第20話「三枝恒一の善意」
日曜日。約束の日。
夕方。ミラと出かける準備をしていた。月見。昨日約束した。日没後に公園に行く予定。
——予定だった。
「ちょっと買い物に行ってくる。飲み物買ってく」
「うん。待ってる」
マンションを出る。商店街に向かう。コンビニで飲み物を買って——
異変。
商店街の入り口。空中に何かが浮いている。扁平な円盤型。直径三十センチほど。青白い電磁波を放射している。音はない。光だけが脈動している。
【警告:通信妨害を検知。表示精度:低下中——ノイズ——】
AXIOMの表示が乱れた。文字がちらつく。一瞬消えて、また現れる。ノイズが走る。
【————再接続を試み————】
「おい、AXIOM!?」
【————————————】
消えた。
AXIOMの表示が完全に消えた。視界からHUDが消えた。文字も、数値も、心拍数も、何もかも。
初めてだった。AXIOMが起動してから二週間以上。一度も途切れたことがなかった表示が——消えた。
「AXIOM! おい!」
返答がない。
沈黙。AXIOMの沈黙を初めて聞いた。いや、聞いていない。何も聞こえない。何も表示されない。
——静かだ。
恐ろしいほど静かだ。AXIOMがいないと、世界がこんなに静かだったのか。
妨害型の円盤が浮いている。あれが原因だ。通信を遮断している。
——その背後に。
【ドローン接近音——いや、AXIOMが死んでいる。音は聞こえない。目で見るしかない】
ドローン三機。背後から。無音で。
振り返った。間に合う。見える。——でも、体が動かない。
いや、動く。動くが——遅い。
AXIOMの補助がない。いつも体を動かしてくれていた。回避。加速。タイミング。全部AXIOMがやっていた。俺の素の反射神経と身体能力だけで——
一機目が光線を撃った。
避けた。——避けきれなかった。肩を掠めた。制服が焦げる。痛い。
「っ——!」
殴る。右手。AXIOMの補助なし。グローブのエネルギーは出る。出るが、タイミングが合わない。外した。
蹴る。足で。一機目の胴体に当たった。当たったが、ダメージが浅い。エネルギーの集中ができていない。
「当たんねえ——いつもどんだけ補助してもらってたんだ……」
二機目が背後から来る。気配を感じて振り返る。シールドを出そうとする。左手。——出ない。両手運用はAXIOMの補助があって初めて安定する。素では無理だ。
光線が来る。転がって避ける。地面に倒れる。立ち上がる。息が荒い。
三機目が突っ込んでくる。正面。
右手にエネルギーを集中する。殴る。——当たった。三機目が砕ける。
「一機……!」
残り二機。一機目が旋回してくる。二機目が上から。
——銃声。
ミラだった。
商店街の路地から飛び出してきた。銃を構えている。二機目を撃ち落とす。一機目が反転する。ミラがもう一発。一機目も撃墜。
残るは妨害型の円盤。ミラが銃口を向ける。撃つ。
円盤が砕ける。青白い電磁波が消える。
【————再接続完了】
AXIOMが戻った。表示が復帰する。文字が流れる。心拍数が表示される。——高い。すごく高い。
【戦闘ログが一部欠損しています。妨害期間中のデータが不完全です】
「俺の苦労を記録してないのかよ!」
【申し訳ありません。通信妨害中はログ取得ができません】
「一番苦労した部分が消えてんじゃねえか!」
ミラが駆け寄ってくる。肩の焦げを見る。
「怪我——」
「掠めただけ。大丈夫」
「大丈夫じゃない。——AXIOMが落ちたの、初めて見た」
「初めてだった。……怖かった」
「怖い?」
「うん。AXIOMがいないと——こんなに何もできないんだって。思い知った」
「……選は、AXIOMなしでも一機倒した」
「一機だけ。三機中一機。……ミラが来なかったら——」
「来た。来たから問題ない」
「…………ありがと」
「約束したでしょ。いつでも行くって」
ミラが肩の火傷を確認している。指先が冷たい。冷たい手が火傷の周りに触れる。冷却代わり。
「……痛い?」
「少し」
「ごめん」
「ミラのせいじゃない」
「でも——間に合うのが遅かった」
「十分早かった。——ありがと」
認識フィールドが解除された後。
商店街の入り口に、人がいた。
ベンチに座っている。大人。三十代くらい。穏やかな顔。スーツではない。カジュアルな服装。知らない人。——でも、タイミングが良すぎる。
妨害型が出て、AXIOMが落ちて、ドローンが襲ってきて、戦闘が終わったタイミングで——ここに、座っている。
偶然ではない。
その人が立ち上がった。
「大変だったね」
声が穏やかだった。柔らかい。敵意がない。——敵意がないことが、逆に怖い。
