第9話 最後の悪夢
龍の姿は、見上げるほど大きい。
大きいのに、輪郭が定まらない。黒い霧が鱗になり、鱗が霧に戻る。息をするたびに質量が揺れ、その揺れが時計塔の床をきしませた。
凪斗は、足の裏で「崩れる予感」を踏んでいた。
塔の床は石でも鉄でもない。夢の素材だ。恐怖が濃くなっただけの足場は、心が折れた瞬間に崩れる。
「……冗談だろ」
瑛士が、乾いた笑いを漏らした。
笑うしかない、という顔だ。目だけが笑っていない。
「これ、勝てるサイズじゃないって」
「せめてイベントボスにしてくれ。チュートリアルの次に出すなよ」
真白が唇を引き結ぶ。
「弱音は後で言え」
「今言うと、夢が増長する」
「そういう仕様、ほんと嫌い」
瑛士がぶつぶつ言いながらも、手を動かす。
指先が空中をなぞると、見えないキーボードを叩いているように、何かが反応した。夢の中なのに、コンソールが開く。夢が現実を模倣するのは得意だ。
龍が尾を振った。
ただ振っただけなのに、風が刃物みたいに走る。時計塔の壁が、外側から削られたように崩れた。
足場が消え、床が傾く。
凪斗は反射で真白の腕を掴み、手前に引いた。真白はよろけながらも、踏ん張る。
「相原!」
「大丈夫。離れるな」
声にすると、余計に現実味が増す。
背後から、冷たい空気が吹き上がってきた。崩れた壁の先は、時計塔の外――霧ヶ丘の街だ。
いや、街に見える何かだ。
街の色が薄い。信号機は光っているのに音がない。車が動いているのに、誰も運転していないように見える。
そして空に、亀裂が走っている。
亀裂の向こう側に、現実がちらついた。
ビルの窓ガラスに映るニュース速報。揺れる電柱。外に飛び出す人々。
夢の映像と現実の映像が、ノイズ混じりに重なる。
「見えてる……」
真白が呟いた。
「これ、あっちも見えてるよね」
「街の人、時計塔を……」
凪斗は視線を外へ投げた。
霧ヶ丘の中心部、薄い空の上に、巨大な影が落ちている。龍の影だ。夢の中の龍が、現実の空にも影だけを落としている。
人々はそれを見上げ、口を開け、動けなくなっている。
「境界が、もう……」
凪斗の喉が詰まった。
夢が現実を侵食する。言葉にすると陳腐だ。だが実際、目の前で起きている。
龍が首をもたげ、咆哮した。
音が、遅れて届く。遅れるのに、体の内側が先に震える。骨が鳴る。心臓が拒否する。
その瞬間、凪斗の胸の痣が熱くなった。
足首の痣も。腕も。首筋も。今まで痛みとして刻まれてきた箇所が、一斉に火を噴く。
「っ……!」
息が漏れる。
痛みが怖いのは、痛いからじゃない。痛みが「ここで死ねる」と教えてくるからだ。
凪斗は黒いナイフを握った。
握ると、冷たさが骨に染みる。
この刃は、凪斗の恐怖と痛みで出来ている。つまり、凪斗が折れれば折れるほど、刃も脆くなる。
じゃあ、折れなければいい。
そんな簡単な話じゃない。だからこそ、ここまで来た。
凪斗は胸に手を当てた。
熱い。痣が脈打っている。まるで心臓が二つあるみたいに。
思い出す。
廃遊園地で胸を貫かれた感覚。
影に足を取られた感覚。
砂時計のガラスが割れる瞬間。
そして拓海の教室。自分が何もしなかったこと。
逃げた。見て見ぬふりをした。
その記憶は、消えない。消してはいけない。
「……受け止める」
凪斗が、誰にでもなく言った。
「怖いのは、怖い」
「痛いのも、痛い」
「でも、それで終わりにしない」
真白が凪斗を見た。
言葉より先に、目が問いかけてくる。
「相原」
「無茶するなよ」
「無茶はする」
「でも、無駄はしない」
瑛士が苦笑する。
「言い方だけ格好いい」
「やることは無茶のまま」
凪斗はナイフを、ゆっくりと構え直した。
その瞬間だった。
ナイフの刃が、伸びた。
伸びるというより、溶けて形を変える。刃が細くなり、しなり、先端が分かれていく。
黒い金属が、輪を作った。
「……鎖?」
真白が驚きの声を出す。
凪斗自身も驚いた。だが同時に、腑に落ちる。
鎖は、繋ぐ武器だ。
切るだけの刃では届かない。巨大な相手を縛り、引き、止めるための形。
