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令嬢失格 〜悪役令嬢に転生したので速やかに婚約破棄されたいのですが、何故か王太子エンドを迎えそうです~  作者: 松本雀


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【前編】令嬢失格

 恥の多い前世を送って来た、と気がついたのは、十三歳の誕生日の朝であった。


 私はそのとき、鏡に映る己の姿を見て、思わず叫んだ。金髪巻き毛。青い瞳。白磁のごとき肌。頬はうっすらと薔薇色で、唇は桜桃のごとく紅い。どこからどう見ても、絵に描いたような公爵令嬢であった。


 しかし、私は知っている。この顔を。この巻き毛を。この、いかにも「悪役令嬢でございます」と自己紹介しているかのごとき、けばけばしい容貌を。


 ――乙女ゲーム『聖女と七つの薔薇園』の悪役令嬢、エステルハージ・フォン・クロイツェナッハ。


 それが私であった。


 前世の記憶が、洪水のごとく押し寄せてくる。二十七歳。独身。東京の端っこの、六畳一間のアパートで、カップ焼きそばを啜りながら乙女ゲームに没頭していた、あの惨めで、だらしなく、それでいてどこか幸福でもあった日々が、まざまざと蘇るのである。


 私は前世において、人間として、まるで駄目であった。就職活動に二十回失敗し、ようやく入った会社は半年で辞め、実家に帰れば父に「お前は何をやっても中途半端だ」と言われ、母には「せめてお嫁にでも行ってくれたら」と溜息をつかれた。


 友人は少なく、恋人はなく、貯金もない。あったのは、乙女ゲームへの情熱と、コンビニの肉まんに対する深い愛情だけ。


 そんな私が、よりにもよって悪役令嬢に転生したのである。


 神よ。いるのかいないのか知らないが、もしいるのであれば、あなたの人事配置には重大な欠陥があると申し上げたい。


 ◇


 第一章 令嬢としての資質、あるいはその完全なる欠如について



 公爵家の朝は早い。いや、ただ早いというより、暴力的に早い。


 午前五時半。侍女のマリアンヌが寝室の扉を開け、「お嬢様、お目覚めの時間でございます」と、あたかも死刑宣告でも読み上げるかのごとき厳粛さで告げる。


 私は毛布にくるまったまま、「あと五分」と言った。


 マリアンヌは微動だにしない。


「あと三分」


 やはり微動だにしない。


「あと三十秒」


 マリアンヌは無言のまま、私の掛け布団を、まるでテーブルクロス引きの名人がクロスを引くがごとき鮮やかな手つきで、一息に剥ぎ取った。


「ひゃあっ!」


 三月の朝の冷気が、薄い寝巻きごしに肌を刺す。私は胎児のように丸くなり、「人権」と呟いた。この世界に人権という概念がまだ存在しないことを、私はそのとき失念していた。


「お嬢様。本日は、ヴァイスブルク侯爵家での茶会がございます」


 マリアンヌがそう言った瞬間、私の全身から生きる力というものが、すうっと抜けていった。


 茶会。


 この世界における茶会とは、前世で言うところの「取引先との接待ゴルフ」と「姑との会食」と「大学院の口頭試問」を足して三で割り、そこにさらに「社交ダンス」と「即興の詩の朗読」をトッピングしたものである。


 令嬢たちは優雅に微笑みながら、その実、互いの家格と教養と容姿と、そして縁談の有無を、虎のごとき目で品定めし合うのだ。


 私はこの茶会というものが、前世の就職面接と同じくらい苦手であった。


 いや、就職面接のほうが、まだましであった。面接では、少なくとも椅子に座っていればよかった。茶会では、立ち居振る舞いの一つ一つが採点対象なのである。


 着替えの時間が来た。


 コルセット。


 人類が発明した拷問器具の中で、最も合法的かつ最も残忍なものは、コルセットであると私は断言する。


 マリアンヌが背後に回り、紐を締め上げる。


「うぐ」


 さらに締める。


「うぐぐ」


 さらに。


「ま、マリアンヌ、し、死ぬ。死んでしまう」


「お嬢様、まだ半分も締めておりませんが」


「半分で死ぬなら、全部締めたら二回死ぬではないか」


「お嬢様、算数はお得意でいらっしゃいますのね」


 マリアンヌの声に、かすかな皮肉が混じっている。この侍女、見た目は清楚な田舎娘のようでありながら、その実、なかなかの毒舌家なのである。前世で言えば、あれだ。ツイッター(現X)で辛辣なことを呟いているタイプだ。


 コルセットの刑が終わると、次はドレスである。


 幾重にも重なるペチコート。絹のストッキング。レースの手袋。そして、このドレス。


 鏡に映った私は、まるで装飾過多が服を着ているような有様であった。フリルの量が尋常ではない。リボンの数が暴力的である。レースに至っては、広げれば小型帆船の帆くらいにはなりそうだった。


