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13 呼び出し

 綾子はそれからも中村邸に通い、熱心に治療を続けた。

 中村邸に行かない日は診療所でいつものように過ごす。

 診療所で過ごす日が日常で、中村邸に行く日が特別な日、という認識だった。




「綾殿、お手伝いしますよ」

「ありがとうございます、竹田様」


 竹田信一郎は、弟子の中でも最年長。それでも上から目線ではなく、真摯に勉強している。

 最年長ということで心配だった家事にも積極的だ。手先も器用で、5人の弟子の中では縫合が上手い。


 料理も上手で、彼が手伝ってくれる時には助かっている。手慣れた様子で包丁を使う姿に、綾子は気にせず手を動かす。


「手術の時の感覚は、魚や肉を切る時と同じですか?」

「え?」

 突然の声に、綾子は振り返る。


「あぁ、いえ。ふと気になりまして」

「あ……」


 確かに、まだ手術の実技は教えていない。見学だけなら気になるだろう。


「最初は豚やネズミを使って練習します。でも……人を切る時とは、違います。ほんの少しの誤りも許されない緊張感がありますから」


「……なるほど。それは緊張しますね」

 竹田の返事に頷き、初めて医術道具を握った時のことを思いだす。


 緊張、なんて生易しいものではない。その時は生きた人ではなかったものの、やっぱり緊張に似た恐怖があった。


「兄さま! 兄さま!」

 その時、露子の声がした。綾子はハッと反応して飛び出す。ただごとではない声だった。


 玄関に集まった弦太郎と弟子たち。露子を連れて外出していた伊藤の姿もある。

 そして、寝かされた患者。


「蜂に襲われていました!」

 露子の声が聞こえた瞬間、身体が反応していた。注射器と薬を準備し、

「兄上」

 と差し出す。弦太郎はそれが何か問うこともなく、患者に注射した。


 しばらくして、患者の苦しそうな顔が緩む。

「……うん、もう大丈夫だね」

 弦太郎の言葉に、弟子たちが一斉にホッと息を吐いた。


「蜂毒はなかなか抜けないものなのに……」

「身体の活動を助ける薬を注射するんです。アドレナリンといいます」

「あどれなりん……」


 全員が一斉に筆を持つ。


「これは時間との戦いです。できるだけ早く判断して注射することで命を助けられます。今回は露が教えてくれてよかった」

 兄の説明を背中で聞きながら、綾子は台所に戻った。




 夜遅くになっても、診療所の灯は消えない。遅くまで弟子たちが勉強しているからだ。

 質問攻めになる弦太郎は、そのすべてに丁寧に答えている。


「兄上、お先に休ませていただきます」

「うん。おやすみ」


 兄に一言告げ、綾子は自室に入る。すると、布団が膨らんでいた。

「露?」

「……ん、んー……」

 もうすっかり寝ていたらしい露子が、不機嫌そうに声を上げる。


「部屋で寝なさいと言っているのに……」

 今日も妹と一緒に寝ることになるらしい。隣に座って、妹の顔を見る。まだあどけない。この年齢で両親を失っていると思うと、少しだけ甘やかしてしまう。


 綾子は枕元に置かれた薬を手に取る。今日はどうしようか。

 毎日飲んでいるわけではない。眠れない時に飲んで、それでも眠れなければ注射を使う。


 今日は眠れるだろうか。そう思いながら、今日はなんとなく引っかかる。飲まない方がいいのかもしれない。


 その時だった。

 ドンドン、ドンドン


 荒々しく扉を叩く音。緊急の患者だろうか。まだ着物を着ているため、慌てて立ち上がり、そのまま部屋を飛び出す。


「綾子殿はいらっしゃいますか!」

 伯爵家の使いだった。


「お嬢様がひどく苦しがっておられて……! 急いで来ていただけませんか!」


 おかしい。頓服薬は渡しているはずなのに。

「綾」

 兄が荷物を持ってきてくれた。


「行ってまいります、兄上」

「落ち着いて」

「……はい」


 ふうっと息を吐く。焦ってはいけない。

 それが伝わったのか、兄はふっと微笑んで見送ってくれた。




 駕籠に揺られてしばらくすると、伯爵邸に着いた。

「こちらです!」

 着物の裾を軽く押さえながら、早足で桜子の部屋を訪ねる。


「医術師をお連れしました」

「綾子!」


 使用人が綾子の来訪を告げた瞬間、部屋から桜子が飛び出してきた。

「お嬢様」

 綾子はしっかりと彼女を支える。


 胸を押さえていない。動悸や呼吸困難はなさそう。ただ、涙を流し続けている。


「お嬢様、手を握りますね」

 綾子は落ち着いて、桜子の両手を握る。


「私と一緒に呼吸をしてみましょう。私に合わせてください」

「ハッ、ハッ……ハァ……ッ」


 指先が冷たい。それに、呼吸も荒い。まずは落ち着くのが先だと、綾子はゆっくり呼吸してみせる。それを見た桜子も、徐々に呼吸を落ち着かせていく。


「お上手です。ちゃんとできていますよ」

 すがるように見つめてくる桜子の目をじっと見つめ、優しく微笑んだ。


 それにホッとするように、桜子が頬を緩める。

 間もなくその呼吸が落ち着いた頃。


「何があったのか、説明できますか?」

 綾子は桜子に聞いた。


「お父様が……」


 彼女は、チラリと後ろを見る。桜子の部屋にいたたくさんの人間たち。その中でも目立つ、綺麗な洋服の恰幅のいい男性。彼が、伯爵、桜子の父親か、とわかった。


