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26 公爵夫人


 医術所から帰ってきた兄が、神妙な面持ちで綾子の部屋を訪れた。

 綾子は首を傾げながら兄の前に座る。


「医術所で滝川先生から聞いたんだけど」

「はい」


「……ある高貴なお方が、医術院を通じて、綾子に会いたいと言ってきたらしいんだ」


 おかしい。確かに桜子を通じて貴族につながりがあるとはいえ、高貴な人々と面識はそんなにない。


「気になるのが、銀のかんざしをしている女の医術師、という指定だったらしいんだ」

「……そうですか」


 なんとなく思い当たるのは、以前桜子が来た時に言っていた「公爵家」という言葉。


「かしこまりました。医術院の杉田先生に文を書きます」

 まずは仲介してくれる杉田に連絡を取ってみなければ。


「そうだね。でも、心配だな。変な依頼だ」

「どんな方であれ、病に苦しんでいるのであれば患者様です。医術師が患者様を拒むことはできません」


 心配する兄に、綾子は大丈夫だと微笑んでみせた。


「私も一緒にいこうか」

「兄上は診療所をお願いします。貴族にお会いするのは初めてではありませんし、また女性であれば兄上は拒まれるかもしれませんから」


「それはそうだけど……」

 それでも妹を心配する兄というのは止まらない。


「あぁ、わかった。岩木さんに同行してもらおう。彼なら綾を守ってくれるだろう?」

「それはかまいませんが、なぜ岩木様なのですか?」

「……なんとなく?」


 兄の曖昧な言葉に首をかしげながら、それでも岩木ならと受け入れた。

 彼は綾子を見下すことがないし、医術師として認めてくれている。だから居心地は悪くない。


 それでも気になるのは、あの月が綺麗だった夜の日のこと。未だに忘れられずにいた。


「とにかく、綾ひとりでは行かせられないよ。杉田先生が同行してくださるとはいえ、大貴族みたいだからね」

「……かしこまりました。では、兄上のお好きなように」


 患者を診ることができるならなんだっていい。困っている人を助けることこそ、綾子が何よりもやりたいことなのだから。




 杉田に文を出して数日後。綾子は患者のもとに呼ばれることになった。

 医術院を訪れた綾子と岩木に、杉田は状況を説明してくれた。


「月見里公爵閣下をご存知ですか?」

「いいえ」

 会ったことも見たこともない。


「公爵夫人が、銀のぼたんのかんざしをつけた女の医術師に会いたいと。予防接種も、できれば貴女から受けたいと仰せです」


 桜子から聞いたのだろう、というところまでは予想できる。


 しかし、そこでなぜ会いたいという話になったのか。ただ、女性の医術師が珍しくて興味を持っているだけか。


「月見里公爵家は皇帝陛下にも近しい尊いお家です。くれぐれも粗相のないように」

「承知いたしました」


 大きな病気でないならよかった。男性ばかりの医術師に不安を持っていたのかもしれない。そう思うことにして、綾子は準備をした。




 本来、庶民が立ち入ることなんてできない区画。そこに入るためには、駕籠ではなく輿に乗らなければいけない。


 公爵家から遣わされた輿に乗り、綾子は初めてその屋敷を訪れた。

 城、とでもいうのだろうか。皇帝が住まう宮殿にも負けない、豪華なお屋敷。そこが、目的地だった。


 大丈夫。心の中で言い聞かせる。医術師としてやれるだけのことをやればいい。そこで首を斬られるなら本望だ。せめて兄や妹に迷惑が掛からないようにしなければ。


「こちらでお待ちください」

 侍女によって通された広い部屋は、豪華な調度品が並ぶ。権力を誇示するような部屋だと思った。


「綾子先生」

 岩木の声に振り返る。ここにいる間、岩木は綾子をそう呼ぶと言っていた。


「道具の準備をいたしますか」

「……そうですね」


 まだ出すのはよくないだろうが、少し準備をするくらいならかまわないだろう。せめて取り出しやすいようにと、道具箱の中で道具を入れ替えておく。


「公爵夫人がいらっしゃいます」

 ついにその時が来た。綾子はすぐにその場で頭を下げる。


 着物の衣擦れの音が聞こえる。音だけでもわかる、高価な着物だ。


