の異民がここに来るわけでもないし、全ての異民が神殿に来るとも限らないらしい。関わりを避けたがるのは、あくまで一般の人間で、人知れず奴隷として売り飛ばされる人もいるという。そうして何年も酷使されて、ようやくここに辿り着いた人もいたそうだ。
「でも、そういう人は、衰弱してしまっていて、長くはもたないのよね。」
ヤナも、実際にそういう人を見ているらしく、溜め息をつきながら、顔をうつむけてしまった。
ならば、私が遭遇した村人は、まだ良心的だったということだ。終始友好的ではなく、鍬や棒でつつかれて、食事らしい食事ももらえなかったけれど。