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令嬢失格 〜悪役令嬢に転生したので速やかに婚約破棄されたいのですが、何故か王太子エンドを迎えそうです~  作者: 松本雀


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【後編】人間合格

 第十章 魔獣襲来、あるいは令嬢失格が世界を救う件について



 その日も、いつもと同じように終わるはずであった。


 マリアンヌに布団を剥がされ、コルセットで肋骨を締め上げられ、朝食の紅茶をずずっと啜り、いつも通りの朝を過ごして学園へ向かった。


 異変が起きたのは、二時限目の淑女教養学の最中であった。


 ヒルデガルド先生が、テーブルマナーの実習として、スープの正しい飲み方を指導していた。スプーンの角度は四十五度。手前から奥にすくう。音を立てない。唇をスプーンに近づけるのではなく、スプーンを唇に運ぶ。


 私は当然のごとく、ずずっと啜った。もはや反射である。


 ヒルデガルド先生が目を閉じ、何かを諦めたような表情を浮かべたその瞬間――


 地鳴りがした。


 教室の窓ガラスがびりびりと震える。次の瞬間、学園の警鐘が、けたたましく鳴り始めた。


 ヒルデガルド先生の顔色が変わった。この女性の顔色が変わるのを見たのは、私がぱんにゃの刺繍を提出したとき以来だ。


「全員、教室に残りなさい。決して外に出ないように」


 先生が廊下に飛び出していくのを見送りながら、私は窓の外を覗いた。


 学園の正門の方角から、黒い煙が上がっている。


 いや、煙ではない。

 それは巨大な影であった。


 体高は、学園の塔とほぼ同じ。黒い鱗が全身を覆い、六本の脚が大地を踏みしめるたびに、地面が陥没する。頭部には、捻じ曲がった角が三本生えており、口からは紫色の瘴気が絶え間なく噴き出していた。


 黒蝕竜ニーベルゲン。


 私は、その名前を知っていた。


 原作ゲーム『聖女と七つの薔薇園』の第五章に登場するボスキャラクターである。本来ならば、学園の周辺の森に棲息しており、聖女リーゼロッテが七人の攻略対象と共に討伐するはずであった。


 第五章のクライマックス。一大イベント戦。プレイ時間にして約四十分の熱い戦闘の末に、聖女の浄化魔法で消滅するのだ。


 本来ならば。


 しかし、原作のシナリオが崩壊した今、第五章の討伐イベントは発生していない。リーゼロッテは攻略対象たちと敵対関係を経て絆を深めるルートに入っておらず、討伐の契機となるフラグが一つも立っていない。


 つまり、ニーベルゲンは二年間誰にも討伐されず、森の奥で、ひたすら成長し続けていたのだ。


 ゲームで戦ったときは体高十メートル程度であったが、目の前のそれは、軽く三十メートルを超えている。


 二年間放置育成された結果、レベルが上がりすぎたのだ。ソーシャルゲームのイベントを一週間放置したら取り返しがつかなくなった、あの感覚に近い。いや、近くない。ゲームなら取り返しがつく。こちらは現実である。


