神殿にて
世界を越えるきっかけは様々だった。
地下室への階段を下りていたら暗闇に包まれたとか、池に落ちたとか、いつもは行かない横道に入り込んで迷ったとか、疲れきっていて街角で猛烈な眠気に襲われたとか。
規則性も共通点もない。強いて言えば、何も特別なことはしていない、というのが共通点だ。
逆に、向こう側へ越えることもあるのかと言えば、あまり期待できないように思えた。故郷にいた頃、神隠しの話なら聞いたことがあるけれど、異境の民に相当する人が現れたという話は、聞いたことがなかったのだから。
「あなた、ここを掃除して。あなたとあなたは、私についてきなさい。」
「はい、助祭様。」
毎日扉の向こうからやってきて指示を出しているのは、神官補佐の助祭という役職にある人だった。おそらくは二十代で、少しつっけんどんな感じがする。以前からいる人の名前は覚えているようだけれど、最近、新しい人が増えてきたので、そちらは名前を覚える努力を放棄したらしい。
ここでの仕事は、掃除や洗濯、炊事の手伝い、荷物運びなど、つまるところ雑用だ。けれど、神殿の中でも行っていい区画は限られており、本来そうした仕事をするはずの修養生達もいるため、それほど仕事は多くない。
部屋でずっとぼんやりしているのも退屈なので、余った時間は、文字を覚えることにした。自動的に会話ができるようになったので、文字も自動的に読めるようになれば良かったのだけれど、残念ながらそうはならなかった。日本語を、別の文字に置き換えて覚えなおすという作業は、まるでパズルを解いているようだ。
ただ、本は貴重品なので、私達が勝手に書庫に入ることも、本に気軽に触れることも許されない。例外は『信仰の書』だった。聖書のようなものだと思うけれど、ここは多神教で、系統だった教義があるわけでもなさそうだった。ギリシャ神話を読んでいる感覚に近い。
一番長くここにいるニキや、ヤナは、ここの文字をある程度マスターしている。それに、私達の世話係である助祭は、元来教えるのが好きな性格らしく、時間のある時は『信仰の書』の内容をかみ砕いて、時に歴史も絡めながら教えてくれた。ただ、親切というよりは、無知な異民達に教育を施してやる、というような上から目線を、たびたび感じるような気はしたが。
ニキは、既に『信仰の書』を卒業し、薬や医学関連の本を読んでいる。穏やかな性格のニキは、助祭に信用されているらしく、特別に本を読むことを許されていた。彼女が言うには、故郷では満足に勉強ができなかったので、ここで学ぶことができて嬉しい、のだそうだ。私の周りでそんなことを言う人はいなかったので、偉いと思う。
ただ、彼女が医学関連の本を熱心に読むのには、もう一つ理由があった。この世界は、私達の故郷ほど医学が発達していない。薬も限られている。神殿は施療院も兼ねていたけれど、異民に十分な医療が施されることはない。ここに一番長くいるニキは、一番多くの仲間を見送ってきたのだった。そういえば、若い人ばかりがいる、と思っていた。一番上でも三十代前半だ。それはつまり、そういうことなのだろう。
私達のいる一角は、女ばかりだったから、最初、この神殿には女だけが集められているのかと思っていたけれど、そういうわけではなかった。
ある日、中庭の向こうの棟に、男の人がいるのを見かけたのだ。顔は良く見えなかったけれど、神殿の人達の服装ではなく、故郷でよく見慣れたものだった。
ヤナの話では、男の異民もここには連れてこられるが、すぐにいなくなるという。
「男は兵士になるのよ。ここに来てもすぐに、青い制服の人達が来て、連れていくの。」
「兵士?それ以外はないの?」
「だと思うわ。連れに来るのは、いつも同じ制服の人達よ。他は見たことないわね。」
「女は?」
「たまに、どこかの下働きに引き取られていくみたいけど・・・私が来て少しした時に、商家に引き取られた人が一人いたわね。でも、他はずっとここにいるわよ。」
中庭からは、空が見える。たまに裏口まで掃除に行けば、塀に囲まれたその空間からも、空は見える。でもその先には行けない。神殿でも、限られた一角しか行くことはできず、私達はずっとこの場所に隔離されている。
緩慢で、閉塞的な生活だ。
外に出ていくことはできるけど、兵士になるしかないのと、安全ではあるけれど、一生閉じ込められたままなのは、どちらが良いのだろう。
そんな疑問に、ヤナは肩をすくめただけだった。
「あれ?また来てる。」
数日前に、青服の人達が来ていたのだが、同じような服の人達が中庭の向こうの通路に見えた。
「色が違うわね。」
隣にいたエレナが、私の視線の先を追って言った。
「ああ、そういえば、そうね。」