「……これを着て、歩けと?」


「お嬢様。クロイツェナッハ公爵家の令嬢として、これが最低限の装いでございます」


 最低限。


 この世界の「最低限」と、前世の私の「最高限」との間には、マリアナ海溝よりも深い溝がある。


 前世の私の最高の装いとは、ユニクロのワンピースに、母から借りたネックレスを合わせたものであったのだから。


 ◇


 第二章 茶会、あるいは地獄の社交場



 馬車に揺られること二時間。


 ヴァイスブルク侯爵邸に到着した私は、馬車を降りる段になって、早速つまずいた。


 ドレスの裾を踏んだのである。


「きゃっ」


 私は、まるで前のめりに倒れるドミノ牌のごとく、優雅さの欠片もなく、侯爵邸の玄関前に転がった。


 従者たちが駆け寄ってくる。


「お嬢様! お怪我はございませんか!」


「怪我はない。怪我はないが、尊厳が死んだ」


 私はそう答えた。従者たちは、私の言葉の意味が分からなかったらしく、互いに顔を見合わせていた。


 庭園に面したテラスで、茶会は催されていた。


 白いテーブルクロスの上に銀の茶器が並び、三段重ねのケーキスタンドには、色とりどりの小菓子が載っている。薔薇の花が活けられ、どこからか弦楽四重奏の調べが流れてくる。


 美しい。実に美しい。


 しかし、私の目はそのような優雅な風景ではなく、テーブルの上の菓子に釘付けであった。


 ――あれは、マカロンではないか。


 いや、この世界にマカロンという名称はないだろう。しかし、あの丸くて、色鮮やかで、間にクリームが挟まっている菓子は、どう見てもマカロンである。


 ピンク。水色。薄緑。黄色。


 前世で食べたデパ地下のマカロンの記憶が、走馬灯のように蘇る。あのとき私は、給料日の翌日に奮発して、六個入りの箱を買ったのだった。税別千ハ百円。涙が出るほど美味しかった。そして涙が出るほど高かった。


「エステルハージ様。お久しぶりでございます」


 声をかけられて、はっと我に返った。


 目の前に立っていたのは、ローゼンシュタイン伯爵家の令嬢、ベアトリーチェであった。栗色の髪を優雅に結い上げ、淡い紫のドレスを纏い、扇をひらひらとさせている。絵に描いたような令嬢。いや、実際にゲームでは立ち絵で描かれていた令嬢である。


 ベアトリーチェは、原作では、エステルハージの取り巻きの一人であった。悪役令嬢の腰巾着。主人公をいじめる際の実行部隊。要するに、あまりろくな役ではない。


「ああ、ベアトリーチェ。久しぶりね」


 私は、令嬢らしい微笑みを浮かべようとした。しかし、長年のインドア生活で培われた表情筋は、そう簡単には言うことを聞いてくれない。結果として、私の顔面には、「便秘三日目の人が無理に微笑んでいる」としか形容しようのない表情が浮かんだ。


 ベアトリーチェが、一瞬、ひるんだ。


「え、エステルハージ様? お体の調子でも……?」


「いいえ、絶好調よ」


 絶好調ではなかった。コルセットで肋骨が軋んでおり、靴擦れで足の裏が燃えるように痛く、そして何より、朝食をまともに食べていないため、空腹が限界に達していた。


 公爵令嬢の朝食というものは、実に少ない。紅茶一杯と、トースト一枚と、果物少々。これで午前中を持たせろというのは、明らかに人体に対する挑戦である。前世の私ならば、コンビニのおにぎり二個と唐揚げ棒と、それからカフェラテのLサイズを、朝の通勤電車で平らげていたというのに。


 茶会が始まった。令嬢たちが、優雅に着席する。私も着席した。着席だけは、まだ何とかなる。


 紅茶が注がれた。


 ここで一つ、告白しなければならないことがある。私は、ティーカップの持ち方を知らなかった。


 いや、正確に言えば、「令嬢としての正しいティーカップの持ち方」を、知らなかったのである。前世では、マグカップを両手で包むように持ち、ずずっと音を立てて啜るのが常であった。それが、私にとっての「お茶を飲む」という行為であった。


 しかし、ここは公爵令嬢の世界である。ティーカップは、人差し指と親指で持ち手をつまみ、小指を立てて――いや、小指を立てるのは下品なのだったか? 立てないのが上品なのか? いや、そもそも持ち手に指を通すのか通さないのか?


 混乱した。


 私は迷った末に、前世のやり方で飲んだ。


 両手でカップを包み込み、ふうふうと息を吹きかけ、ずずっと啜る。


 テーブルが静まり返った。


 七人の令嬢が、一斉に私を見ている。マリアンヌがテーブルの後方で、顔を覆った。


「……あら、エステルハージ様は、独特なお茶の召し上がり方をなさるのね」


 ベアトリーチェが、引きつった笑顔で言った。


「ええ。これが、クロイツェナッハ家の……その……古式ゆかしい作法よ」


 私は、咄嗟に嘘をついた。


 七人の令嬢が、「まあ」と声を揃えた。彼女たちの「まあ」には、驚き二割、疑い三割、そして軽蔑五割が含まれていた。


 菓子の時間が来た。


 例のマカロンもどきが、銀の皿に載せられて運ばれてくる。


 私はもう一つ、大切なことを知らなかった。令嬢というものは、菓子を食べるとき、一口で頬張ってはならないのである。小さく、小さく、まるで薔薇の花びらを食むがごとく、上品に、ゆっくりと、口に運ばなければならない。


