第22話「遅い」
水曜日。放課後。
帰り道。一人。ミラは「用事がある」と先に帰った。何の用事かは言わなかった。ミラが言わない用事は大体ドローン関連か偵察だ。
商店街を抜けて住宅街に入る。夕陽が長い影を作っている。静かだ。ドローンの気配もない。追跡型もいない。索敵蟲もいない。
——静かだ。
静かすぎる。
ここ一週間、毎日何かしらの敵が来ていた。何も来ない日は一日もなかった。それが今日は——何もない。
嫌な予感がする。何もない日は、何かの前触れだ。
路地を曲がった。
——人がいた。
同い年くらいの少年。端正な顔。表情がない。姿勢が良い。動きに無駄がない。ブレザーの制服——うちの学校のものではない。
路地の真ん中に立っている。退かない。通せんぼのように。
「……誰?」
「真壁律。REVISIONの協力者」
「REVISION——ミラと同じ組織か」
「同じ組織。違う立場」
「違う立場って——」
「遅い」
「は?」
「判断が遅い。問いを聞いてから返答までに2.3秒。——遅い」
「初対面の人間に計測されるのは初めてだけど——」
「また新キャラか。もう覚えきれない」
「……その感想も遅い」
「遅い遅いうるさいな! 何が目的だ」
「確認。——お前の実力の確認」
律の手が動いた。
速い。
見えなかった。見えなかったのに——右頬に衝撃が走った。
「——っ!」
殴られた。いつの間に。ブレードでも銃でもない。拳。素手。なのに——衝撃が重い。
【敵性行動検知。対象:目前の個体。推奨:即時反撃——】
「反撃!」
右手のエネルギーを振る。律の顔面に向けて——
律が半歩動いた。半歩だけ。
右手が空を切った。
「遅い」
腹に衝撃。蹴られた。膝が折れる。
「判断が遅い。行動が遅い。全部遅い」
「お前っ——」
立ち上がる。左手シールド。律の次の攻撃を防ごうとする。
律はもう動いていた。シールドの横を通り過ぎる。シールドが展開される前に、懐に入っている。
肩を掴まれた。投げられた。地面に叩きつけられる。背中の衝撃。息が止まる。
「AXIOMの補助に頼りすぎてる」
律が見下ろしている。無表情。敵意がない。殺意もない。——ただ、事実を述べている。
「AXIOMが動く前に俺が動く。お前の反応は全部AXIOMの0.5秒遅れ。——つまり、AXIOMが落ちた瞬間、お前は何もできない」
先週の妨害型のことが頭をよぎった。AXIOMが落ちた時、俺は三機中一機しか倒せなかった。
「……分かってる」
「分かっていて改善しないのは怠慢だ」
「改善って——」
「自分の判断で動け。AXIOMに委ねるな。——お前の体だろう」
律が手を差し出した。起こしてくれるのか——と思ったが、違った。手を引っ込めた。
「自分で立て。それも判断だ」
立った。膝が笑っている。三発しか食らっていないのに全身が痛い。律の打撃は正確すぎる。急所を的確に突いてくる。無駄がない。
「お前、強いのは分かったけど——」
「判断が遅い。行動が遅い。全部遅い」
「はいはい遅い遅い。で、なんで俺のカバン持ってくれてんの?」
律の左手に、俺のカバンがあった。
戦闘が始まった瞬間に地面に落とした。それを——律が拾っていた。戦闘中に。殴りながら。俺を叩きのめしながら、片手でカバンを拾っていた。
「……落ちていたから」
「拾ってくれたのか」
「落ちているものは拾う。効率的だ」
「効率的って——踏まなくて済むからか」
「それと、お前が拾う動作分の時間が無駄だから」
「……お前、意外と優しいな」
「優しくない」
「優しいよ。殴りながらカバン拾ってくれる人、他にいない」
「……効率的なだけだ」
「それを優しさって言うんだよ」
「…………」
律が黙った。無表情のまま。何かを考えている——のか、何も考えていないのか。
「お前、友達いないだろ」
「いない」
「即答すんな」
「事実だ」
「事実でも間があった方がいい。コミュニケーションには間が必要なんだよ」
「間は遅延だ」
「お前の辞書に『余裕』って言葉ないのかよ」
「ない。余裕は隙だ」
「……話にならん」
カバンを受け取った。律の手から。汚れていない。律が持っている間、地面につかないように持っていたのだ。
——優しいじゃないか。
「もう一つ」
「何」
「お前は守っている。ミラを。他の人間を。——でも、守り方が遅い」
「守り方に速さもクソもないだろ」
「ある。守るべきものを守れなかった経験がないからだ。——だから遅い」
「…………」
「守れなくなった時に分かる。速さの意味が」
律が踵を返した。去っていく。振り返らない。
「……名前、真壁律だっけ」
「そう言った」
「俺は岐堂選」
「知ってる」
「知ってるのか」
「……遅い」
最後まで「遅い」だった。律の背中が路地の角に消えた。
【戦闘ログ記録完了。対象:真壁律。評価:使用者の完敗】
「……分かってるよ」
夜。自宅。
ミラが夕飯を作っている。今日はハンバーグ。台所から肉の焼ける匂いがする。
「……ミラ」
「何」
「真壁律って、知ってる?」
ミラの手が止まった。フライパンの上でハンバーグがじゅうじゅう言っている。
「……知ってる」
「REVISIONの協力者だって。——ミラと同じ」
「同じ組織。違う立場」
「律も同じこと言ってた。——あいつ何者なんだ」
ミラがフライパンを返した。ハンバーグが裏返る。
「律は——別世界線のあなたの可能性」
「別世界線?」
「平行世界。あなたが『選ばなかった道』を歩いた可能性」
「……マジ?」
「マジ」
「俺の別バージョンってこと?」
「簡単に言えばそう。——でも、別人。完全に別の人間。同じ出発点から、違う答えを出した存在」
「違う答え……」
「あなたはまだ迷ってる。律は——迷い終わった」
迷い終わった。律の無表情を思い出す。迷いのない目。断定的な言葉。
「……あいつ結構いい奴だったけど」
「いい奴?」
「カバン持ってくれたし」
「……そういう評価なんだ」
「あと、殴りながらカバン拾うの器用だなって」
「…………」
ミラが黙った。ハンバーグを皿に盛っている。
「選」
「ん」
「律は——強い。あなたより。今は」
「知ってる。ボコボコにされた」
「でも——あなたが弱いわけじゃない」
「……慰め?」
「事実。——あなたはまだ迷ってる。迷ってるから遅い。でも、迷いは弱さじゃない」
「律は弱さだって言ってた」
「律はそう思ってる。——私は違うと思ってる」
ミラがハンバーグの皿をテーブルに置いた。
「迷いは——優しさだから。たぶん」
「たぶん」
「……たぶん」
ミラの「たぶん」が珍しかった。ミラはいつも断定する。「たぶん」を使うのは、自分でも確信がない時だけだ。
「ありがと。——ハンバーグ、美味そう」
「食べて。冷める」
「いただきます」
美味かった。ミラのハンバーグは間違いなく美味い。
律の「遅い」が頭の中で響いている。遅い。全部遅い。——でも、ミラは「弱さじゃない」と言ってくれた。
どっちが正しいのかは分からない。
——まだ、分からなくていい。たぶん。