「な、何あれ……」


 ベアトリーチェが、窓際で顔面蒼白になっていた。


「ニーベルゲンよ」


「ニー……何ですって?」


「黒蝕竜ニーベルゲン。本来であれば、もっと小さかったはずなのだけれど」


「本来って……エステルハージ様、あれをご存知なのですか?」


「ええ。まあ。攻略情報を読んだことがあるの」


「攻略情報?」


「何でもないわ」


 そのとき、教室の扉が勢いよく開いた。


 フリードリヒ殿下であった。白い軍服の上に防護のマントを羽織り、腰には剣を佩いている。その後ろにヘルムートが続いた。眼鏡の奥の目が、いつになく鋭い。


「各自、地下の避難区画に移動しろ。教師陣が防御結界を張っている。しかし、長くは持たない」


 殿下が、端的に状況を説明した。


「現在、騎士団に救援を要請しているが、到着まで少なくとも二時間はかかる。あの魔獣は、聖女の魔力を感知して接近しているようだ」


 聖女の魔力を求めて。


 つまり、リーゼロッテが狙いなのだ。原作でも、ニーベルゲンは聖女の持つ浄化の力に引き寄せられる性質を持っていた。浄化の力を取り込んで、さらに強大になるために。


「リーゼロッテは、今どこに?」


 私が尋ねると、殿下の表情が僅かに曇った。


「東棟の魔法実習室だ。避難誘導の教師と共にいるが、あの魔獣がこのまま接近すれば――」


 また地鳴りがした。窓の外を見ると、ニーベルゲンが一歩前進していた。その足が、学園の外壁を踏み砕いた。煉瓦と石材が粉々になり、粉塵が舞い上がる。


 教師陣の防御結界が、紫色の瘴気にじりじりと侵蝕されていくのが、窓越しにも見えた。


 私の頭の中で、原作の記憶が回転していた。


 ニーベルゲンの弱点。ゲームの攻略Wiki。あのとき、カップ焼きそばを食べながら読んだ情報。


 弱点は、胸部の逆鱗――黒い鱗の中に一枚だけ存在する、白い鱗。そこに聖女の浄化魔法を直撃させることで、体内の瘴気が中和され、消滅する。


 しかし、問題が三つあった。


 第一に、あの魔獣は常に瘴気の霧を纏っており、胸部の逆鱗が外からは見えない。瘴気を一時的に吹き散らす必要がある。


 第二に、逆鱗は通常の魔法では傷つけられない。聖女の浄化魔法でなければ効果がないのだ。しかも原作のリーゼロッテは、仲間たちとの絆を通じて浄化魔法を最大出力まで高めていた。今の彼女に、あれほどの出力が出せるかどうか。


 第三に、そもそもニーベルゲンが原作の三倍のサイズに成長しているため、原作の攻略情報がどこまで通用するか、まったく分からない。


 ゲームの攻略Wikiには、こう書いてあった。「適正レベル四十五以上推奨。レベル三十以下での挑戦は自殺行為」と。


 原作でそれなのだ。三倍サイズともなれば、推奨レベルはいくつになるのか。想像したくもない。


「殿下。わたくしに、考えがあります」


 言ってしまった。


 考えなどなかった。正確に言えば、考えの断片が、散らばったジグソーパズルのように頭の中に転がっているだけで、それが一つの絵になる保証はどこにもない。


 しかし、殿下は私を見た。真剣な目で。


「聞こう」


「ニーベルゲンの弱点は、胸部の逆鱗です。白い鱗が一枚だけあるはずです。そこにリーゼロッテの浄化魔法を当てれば、倒せます」


「逆鱗……なぜ、そんなことを知っている」


「攻略Wi……いえ、古い文献で読みました。クロイツェナッハ家の書庫は広うございますから」


 殿下は、一瞬怪訝な顔をしたが、追及している暇はなかった。


「問題は」と私は続けた。


「瘴気を払わなければ逆鱗が見えないこと。そして、浄化魔法の出力が足りるかどうかです」


「瘴気を払うには?」


「大規模な風属性の魔法。もしくは、それに相当する物理的な力」


 ヘルムートが、眼鏡を押し上げながら口を開いた。


「風属性の大規模魔法……学園の魔法装置を使えば、理論上は可能です。講堂の屋上に設置されている気象観測用の魔法陣を転用すれば、局所的な突風を発生させられる。ただし、出力の調整が極めて繊細で、一歩間違えれば学園ごと吹き飛びます」