 そう、知らなかったのだ。


 私はマカロンもどきを一個、まるごと口に放り込んだ。


 サクッ。


 ふわっ。


 とろっ。


 美味い。


 あまりの美味しさに、私は思わず目を閉じ、「うまっ」と声を漏らした。


 テーブルが、再び静まり返った。


 私は目を開けた。七人の令嬢が、今度は驚き八割、恐怖二割の表情で、私を見つめていた。


「……お、美味しいわね、このお菓子」


 私は、口の中のマカロンもどきをなんとか嚥下しながら言った。


 沈黙。


 ベアトリーチェが、震える声で言った。


「エステルハージ様……お口の端に、クリームが……」


「あら」


 私は、反射的に、手の甲でクリームを拭った。


 テーブルの後方で、マリアンヌが、静かに膝から崩れ落ちた。


 ◇


 第三章 婚約者、あるいは前途ある青年に対する深い同情



 茶会から帰宅した私を待っていたのは、父上、すなわちクロイツェナッハ公爵の、深い溜息であった。


 父上は、書斎の大きな机に向かい、羽根ペンを置いて、私を見た。


「エステル」


「はい、父上」


「ヴァイスブルク侯爵夫人から、手紙が届いた」


「はあ」


「お前が茶会で、マカロネ菓子を五つ続けて頬張り、紅茶を音を立てて啜り、着席の際に椅子を倒し、退席の際にテーブルクロスを引っ掛けて銀の茶器を三つ床に落とした、と書いてある」


「……四つです」


「何がだ」


「マカロネ菓子は、四つです。五つではありません。一つは、テーブルクロスと一緒に床に落ちました」


 父上は、もう一度溜息をついた。その溜息は深く、長く、まるでこの大陸の歴史そのもののような重さがあった。


「エステル。お前には婚約者がいる。フリードリヒ殿下だ。王太子だ。この国の次期国王だ。そのことを、お前は理解しているのか」


 フリードリヒ殿下。


 もちろん、知っている。原作ゲームにおける攻略対象の一人にして、悪役令嬢エステルハージの婚約者。金髪碧眼の美青年。成績優秀。剣術の達人。すべてにおいて完璧な、いわゆる「王子様」キャラである。


 そして原作において、この完璧な王子様は、聖女(主人公)に出会い、悪役令嬢(私)を捨てるのである。


 正直に言おう。


 私は、それで構わなかった。


 むしろ、ありがたいとすら思っていた。王太子の婚約者など、責任が重すぎる。前世で就職活動を二十回失敗した人間に、一国の王妃が務まるわけがない。聖女に押し付けてしまいたい。どうぞどうぞ。ダチョウ倶楽部のごとく譲り合いたい。


 しかし、問題があった。


 原作において婚約破棄のシーンは、卒業パーティーの場で、大勢の貴族の前で行われるのである。王太子が高らかに宣言する。「エステルハージ・フォン・クロイツェナッハ! お前との婚約を破棄する!」と。


 そして、エステルハージはすべてを失い、国外追放となる。


 国外追放。


 それは、困る。


 いくら令嬢としての責務から解放されたいとはいえ、国外追放は話が違う。前世でも実家を追い出されたことがあるが、あのときは最終的に友人のアパートに転がり込むことができた。しかし、異世界で国外追放となれば、行く宛てがない。


 つまり、私の目標は、こうである。


 婚約破棄は、される。それはよい。むしろ望むところだ。しかし国外追放は避ける。できれば、どこかの田舎で静かに、ひっそりと、前世のような怠惰で平和な暮らしを送りたい。マカロネ菓子を好きなだけ頬張り、紅茶を好きなだけ啜り、コルセットのない人生をのんびりと楽しみたい。


 それだけが、私の望みであった。


 フリードリヒ殿下との初対面は、その三日後に訪れた。


 王宮の薔薇園。


 殿下は、白い軍服に身を包み、薔薇の垣根の前に立っていた。


 太陽の光がその金髪を透かし、まるで後光が差しているかのようであった。瞳は、この国でもっとも澄んだ湖を二つ切り取って嵌め込んだかのような、深い青であった。背が高く、肩幅が広く、しかし体つきは引き締まっている。


 美しい。


 前世の私が画面越しに見ていた攻略対象が、いま、目の前に、三次元で立っている。


 しかし、感動している場合ではなかった。


 私は令嬢として、まともな挨拶をしなければならないのである。


 カーテシー。令嬢が貴人に対して行う、あの、膝を曲げてスカートの裾を持ち上げる礼である。


 私は、前日の夜、マリアンヌの指導のもと、六時間にわたってこのカーテシーの練習をしていた。膝を曲げる角度。背筋の伸ばし方。視線の落とし方。スカートの裾をつまむ指の位置。すべてを叩き込んだ。


 いける。今度こそ、いける。


 私は深呼吸をし、フリードリヒ殿下の前に進み出て、カーテシーをした。


 完璧であった。


 少なくとも、膝を曲げるところまでは。


 問題は、そこから立ち上がるときに起きた。コルセットで締め上げられた腹部が悲鳴を上げ、バランスを崩し、私は――


 よろめいた。


 前に。


 フリードリヒ殿下に向かって。


 私の顔面は、殿下の胸板に、正面から激突した。


「むぐっ」


 硬い。殿下の胸板は、壁のように硬かった。さすがは剣術の達人である。鍛え上げられた大胸筋が、白い軍服の下から、その存在を力強く主張していた。


「……大丈夫か」


 殿下の声が、頭上から降ってくる。低い、よく響く声であった。


 私は、殿下の胸板から顔を剥がし、一歩下がった。


「も、申し訳ございません、殿下。わたくし、その……風に煽られまして」


 風など、一切、吹いていなかった。薔薇園の空気は、死んだように凪いでいた。


 殿下は、無表情で私を見ていた。その無表情の奥に、かすかな困惑と、そしてほんのわずかな――これは、何と言えばいいのだろう。呆れ? 同情? あるいは、「この婚約者で大丈夫なのだろうか」という、切実な不安?