「……誰ですか」
「三枝恒一。管理者だよ」
「管理者……」
ミラが俺の横に立った。銃は構えていない。だが、体が緊張している。
「また肩書きか。判断官に協力者に管理者。名刺でも作れば」
「名刺はないけど——お話したいことがあるんだ。少しいいかな」
断る理由はある。断らない理由もある。この人が何者か知りたい。——知るべきだと思った。
「……少しだけなら」
公園。ベンチ。
三人で座っている。選、ミラ、三枝。
三枝の雰囲気は終始穏やかだった。攻撃的な言動がない。圧迫もない。——ただ、「善意」がある。善意が服を着ているような人。
「さっきの戦闘、見させてもらったよ。——AXIOM妨害下での素の実力」
「見てたのか」
「管理者だからね。定期的に確認してるんだ」
「……いつから?」
「最初から。——AXIOMが起動した日から」
最初から見られていた。監視されていた。知らなかった。
ミラが口を開いた。
「何の用」
「単刀直入に言うね。——岐堂くん、保護施設に来ないかな」
「保護施設」
「安全な場所だよ。未来の技術で管理された施設。ドローンも追跡型も来ない。AXIOM妨害もない。——君が安全に暮らせる場所」
「保護って……閉じ込められるってこと?」
「保護だよ」
「……日本語って便利だな」
三枝が笑った。悪意のない笑顔。この人は本当に善意で言っている。ドローンに襲われる日常から俺を守ろうとしている。
「施設では自由に過ごせる。勉強もできる。食事も出る。医療もある。——ただ」
「ただ?」
「外には出られない。当面は」
「当面って」
「状況が安定するまで」
「安定って」
「…………」
三枝が黙った。穏やかな笑顔のまま。答えない。答えられないのか、答えたくないのか。
「ミラ」
「何」
「こういうの、未来にもあった?」
「……あった。私も入ってた」
「……そうか」
「安全だった。食事も出た。——自由はなかった」
ミラの声が平坦だった。事実を述べている。感情を排している。でも、その平坦さ自体が答えだった。
「断ります」
「理由を聞いてもいいかな」
「閉じ込められたら——まあ、色々困るんで」
色々。
ミラと会えなくなる。明日香の隣の席がなくなる。黒瀬に殴られなくなる。神崎の検査がなくなる。
——最後の二つは困らないか?
いや。少し困る。少しだけ。
「色々、か」
「はい。色々です」
「……そう。分かったよ」
三枝が立ち上がった。押し付けてこなかった。強制しなかった。断れる形で提案して、断られたら引き下がる。善意の形。
「でも、覚えておいてほしい。——僕はいつでも待ってる。いつでも、来ていい」
「…………」
「君の体は、もう限界に近い。AXIOMの負荷は日に日に増えてる。妨害が入ればAXIOMなしで戦わなければならない。——今日みたいに」
「今日は何とかなった」
「今日は。——明日は?」
「……明日も何とかする」
「何とかならない日が来る。来ないことを祈ってるけど——来る」
三枝の声は穏やかだった。脅しではない。予言でもない。ただの事実。管理者としての、経験に基づいた事実。
「また来るよ。——君が壊れる前に」
三枝が歩いていった。振り返らなかった。背中が小さくなっていく。穏やかな歩き方。急がない。追わない。待つ。
公園に残された。ミラと二人。
「……どう思った?」
「善意で閉じ込める人。——一番厄介」
「厄介?」
「悪意なら断りやすい。善意は——断りにくい。断っても罪悪感が残る」
「……確かに」
「でも選が断ったから。私は選の判断を信じる」
「…………ありがと」
空を見上げる。日が落ちかけている。紫色の空。
「……月、出てるかな」
東の空。——出ていた。
白い月。まだ空が明るいから薄い。でもそこにある。
「俺は壊れないよ。たぶん」
「たぶんじゃ不安」
「じゃあ絶対」
「…………」
「絶対、壊れない」
「……信じる」
ミラの手が伸びてきた。俺の手を握った。冷たい手。小さい手。
今日の月は——何点だろう。
「月、何点?」
「……まだ採点してない」
「じゃあ見てから決めて」
「見ないと分からない。——でも」
「でも?」
「選がいるから。今日は80点以上」
「……随分上がったな」
「条件がいいから」
二人で公園のベンチに座った。月が昇るのを待つ。
三枝の言葉が頭の中で響いている。「壊れる前に」。壊れる。俺が。
——壊れない。壊れるわけにはいかない。
隣にミラがいる。明日、学校に行けば明日香がいる。黒瀬が殴り合おうと言ってくる。神崎が検査に来る。
壊れている暇はない。
「……月、出た」
「出た」
「……綺麗」
「綺麗」
今日の月は、85点くらいだと思った。




