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33 嘘と真実

 その後、依頼の詳細について話を詰めた。当然急ぎの話なので、一刻も早いほうが良い。今日はもう夕刻で、出発には遅いため明日の早朝王都を出ることになった。

 マスターから前金をもらい、エリーと半分ずつ革袋に入れて分けあった。一年前村を救ってくれた英雄、と村人たちは僕たちのことを思ってくれている。報酬も相場よりも大分色が付いていて、袋に入った銀貨が奏でる快い音に、僕もエリーも思わず顔をほころばせた。

「これなら杯から樽に戻しても良いんじゃない?」

「そういうことは、金貨で報酬をもらうようになってから言おうね」

 冗談を言い合う僕らは、二人ともにんまり笑っていた。昨日僕の部屋にエリーがやってくるまでの、ぎこちない微妙な雰囲気はすっかり失せていた。

 機嫌良く相談室を出た。すると、酒場の方から人の声がする。女性二人の声……多分、置いてきたマルチェラと外から帰ってきたソフィアの声だろう。

 ひそひそ声で、何を話しているのか聞こえない。

 何を話してるんだろう? マルチェラが変な話でも吹き込んでなければ、いいけれど。嫌な予感がして、足早に酒場に向かう。

 ちょうど、マルチェラがソフィアに向かって何やら耳打ちしているところだった。

「何の話をしてるの?」

 僕の姿に気づくと、マルチェラはそっとソフィアの背に隠れるように移動した。そして、ソフィアは目を見開いて驚きの眼差しで僕を見つめ……やがて、軽蔑の眼差しに変わった。

 酒場の空気が、まるで冬の空のように冷たくなっているのを感じた。

「カナタ……やっぱり、あんたは信用しちゃいけない奴だったのね」

 ソフィアの冷たい声が『女神の抱擁亭』に響く。声には心の底からの侮蔑が込められていた。

「何のこと?」

 僕は眉をひそめて言った。思い当たることが、何もない。一体、何を詰られているのか全く分からなかった。

 その態度が、ソフィアには気に入らなかったらしい。瞳に宿る軽蔑の度合いがますます深まっていく。

「口止めしてとぼけてれば、何もなかったことに出来るって思ってるの? ねえ、今ここで正直に認めれば、まだあんたに良心の欠片ぐらいはあるんだって認めてあげる。……ほら、言いなさいよ」

 ソフィアは敵意にぎらつく視線を僕に向けて言った。

「いや、そんなこと言われても。……本当に、何のこと?」

 僕は困惑するほか無かった。罵られても何の心当たりもないのでは、聞き返す以外の返事なんて出来るはずもない。

 ちっ、とソフィアが苛立って舌打ちした。

「……もういい。あんたがそこまでのクズ野郎だったとは、思わなかった」

 そう言うと、僕の脇をすり抜けて、そのまま歩いて行った。

 ソフィアはどこに行くのか? 行き先を確かめようとして、僕は背後を振り返った

 考えるまでもない、当然の光景があった。僕は相談部屋を出て、話し声が気になったので足を速めて酒場の方に出てきた。そのとき、彼女も一緒にこっちに向かってきたわけじゃない。その場で待ちぼうけを食うか、あるいは何事かとこちらに向かって歩いてくる、そのどちらかが自然な動きだろう。

