漆黒のグアカモーレ──臨界攪拌──
──世界は、五感と理性の境界線を失い、すべてが黄緑色のスープへとディップされる。
「マスター……! 助けてくれ、もう外の、普通の食べ物の味が、何も分からないんだ……!!」
店の重い引き戸を叩きつけるようにして開けた常連の男は、激しく息を切らせ、カウンターにしがみついた。その身体は、紛れもない、ただの脆い人間のま行だった。だが、その目は血走り、指先は禁断症状のように小刻みに震えている。
無理もない。
この数週間、彼がこの店で摂取し続けたアボカドの脂肪酸ドグマは、彼の脳内の味覚ネットワークを完全に書き換えてしまっていた。高級な肉も、新鮮な魚も、いまや彼にとっては「砂を噛むような虚無」でしかなかった。
「落ち着いてください。ただの味覚の洗練ですよ」
僕は、鈍い黒緑色に鈍く光る特注の石鉢を、静かに男の前に置いた。
それは、料理と呼ぶにはあまりにも濃密な『深淵』だった。
『漆黒のグアカモーレ──臨界攪拌──』。
すり潰されているのは、厳選された最高完熟度のアボカド、そして数種の秘匿されたスパイス。
だが、男の目には、それがまるでこの世界線の「美味のロゴス(意味)」そのものを吸い尽くして固まった、底なしのブラックホールのように見えていた。石鉢の淵には、鋭利な三角形に揚げられた『トルティーヤ・チップス(聖なるクチバシ)』が、まるで現実のファブリックを突き破るかのように突き立てられている。
「マスター……これ、匂いだけで、僕の心臓が……理性が、ギトギトに和えられていくようだ……」
「ただの伝統的なメキシコ料理ですよ。ありふれた、前菜のメニュー(カバーストーリー)です。さあ、そのクチバシで、一気にすくい取ってください」
世間一般の人間は、理性を保って食事を楽しむものだと思っている。
だが、それこそが唯一神「ニワトリ」の咆哮(日常という名の退屈)に縛られた奴らの迷信だ。
本当に完熟した美味の前において、人間とは、味わう者ではなく**「溺れる者」**である。
「う、あ、あああああああッ!!」
男は我慢できずにチップスを掴み、緑の泥へと突き立てた。
パキ、と乾燥した小気味いい音が店内に響き、濃厚な脂質がねっとりと絡みつく。
それを、人間の口へと叩き込んだ。
サクッ、ねっちょり、暗転。
脳内を直接揺さぶるような衝撃が、彼の神経を直撃した。
「美味いいいいい! 舌が、脳のニューロンが、脂肪酸で強制的に塗りつぶされていく……! 今まで生きてきた人生の記憶が、この黄緑色の濃厚なカオスに溶かされて、自分が何者なのか、意味が……意味が崩壊していくんだ!!」
男は完全に人間のままで、涙と涎を流しながら、獣のように石鉢を貪り食った。
上空でスズメが「チュン(多次元無化コード)」と鋭く鳴いた気がしたが、今の彼の耳には、ただ口内で爆発するオレイン酸のドグマの轟音しか聞こえない。
ふと見ると、店の外の暗がりに、脳を脂肪酸で満たした要注意団体『ワカモレの黙示録』の狂信者たちの影が静かに佇んでいた。彼らは人間でありながら、その理性をすべてアボカドに捧げた先達たちだ。彼らは、また一人、こちら側の深淵へと堕ちてくる「人間」を、恍惚とした表情で見守っている。
男の皿(世界)の残高が、残り少なくなっていく。
最後のハッチング(孵化)は、もう目の前だ。
「マスター! もっとくれ! 狂ってしまってもいい、僕の人生のすべてをすり潰して、このワカモレに混ぜてくれええええ!」
「毎度あり。次の完熟セクターで、またお会いしましょう」
最後のチップスが、中央の核を貫いた。
男の理性は鳴き止み、日常は卵に戻り、彼の世界は黄緑色の濃厚な脂質のカオスへとディップされた。