「エステルハージ嬢。次の日曜に、王宮で昼餐会がある。出席してもらいたい」


「はい。もちろんでございます、殿下」


 私は再びカーテシーをしようとして、やめた。もう一度殿下の胸板に激突する危険を冒すわけにはいかない。代わりに、ぎこちなく頭を下げた。それは、カーテシーというよりも、コンビニでお釣りを受け取るときの会釈に近かった。


 殿下の眉が、ほんの少し動いた。


 ◇


 第四章 学園、あるいは地獄の第二階層



 私が入学したのは、王立クロネッカー学園であった。


 この国の貴族の子弟が集う、名門中の名門である。白亜の校舎が緑の丘に建ち、塔の上からは国中が見渡せる。制服は白と紺を基調とし、女子は膝丈のスカートにケープを羽織る。前世の私が通っていた、駅前の雑居ビルの三階にある予備校とは、あらゆる意味で対極の存在であった。


 入学初日。


 教室に入った私を、三十余名の生徒が一斉に見た。


 公爵令嬢。王太子の婚約者。学園のヒエラルキーの頂点に立つべき存在。


 彼らの目には、畏敬と、好奇と、そしてかすかな嫉妬が混じっていた。


 私は、堂々と教室を横切り、窓際の最後列の席に座った。


 なぜ最後列かというと、前世からの癖である。授業中に居眠りをするためには、最後列の窓際が最適なのだ。教師の死角に入りやすく、窓の外を眺めているふりもできる。


 ベアトリーチェが、隣の席にやってきた。


「エステルハージ様。その、最後列にお座りになるのですか? 公爵令嬢であれば、最前列が相応しいかと……」


「ベアトリーチェ。最前列は、勤勉な者が座る場所よ。わたくしは、自分が何者であるかを、正しく理解しているの」


「はあ……」


 ベアトリーチェは、私の言葉の意味を図りかねているようであった。私は、ただ怠惰であることを、哲学的な深みをもって表現してしまったらしい。


 授業が始まった。


 最初の科目は、魔法学。


 この世界には、魔法が存在する。原作ゲームにおいては、魔法は戦闘シーンで使われるものであったが、学園では座学として教えられている。魔力の流れ、属性の分類、詠唱の文法。


 教師が、黒板に魔法陣を描きながら説明を始めた。


「火属性の基本魔法陣は、正三角形を基底とし、頂点に対応するルーン文字を配置する。このとき、マナの流れは時計回りに……」


 私は、五分で意識を失った。


 前世でもそうであった。難しい話を聞くと、脳が自動的にシャットダウンするのだ。大学の講義で何度単位を落としたことか。


 気がつくと、教室中が静まり返っていた。


 教師が、私の前に立っている。


「クロイツェナッハ嬢。私の質問に答えてもらえるかな」


「は、はい」


「火属性魔法の基本詠唱の第三節は何か」


「……ファイヤー」


 教室が、ざわついた。


「ファイヤー?」と教師が眉を顰める。


「い、いえ。えーと。ファイ……ヤーン……ルンゲ・ディ・フラメンツ?」


 完全な出鱈目であった。口から出任せの、ドイツ語風の何かであった。


 教師は、深い溜息をつき、「復習してきなさい」と言って去っていった。


 ベアトリーチェが、小声で囁いた。


「エステルハージ様……『炎よ、我が意に従え、万象を灼く紅蓮の息吹よ』ですわ……」


「……長い」


「基本詠唱ですので……」


 私は、この世界の魔法が、こんなにも面倒なものであることを、初めて知った。ゲームでは、ボタンを一つ押せば発動していたのに。


 次の科目は、さらに恐ろしいものであった。


 淑女教養学。


 これは、令嬢としての立ち居振る舞い、社交術、舞踊、音楽、刺繍、花の活け方、手紙の書き方、そしてその他もろもろの「令嬢たるもの当然身につけているべき素養」を教える科目であった。


 担当教師は、ヒルデガルド先生。六十代の痩せた女性で、姿勢がよく、目が鋭く、声が低い。前世で言えば、あのタイプだ。PTAの会長を何期も務め、地域の清掃活動を取り仕切り、近所の子供たちが悪さをするのを窓から監視している、あのタイプの女性である。


「本日は、ワルツの実習を行います」


 ワルツ。


 前世で私が踊った経験があるのは、盆踊りだけであった。


 音楽が流れ始めた。優雅な三拍子。


 ヒルデガルド先生が、生徒たちをペアにしていく。私のペアは、ヘルムート・フォン・シュテルンベルク伯爵子息。原作では攻略対象の一人であり、眼鏡をかけた知性派の青年である。


 ヘルムートが、丁寧に手を差し出した。


「クロイツェナッハ嬢。お手をどうぞ」


「ええ」


 私は彼の手を取り、ワルツのポジションについた。


 一歩目。


 私の足は、ヘルムートの足を踏んだ。


 二歩目。


 もう一度踏んだ。


 三歩目。


 今度はヘルムートが避けた。しかし、避けた先に私の足があった。結局、踏んだ。


「く、クロイツェナッハ嬢……」


「ごめんなさい」


「いえ、大丈夫です。ただ、左足から……」


「左足? どちらから見て左?」


「……え?」


「いえ、何でもないわ。分かっているわよ。左は左よ。ええ」


 私は、右足から踏み出した。


 ヘルムートの表情が、徐々に曇っていった。彼の眼鏡の奥の瞳から、光が失われていくのが見えた。それは、あたかも夕暮れの太陽が山の端に沈んでいくかのような、美しくも悲しい光景であった。