「繊細な調整は、ヘルムート、あなたに任せます」


「僕がですか」


「学年首席でしょう。この学園で一番頭の良い人間が、まさか計算を間違えたりしないわよね?」


 ヘルムートの眼鏡の奥の目が、ほんの一瞬、光った。そしてそれが消えると、静かに頷いた。


「……やれるだけ、やってみましょう」


「次に、浄化魔法の出力です」


 私は、リーゼロッテの顔を思い浮かべた。あの子犬のような瞳を。あの、揺るぎない純粋さを。


「リーゼロッテの浄化魔法を増幅する方法が、一つだけあります」


「何だ」と殿下が聞いた。


「わたくしの魔力を、リーゼロッテに受け渡すのです」


 沈黙が落ちた。


 殿下が、眉を寄せる。


「エステル。あなたの魔力は規格外だが、制御ができていない。魔力の受け渡しは高度な技術を要する。暴発すれば、あなた自身が――」


「死ぬかもしれないと?」


「……ああ」


「大丈夫です。わたくし、コルセットで毎朝死にかけておりますから、死には慣れております」


「冗談を言っている場合か」


「半分は本気です」


 殿下は、私の目をじっと見た。長い沈黙の後、殿下は言った。


「……分かった。ただし、私がそばにいる。何かあれば、私が止める」


「殿下が止められるものなのですか」


「分からん。だが、そばにいると決めた」


 殿下の声は、静かで、硬く、そして妙に温かかった。


 ◇


 作戦は、以下の通りであった。


 第一段階。ヘルムートが講堂の屋上に登り、気象観測用の魔法陣を起動。局所的な突風を発生させ、ニーベルゲンの瘴気を払う。


 第二段階。瘴気が晴れた瞬間に、フリードリヒ殿下が剣で牽制し、ニーベルゲンの注意を引きつける。


 第三段階。私が自分の魔力をリーゼロッテに受け渡し、リーゼロッテが最大出力の浄化魔法を逆鱗に叩き込む。


 以上。


 机上の空論としては悪くない。しかし、この作戦には、致命的な不確定要素が一つあった。


 私である。


 制御不能の規格外魔力を持つ令嬢失格が、最も重要な第三段階を担うのである。これは、前世で言うところの「運転免許を持っていない人間にF1のマシンを任せる」に等しかった。


 東棟の魔法実習室で、リーゼロッテと合流した。


 リーゼロッテは怯えてはいたが、目は据わっていた。聖女の資質とは、こういう場面で発揮されるものなのだろう。私が同じ立場なら、とっくに気を失っている。


「エステル様。わたし、やります」


「ありがとう、リーゼロッテ。……ただ、一つ、正直に言わなければならないことがあるの」


「何ですか?」


「わたくしの魔力を受け渡す過程で、何が起こるか、わたくしにも分からないの。暴発するかもしれないし、とんでもない方向に飛ぶかもしれない。わたくしは、あらゆることにおいて、予測不能だから」


 リーゼロッテは、きょとんとした顔で、それから笑った。


「知ってます」


「……知ってるの」


「エステル様は、いつも予測不能です。でも、最後にはなんとかなります。茶会でテーブルクロスを引っかけたときも、倒れた燭台を空中でキャッチしたじゃないですか」


「あれは火事になりかけた結果の窮余の策であって……」


「魔法の実技試験で中庭にクレーターを作ったときも、そのクレーターのおかげで雨水が溜まって、花壇の水やりが楽になったって園芸部が喜んでましたし」


「それは完全に偶然であって」


「エステル様の偶然は、いつも誰かを助けます」


 リーゼロッテの瞳は真っ直ぐだった。あまりにも真っ直ぐで、まぶしくて、私は目を逸らしそうになった。


 この少女は信じている。出鱈目な私を、本気で信じている。


 窓の外で、ニーベルゲンが咆哮した。学園の防御結界に新たな亀裂が走るのが見えた。


 時間がない。


「行きましょう」


 ◇


 中庭に出た。


 ニーベルゲンは、学園の正面に迫っていた。もはや距離にして二百メートルほどしかない。六本の脚が踏み出すたびに地面が震え、紫の瘴気が、霧のように学園を包み始めていた。


 瘴気の匂いは、硫黄に似ていた。前世の温泉旅行で嗅いだことがある。ただし、あちらは「効能:神経痛、冷え性、疲労回復」であり、こちらは「効能:即死」であるから、同列に語るのは温泉に失礼であろう。


 ベアトリーチェが、生徒たちの避難誘導を買って出てくれていた。


「わたくしにできるのはこのくらいですから!」


 ベアトリーチェは、そう叫びながら、年下の生徒たちの手を引いて地下通路へ走っていった。その横顔は、原作の「悪役令嬢の腰巾着」とは程遠い、凛としたものであった。


 ヘルムートが講堂の屋上に到着した。小さな光の信号が、こちらに向けて三度瞬く。準備完了の合図だ。


 フリードリヒ殿下が剣を抜いた。


「あとは、君次第だ」


 殿下は、ニーベルゲンに向かって歩き出そうとしていた。体高三十メートルの魔獣に、剣一本で挑もうとしている。正気の沙汰ではない。しかし、殿下の背中には、微塵の迷いもなかった。