輪が増えるたび、輪の内側に小さな光が灯った。
白い光。薄い金色。あたたかい。
救われた誰かの夢の残り火みたいな光だった。
「……これ」
凪斗は息を呑んだ。
光は、声にならない声を含んでいる。
まだ死にたくない。
明日が欲しい。
怖いけど、起きたい。
そんな、誰かの意思。
「相原、いける」
真白が短く言った。
根拠はない。けれどその言葉は、夢にとっては根拠になる。
「縛れ。止めろ」
瑛士が言った。
「俺が、弱点探す」
「真白は地形だ。迷路作れ」
「相原は……相原は、突っ込め」
「雑!」
「雑でいい」
「綺麗に勝つと、負ける」
瑛士の言い方に、凪斗は笑いそうになった。
笑えるなら、まだ大丈夫だ。
龍がまた尾を振り上げた。
今度は床が裂け、螺旋階段の残骸が落ちていく。落ちていく先に、現実の街が見える。
怖い。落ちたら終わる。
凪斗は鎖を投げた。
黒い鎖が、空を切って飛ぶ。輪の光が、線になって伸びる。
鎖は龍の鱗に絡みついた。
巻き付く。食い込む。輪がひとつ、ふたつ、みっつ。
龍が暴れ、首を振る。鎖が引きちぎられそうになる。
「……耐えろ!」
凪斗が歯を食いしばる。
胸の痣が熱くなる。痛みが増す。
鎖が切れそうな瞬間、輪の光が強くなった。
まだ死にたくない。
生きたい。
その言葉が、鎖の輪を硬くする。
「……効いてる」
真白が息を呑む。
「龍の動き、鈍ってる」
「これ、気合いとかじゃなくて……」
「人の意思で、止まってる」
「夢は意思に弱い」
瑛士が言った。
指が忙しく動いている。目線が空中の何かを追っている。
「ログが……流れてる」
「やべえ、これ、悪夢のデータの塊だ」
「鱗が全部、個別の悪夢記録になってる」
「そんなもの、見てる場合か!」
真白が怒鳴る。
瑛士は返しながらも止めない。
「見ないと勝てない」
「弱点は必ずある。巨大なシステムは、必ずほころびを持つ」
真白は舌打ちし、両手を広げた。
夢の空気が、ざわりと動く。
時計塔の内部の壁が、溶けるように変形した。
次の瞬間、塔の中に「街」が生まれる。
公園のブランコ。
商店街のアーケード。
中学校の昇降口。
高校の屋上へ続く階段。
「……真白」
凪斗が目を見開いた。
真白は息を荒くしている。
でも目は強い。怖がっているのに、前に出ている目だ。
「夢ってさ」
「記憶と感情で出来てるんだよね」
「だったら、こっちの記憶で塗り替えればいい」
真白が指を鳴らす。
街の配置がぐにゃりと歪み、龍の進路に壁が生まれる。
思い出の場所が、迷路になる。
龍が暴れ、迷路を壊そうとする。
だが壊すたびに、次の角に別の景色が出る。
龍の巨体が、通れない道に詰まる。
「よし、足止めできる!」
凪斗が鎖を引く。
龍が引かれ、首が傾く。
その時、瑛士が叫んだ。
「見つけた!」
「鱗の模様、一定じゃない!」
「特定の時間帯と場所でだけ出る“起点”がある!」
「起点?」
凪斗が聞き返す。
「悪夢が生まれる場所だ」
「龍は寄せ集めだけど、核がある」
「核は、夢山柊司の心臓と同期してる」
「つまり……龍の胸だ!」
龍の胸部。
そこに、他より濃い黒が渦巻いている。
鱗の模様が、時計みたいに回っている。
時間。場所。悪夢の起点。
「相原!」
真白が叫ぶ。
「そこに行け!」
「私が道、作る!」
真白が迷路を変形させる。
公園の滑り台が、橋になる。
商店街のシャッターが、足場になる。
学校の廊下が、龍へ向かう一直線の通路になる。
凪斗は走った。
足元の景色が切り替わる。
ブランコの鎖の音。
自販機の光。
放課後の校舎の匂い。
全部、真白の記憶だ。
「……怖い」
凪斗が呟く。
怖いのに、懐かしい。懐かしいのに、泣きそうだ。
泣きそうになると、足がもつれる。泣くのは後だ。
龍が首を振り、凪斗を吹き飛ばそうとする。
黒い息が、嵐のように吐き出された。
凪斗は鎖を投げ、息の流れを引っ掛ける。
輪の光が、風に抵抗する。
風圧で体が持っていかれそうになる。だが鎖が支える。
「相原、無理すんな!」
真白の声が遠い。
「無理してる!」
凪斗は返す。