 ワルツの実習は十五分で終わった。ヘルムートは、終了後、静かに壁にもたれかかり、「足が……」と呟いていた。


 ヒルデガルド先生が、私の横に立った。


「クロイツェナッハ嬢」


「はい」


「あなたが踊っていたのは、ワルツではありません」


「では、何ですか」


「……私にも、分かりません」


 ヒルデガルド先生が、生涯で初めて「分からない」と口にした瞬間であった、と後にヘルムートは語った。


 ◇


 第五章 聖女の出現、あるいは救世主の到来



 学園生活が三ヶ月を過ぎた頃、その少女は現れた。


 リーゼロッテ・ミュラー。


 平民出身。奨学金による特待生入学。質素な身なりに、栗色のおさげ髪。大きな茶色の瞳は、子鹿のように純粋で、無垢で、まっすぐであった。


 聖女である。


 原作ゲームの主人公。七人の攻略対象を次々と落としていく、恋愛ゲーム界の最終兵器。そして、悪役令嬢エステルハージを破滅に追い込む張本人。


 彼女が教室に入ってきた瞬間、空気が変わった。


 男子生徒たちの目が、一斉にリーゼロッテに吸い寄せられた。女子生徒たちは、それに気づいて眉を顰めた。


 原作では、ここからエステルハージのいじめが始まるのだ。聖女に嫉妬し、水をかけ、階段から突き落とし、持ち物を隠し、最終的には婚約破棄と国外追放への道を突き進む。


 しかし、私にそんなことをする理由はなかった。


 むしろ、リーゼロッテには感謝したいくらいだ。彼女がフリードリヒ殿下を落としてくれれば、私は婚約破棄されて自由の身になれる。田舎で隠居生活を送るという夢に、一歩近づける。


 リーゼロッテが、おずおずと教室を見回していた。空いている席を探しているのだ。しかし、貴族の子弟たちは、平民出身の彼女に声をかけようとしない。


 私は手を上げた。


「こっちが空いているわよ」


 教室が、ざわついた。


 公爵令嬢が平民に声をかけた。それも、友好的に。


 リーゼロッテは、驚いた顔で、私の隣の席にやってきた。


「あ、あの……ありがとうございます、クロイツェナッハ様」


「エステルでいいわよ」


「え、でも……」


「堅苦しいのは苦手なの。それに、あなたは……」


 私は、言いかけて止まった。


「あなたはゲームの主人公だから気にしないで」とは、さすがに言えない。


「……新しい環境は不安でしょう。困ったことがあったら、何でも聞いて」


 リーゼロッテの目に、うっすらと涙が浮かんだ。


「ありがとうございます……エステル様」


 その日からリーゼロッテは、悪役令嬢の隣に座る少女として、学園中の注目を集めることになった。


 問題はすぐに発生した。


 原作では、聖女とエステルハージは敵対関係にある。その敵対関係をきっかけに、王太子を始めとする攻略対象たちが聖女を守ろうとして接近し、恋愛フラグが立つのだ。


 しかし、私がいじめをしないので、恋愛フラグが立たない。


 フリードリヒ殿下が、聖女を守るために駆けつけるシーンが発生しない。ヘルムートが、聖女の涙を拭うシーンが発生しない。その他五人の攻略対象たちも、聖女との接点がないまま、ただ漫然と学園生活を送っている。


 原作の物語が、完全に停滞していた。


 これは、まずい。


 物語が進まなければ、婚約破棄も起こらない。婚約破棄が起こらなければ、私はいつまでも王太子の婚約者のままだ。いつまでもコルセットを締め、ワルツを踊り、茶会で苦行に耐える日々が続く。