 さすがは攻略対象だ。イベント戦での頼もしさは、画面越しでも、画面のこちら側でも、変わらない。


「殿下。死なないでくださいね」


「ああ。私が死ねば、次にあなたが転んだとき、受け止める者がいなくなる」


「……わたくし、そんなに頻繁に転んでおりますか」


「この二年で七回だ。数えている」


 殿下は不敵に笑い、走り出した。


 私はリーゼロッテの手を握った。


「リーゼロッテ。始めるわよ」


「はい!」


 ◇


 第一段階。


 ヘルムートが、屋上の魔法陣を起動した。


 空気が変わった。学園の上空に、巨大な魔法陣が光の線となって出現し、ゆっくりと回転を始める。


 そして――突風が吹いた。


 凄まじい風であった。ニーベルゲンの瘴気が、風に煽られて散り始める。紫の霧が、まるでカーテンを引き裂くように、左右に割れていく。


 しかし、ヘルムートの言った通り、出力の調整は極めて繊細であった。風は瘴気だけでなく、周囲のありとあらゆるものを巻き込み始めた。


 花壇の花が根こそぎ吹き飛んだ。ベンチが転がった。教師が一人、「うわあ」という声と共に横方向に飛んでいった(後に無事が確認されている)。


 そして、私のスカートが、めくれ上がった。


「きゃあっ!」


 両手でスカートを押さえる。しかし、スカートを押さえれば、リーゼロッテの手を離すことになる。リーゼロッテの手を離せば、魔力の受け渡しができない。


 令嬢の矜持を取るか、世界の存亡を取るか。


 究極の二択であった。


 前世の私であれば、迷わず前者を捨てた。こちらの私も迷わず捨てた。人間、本質は変わらないものである。


「見るな! 見るなよ! 絶対に見るなよ!」


 私は、前世の記憶から引きずり出した、あまりにも品位に欠ける叫びを上げた。令嬢としての体面は、このとき完全に地の底に沈んだ。


 ニーベルゲンの瘴気が、八割方吹き散らされた。


 黒い鱗に覆われた巨体が露わになる。そして――見えた。


 胸部の中央やや左。黒い鱗の海の中に、一枚だけ、白く輝く鱗。


 逆鱗だ。


「見えたわ! リーゼロッテ!」


「はい! でもエステル様、スカートが……」


「スカートのことは忘れなさい! 今すぐ! 記憶から消去しなさい!」


 ◇


 第二段階。


 フリードリヒ殿下が、ニーベルゲンに斬りかかった。


 剣に淡い光が宿り、弧を描いてニーベルゲンの前脚に斬撃が走る。傷は浅い。体高三十メートルの魔獣にとって、それは人間にとっての蚊に刺された程度であろう。


 しかし、ニーベルゲンの注意は殿下に向いた。巨大な頭部が動き、六つの目が殿下を捉える。


 殿下は、跳ね回りながら、ニーベルゲンの脚の間を駆け抜けた。魔獣の脚が踏み下ろされるたびに地面が爆ぜ、殿下がそれを紙一重で躱す。


 その動きは、流麗で美しかった。しかし、見とれている暇はない。


 ◇


 第三段階。


 ここからが、問題であった。


 私はリーゼロッテの手を握り、自分の魔力を流し込む。リーゼロッテはそれを浄化魔法に変換し、逆鱗に打ち込む。理屈はシンプルであった。


 理屈は。


 私は目を閉じ、体内の魔力に意識を向ける。


 魔力は、そこにあった。いつも暴れ回る、あの制御不能のエネルギーが。それは、前世で言うところの「電圧は高いがブレーカーがすぐ落ちる築四十年のアパートの電気系統」のようなものであった。容量はあるが、安定性が致命的に欠如している。


 リーゼロッテの手は、温かい。


「エステル様。ゆっくりで大丈夫です。川の流れをイメージして……」


 リーゼロッテの声。何度も特訓で聞いた声。


 川の流れ。


 私は、イメージした。


 しかし、私の脳裏に浮かんだのは、穏やかな小川ではなかった。前世の記憶。テレビで見た、台風の後の荒川。濁流。氾濫。消防のヘリコプター。


 そのイメージに引きずられるように、魔力が暴走し始めた。


「あ」


 手のひらから、光が溢れ出す。制御できない。蛇口が壊れたように、魔力が際限なく流れ出していく。


「エステル様! 多い! 多すぎます!」


 リーゼロッテが叫んだ。しかし、止められない。ブレーカーは落ちない。築四十年のアパートの電気系統は、とうの昔に限界を超えていた。


 リーゼロッテの体が、白い光に包まれた。聖女の力が、私の膨大な魔力と混ざり合い、増幅され、もはや彼女の体が光そのものになったかのようであった。


「リーゼロッテ! 撃って! 今すぐ! もう止められないから!」


「で、でも、照準が……!」


 そうだ。照準。逆鱗に正確に当てなければ意味がない。しかし、リーゼロッテの体は魔力の奔流で震えており、精密な照準など取れる状態ではなかった。


 そのとき、ニーベルゲンが咆哮した。殿下の攻撃を振り払い、こちらに向き直ったのだ。六つの目が、私たちを捉える。


 聖女の魔力を感知したのだ。


 ニーベルゲンが巨大な口を開けた。紫の光が、口腔の奥に凝縮されていく。ブレスだ。瘴気のブレスが来る。直撃すれば、私もリーゼロッテも即死する。


 あと数秒。


 ――どうする?


