18 祝宴
僕たちが村を離れる前夜、日が落ちて空が赤くなってきた頃合いに祝宴が始まった。ゴブリン達が列を成していた村の中心部の広場に、この日は多くの村人が集った。
最初は、僕とエリーを中心に人の輪ができた。皆、口々に村を救ってくれた礼を言い、ゴブリンに襲われた恐ろしい一夜を今となっては懐かしげに語った。酒場の女将さんのように、僕とエリーを村の英雄と呼んでくれた人たちも少なくなく、やっぱり照れくさくもあったけれど、誇らしくもあった。
僕らの周りを取り囲む輪が落ち着くと、ご馳走が乗ったテーブルの方に人が移動していた。多くの村人達が詰めかけ、胃袋がはち切れんばかりに、鶏や牛の肉や魚の料理、比較的上等なパン、大きなチーズの塊に、ワインにビールを詰め込んでいた。
和やかな雰囲気に包まれながら、祝宴は進んでいた。しかし、村人達の間に次第に酔いが回り、理性のタガが緩み出した頃に、呂律の回らぬ怒声が聞こえてきた。
「ゴブリンに魂を売った薄汚い裏切り者め! 貴様のような虫けらが食って良い肉も、飲んでいい酒もここにはありはしねえ!」
夜空に響き渡るような叫び声が響いた後、食器やテーブルがひっくり返されるような音が続く。
ちょうどその時、僕は人の輪から外れ、ほっと一息いれていたところだった。村人達から村を救った英雄として盛んに話しかけられるのは嬉しい反面、疲労を感じずにはいられなかったから。
罵声と激しい物音はそれきり途絶えたが、この祝いの席で何があったのか気になって、音が聞こえた方へおっかなびっくり向かった。どこが現場かはすぐに分かった。二人の人間を遠巻きに囲む輪があったから。ただ、決して関わり合いになりたくないという風に村人達は横目で二人を捉えつつも、まるで見えていないようなふりをしていた。
村人達から知らぬ振りをされているのは、いずれも知った顔だった。片方は女将さんで、もう一人は『黄金の輝き亭』で僕とエリーを捕らえるよう村人達に訴えた男、マルコだった。
マルコは地べたに尻餅を付いていた。ただ、一人で転んだという様子ではない。濃厚なビールの匂いを漂わせ、頭も顔も衣服もびっしょりと濡れていた。彼の周辺には空になったジョッキや食器、大きな肉の塊やチーズと言ったご馳走がテーブルごとひっくり返されたようで、地面に無残にも散らかっていた。
女将さんは手ぬぐいをマルコに渡していた。硬く引き結んだ唇から、夜空に響き渡った怒声よりも尚強い怒りが匂い立つように漂っていた。
マルコの姿に僕は胸を突かれて声が出なかった。
呆然と、手ぬぐいで顔を拭くマルコとそれを黙って見下ろす女将さんの姿を見つめていると、マルコが僕に気づいて笑いかけてきた。
「やあ、英雄殿。どうもすまないね。楽しい祝宴の真っ最中に、こんな不愉快な光景を見せてしまって」
申し訳なさそうに、ビールでべたついた頭を搔いている。
「いえ……そんな……」
彼の哀愁に溢れた笑みに、僕は慰めの言葉一つかけられなかった。すると、マルコからビールに濡れた手ぬぐいを受け取った女将さんが、ふんと鼻を鳴らした。
「こいつを臆病者、裏切り者と詰って良いと勘違いした屑野郎がいてね。全く、不愉快だよ。それをやって許されるのは、お前さんと嬢ちゃんとぐらいのもんだってどうして分からないかね……」
今にも爆発しそうな、恐ろしい憤怒が女将さんの声に籠もっていた。
すると、マルコはまた笑った。どこかもの悲しげに。
「仕方ないよ。別に今に始まったことじゃない。蹴られ、殴られがなかっただけ、今回はむしろマシだと思うよ」
ビールでびしょ濡れになった肩を小さくして、マルコはどこか遠くを見るように目を細めた。
「昔から、こういうことには慣れっこだからさ。私は臆病で、不器用で、他人と上手くやっていくのがどうも出来なくてねえ。村の皆には申し訳ないよ、私がいることで気分を害してしまっているようだからねえ……」
マルコはため息をつくように言った。それは自分以外の誰かに対してでは無くて、自分自身に対してのように思われた。