 何とかして、フリードリヒ殿下とリーゼロッテを引き合わせなければ。


 私は策を練った。


「リーゼロッテ。今度の日曜日、王宮の庭園を案内してあげるわ」


「え、本当ですか?」


「ええ。ちょうど薔薇が見頃なの」


 これは嘘であった。薔薇が見頃かどうかなど、私は知らない。花の名前すらまともに覚えていない人間だ。前世では、道端のタンポポとひまわりの区別がつく程度であった。


 しかし、王宮の庭園に行けば、フリードリヒ殿下と「偶然」出会う可能性がある。殿下は日曜の午後に庭園を散策する習慣がある、と原作に書いてあった。


 日曜日。


 私とリーゼロッテは、王宮の庭園を歩いていた。


「わあ、綺麗ですね、この花!」


 リーゼロッテが、目を輝かせて花壇を見ている。


「ええ。これは……えーと……」


 花の名前が分からない。赤い花だ。赤くて、大きくて、花びらがたくさんある。


「薔薇……的な、何か」


「薔薇的な何か?」


「ええ。この地方の、希少な品種よ。名前は……ローゼ・フォン・よくわからないけど綺麗な花」


「まあ、そんなお名前なんですか?」


 リーゼロッテは、素直に感心していた。この少女の純粋さは、もはや文化遺産として保護すべきレベルである。


 そのとき、向こうから歩いてくる人影が見えた。


 白い軍服。金髪。長い脚。


 フリードリヒ殿下だ。


 来た。計画通りだ。


 しかし、殿下の隣にもう一人いた。ヘルムートだ。眼鏡の奥の目が、知性的に光っている。足を引きずっている様子はない。私がワルツで踏んだ傷は、どうやら癒えたらしい。


「おや、エステルハージ嬢か」


 殿下が声をかけてきた。


「ごきげんよう、殿下。本日は散策ですか」


「ああ。ヘルムートと剣術の稽古の帰りだ。――そちらの方は?」


 殿下の視線が、リーゼロッテに向いた。


 リーゼロッテが、ぎくりと固まった。王太子が、目の前にいるのだ。平民の少女にとっては、テレビの中のアイドルが、突然目の前に現れたようなものだろう。


「こちらは、リーゼロッテ・ミュラー。学園の特待生で、わたくしの友人よ」


 私がそう紹介すると、リーゼロッテは慌ててカーテシーをした。


 完璧なカーテシーであった。


 私が六時間練習しても到達できなかった境地に、リーゼロッテは一発で到達していた。この理不尽。世界は不公平にできている。


「ミュラー嬢。よろしく」


 殿下が微笑んだ。


 リーゼロッテの頬が、薔薇色に染まる。


 ――フラグが、立った。


 私は、心の中で力強くガッツポーズをした。


 ◇


 第六章 令嬢失格の烙印、あるいは自由への狂想曲



 それからの日々を、私は、できる限りの不品行をもって過ごした。


 令嬢として失格であればあるほど、婚約破棄が早まるだろうという、実に単純な計算であった。


 舞踏会では、ワルツの代わりに盆踊りを踊った。もちろん皆には気づかれていない。「クロイツェナッハ家に伝わる古代の祈祷舞」と説明した。周囲の貴族たちは、困惑しながらも、公爵家の権威の前に沈黙した。


 授業では、相変わらず居眠りをした。ヒルデガルド先生の淑女教養学の時間では、刺繍の課題で花の模様を刺すべきところを、前世で好きだったカップ焼きそばの模様を刺した。


 ヒルデガルド先生は、それを見て、しばらく無言で立ち尽くしたのち、「これは……何ですか」と尋ねた。「抽象芸術です」と私は答えた。


 食事会では、ナイフとフォークの使い方を間違え続けた。前菜に肉料理のナイフを使い、さらには魚料理を箸で食べようとした。この世界に箸は存在しない。しかし私は、割り箸に似た細い棒を二本、どこからか調達し、それで切り身をつまみ上げたのである。


「……お嬢様、それは花を活けるための支柱でございます」


 マリアンヌが、絞り出すような声で言った。


「知っている。しかし、これで食べられなくもないのだ」


「……あの、そのような問題ではなく……」


 マリアンヌの目に、光るものがあった。涙であった。侍女を泣かせてしまったことに対して、私は、深い罪悪感を覚えた。しかし、自由のためには、犠牲が必要なのだ。許してくれ、マリアンヌ。


 しかし、事態は、私の予想とは異なる方向に進んでいった。


 私の奇行は、学園中に知れ渡った。それは当然であった。公爵令嬢が盆踊りを踊り、カップ焼きそばの刺繍をし、花の支柱で料理を食べようとしたのだ。噂にならないわけがない。


 問題は、その噂が、私にとって好意的な方向に歪曲されていったことである。


「クロイツェナッハ嬢は、古い慣習に囚われない、自由な精神の持ち主だ」


「あの方は、形式主義の貴族社会に一石を投じておられるのだ」


「ワルツではなく独自の舞踊を披露なさるなんて、なんと先進的な」


「刺繍に抽象芸術を取り入れるなんて、芸術的感性が素晴らしい」


 違う。


 全部違う。


 私はただの怠惰な人間であり、ワルツが踊れないだけであり、フォークとナイフが面倒くさいだけなのだ。


 しかし、公爵家の権威というものは恐ろしいもので、私の一挙手一投足が、すべて「深い意味のある行動」として解釈されてしまうのである。


 これは、前世で読んだ、「裸の王様」の逆バージョンではないか。「裸の王様」では、誰もが王様が裸であることを知りながら指摘しない。私の場合は、誰もが私が無能であることに気づかず(あるいは気づいていても)、有能であると解釈してしまうのだ。