 照準が定まらない。魔力は制御できない。ニーベルゲンのブレスが迫っている。


 そのとき、私の足が何かに引っかかった。


 ドレスの裾であった。


 またか。


 この、忌まわしき装飾過多のドレスの裾が、また私の足を取ったのだ。ヴァイスブルク侯爵邸の玄関前で転んだ、あの日と同じように。


 私は、前のめりに倒れた。リーゼロッテの手を握ったまま。


 ドミノ牌のように。優雅さの欠片もなく。


 そして、倒れた拍子に、私の体がリーゼロッテにぶつかり、リーゼロッテの体が回転し、彼女の掌が――偶然に、たまたま、まったくの偶然に――ニーベルゲンの胸部に向いた。


 その瞬間。


 白い光が、撃ち出された。


 制御を失った莫大な魔力が、リーゼロッテの浄化の力を通じて、一条の光線となって、中庭を、空気を、世界を貫いた。


 私は地面に這いつくばった状態でその光を見た。


 光は真っ直ぐに、ニーベルゲンの胸部に吸い込まれていく。


 逆鱗に直撃した。


 ◇


 ニーベルゲンの咆哮が、断末魔に変わる。


 白い鱗から光が浸透し、黒い鱗の隙間から、白い光の筋が何本も噴き出した。ニーベルゲンの巨体が、内側から発光し始めたのだ。


 巨大な魔獣が、光に包まれていく。黒い鱗が、一枚一枚、光の粒子になって散っていく。それは、恐ろしくもあり、しかし不思議と美しい光景であった。前世で見た、花火大会の最後のスターマインのようでもあった。


 ニーベルゲンの体が完全に光に変わった。


 そして、消えた。


 後には紫の瘴気の代わりに、白い光の粒子が、雪のように、ゆっくりと降り注いでいた。


 沈黙。


 長い、長い沈黙の後。


 歓声が上がった。


 避難していた生徒たちが、地下から、窓から、あちこちから顔を出し、叫んでいた。


「倒した! 倒したぞ!」


「エステルハージ様が!」


「聖女様が!」


「二人で!」


 私は、中庭の地面に這いつくばったまま、空を見上げていた。


 光の粒子が、頬に触れて消えていく。


 隣でリーゼロッテも倒れていた。仰向けに大の字になって、はあはあと息をしている。聖女としての威厳は皆無であったが、満足そうな笑みを浮かべていた。


「……やりましたね、エステル様」


「……ええ。やったわね」


「転んだおかげで、うまくいきました」


「……それを言わないで。お願いだから」


 フリードリヒ殿下が駆け寄ってきた。


「エステル! 怪我はないか!」


「怪我はありません。しかし、尊厳が、また死にました」


「……何?」


「いえ。何でもありません」


 殿下が手を差し出してくれた。私はその手を取り、立ち上がる。


 立ち上がった瞬間、ドレスの焦げた裾が、はらりと落ちた。コルセットの紐も、どこかのタイミングで切れていたらしく、胴体周りが突如として自由になった。


 二年ぶりの深呼吸。


「……はあぁぁぁぁぁ」


 肺が完全に開いた。肋骨が、本来の位置に戻った。酸素が全身の隅々にまで行き渡った。


 生きている。生きているとは、こういうことだ。


「エステル……その、コルセットが……」


 殿下が、微妙に目を逸らしていた。


「はい。切れました。すがすがしいです」


「……知っている。だから、目を逸らしている」


 ヘルムートが、屋上から降りてきた。眼鏡が曇っている。風魔法の反動で、髪が爆発したように逆立っていた。


「……やれやれ。人生で一番疲れました」


「ヘルムート。見事だわ。風の魔法、完璧だった」


「完璧ではありません。教師が一人飛びましたし、花壇は全滅しましたし、エステルハージ嬢のスカートも」


「スカートの件は、今後一切口にしないという誓約書を書いてもらいます」


「……善処します」


 ベアトリーチェが、避難誘導を終えて戻ってきた。


「エステルハージ様! ご無事で!」


「ええ。ありがとう、ベアトリーチェ。避難誘導、立派だったわ」


 ベアトリーチェの目が、うるうると潤んだ。


「わたくし……わたくし、怖くて……でも、エステルハージ様が前に出るのを見て、わたくしも何かしなければと……」


「あなたがしたことは、わたくしがしたことと同じくらい大切なことよ」


 ベアトリーチェが、ついに泣き出した。私は令嬢としての正しい慰め方を知らなかったので、前世のやり方で、彼女の背中をぽんぽんと叩いた。


 背後に、誰かの気配がした。

 