 エリーがいた。酒場のやりとりが恐らく聞こえていなかったのだろう、漂う険悪な空気を理解できない様子だった。

 ソフィアは、彼女に向かって歩みを進め、傍らに立った。すると、どうしてだかマルチェラが焦りだした。

「ま、待って! その方には言わないでください、私、構わないんです、困らせたいわけじゃないんです! だから……!」

 必死になって叫び、ソフィアに駆け寄ろうとしている。だが、ソフィアはマルチェラの声には耳を傾けず、僕に敵意の籠もった視線をやりながら、エリーに告げた。

「カナタの奴、あのマルチェラって人に昨夜手を出したんだってさ。エリーには黙ってろ、って口止めした上で」

 かしゃん、と銀貨が入った袋が床の上に落ちる音がした。エリーの手から、大切な報酬が入った革袋が滑り落ちた。

「え……え?……」

 エリーが譫言のようにつぶやいた。ソフィアは気の毒そうに友人を見やった。

「本当よ。あの人から話聞いたけど、到底作り話に聞こえないもの。それに……」

 ソフィアが振り返った。冷め切った視線が、僕を貫いた。

「あいつ、金髪碧眼のグラマーなお姉さんがいい、とか前にほざいていたらしいじゃない。好みの女の子が家に来て、堪えきれなくなって手を出したみたいね?」

 せせら笑うようにソフィアが言う。すると、エリーの能面のような表情が、くしゃりと歪んだ。

「そう、なの……?」

 唇を震わせながら、エリーがつぶやく。

 どんな苦境に遭っても、困難に晒されても、これまで一度も聞くことがなかった、エリーの弱り切った声。

 それで、僕はようやく我に返った。

「……エリー、違うよ。僕はマルチェラに手出しなんかしてない」

 まずは、きっぱり否定しなければ。

 まるで動かしようのない真実のように堂々と、荒唐無稽な作り話がまかり通ろうとしている。

 一体、どうしてこんなことになってるんだ? 頭の中では疑問符がいっぱい飛び交っているけれど、悠長に考えている暇なんかない。

「とぼけるんじゃないよ! 最低!」

 僕の声を掻き消すように、店中に響き渡るような大声でソフィアが怒鳴る。獣の咆哮じみた罵声に、普段なら怯んでもおかしくないけれど、今は落ち着いて受け止められた。

 ソフィアが怒るのも、そりゃそうだと納得できたから。彼女からすれば、僕はただのクズ野郎ではなく、大切な友人を傷つけたとびっきりのクズ野郎なんだから。それこそ刃物を持ち出さずに、怒鳴るだけで済んでるのは優しいぐらいだ。

 悪いのは、騙されたソフィアじゃない。騙した奴が悪いに決まっている。

 マルチェラを、見た。向かい合う僕らから少し離れたところで、自分の言葉がとんでもない騒ぎを起こしたと恐れおののき、怯えた小動物のように身を小さくしている。僕以外の人間には恐らくそう見えるだろう。

 でも、僕には到底そうは思えない。怯えた仮面を剥がせば、その下にはにんまりとほくそ笑む悪魔の素顔が覗いているに違いない。

「ねえ、マルチェラ。これはなんなの? 僕には、君が、何がしたいのか分からないんだけど」

 僕が怒りを覚えるのは、諸悪の根源に対してだけだった。冷ややかに声を掛けると、マルチェラはびくりと身を固くした。

「ご、ごめんなさい。私……言われたとおり、昨夜のことは黙ってるつもりでした。カナタさんを困らせるつもり、なかったんです。でも……」

 彼女はまるで痛みを堪えるように、胸に手を当てて言った。

「辛かったんです。あなたの心に私は居ない、ということが。一人でずっと抱え込めば良かった。でも、つい苦しくて……ソフィアさんに話をしてしまって……」

 青い瞳から涙があふれる。滴が白い頬に筋を作り、滑り落ちていく。誰が見てもよく分かる、悲恋に苦しむ乙女の姿がそこにあった。なるほど、良い演技だ、と思わずにはいられないほどに。

「そんな事実、どこにもないよ? 君、頭でも打った? それとも、夢で見たことを勘違いしているんじゃないの?」

 なんとか声こそ荒らげずに済んでいるが、皮肉の一つでも言わなければ怒りでどうにかなりそうだった。

 マルチェラの言葉から察するに、どうやらマルチェラの嘘の中の僕は、彼女の好意につけ込んで、体だけの関係を強要したらしい。その上、周囲には関係を明かさず、何食わぬ顔で今まで通りの生活を維持したいと望んでいるようだ。なるほど、虫唾が走るほどのクズ野郎に違いない。