 フリードリヒ殿下すらも、この流れに乗っていた。


 ある日、殿下が私に言った。


「エステルハージ嬢。先日の舞踏会でのあなたの踊りは、実に興味深かった」


「は、はあ」


「あれは、何か特別な意味がある踊りなのか」


「あ、あれは……その……豊作を祈る踊りです」


 嘘ではなかった。盆踊りは、元来、先祖の霊を慰め、豊作を祈るものである。ただ、この世界には「盆」の概念がないだけで。


「豊作を祈る。……なるほど。王族の婚約者が、自ら民のために踊るか。感心した」


 殿下の目に尊敬の光が灯っていた。


 違う、殿下。そういうことでは、断じてない。


 リーゼロッテとの関係も、順調に……いや、順調でないほうに進んでいた。


 私の計画では、リーゼロッテと殿下の仲を取り持ち、二人の恋愛フラグを育て、最終的に殿下が私を捨ててリーゼロッテを選ぶ、というシナリオであった。


 しかし、リーゼロッテは、殿下よりも私に懐いてしまっていた。


「エステル様! 今日のお弁当、一緒に食べませんか?」


「エステル様! 図書館で面白い本を見つけたんです!」


「エステル様! この花、エステル様に似ていると思って摘んできました!」


 リーゼロッテは、毎日のように私のもとにやってきた。子犬のように目を輝かせ、尻尾を振っている(比喩である。尻尾はない。たぶん)。


「リーゼロッテ。あなた、殿下とはどうなの?」


「え? 殿下、ですか?」


「ええ。先日、庭園でお会いしたでしょう? 殿下のこと、どう思った?」


「殿下は……とても立派な方だと思います。でも」


「でも?」


「わたし、エステル様と一緒にいるほうが楽しいです」


 私は、天を仰いだ。


 比喩ではなく、本当に天を仰いだ。教室の天井に、古い木の梁が走っているのが見えた。


 シナリオが、破綻しつつあった。


 ◇


 第七章 王太子の困惑、あるいは想定外の感情



 さらに厄介なことが起きた。


 フリードリヒ殿下が、私を避けるどころか、むしろ積極的に接触してくるようになったのだ。


「エステルハージ嬢。今日の放課後、茶でもどうだ」


「エステルハージ嬢。来週の狩猟会に、共に参加しないか」


「エステルハージ嬢。この本を読んだのだが、あなたの意見を聞きたい」


 なぜだ。


 私は、あらゆる努力を費やして、令嬢失格を演じている。ワルツは踊れない。刺繍はできない。魔法学は赤点。茶会では毎回何かを倒す。それなのに、なぜ殿下は私を遠ざけるどころか、近づいてくるのか。


 ある日、思い切って尋ねてみた。


「殿下。わたくしは、正直に申し上げて、令嬢として、かなり問題があるかと思うのですが」


「ああ、確かに」


 殿下はあっさりと認めた。


「……あの、もう少しオブラートに包んでいただいても」


「いや、事実だからな。あなたのワルツは、正直、何の踊りなのか分からない。刺繍は壊滅的だ。先日の茶会では、ティーカップのソーサーを皿代わりにしていただろう」


「……覚えてらしたんですか」


「覚えている。隣の席だったのだから、忘れようがない」


 殿下は、しかし、そこで口角をわずかに上げた。


 微笑んでいた。


「だが、それが面白い」


「……面白い?」


「この宮廷で、皆が同じ顔をして、同じ言葉を使い、同じように微笑む。退屈だと、ずっと思っていた。あなたは違う。あなたは、何をするか分からない。ソーサーを皿にする人間を、私は他に知らない」


 それは褒め言葉なのだろうか。私には判断がつかなかった。


「殿下。それはつまり、わたくしを珍獣として面白がっていらっしゃるということですか」


「珍獣? いや、そうではない。――いや、少し、そうかもしれない」


 殿下は、珍しく言葉に詰まっていた。この完璧な王太子が、言葉に詰まる姿を見たのは、初めてのことであった。


「エステルハージ嬢。私は、あなたのことが、よく分からない」


「わたくしも、自分のことが、よく分かりません」


「だが、分からないものに惹かれるのは、人の常だ」


「……殿下?」


 殿下は何も言わず、踵を返して去っていった。その背中は、夕日に照らされて、前世の少女漫画の1ページのように美しかった。


 私は混乱した。


 原作では、フリードリヒ殿下はエステルハージに対して、冷淡で、義務的で、何の感情も持っていないはずだった。それが聖女リーゼロッテと出会うことで初めて「恋」を知り、婚約破棄に至る。それが正しいシナリオだ。


 なのに殿下は、私に「惹かれる」と言った。


 ――これはおかしい。

 原作から、大きく逸脱している。


 私は自室のベッドに倒れ込み、天井を見つめながら、前世の記憶を必死にたどった。ゲームのシナリオを、一つ一つ思い出す。エステルハージは、高慢で、冷酷で、完璧な令嬢であった。だからこそ、殿下は退屈し、聖女の素朴さに心を動かされた。