 振り返るまでもない。マリアンヌである。手には、替えのドレスと、新しいコルセットを持っていた。


「お嬢様。お着替えをお持ちしました」


「……マリアンヌ。あなた、この騒ぎの中、どこから」


「侍女は、常に備えるものでございます」


 マリアンヌは、焦げたドレスを着た私と、大の字に倒れたままのリーゼロッテと、髪が爆発したヘルムートと、泣いているベアトリーチェと、目を逸らし続けている殿下を、順番に見た。


 そして、深い溜息をついた。


「お嬢様。本日の被害をまとめます。学園外壁の一部損壊。中庭のクレーター拡大。花壇の全滅。教師一名飛行。ドレス一着焼失。コルセット一着断裂。お嬢様の尊厳、二度目の死亡」


「被害報告が正確すぎる」


「なお、園芸部から伝言です。『新しいクレーターにも水が溜まるので、池にしたい』とのことです」


「好きにして」


 マリアンヌは、それ以上何も言わず、新しいコルセットを広げた。


「では、講堂の裏へ参りましょう」


「……今? もう少しだけ、この自由を味わわせてほしいのだけれど」


「お嬢様。コルセットの切れた状態で、殿下の御前に立ち続けるおつもりですか」


「……あと五分だけ」


 私は、マリアンヌに引きずられるようにして、講堂の裏に消えた。


 背後で、リーゼロッテの笑い声が聞こえた。ヘルムートの呆れたような溜息が聞こえた。ベアトリーチェの泣き笑いが聞こえた。


 そして、フリードリヒ殿下の、小さな笑い声が、聞こえた。


 あの日。


 令嬢失格の悪役令嬢は、転んで世界を救った。


 原作の聖女が七人の英雄と共に挑むべきだった魔獣を、ドレスの裾に引っかかるという、あまりにも情けない方法で打倒したのである。


 後にこの事件は、学園の歴史に「光の奇跡」として記録された。


 記録には、当然のことながら、「スカートがめくれた」「転んだ拍子に照準が合った」「コルセットが断裂した」などという記述は、一切含まれていない。


 マリアンヌが検閲したからである。


 侍女とは、常に備えるものなのだ。


 ◇


 第十一章 告白、あるいは予想外の展開



 冬が来た。


 学園の窓から見える景色が、白く染まっていく。


 リーゼロッテとの魔法の特訓は、毎日続いていた。彼女の指導は丁寧で、分かりやすく、そして何より辛抱強かった。前世の予備校の講師が、これほど辛抱強ければ、私も大学に現役で受かっていたかもしれない。


「エステル様、マナの流れを、もう少しゆっくり。そう、そよ風をイメージして……」


 リーゼロッテの手が、私の手の上に重なる。温かい手だった。


「……リーゼロッテ」


「はい?」


「あなたは、本当に優しいわね」


 リーゼロッテは、はにかんで笑った。


「だって、エステル様は、わたしが学園に来たとき、最初に声をかけてくれた人ですから」


 その言葉を聞いて、胸が、少し痛んだ。


 私が声をかけたのは、純粋な善意からではなかった。原作のシナリオを進めるため。婚約破棄を実現するため。自分の自由のため。すべては、打算だった。


 しかし、この半年間で、リーゼロッテと過ごす時間が、私にとってかけがえのないものになっていたことも、また事実であった。


 前世で、こんな友人がいただろうか。


 いなかった。


 六畳一間のアパートで、一人で画面に向かい、仮想の世界に逃避していた、あの日々。友人と呼べる人間は、数えるほどしかおらず、深い付き合いはなかった。人と関わることが怖かった。傷つくことが怖かった。だから、画面の向こう側に、安全な世界を求めた。