「信じられない! 女の子泣かせて平気なの?!」

 ソフィアが激昂する。

 彼女はマルチェラの言葉を疑いもしない。僕は苛立たしく、首を横に振った。

「平気も何も、僕は何もしていない。マルチェラが言ったことは事実じゃない、嘘だよ」

「嘘つきはあんたよ! だって、あんたは嘘であんなに泣ける? 心の底から傷ついた顔、できるの? 出来ないでしょ!」

 ソフィアが興奮しきった様子で叫ぶ。

 マルチェラの涙が本物と信じ切っている。僕がいくら怒りを堪えて否定しても、彼女の素晴らしい悲劇的な演技に説得力の点で完敗だ。傍から見れば、僕がマルチェラを責めても、秘密を暴露されて腹を立てている自分勝手な男にしか見えないだろう。

 このまま、やっていない、と何度繰り返しても信用されそうにない。他の言い分を用意しなければ、いくら話し合ったところで信用を勝ち取るのは無理だ。

「……確かにさ、僕が何もしてないって証拠は出せないよ。でも、それは逆もしかりだ。何もしていないって僕が言うのと、手を出されたって言うマルチェラ、どっちも根拠は本人同士の証言しかないわけだ。どっちが本当のことを言っているかなんて、第三者には分かるはずがないんじゃないの?」

「そんな屁理屈……!」

 歯を剥いて、ソフィアが凄む。彼女の殺気にも似た怒りに怯んではいけない。

「じゃあ、ソフィア。君は現場を見たのかい? それとも、何か決定的な証拠でも押さえてる? それなら、君には真実が見えてるんだって僕も認めるよ」

「それは……ないけど……」

 たちまちソフィアが言いよどむ。反論が出来ず、黙り込む。

 酒場がしん、と静まりかえる。誰も、口を開こうとしなかった。

 確かに僕を疑う声は一端止んだ。でも、信じてもらえた、という手応えは全くない。ただソフィアを一旦黙らせただけで、昨夜の容疑が晴れたわけじゃない。百パーセント有罪から、九十九パーセント有罪になった程度の差しかない。

 けど、これ以上、何を言えば、僕は無罪と認めてもらえるのか? まるで見当が付かなかった。

 それでも、何か言うべき言葉を探して思案しているうちに、沈黙が破られた。

「あたしだって現場を見たわけじゃないし、証拠があるわけでもない。でも、真実を推測することは出来るわよ」

 話の口火を切ったのは、長らく黙っていたエリーだった。

 ソフィアの告発を聞いたばかりのときの、弱々しい表情は消えていた。彼女の黒い瞳は、射貫くように僕を見据えている。まるで、弓で狙いをつけた獲物を見るかのように。

 感情的になっているだけのソフィアを言いくるめるのとは、わけが違う。相棒は腕っ節も強いが頭だって回る、味方にすれば心強いが、敵に回せば恐ろしい。何を言われるか、どう責められるか?

「推測って……どうやってするつもり?」

 ごくり、と無意識に自分が唾を飲み下す音が耳に付いた。

「ねえ、出来るだけ詳しく聞かせてほしいんだけど」

 エリーは僕の一挙一動を見落とさないよう、じっと見つめながら言う。

「昨日、マルチェラと喧嘩したって言ってたわよね。その中身について、どんなことを話したのか教えてくれる?」

「……え」

 全く、思いも寄らぬ質問に、僕は思わず固まってしまった。

 喧嘩? そんなこと、していないよ。極度の緊張のあまり、とっさにそう答えるところだった。エリーにはマルチェラと喧嘩をした、と嘘をついたことを、うかつな答えをする間際になって思い返した。

「内容は……その……えっと……」

 喧嘩の中身なんて知るわけ無い。やってないんだから。

 もしするとしたら、何だろう? 僕との距離が近すぎるとか? それともさっさと仕事を見つけて出て行け、とか? 用意してくれた食事がまずかったとか? 一体、何だろう? 僕とマルチェラが喧嘩した自然な理由って……?