 しかし、今の私は、完璧とは程遠い。むしろ、欠陥だらけだ。令嬢としてのスペックは壊滅的で、社交は苦手で、ワルツは踊れず、刺繍はカップ焼きそばだ。


 つまり。


 原作のエステルハージが「完璧すぎて退屈」だったのに対し、私は「不完全すぎて面白い」ということなのだろうか。


 殿下は、完璧なものに囲まれすぎた人間だ。完璧な宮廷。完璧な教育。完璧な臣下たち。その中で、完璧でない私は、一種の異物として、殿下の興味を引いてしまったのだ。


 これは、まずい。

 非常にまずい。


 殿下に気に入られては、婚約破棄が遠のく。田舎で隠居という夢が、水泡に帰す。


 私は、さらなる「令嬢失格」を演じなければならない。もっと破壊的に。もっと壊滅的に。殿下が「さすがにこれは無理だ」と思うレベルまで、堕ちなければならない。


 ◇


 第八章 破壊的不品行の数々、あるいは逆効果の連鎖



 作戦を変えた。


 これまでの「さりげない不品行」を超え、「明確な令嬢失格」を目指すことにした。


 まず、食事。


 晩餐会で、私は、デザートのケーキをナイフとフォークではなく、素手で食べた。クリームが指に付き、それを舐めた。


 隣に座っていた侯爵夫人が、気を失いかけた。


 しかし殿下は笑った。


「豪快だな」と言って、笑った。


 次に、言葉遣い。


 令嬢は、常に丁寧語で話さなければならない。「わたくし」「ございます」「ごきげんよう」。


 私は意図的に言葉を崩した。


「殿下、今日の授業、まじでだるかったっすよね」


「……まじで、だるかった?」


「ええ。まじで。だるかったです」


 殿下は眉を寄せ、しかし次の瞬間、こう言った。


「ああ。確かに、まじで、だるかった」


 王太子が「まじでだるかった」と言った。


 これは由々しき事態であった。私の言動が、殿下の品位まで引き下げ始めていた。


 刺繍の時間。


 私は、今度こそ衝撃的なものを作ろうと決意し、前世で慣れ親しんだ「ゆるキャラ」を刺繍した。丸い体。短い手足。にこにこした顔。


 完成品を見たヒルデガルド先生は、長い沈黙の後、こう言った。


「……これは、何かの紋章ですか」


「いいえ。精霊です」


「精霊」


「ええ。わたくしの故郷に伝わる、幸運の精霊です。名前は……ぱんにゃ」


「ぱんにゃ」


 ヒルデガルド先生の声が、かすかに震えていた。


 しかし、翌週、学園中で「ぱんにゃ」の刺繍が流行した。


 令嬢たちが、こぞって丸い体に短い手足のキャラクターを刺繍し始めたのだ。


「エステルハージ様が始めた新しい様式ですって!」


「なんて斬新な! 前衛的な!」


「ぱんにゃ様のお守りを枕元に置くと、良い夢が見られるとか」


 最後のは完全にデマであった。しかし、いつの間にか「ぱんにゃ信仰」なるものが学園に広がり始め、私は図らずも新興宗教の教祖的な立場に祭り上げられてしまった。


 マリアンヌが、私の部屋に来て言った。


「お嬢様。学園の生徒たちから、ぱんにゃの護符を求める手紙が、四十七通届いております」


「……適当に処理しておいて」


「畏まりました。なお、王太子殿下からも一通届いておりますが」


「……殿下も?」


「はい。『ぱんにゃの護符を一つ所望する。できれば青い目のものが良い』と」


 私は、深い、深い溜息をついた。


 ◇


 第九章 転機、あるいは物語が動くとき



 学園生活二年目の秋。


 事態が、ようやく動いた。

 きっかけは魔法学の実技試験であった。


 この試験は、生徒一人一人が、教師の前で魔法を実演するというものだ。属性に応じた基本魔法を一つ、正しく発動させればよい。


 私の属性は、火であった。


 火属性の基本魔法。手のひらに小さな炎を灯す。ただそれだけのことだ。


 しかし私は、魔法が壊滅的に下手であった。


 二年間の学園生活で、まともに魔法を発動させたことが一度もない。詠唱を間違え、マナの制御を誤り、発動すべきところで発動せず、発動すべきでないところで爆発を起こす。前世で言えば、料理をすれば火事を起こし、DIYをすれば家を壊す、あの類の不器用さであった。


 試験会場は、学園の中庭。教師と生徒たちが見守る中、一人ずつ前に出て魔法を発動する。


 私の番が来た。


 中庭の中央に立つ。周囲を、数十人の生徒が囲んでいる。フリードリヒ殿下もいる。リーゼロッテもいる。ヘルムートも、ベアトリーチェも。


 深呼吸をした。


 コルセットが肋骨を圧迫し、酸素が足りない。しかし、やるしかない。


 詠唱を始めた。


「炎よ、我が意に従え……万象を灼く紅蓮の息吹よ……」


 手のひらに意識を集中する。マナが、体の中心から手のひらに向かって流れていくのを感じる。


「……顕現せよ!」


 手のひらに光が灯った。


 しかし、それは小さな炎ではなかった。


 赤い光が、手のひらから溢れ出し、膨張し、制御を失い――


 爆発した。


 轟音。


 閃光。


 中庭の地面に、直径三メートルほどのクレーターができた。周囲の生徒たちは吹き飛ばされ、教師が咄嗟に防御魔法を張って被害を食い止めた。


 煙が晴れると、私はクレーターの中心に、ドレスを半分焦がした状態で、ぽかんと立っていた。


 沈黙。


 教師が、震える声で言った。


「クロイツェナッハ嬢……あなたの魔力量は……」


「はい」


「規格外です。制御ができていないだけで、魔力そのものは、おそらく学園始まって以来の……」


「……すみません」


「謝らなくていい。ただ中庭の修繕費は、クロイツェナッハ公爵家に請求させていただく」


 父上の溜息が、遠く、遠く、聞こえたような気がした。


 この事件は、二つの結果をもたらした。


 一つ目。リーゼロッテが、私の魔法の特訓を手伝うと申し出たこと。


 聖女リーゼロッテは、原作において、「あらゆる属性の魔法を扱える」という特殊能力を持っている。魔法の制御も、彼女にとっては得意分野だ。


「エステル様! わたし、魔法の制御なら少しお手伝いできると思います!」


 リーゼロッテの目が、きらきらと輝いていた。子犬どころか、もはや子犬が三匹同時に尻尾を振っているかのような勢いであった。


 二つ目。フリードリヒ殿下が、私のことを「守らなければならない」と言い出したこと。


「エステルハージ嬢。あれだけの魔力を制御できなければ、いつか大事故を起こす。私が、稽古に付き合おう」


「いえ、殿下。そのようなお手間を……」


「婚約者として当然のことだ」


 殿下の目は、真剣だった。ゲームの攻略対象が見せる、あの「好感度が一定以上に達したときの真剣な目」であった。


 しかし、その真剣な目は、リーゼロッテではなく、私に向けられている。


 シナリオが、完全に壊れていた。

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