 しかし、今、私は画面のこちら側にいる。


 リーゼロッテの手は温かい。ヘルムートの呆れた顔は優しい。ベアトリーチェの皮肉には愛がある。マリアンヌの溜息には、深い献身がある。


 そして、フリードリヒ殿下の――


「エステルハージ嬢」


 殿下の声が、背後から聞こえた。


 振り返ると、殿下が立っていた。雪が、金髪の上にうっすらと積もっている。


「殿下。こんな時間に、どうされたのですか」


「少し、話がある」


 殿下の表情は、いつになく真剣だった。いや、真剣というよりも、緊張していた。完璧な王太子が緊張している。


 リーゼロッテが、空気を読んで(この少女は、時々、驚くほど空気が読める)、「わたし、少し席を外しますね」と言って去っていった。


 雪の中庭に、殿下と二人きりになった。


「エステルハージ嬢。いや。エステル」


 殿下が初めて、私の名前を呼んだ。


「私は、この二年間ずっと考えていた」


「何をですか」


「あなたのことを」


 殿下が、一歩近づいた。


「あなたは令嬢として、確かに問題がある。ワルツは踊れない。刺繍は意味不明だ。茶会では毎回何かを壊す。魔法は暴発する」


「……殿下、それは告白ではなく、糾弾では」


「黙って聞いてくれ」


 殿下は、真っ直ぐに私の目を見た。


「だが、あなたは、嘘をつかない」


「……え」


「この宮廷で、誰もが仮面をかぶっている。笑いたくないときに笑い、言いたくないことを言い、すべてが計算と打算で動いている。しかし、あなたは、マカロネ菓子が美味ければ声を上げて喜び、眠ければ授業中に眠り、踊れなければ踊れないと言う。あなたの前では、私も、仮面を外していいのだと思えた」


 殿下の声が、かすかに震えていた。


「エステル。私は、あなたを……」


「待ってください、殿下」


 私は、殿下の言葉を遮った。


 遮らなければならなかった。


 なぜなら、殿下が次に言おうとしている言葉を、私は知っていたから。そして、その言葉を受け取ってしまったら、もう後戻りできないことも、知っていたから。


「殿下。わたくしは、令嬢失格です」


「知っている」


「本当に、どうしようもなく、救いようのないほど、令嬢失格なのです」


「知っている」


「コルセットが嫌いで、ワルツが踊れなくて、刺繍にはぱんにゃしか描けなくて、前世では――」


 言いかけて、止まった。


 前世。


 その言葉は、言ってはならない言葉であった。


 しかし、もう遅かった。殿下が眉を動かした。


「前世?」


「……いえ。以前の、という意味です。以前は、もっとひどかったという」


「そうか」


 殿下は、それ以上追及しなかった。しかし、その目には、何かを察したかのような光があった。


 雪がしんしんと降り続けている。


 殿下が私の手を取った。手袋越しでも分かる。大きくて、温かい手だった。


「エステル。令嬢として失格でも、構わない」


「……殿下」


「私は、令嬢としてのあなたに惹かれたのではない。あなたという人間に惹かれたのだ」


 気がつくと、泣いていた。


 前世でも、この人生でも、こんなことを言われたのは初めてであった。


「お前は何をやっても中途半端だ」と言った父の声が、遠くなっていく。「せめてお嫁にでも行ってくれたら」と言った母の声が、遠くなっていく。就職面接の不採用通知。友人たちの結婚報告。六畳一間の孤独。


 すべてが、遠くなっていく。


「殿下。わたくし、ワルツは一生踊れないかもしれません」


「私が教える。一生かけてでも」


「刺繍は、ぱんにゃ以外できません」


「ぱんにゃで構わない。王宮の紋章をぱんにゃに変えてもいい」


「それは国家的な問題になるのでは」


「冗談だ」


 殿下は、微笑んだ。


 完璧な王太子の、不完全な微笑み。口角が少し歪み、目が細くなり、その表情は、ゲームの立ち絵にはなかった。画面の向こう側には存在しなかった、生身の人間の微笑みであった。


 私は殿下の手を握り返した。


 ◇


 終章 令嬢失格、あるいは新しい物語の始まり



 結局、婚約破棄は起こらなかった。


 原作のシナリオは、跡形もなく崩壊していた。聖女リーゼロッテは、私の親友として学園を卒業し、王宮付きの魔法師となった。フリードリヒ殿下は、私との婚約を維持し、卒業式の日に改めて正式な求婚をした。