 慌てて、やってもいない喧嘩の内容を考えようとしたが、既に遅かった。

「昨晩の喧嘩の内容、まさか忘れたなんて言わないわよね?」

 僕が言いそうな言い訳を先回りして、エリーが冷ややかに言う。

「わ、忘れたわけじゃないよ。ちょっと、どうやって説明しようか頭の中で整理しようと思っただけで」

 黙ったら、嘘つきだと断罪されかねない。必死になって答えたが、エリーの心証が変わった様子はない。

「あんた、どうせ、今も嘘っぱちの喧嘩内容を考えてたんでしょ。口は回る方だと思うけど、こみいった作り話をとっさに作るのは出来ないでしょ……」

「う……」

 エリーの淡々とした指摘に、僕は言葉を失う。

 自覚はあった。一年前、僕が異世界出身であることを打ち明けたとき、同じ事を彼女に言われた。あんたにはこみいった作り話は作れやしない、と。だからこそ、僕の荒唐無稽な話を信じると……。

 言葉は同じでも、場の雰囲気は真逆だった。僕の信じ難い話を真面目に受け取ってくれた、あのときの親密であたたかな空気はここにはなかった。疑惑と不信に満ちた、針のむしろに座らされているような居心地の悪さに満ちていた……。

「カナタ、あんたさ。喧嘩なんてしてないでしょ。そうじゃなくて、昨日、マルチェラにマッサージしてもらったんでしょ?」

 声を低くして、吐き捨てるようにエリーが言う。

 どき、と心臓が跳ねるような心地がした。

 そうだ、エリーは僕とマルチェラの食卓でのやり取りを聞いている。言い逃れは難しい。

「……そうだよ」

 僕は苦々しく肯定した。本当は認めたくなど無かった、だが仕方なかった。

 ソフィアを言いくるめたようにはいかない、エリーは僕のことを熟知している。相棒を欺き続けることなど出来やしない。

 嘘に嘘を重ねてそれがバレれば、余計に彼女からの信頼を失う。だから、僕にとって不都合だったとしても事実を認めることにした。

「じゃあ、その時に手を出したのね」

 マッサージを受けた、という事実を認めれば、そういう結論になるのは、火を見るよりも明らかだった。

「出してない」

 血を吐くような想いで、僕は言った。だが、僕の必死の返答をエリーは鼻で笑った。

「ふうん。そう、偉いわね。でも、そうは言ってもさ。あんな綺麗な人に、体のあちこち揉まれたり触られたりなんかしたら……そりゃあ、興奮もするでしょうし……」

 エリーはちらと僕に視線をやった。

「手が出るのも、仕方ないことだものね?」

 そして、汚物を見るような目をして、一層冷ややかに僕を見た。

 ブーツの靴底で踏みにじられるように、僕の言葉は一蹴された。相棒は、一欠片も僕のことを信じた様子はなかった。

 僕は、呆然とその場に立ち尽くした。まるで全ての言葉を忘れてしまったかのように、黙っていた。もう一度否定の言葉を繰り返す勇気が、もう湧いてこなかった。

 何を言っても、信じてもらえない。他の誰でもない、唯一無二の相棒に。

 谷底に突き落とされたような絶望感が、指先一つ動かす気力さえ奪ってしまった。

 僕の沈黙をエリーは無慈悲に笑い、おどけた様子で肩をすくめさえした。

「馬鹿なことをしたわね、カナタ。マルチェラに口止めさえしなければ、良かったのに。その場の雰囲気でうっかり手を出してしまったのだとしても、その後ちゃんと誠意を見せてあげるべきだったのよ。そうすれば、マルチェラを傷つけずに済んだし、ソフィアを怒らせることもなかったし……」

 エリーは言葉を一度切ると、僕に背を向けた。

「あたしだって、あんたとマルチェラのこと……素直に祝福してあげたのに」

 その声が噴き出しそうな怒りも悲しみも、爆発しないように必死になって抑えているように聞こえたのは、僕の聞き違いだろうか。

 不意に、おかしさがこみ上げてきた。マルチェラとの仲を祝福? そんなもの、欲しくもなんともない。エリーの愚かで見当違いの思い込みに僕は呆れさえ感じた。

 なんで分からないんだろう? エリーは、どうしてこんなにもあっさりマルチェラの嘘に踊らされているのだ? 彼女はよく頭も回るし、勘も良いのに。

 何よりも彼女は僕の相棒なのだ。言葉さえなくても、僕たちは分かり合える。ごろつき達を追い払ったときのように、視線一つで互いにやりたいことを伝え合えた。そうだ、それぐらい僕らはお互いを理解し合っていた。深い信頼をこの一年掛けて築いてきたはずなのだ。なのに……。

