日常
ケータイの目覚ましの音で目が覚めた。
「おはようございますぅ!」
起きると同時にエルティの元気な声。
「おはよ、おまえ朝から元気いいな」
「はいぃ! お日さまが気持ちいいですよぉ」
エルティの言うとおり、雲1つない快晴だ。
「おう、いい天気だ。行くぞエルティ、朝は1分1秒が貴重なんだ」
「朝だけではありません、1分1秒はいつでも大切ですぅ」
カバンをとってキッチンに急ぐ俺のあとから叫びながらエルティがついてくる……それは分かっているが特に朝は大事なんだ。
「おはよう仁狼。今日は起きられたのね」
「おはよっ母さん。たまには昨日みたいに遅刻しないと生活に変化がねぇからな」
「そんなこと言ってないで、ご飯食べなさい」
「おーっす。いただきます」
朝食はご飯とみそ汁、それと昨日の夕食に出た大根のおひたし。
おしっ! 満タン。
髪形を整え、歯も磨く。
「じゃあ、いってきまーす」
「気をつけていってくるのよ」
「おーっす。母さんもいってらっしゃい」
昨日と違っていつもどおりの朝の会話だ。
エルティは昨日のとおり、肩に座っている。
「あ、ひとつてさん。犬さんですよぉ」
駅に向かう途中に、2階のベランダで犬を飼っている家がある。
こっちの通りからは、ちょっと見づらいが電車に乗って見るとよく見える。散歩に連れて歩いている時にハッキリ見ると、ピレネーあたりの血が混じっている茶色の毛がフサフサした犬だ。体がでかいだけあって、おとなしく、割と人なつっこい。
名前は、体には似合わず『ピー助』と呼ばれている……おそらくピレネー犬を意識したんだろうが、あまりに安易だぜ。
今朝はピー助がベランダの柵の隙間から鼻だけ出して、こっちを見ていた。
エルティがフワッと鼻先に飛んで行く。
「こんにちはぁ、今日はいいお天気ですねぇ」
犬に話しかけるなよ。
だいたい、おまえの姿は見えねぇんじゃなかったのか? しかしピー助は返事をするように、クークー鼻を鳴らしているが……。
「……そうですかぁ、大変ですねぇ……」
おーい、話すのはいいが、また遅刻するのだけはカンベンしてくれ……とはいえ、大声で呼ぶわけにもいかねぇし、これはマズイぜ……そうだ、鈴乃に電話して何か方法がねぇか聞いてみるか。
ケータイを取り出して履歴から鈴乃へかけると、すぐ後ろからあいつの着メロが聞こえてくる。
振り返ると“見つかった”みたいな顔をした鈴乃がニコニコしていた。
「おはよう仁狼ちゃん、こんなところで道草してるとまた遅刻するよ」
「おーっす、おはよ。いいところにきたぜ、エルティがあそこにいるんだが、どうやったら呼び戻せるか考えてくれ」
「へぇ、エルティちゃん犬と話せるんだ。だとすると犬の言葉が判るのか、犬が言葉を判ってくれるのか、どっちかな?」
「どっちでもいいから早く呼び戻す方法考えてくれ」
「うん。エルティちゃんて仁狼ちゃんの心から出たって言ってたから、仁狼ちゃんが強く心の中で呼ぶと通じるかもしれないよ」
「そうか、やってみる」
……おーい、エルティ戻ってこい。
……うおーい。
……うおおーい! エルティ頼むぜ!
……早くしねぇと遅刻になるんだ! 戻ってこい! 頼むから戻ってきてくれ!
しかしエルティは楽しそうにピー助と話を続けている。あきらめないでもう1度、今度はさっきより強く呼びかけると……。
「ひとつてさん!」
エルティがあわてて戻ってくる。
やった、通じたか?
「どうしたんですか! 気分でも悪いんですかぁ」
……なんだ通じたんじゃなくて、必死に祈る俺の姿を見て、勘違いして戻ってきただけか。
「いや、気分が悪いんじゃねぇ。おまえが早く戻ってくるように念じていたんだ」
「あたしが……ですかぁ?」
「おまえに戻ってきてもらわねぇと、また遅刻するだろ」
「ああ! そうでしたぁ! すみません!」
「いいから。ほら、ちょっと急ぐぞ」
「あ、待ってくださいぃ」
「待って仁狼ちゃん」
あわてて追いかけてくる2人を引き離さない程度に急いで駅に向かう。なんとか今日は遅刻せずにすみそうだ。
「ねえ、エルティちゃんはさっき犬のピー助ちゃんとどんな話をしてたの?」
「ええとですね、あの方は電車の通るすぐ横で暮らしておられるのでぇ、朝早くからと夜遅くまで電車の騒音が大変なんだそうです」
「へえ、大変なんだ」
「はい。あ、それと電車に乗られている方の中で、朝と夕方にすごく嬉しそうに見つめられる鈴乃さんと同じ歳くらいの女の方がいらっしゃるそうなんですよぉ。
一瞬のことなんですが、たまに目が合うと少し恥ずかしいそうなので、いつもは寝たふりしているそうですぅ」
エルティの言っていることが、ほんとかどうかは分からねぇが、ともかく駅に着くと、同じ中学の制服を着たやつらの中に、ひときわデカイ姿がある。こっちから声をかける前にそいつは振り返った。
「おーっす。おはよ。順崇」
「順崇ちゃん、おはよう」
そいつは返事もせずにこっちを向いてコクッとうなずく。
それにしてもこいつはデカイ。中学の今でもすでに190センチ近い身長で、まだまだ成長している。このまま伸びると間違いなく2メートルを越えるだろう。
そして表情が乏しく、時々かすかに微笑む程度だ。
こいつの微妙な表情が読めるのは俺と鈴乃くらいだが、ほんとは感情表現が少ないだけで中身が表情豊かなのは、長いつき合いでよく分かっている。この順崇がある古武術を学んでいることを知っているのもまた、俺と鈴乃くらいしかいない。
さらに、ほとんどしゃべらない。言葉を話さず必要がなければいつまでも黙っている。無言の行と同じらしい。
そして目が細い。というか、基本的に閉じている。それもこれもすべて修行のため。365日、24時間。こいつは修行以外ほかの行動をするなんてありえねぇ。
初めて会うやつは戸惑うようだが、ピー助が身体に比例しておとなしいように、こいつはいつも穏やかで威圧はない。ムリにそうしているわけじゃなく、こいつにとってそれが当たり前だそうだ。