「杉田、よく来てくれましたね」

 聞こえてきた声は、凛と澄んでいて、静かだった。


「公爵夫人にはお変わりなく」

「よいのです。そちらをご紹介いただけますか」


 丁寧な人だ。そして、その声には、どこか焦りを感じる。


「都で唯一の女の医術師にございます」

「お初にお目にかかります。楠本綾子と申します」


 綾子がさらに深く頭を下げながら述べる。


「……よく来てくれましたね」

 なぜだろう。懐かしいと感じた。どこかで会ったことなどあるはずもないのに。


「杉田から聞きました。腕のいい医術師とか」

「ありがたいお言葉にございます」

 否定はせず。しかし、鼻にもかけず。慎重に言葉を選ぶ。


「予防接種を広めていると聞きました。どんなものかお聞きしてもいいかしら」

「はい」

 頭を下げたまま、綾子は告げる。


「多くの医術師の方々にご協力いただき、都の流行り病のひとつが麻疹という病であることをつきとめました。この病は、身体に菌という病の種を覚えさせておくことで防ぐことができます」


 落ち着いて、冷静に。やることはいつもと変わらない。


「病にかかることを防ぐために、まずはお身体に弱らせた菌を入れます。これが、予防接種というものでございます」

「……そう。わかったわ。病を防ぐためなら、必要なことね」

「ご理解いただき、感謝申し上げます」


 綾子がそう告げると、

「頭を上げてちょうだい」

 ようやくそう声がかかった。ゆっくり頭を上げる。その目に映ったのは。


 母だった。


 喉の奥に溢れる苦い汁を、ぐっと飲み込む。


 違う。母ではない。母に似ているだけだ。そう言い聞かせて。


「針で入れると聞いています。打ってくれるかしら」

「かしこまりました」


 道具箱を持ち、静かに近づく。響くのは、衣擦れの音だけ。


「袖を捲り上げてください」


 男性に肌を見せるのはよしとされていない。公爵夫人の前に几帳が置かれる。


 傷ひとつない白い肌。高位な貴族だからだろう。この肌に針を入れるのは、少し緊張した。


「少し痛みます」

 そう告げて、ゆっくり注射の針を入れる。


「今から薬を入れます。もう少し強く痛みます」

「……えぇ」


 急がず、慌てず。それでいて、苦痛を長引かせてもいけない。慎重に薬を入れ、ゆっくり針を抜いた。


「少し押さえます」

 注射器をそばに置き、止血のため刺した部分を軽く抑えた。


「思ったより痛くないのね」

「そう思っていただけたら、嬉しく思います」


 あの動揺はもうなかった。医術に触れれば、一気に冷静になれた。


「……本当に、銀のかんざしをしているのね」

 その声が、少しだけ明るくなった。


「母の形見だと聞いております」

「貴女のお母君のものなのね。どういう方か、聞いてもいいのかしら」

「……はい」


 母に似た人。なぜ母のことを聞くのか、とは考えない。貴族の考えなんて、わからないからだ。


「母は、優しい人でした。私や兄をいつも慈しんで育ててくれました。しかし、時には子どものように自由で。よく父が困っていたのを覚えています」


 母の姿を瞼の裏に浮かべながら、そっと言葉を紡ぐ。


「そう。今もお元気で?」

「10年前に亡くなりました。妹を産んで、身体を壊してしまって」

「……そうなのね。辛いことを聞いてしまってごめんなさい」

「もう昔のことですので」


 もう止血はできただろうと離れ、注射器を片付けて一歩下がる。


「終わりました」

「ありがとう」


 公爵夫人は穏やかな声で言ってくれた。


「綾子、と言ったわね」

「はい」


 答えた綾子の頬に、公爵夫人の手が伸びてくる。そのまなざしは、母のように優しくて。


「またお願いしてもいいかしら」

「光栄です。しかし、医術院の方々は私よりも優れた方ばかりです。私のような下賤なものには」

「貴女がいいの」


 医術院の杉田の手前、断ろうとした。しかし、その言葉は遮られる。


「ね? お願い」

「……かしこまりました」


 女性の方が話しやすいのだろう。そういうことにしておく。

 綾子は恭しく頭を下げて引き受けた。


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