 僕の唇から、かすかに笑い声がこぼれてきた。さっきエリーが立てた無慈悲な笑い声とそっくりだった。

「なによ……何を笑っているの?」

 エリーが突然笑い出した僕を、気味悪そうに振り返った。

 彼女の唇は嗚咽を堪えるように震えていて、黒い瞳にはうっすらと涙が浮かんでいた。

 エリーの様子がおかしくて、おかしくて。僕は笑ってしまった。

「そんなことも分からないの? 馬鹿だな、君は」

「……何ですって?」

 エリーが涙で濡れた瞳で、低い声で笑い続ける僕を睨んだ。苛立ちだけじゃない、憎しみさえ込めて。

 どうして君が泣いてるんだよ。泣きたいのは、僕の方だってのに。

 何もかもがおかしく思えた。僕は、笑うのをぴたりと止めた。

 僕もエリーを睨み返した。彼女と鏡映しのように苛立ちに、憎しみを込めて。

「ああ、そうさ! 僕は彼女に誘惑されて、下劣にも、マルチェラの体に興奮もしたし、欲情もしたさ! 手を出してたってなんら不思議じゃないほどにね……!」

 手綱が切れた馬のように、もう自分でも己を制御することが出来なかった。鼓膜が破れそうなほどの大声で、僕は早口でがなり立ていた。

「でも、それでも僕は……僕は何もしてないよ! それをどうして、分かってくれないんだよ!」

 息が詰まったように苦しくなった。はあ、と荒っぽく一息ついて、拳を強く握りしめた。

「君にだけは……僕のことを信じてほしかったのに……!」

 叫び声と共に吐き出しきれなかった、胸に渦巻く悲しみと憎しみの残滓をそっと言葉にした。

 視界が滲んでいた。笑い転げた時は涙が出る。それと同じだ。楽しいときだけ人間は笑うんじゃない、どうしようもないとき、いたたまれなくなったときにだって、笑うことしかできなくなる。

 膝から急に力が抜けるのを感じた。立ってられなくなって、その場に崩れ落ちた。

 マルチェラの猛烈な誘惑に乗らなかったのは、エリーとの関係を壊したくなかったからなのに。相棒に対して、恥じるような自分にはなりたくなくて、僕は必死で抗ったのに……何も、信じてもらえない。

 もう笑えなかった。むせて咳き込んでいるうちに、声にならない嗚咽が喉の奥からこみ上げてきた。何も喋れなかった。床にへたり込んで、肩を振るわせてしゃくり上げる、恐ろしく情けない姿の自分がいた。

 誰も、口をきかなかった。僕の言葉にならない声だけが、虚しく酒場に響いていた。

 やがて一人分の足音が聞こえてきた。足音の主は咳払いをして、沈黙を破った。

「……で、明日の依頼、どうするんだい?」

 マスターが淡々とした声で言った。

 僕が床に這いつくばって、何も言えないでいるうちに、ソフィアの声が聞こえてきた。

「パパ! こんな状況で出来るわけ……!」

「受けるわ」

 ソフィアを遮って、エリーが答えた。

「止めときなよ! こんな屑ともう冒険なんかできっこないでしょ!」

「そうよ、ソフィアの言うとおり。だからこそ、受けるわ」

 必死になって止めようとするソフィアにエリーが言う。

「あたしにはお金がいる。今住んでいる家を引き払って、別の冒険の相手を探すまでの、ね」

 エリーは床に落とした報酬の袋を拾い上げた。すると、銀貨がじゃらと音を立てる。

「いいわね、カナタ。これがあんたとは、最後の冒険だから」

 まるで止めを刺すかのように、エリーが言う。

 ああ、終わった。全部、終わった。疑いはもう、確信に変わったのだ。今更、何を言ってももう信じてもらえない。毅然と否定しても、自棄になって全てをぶちまけても尚、彼女の心にはもう僕の言葉は響かない……。

 首を縦に振ることも、横に振ることも僕には出来なかった。答えのない僕に辛抱しかねたのか、エリーの足音が扉に向かい始めた。

「じゃあね。明日の夕方、現地で」

 道中を共にすることすら、耐えがたいらしい。僕を置いて、エリーは立ち去った。

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