ちっ、と鋭い舌打ちの音が聞こえてきた。女将さんからだ。忌々しげに顔を顰めて、それから何か言いたげに口を開きかけて、苛立たしげに首を横に振った。
「マルコよ、早く家に帰って着替えな。そのままじゃ、風邪を引いちまうよ」
何か堪えるようにそれだけのことを口にして、女将さんは立ち去った。
後に残ったのは、尻餅をついたままのマルコと彼を見下ろす僕。
女将さんと一緒にこの場を立ち去れば良かったのだろうが、僕には出来なかった。
前世の僕の姿と今目の前にいるマルコの姿が、嫌でも重なった。黙って踵を返すことは、自分自身を置き去りにして立ち去ってしまうことと同じような気がして、どうしようもないのにその場に立ち尽くしていた。
会話も無く、その場はしんと静まりかえっていた。この気詰まりな空気を誤魔化すような笑い声を響かせたのは、マルコだった。
「そうだ、あなたには心から謝罪しなければならないね。ゴブリンに脅迫されたとはいえ、大変失礼なことをしてしまった。皆が笑うように、私は最低な臆病者で裏切り者だ。許して欲しいとは言わない、だが、申し訳なかった、とだけは言わせて欲しい」
「……いや、その」
マルコが丁寧に頭を下げるのを見て、僕は口ごもった。
「僕は、あなたの行動が特別蔑まれるようなものだとは思いませんから。多くの村の人たちだってあなたの行動に賛同していたし……僕だって同じ立場だったら、同じ事をしていても全くおかしくはない……」
僕は気まずく目をそらしながら、ぼそぼそとした声で答えた。
すると、マルコはぱっと表情を明るくして、声を弾ませる。
「流石、ですな。勇気に優れるだけでは無く、なんと心根のお優しい方だろう。まったく、あなたは英雄と呼ばれるのに相応しい人間ですな」
僕を見上げる顔には、無邪気と言っても良いような朗らかさと憧憬があった。
「英雄だなんて、とても……」
僕はぎこちなく、首を横に振った。
何故だろうか、他の村人達に同じ言葉を掛けられたら、気恥ずかしさはあれど、どこか誇らしい気持ちになるのに、彼に言われると何だか妙な胸騒ぎがする。
「僕が英雄だなんて大層にも呼ばれることになったのは、運が良かっただけです。たまたま、僕の力が少し役立てる場面に出会して……それから、エリーや村の人たちの助けがあったからにすぎなくて……」
マルコの無邪気な表情と言葉には、どうも奇妙な居心地の悪さを拭えない。
僕が決まり悪く弁解すると、マルコは突然立ち上がった。
「何を仰います! 謙遜する必要などどこにあります! あれほど強い力があるのだから、他の連中の助けなんて微々たるものですよ!」
これまでのどこか哀れみを誘う弱々しい声では無かった。興奮さえうかがわせる、力強い声。子供のように目を輝かせながら、彼は言う。
「あんな強力な力があれば、あなたは何だって出来る! いやあ、まったく羨ましいなあ。こんな小さな村を救うだけではなく、歴史に名を残す英雄にだってなれるでしょうからね!」
まるで英雄譚に憧れる少年のように、マルコは屈託無くはしゃいでいる。そして麻のズボンに手を擦りつけて、ビールの残滓を拭ってから、僕に向かって手を差し出した。
「どうか今のうちに握手をさせて下さいな、未来の大英雄殿」
にっこりと笑って、マルコは言う。僕は、差し出された手を困惑と共に眺めた。
握手したら、拭いきれなかったビールで自分の手がべと付いてしまうのではないかと恐れているわけではない。何とも形容しがたい反発があって、躊躇っていた。
僕と似たような境遇を持つのだから、哀れみとか同情とかあるいは仲間意識さえ湧いてきても良いはずなのに、手を握れば鳥肌さえ立ちそうな嫌悪感ばかりが募っていた。
この人は僕と似ている。でも……何かが、違う。何かが、欠けている。
僕はさっと、自分の手を背中に隠した。マルコが笑顔と共に差し出した手が、その内強引にでも僕の手を握ろうとするのではないかと内心恐怖して。
引きつった頬で無理矢理微笑んで、僕は言う。
「あの、ごめんなさい。そろそろ失礼します、エリーが僕を探しているみたいなんで……」
とっさに嘘を吐くと、僕は背を向けて、全力で駆けだした。
走る内に、嫌な汗が背中を冷たく伝った。