「お父様が、晩餐に参加しなさいと……」


 まだ練習していく段階ではないのに。しかし、仕方がない。こういうこともあると、父の医学書には書いてあった。


「……伯爵様」

 だから綾子は、落ち着いて頭を下げた。


「お初にお目にかかります」

「お前が医術師か」

「はい。お嬢様のご病気を診させていただいております」


 気にしない。気にしてはいけない。患者のために。


「本当に女の医術師とはな」

 ぐっと唇を噛んでこらえる。


「お前が余計なことを吹き込むから、娘は甘えた人間になるのだろう!」


「おそれながら」

 綾子はゆっくりと口を開いた。


「伯爵様のそのお身体は、甘えから来るものでしょうか?」


 丸く出っ張ったお腹に、伯爵はハッと手を当てる。


「違う!」

「そうです。甘えではありません。加齢に伴い、体の代謝能力が落ちることで脂肪を溜めやすくなってしまう、という体質です」


 伯爵相手に喧嘩を売って首が飛べば、兄にも迷惑が掛かってしまう。それだけは避けたいと、なんとかこらえる。


「それと一緒です。お嬢様のご病気は、お嬢様の体質から来るものであり、心の弱さや甘えから来るものではありません」


「綾子……」

 桜子がぽつりとこぼす。


「今はお身体を休ませることが大切なのです。もう少し落ち着かれれば、不安から抜け出す練習をいたします。いずれ必ず、社交界に復帰することができます。どうかそれまで、お嬢様を支えていただけませんか」


「……ふんっ」

 伯爵は不機嫌そうに鼻を鳴らし、部屋を出て行った。


 綾子は頭を下げたままふうっと息を吐き、波立つ心を落ち着かせる。そして、桜子に微笑んだ。


「お嬢様、少し横になりましょう。落ち着きますから」

「あ……え、えぇ……」


 桜子は立ち上がり、着物を整えて寝台に横になる。

「綾子、そばにいてちょうだい」


 離れようとした綾子の手を握って、そう言った。

「怖くて眠れそうにないの。朝になったら駕籠を出すわ。だから……」

「……かしこまりました」


 不安を取り除くのも医術師の仕事。一晩くらいなら大丈夫だろう。

「おそばにおります。どうかゆっくりお休みください」

 綾子が微笑むと、桜子はその手を握ったまま、ふっと微笑んだ。


「あなたたちは下がってちょうだい」

「はい」


 使用人たちを下がらせると、桜子は綾子の手を離す。


「お父様には、きっと伝わらないでしょう」

「……わかりません。私も、お嬢様のお気持ちを正しく理解できているとは思えませんから」

「あら、そうなの?」

「はい。大切なのは、お気持ちに寄り添う心にございます。必ずしも理解する必要なんてありません」


 綾子のしっかりとした答えに、桜子は意外そうな顔をする。


「私も、……少しだけ、お嬢様のお気持ちがわかる時があります」

「どんな時?」

「夜、眠れない時です」


 いつからかわからない。ある時突然、眠れなくなった。


 その時はまだ父がいて、優しく寝かしつけてくれた。それでも眠れないときは、父が眠り薬を作ってくれた。


 父が亡くなった今、その役目は兄が引き受けてくれている。家族が理解してくれているから、綾子は深く考えすぎることはないだけだ。


「綾子もそんなことがあるの?」

「はい」


 それを聞いて、桜子は安心したように笑う。


「そう。わたしだけじゃないのね」

 その笑顔は、幼子のようにあどけなくて。

 助けたい。彼女の心を、救いたい。綾子はそう思った。




「ありがとうございました」

「お礼を言うのはこちらよ。一緒にいてくれてありがとう。おかげで安心して眠れたわ」


 桜子は屋敷の前まで見送りに出てきてくれた。伯爵家の駕籠を診療所まで出してくれるらしい。


「また何かあれば、お呼びください」

「助かるわ」


 綾子がそう告げて駕籠に乗ろうとした時。

 離れたところに、見慣れた人物を見つけた。


「……あぁ」

 兄に頼まれたのだろうか。


「お嬢様、迎えが来ましたので、駕籠はいりません。お気遣いいただき、ありがとうございます」

「あら、そうなの? わかったわ。気をつけて帰ってね」


 貴族の好意を無下にした、なんて怒らないのが桜子のいいところだろう。

 綾子は丁寧に頭を下げてから歩き出す。


「お疲れ様です」

 塀の影に隠れるように立っていたのは、岩木だった。


「兄上のおつかいですか?」

「いや……」


 兄に頼まれたわけではないのか。それなら、どうしてここにいるのだろう。

 聞きたいことはあるが、岩木は話すのがあまり得意な方ではないらしい。あまり聞かない方がいいだろう。


「荷物」

「え?」

「……持ちます」

「あ、ありがとうございます」


 差し出された両手に、持っていた荷物の1つを預ける。彼らが医術道具を雑に扱わないことは、もうわかっているから。


「私は一人で帰れます。兄上のそばで勉強していた方がよかったのでは?」

「……綾子さんも医術師でしょう」


 驚いた。彼は綾子を医術師として認識していたのか。確かに弟子たちの前で医術的な行為はしているが、兄の助手的な位置として認識されていると思っていた。


「まぁ……、そうですね」


 医術師であることには違いない。自分ではそう思っていた。

 彼はそれ以上何も言わなかった。


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