 私の田舎で隠居生活という夢は、完全に潰えた。


 代わりに王妃になるという、前世の私が聞いたら卒倒するような未来が、目の前に広がっていた。


「わたしに、王妃が務まるだろうか」


 マリアンヌに尋ねた。


 マリアンヌは、長い沈黙の後、こう答えた。


「お嬢様。正直に申し上げて、不安しかございません」


「……もう少しオブラートに」


「しかし」


 マリアンヌは、微笑んだ。この侍女が、心からの微笑みを見せたのは、五年間で初めてのことだった。


「お嬢様が何をされても、わたくしがお傍におります。ティーカップの持ち方が間違っていても。ワルツの代わりに祈祷舞を踊られても。花の支柱で料理を食べようとなされても」


「盆踊りは知らないだろう、マリアンヌ」


「はい。しかし、あれが正式な舞踊でないことは、初めから存じておりました」


「……知ってたの」


「お嬢様。わたくしを見くびらないでくださいませ」


 マリアンヌの目が、少し潤んでいた。


 卒業式の日。


 私は、式辞を読むことになっていた。首席は無論私ではなく(成績は下から数えたほうが早い)、本来であればヘルムートが読むべきものであったが、公爵令嬢で王太子の婚約者という立場が、すべてを覆してしまったのである。


 ヘルムートは、「僕の四年間の努力は何だったのでしょうか」と言いながら、眼鏡を拭いていた。申し訳ない。


 壇上に立った。


 数百人の生徒と、その家族が、私を見上げている。


 原稿を広げた。マリアンヌが書いてくれた、格調高い式辞が、美しい筆記体で綴られている。


 しかし、私はその原稿をそっと畳んだ。


 代わりに自分の言葉で話すことにしたのだ。


「わたくしは、令嬢失格です」


 会場が、ざわついた。


「ワルツは踊れません。刺繍はぱんにゃしか描けません。茶会では毎回何かを壊しますし、魔法は爆発します。ティーカップの持ち方も、いまだによく分かりません」


 会場のざわめきが、大きくなった。


「しかし」


 私は息を吸った。コルセットが、相変わらず肋骨を圧迫していた。


「この四年間で、わたくしは一つだけ学んだことがあります。それは、人は完璧でなくても生きていけるということです」


 会場が、静まりかえった。


「令嬢として失格でも、人間として失格でなければ、それでよいのだと。いえ、人間としても、多少の失格は許されるのではないかと」


 沈黙。


「わたくしたちは皆、何かが足りなくて、何かが過剰で、どこかが歪んでいる。けれど、それは恥ずべきことでも、嘆くべきことでもないのです。そのすべてを抱えたまま、それでも歩いていけるならば。わたくしたちは、きっと、自分を見捨てなくてよいのです。失格のまま生きていく。それで、よいのです」


 前世の私に、この言葉を届けることはできない。


 六畳一間のアパートで、カップ焼きそばを啜りながら、画面の向こうの世界に逃避していた、あの私に。


 しかし、もしもどこかの世界線で、あの私がこの言葉を聞いてくれるのだとしたら。


「皆様の前途に、ぱんにゃの加護がありますように」


 最後は、やはり台無しであった。


 会場は、しかし万雷の拍手に包まれた。ベアトリーチェが泣いていた。ヘルムートが眼鏡を外して目を拭っていた。リーゼロッテが両手を合わせて、子犬のように涙を流していた。


 フリードリヒ殿下は、最前列で腕を組んで、微笑んでいた。


 不完全な微笑みで。


 マリアンヌは会場の隅で、静かに、膝から崩れ落ちていた。


 いつものことであった。


 ◆


 私は令嬢失格である。


 それは四年前も、今も、そしておそらく、これからも変わらない。


 前世の太宰治は言った。「恥の多い生涯を送って来ました」と。そして、自らに失格を言い渡し、物語を閉じた。


 私もまた、恥の多い令嬢生活を送ってきた。


 しかし、私は自分に失格を言い渡さない。失格を言い渡すのは、いつだって自分自身だ。誰よりも厳しい裁判官はいつも自分の中にいる。


 太宰はその裁判官に従った。

 真面目で、繊細で、誠実だったから。


 私は従わない。

 不真面目で、鈍感で、厚かましいから。


 それが美徳だとは思わない。しかし、二つの人生を経て、ようやく分かったことがある。


 自分を赦せるのもまた、自分だけなのだ。


 だから私は、まだ続きを書くつもりでいる。失格のまま。不格好なまま。それでも、筆だけは置かずに。


 令嬢失格。

 しかし、まだ執筆中である。


【完】

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