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34 傷心

 エリーと共にソフィアが出て行く。そして、いつの間にかマルチェラも姿を消していた。まるで屍のようにその場にたたずむ僕に声を掛けてくれたのは、マスターだった。

「家には帰れないだろう。今日はここで泊まって行きなさい」

 のろのろと立ち上がると、マスターが鍵を渡してくれた。『女神の抱擁亭』で一番高い、鍵付きの個室だった。

「こんないい部屋……」

 亡霊のような声で僕はそれだけ言ったが、マスターは首を横に振った。

「空いてる部屋をあてがっただけだよ。気にしないで」

 なんでもないことのようにマスターが言った。

 僕の様子を見かねて、個室にしてくれたことは、燃え尽きた灰のような頭でも流石に分かった。

「……ありがとう」

 それだけ言うのが精一杯だった。渡された鍵を持って、部屋に向かった。

 部屋に入っても、何かすることがあるわけでもない。寝台の上で膝を抱えて座った。僕はそのまま、じっとしていた。何か考え事をしているわけでもない。ただ、窓の外を眺めていた。それ以上のことは何も出来なかった。

 最初は燦々と輝く太陽にまぶしさを覚えていたが、気がつくと日がすっかり沈み、星が空に瞬いていた。刃物で切り落としたみたいに、夜が訪れるまでの記憶が綺麗に無かった。いつの間にか僕は眠っていたらしい。

 朝が来たら、出発しなければいけない。一度は家に戻って冒険に必要な道具を取りに行かなければ。今家に戻ったら確実に彼女にかち合うだろうから、出払った後にこっそり取りに行くしかない。

 そういえば、ランタン用のオイルが残り少なかったことを、ふと思い出した。王都を出る前に買い足さなきゃ。今、どれくらい手持ちがあっただろうか。前金の銀貨で足りるのは間違いないが、崩すのは惜しい。

 財布を開けて所持金を確認すると、なんだかいつもより多い。何故なら、荷運びの仕事でわざわざ前借りをしたお金が入っていたから。

 頬を一筋の涙が走っていた。

 何もなければ、今頃、エリーと一緒に酒場にいたはずだった。ここ最近、すれ違いが続いていて、しばらくまともに話せていなかった。その空白を埋めるために、少しだけ贅沢をして、お酒でも飲みながら楽しい時間を過ごす。例えばお互いの日雇い仕事の愚痴とか、あるいは僕の前世の話、くだらない冗談、突然舞い込んだ幸運な依頼……話題なんてどうでもいい。ただ、彼女と一緒の時間を過ごせれば、なんだってよかった。

 ところが、現実はどうだろう? 僕は家にも帰れず、一人で膝を抱えて寝台に座り込んでいる。マルチェラの心を弄んだ最低の屑野郎として糾弾され、次が最後の冒険と宣告された。

 明日の依頼が終われば、彼女はあの家を出て行く。きっと冒険者ギルドも余所へ移るだろう。そうなればもう、顔を合わせる機会なんてない。

 この一年間、冒険の苦難も、生活の貧しさも、成功の喜びも、日々の小さな楽しみも、全部彼女と分け合ってきた。僕にとってこの世界で過ごした時間は、彼女と過ごした時間とほとんど重なり合っていた。

 何よりも、この世界にやってきたばかりだったころ、内気で臆病なばかりの僕の手を取って、彼女は立ち上がらせてくれた。もし前世で会えていたら、きっと人生変わっていただろう。僕にそう思わせるほど、大切な出会いは僕の人生に置いて他にはなかった。

 一番、壊したくなかった関係が、壊れてしまった。マルチェラが仕掛けた猛毒のような嘘一つで、たやすく。

 僕は途方に暮れていた。厳しい貧しさに耐えられたのも、同郷の友達を持たない孤独に苛まれなかったのも、いつも隣にエリーが居てくれたから。だというのに、僕はひとりぼっちになってしまった。

 明日から、どうやってこの世界で生きていけばいい?

 どうして、こんなことになってしまったのか。僕は一体どこで、選択を誤ったのだろう? 自問せずにはいられなかった。自分に問いかけるとその度に、まるで切りつけられた傷がうずくように胸が痛んだ。その痛みに耐えかねて、何度も何度も涙が頬を伝った。剣の訓練中に腕を切ったときも、魔物の爪で背中に深い傷を負ったときも、ひどい痛みだったけれど、涙なんか出てこなかったのに……涙を流すのは自分が死んだ、と祖母の家で気づいたとき以来だ。

 流れる涙が急に止まったのは、突如聞こえてきたノックの音のせいだった。慌てて目元を拭っていると、声が聞こえてきた。

「私だよ。開けてくれるかい?」

 マスターの声だった。こわごわと扉を開けると、いつもと変わらない穏やかな微笑を浮かべて立っていた。

「夕食、食べてないだろ? まかないの残りでよければ、持ってこようか?」

 言われてみれば、部屋に入った後は水一つ口にしていない。窓の外を見る限り、夕食の時間はとっくに過ぎていて、空腹を覚えても不思議ではない頃合いだった。

 僕は力なく答えた。

「いや、いいよ。僕……全然、お腹すいてないから」

 本当に、食欲がなかった。心と一緒に、胃袋までも動きを止めてしまったようだった。

 僕の答えを聞くと、ふむ、とマスターが腕組みをして思案する様子を見せた。

「じゃ、お酒にしようか。ビールがいい? ワインがいい? それとも、キツい蒸留酒?」

「何でお酒……?」

 何故、そうなるのか理解できなかった。困惑していると、マスターは茶目っ気あふれた笑みを浮かべて言った。

「そりゃ、嫌なことがあったら、酒でも飲まなきゃやってられないでしょ」

 マスターは部屋を出た。そして、僕を振り返って言った。

「下のカウンターに来なさい。ソフィアはエリー君のところに泊まってるからいないし、酒場で飲んでる連中は皆酔っ払いだ。気兼ねすることはないよ」

 そう言い残すと、下の階に下りていった。

 僕はぼうっとその後ろ姿を見送っていた。ついていくかどうか悩んだけれど……ソフィアは外泊して不在、という言葉に背中を押されて、下りることにした。

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