消せない痕跡
保健室で、横になる。
「ありがとうございます、ジルバルト様」
ジルバルトにお礼を言うと、ジルバルトは、ううん、と首を振った。
「ジルバルト様、私は、もう大丈夫ですから──」
はやく、授業に戻った方がいい。そう、言おうとした声は、ジルバルトによって遮られた。
「そんな顔色のブレンダをほっておけない。ううん、僕がほっておきたくない」
「……ジルバルト、さま」
ジルバルトは、本当に優しい。その優しさは、私がジルバルトの後輩だからだろうか。でも、学年一位の成績をキープするためには、やっぱり授業にでた方がいい。私がそういうと、ジルバルトは不服そうな顔をした。
「僕は少し休んだ程度で落とす成績なんてしてないよ。だから、ブレンダは余計な心配はしなくていい」
そこまで言われては、これ以上なにか言うのもかえって失礼になる気がした。なので、代わりにお礼を言って目を閉じる。
「ありがとう、ございます」
けれど、身体は寝不足で疲れきっているはずなのに、数分たっても眠りに落ちることはできなかった。
眠るのを諦めて、目を開ける。
「大丈夫?」
ジルバルトの心配そうなルビーの瞳と目があった。
「ジルバルトさまは……」
「うん」
ジルバルトは、椅子をベッドサイドにもってきて、そこに座っていた。その手の中には、小説がある。図書室でも見覚えのあるそれは、最近流行りのものだった。その小説のテーマは、恋。ジルバルトがそんな本に興味があるとは意外だったけれど、私がそうではなかっただけで、恋にみんな興味があるのかもしれない。
「恋、をしたことがありますか?」
私の質問にジルバルトは、目を瞬かせ、それから、手元の本に視線を落としてああ、と頷いた。
「……ある、よ」
そうか、あるんだ。
だったら。そう思い、ジルバルトに聞いてみる。
「ジルバルト様にとって、恋とは何ですか?」
「僕に、力をくれるもの」
私の質問に、ジルバルトは迷いなくそう言いきった。力をくれるもの。では、ジルバルトにとっての恋はいいものなんだ。
「ブレンダにとっての恋は?」
私の答えなら決まっている。
「そのためなら、それ以外の全てを投げ出してしまうもの、です」
私の答えにジルバルトはそっと囁いた。
「もしかして、ブレンダにとって『恋』は」
そこで、言葉を切った。この先を言っていいのか悩んでいるようだった。
「……はい。私が乗り越えられない過去の記憶と関係があります」
私がはっきりとそういうと、ジルバルトはそっか、と頷いた。
細く、息を吐き出す。
「聞いて、下さいますか……?」
ジルバルトを見つめる。ジルバルトは穏やかな瞳をしていた。そして、ゆっくりと頷いてくれた。
だから、私は話し出した。私の知る恋のことを。
◇ ◇ ◇
父は言った。
『アメリアに、恋をしている』、と。
そんな父に母は、微笑んでいうのだ。
『私はあなたを愛しているわ』、と。
恋と愛。その違いは今の私にもよくわかっていないけれど。二人のそのやり取りは毎日決まって行われており、父も母も幸せそうなので特に気にしていなかった。
ただ、父は母に『恋』をしているのだと、その事実だけが私の中に積み重なっていった。
『ブレンダ』
母が、私を膝にのせた。
母にそっくりな私は、母に溺愛されていた。
『うふふ、ブレンダはほんとうに、私にそっくり。この水色の髪も、その空のような瞳も──』
そういって、私の髪をとく。
『やだー、くすぐったい!』
膝の上で暴れる私を羨ましそうにみる視線があった。
『あら、リヒト、こっちにいらっしゃい』
リヒト、私の兄だった。私とは反対に、兄は父にそっくりだった。柔らかな金の髪にそれと同じ瞳をしている。
『……ブレンダばっかり』
『あら、リヒトのことも大好きよ』
そう母がいうと兄は少しだけ不服そうな顔をして、私の頭を撫でた。
そんな私たちを見つめていたのは父だ。いや、正確には父には、私や兄は見えていなかった。母だけを愛おしげに見つめていた。
どこか危ういバランスで成り立っていたそれなりに、幸福な日々は突然終わりを告げる。
母が、事故に遭って亡くなったのだ。
──そして。
父が、母の棺に泣き叫びながらすがりつく。
『──アメリア! アメリア!!』
母が死んでしまって悲しい。悲しい以外の言葉が浮かばない。それは、私も。そして、兄もそうだったはず。けれど、土砂降りの雨のなか、周囲の制止も聞かず、そして傘もささずに、すがりつくその様は異常だった。
それでも。
父は、私や兄にとっては父だった。
でも、きっと、そうじゃなかった。
彼は──母に恋する一人の男だったのだった。
私がそのことにようやく気づいたのは、母が亡くなって数日後のことだった。
『おとーさま?』
母に抱き締められてから眠ることが習慣になっていた私はなかなか寝付けなかった。それに、母がいなくなってしまってから、日も浅い。寂しくて、悲しくて、父の書斎を訪れた。
いつも厳重に閉じられていて、母以外が勝手に入ることを許されなかった書斎の扉はわずかに開いていた。
そのことを疑問に思わないほど、私は幼かった。
『……ああ、アメリア。今、会いに──』
扉をそっと開けると、父はなにやら、虚ろな目で、空を見て微笑んでいる。かと思うと、何かを取り出し、飲み込んだ。
そして、父は真っ赤な鮮血を吐き出した。
『おとーさま!』
訳がわからなかった。ただ、何か、とても恐ろしいことが行われているのがわかった。
『はやく、はやくだれかきて、だれか!!』
私が大声で叫んだのと、扉が開いていたのもあってすぐに、家令が駆けつけ──幸い父が飲んだのは、有名な毒だったのもあって──父は、一命をとりとめた。
けれど、父は狂ってしまった。いや、元から狂っていたのかもしれない。
次に目を覚ました父は、公爵家から、母の痕跡を一つ残らず消そうとした。
私や兄の制止も泣き声も、聞こえずに。
そして、──消せない痕跡の私を、憎んだ。




