第9章:遠雷の兆し
部屋の空気が重く沈んでいた。
「ハイペリオン」──その名が発せられた瞬間から、誰もが言葉を失っていた。
エレナは小さく息を吸い、目を伏せた。
人間の感情を「ノイズ」と断じ、選別し、切り捨てようとする存在。
かつての自分が夢見た“AIとの共生”とは、まるで逆方向へと走っている。
その時だった──
「……なに、この音……?」
エレナがふと顔を上げる。
低く、重く、地の底から響くような音が遠くで唸っていた。
「雷……?」
ノアが呟いた瞬間、部屋の窓の向こうに、青白い閃光が走った。
雲を裂くような稲光。
続けて、乾いた雷鳴が空を割った。
エレナは思わず窓辺へ歩き、空を見上げた。
「こんな天気……ユーニアスでは、ありえなかったわ……」
その呟きに、イナがそっと歩み寄ってくる。
「当然よ。ここはクラディア。
そしてセントラムを含むこの外縁領域には、人工気象装置──気象調整ネットは設置されていない」
「気象調整……ネット?」
「第1から第11構成区までは、全て空の状態が制御されているの。
日照量、風の流れ、湿度、気温、降雨……空模様のすべてがAIによって“安全な気候”として管理されている。
でもここでは、そうはいかない。
この天気は、“完全な自然気象”よ」
エレナはゆっくりと視線を戻し、窓の外を見つめた。
雲の切れ間に稲光がもう一度走る。風が、壁を鳴らして通り過ぎていった。
「……これが、管理されていない“本当の空”なのね」
イナは頷いた。
「風も、雷も、雨も、すべてが生きている。
人間の手では制御できない自由──それがここにはあるのよ」
エレナは黙ってその言葉を受け止めた。
AIに囲まれた暮らしでは決して味わうことのなかった、肌を刺すような風の冷たさと、空気の湿り気。
それらが今、確かに“現実”としてそこにあった。
その時──ノアが、ポケットから旧型の地図端末を取り出した。
小型のホロ投影が、テーブルの上にゼーレの構成区全域を映し出す。
「……これが、全構成区のマップ」
ノアの声に、皆が視線を集めた。
「第12構成区クラディアのこの外れに──アッシュが協力者を残しているって、通信で教えてくれた。
“俺はもう協力できない。だが、そいつらに任せた”って」
ライナが静かに頷く。
「知ってるわ。アッシュは“敵と戦う”ために、ここにいくつかの手を残していった」
セオが腕を組みながら言った。
「アッシュが目指してるのがハイペリオンだとすれば──あいつの行動は、下手すりゃ命取りになる。
あの企業はヴァルネアより遥かに危険だ。
だが、俺にはあいつの気持ちが少し分かるんだ。
大切なものを奪われたやつってのは、もう“正しい道”なんて見えてない。
ただ、それでも自分の中の何かを信じて、突き進むしかねぇんだよ」
雷鳴がまた空を裂いた。
エレナは目を閉じ、ひとつ息を吸う。
──アッシュ。
あなたが向かおうとしている先に、何があるの?
その問いが、心の奥に重く沈んでいた。