似たような服だったし、通路が薄暗かったので見間違えたけれど、今日の人達の服は、黒っぽい。大体、向こうの棟にいた男達は、数日前に青服の人達が連れて行った後で、今は誰もいないはずだった。
「エレナ、ヘザーはどう?」
エレナは私の少し後にやってきた。光の加減によっては金色にも見える金褐色の髪に、青い瞳の美少女だ。私より一つ年下だけれど、しっかりしていて面倒見も良い。そのエレナが気にかけているのが、ヘザーだった。
ヘザーはつい最近やってきた。まだ十分に意思疎通が取れず、状況を受け入れることもできていなくて、ホームシックにかかっていた。
「ご飯は何とか食べてくれるのだけど、ずっと塞ぎこんでいるわ。すぐに泣いてしまうの。帰りたいって。」
そう言って、ヘザーのいる部屋の方を、心配そうに見やる。
ヘザーの気持ちは分かる。ここの過ごし方に慣れてはきたが、自由に外を歩きたい、友達や家族と会いたい、元の生活に戻りたい、と無性に思うときがある。けれど、帰る方法は誰も知らない。だから、彼女を本当に助けてあげることは、できないのだ。
エレナと別れて部屋に戻ろうとすると、世話係の助祭とヤナがいた。
「レーナ、あなたも来なさい。」
五人ばかり集められて助祭についていくと、出入りを許された区画の外に出た。そこには、他の助祭や神官もいて、見慣れない男の人達もいた。
(・・・さっきの黒服。)
黒を基調とした軍服のような服を身に着け、腰に剣を佩いた人が五人立っている。全員まだ若いようで、二十代に見えるけれど、いつも偉そうな神官や助祭が丁寧に接している。顔立ちは決して強面ではなく、どちらかというと優しげな人もいるけれど、皆さん長身で、何やら迫力がある。真ん中の黒髪の人からは、威圧感さえ感じる。
一人が私達を見て、軽く眉をひそめ、神官に尋ねた。
「この者達ですか?」
「さようです。」
彼はもう一度私達を見た。
「運べますか?」
「問題ございません。それがこの者達の仕事ですので。」
神官の傍にいた助祭が、事もなげに返すと、そこに置かれていた幾つもの箱を、私達に示した。
「これを馬車まで運びなさい。良いですか。傷一つつけてはなりませんよ。」
一人で持てる箱でもそれなりの重量があったけれど、二人あるいは数人で運ばなければならないものは、結構な重さがある。運べるか、と心配された意味が分かった。
私達の作業を、彼らはじっと見守っているけれど、手出しはしない。力のある男性陣がいるのだから、見てないで手伝ってほしい、と言いたいところではあるけれど、ここの考え方は違うのだ。以前の私には馴染みのない、身分や階級が基盤になっている。これは、私達の仕事であって、彼らの仕事ではない。助祭や神官の仕事でもない。ならばせめて、修養生達に手伝ってほしい、と願うくらいは許されるだろうか。というか、手伝ってほしい。
慎重に馬車に荷物を置き、痛くなった指をさすりながら次の荷物を取りに行こうとすると、黒服の人達がじっと睨んでくる、ような気がする。だから、何事もないふりをして、次の荷物に取り掛かる。傷を付けると何が待っているか分からないから、とても気を使う。
ようやく運び終えると、彼らも安心した様子で帰っていった。一人だけ、最初から最後まで怖い顔をしていた人がいたけれど、荷物は丁寧に扱ったのだから、問題はないはずだ。
「助祭様、先ほどの方々はどなたですか?」
「いつもの青い制服の人達とは違うのですか?」
助祭は、少し澄ましながら私達の疑問に答えた。
「あの方々は、近衛騎士です。青い軍服は正規軍ですよ。御用を仰せつかった時は、失礼のないようにしなさい。」
部屋に戻る途中、助祭の目が離れると、急に華やいだ雰囲気になった。
「かっこ良かったわねえ。」
「近衛騎士だって。」
「ちょっとドキドキしちゃった。」
「騎士って初めて見たわ。かっこいい人ばかりだったわね。」
どこにいても、どんな状況にあっても、乙女は乙女だ。皆の目が、いつもより生き生きしている。
「ね、レイナ。」
反射的に笑って頷いていたけれど、私は正直それどころではなかった。
確かに、皆さんお顔立ちはよろしかった。けれど、一番偉そうな人の威圧感が気になって、私は別の意味でドキドキしていたのだ。荷物も重かったし。
そのあたり、自分の感覚が少しずれているのは知っている。私も十七歳。一応こういう話題では盛り上がるはずの年頃だ。ただ、まあ、人の好みは十人十色。乙女になり切れない人間も、世の中いるものだ。友達との会話でも、好きな俳優の話とか、彼の話になると、一歩引いて聞き役に徹していた。
だからこの時も、浮いた気分にはなれなかった。
緩やかな異世界生活(ある意味スローライフ)も長くは続きません。
次回から、物語が動き出します。