返しながら、笑いそうになる。こういうやり取りが出来る時点で、まだ繋がっている。
繋がっているなら、戦える。
龍の胸が近づく。
黒い渦が、中心で鼓動している。
鼓動が聞こえる。低い音。人間の心臓の音じゃない。システムの音だ。
凪斗が鎖を引き、輪の光を集める。
鎖の先端が、形を変え始めた。
槍のように尖り、真っ直ぐになる。
「……いける」
凪斗が息を吐いた、その瞬間。
視界が、白くなった。
龍の鱗が、ひとつ剥がれた。
剥がれた鱗の裏から、映像が噴き出す。
映像は、現実みたいに滑らかで、夢みたいに不自然だった。
そして凪斗は、その中に落ちた。
気づけば、教室に立っていた。
高校一年の教室。昼の光。机の列。黒板の文字。
全部、普通だ。
普通すぎて、気味が悪い。
「……あれ?」
凪斗は席に座った。
隣の席が空いている。真白の席のはずなのに、誰もいない。
瑛士の席も、空いている。
教室の中の誰も、気にしていない。
先生が入ってきて、出席を取る。
「相原」
「はい」
「相沢」
「はい」
真白の名前が呼ばれない。
瑛士の名前も呼ばれない。
凪斗は手を挙げそうになった。
違う。何かが違う。
でも、何が違うのか分からない。
昼休み。
凪斗は弁当を食べた。ひとりで。
話しかける相手がいない。なのに、それを不自然だと思えない。
まるで、それが最初からの人生だったみたいに。
放課後。
凪斗は帰った。ひとりで。
家に帰って、テレビをつけて、スマホを眺めて、寝た。
悪夢は来ない。
怪物も来ない。
胸の痣もない。
平和だ。
平和なのに、胸の奥が空っぽだ。
空っぽの理由が分からない。だから余計に苦しい。
凪斗は布団の中で、天井を見つめた。
何か大切なものを忘れている。
でも、思い出す必要がない気もする。
思い出したら、また痛い目を見る気がする。
その時、耳元で囁きがした。
「ほらね」
ドリーマーの声。
甘い声。優しい声。救いみたいな声。
「悪夢がなければ、穏やか」
「君たちは、こんな風に過ごせる」
凪斗は、目を閉じた。
そのまま眠れば、全部終わる気がした。
終わる、という言葉が、救いに見えた。
でも。
凪斗はふと、拓海の顔を思い出した。
教室の隅で、机に額を押し付けていた少年。
誰も助けなかった少年。
悪夢がない世界では、拓海はどうなる。
救われる必要がないまま、終わる。
終わるという言葉で、片付けられる。
「……それは」
凪斗は息を吸った。
喉が痛い。声が出ない。
でも出さないと、ここで終わる。
「それは、死んだ世界だ」
凪斗は言った。
誰に向けてでもない。自分に向けて。
「痛みがないのは、救いじゃない」
「繋がりがないのは、静けさじゃない」
「誰かを失ったことに気づけないのは、生じゃない」
ドリーマーの声が、少しだけ苛立った。
「君、面倒だなあ」
「楽になれるのに」
「楽じゃない」
凪斗は立ち上がった。
教室へ行く。誰もいない席を見る。
そこに誰かがいたはずだと、胸が叫ぶ。
「俺は、選ぶ」
凪斗は言った。
「醜くてもいい」
「痛くてもいい」
「誰かと生きる世界を選ぶ」
教室の窓ガラスに、ひびが入った。
ひびは広がり、光が漏れる。
光の向こうから、真白の声が聞こえた気がした。
「相原!」
次の瞬間、凪斗は落ちた。
落下ではない。引き戻される感覚。
胸の痣が燃え、現実が戻ってくる。
時計塔の頂上。
龍の胸。
鎖が手の中にある。
真白と瑛士の声が、すぐ近くにある。
「相原!」
真白が叫んでいる。
顔が青い。なのに目が強い。
その目を見た瞬間、凪斗の胸の空っぽが埋まった。
「……真白」
凪斗が息を吐く。
「いた」
「ちゃんと、いた」
「当たり前でしょ!」
「いない世界とか、勝手に作るな!」
真白の声が震えている。怒りと、恐怖と、安堵。全部混ざっている。
瑛士も、息を切らしていた。
「相原、聞こえるか」
「今、龍が“忘却世界”を撒いてる」
「お前だけじゃない。俺も、さっき一瞬……」
瑛士は言葉を飲み込んだ。
多分、自分が誰でもない存在になる世界を見せられたのだろう。
興味を持たれないまま、ネットの海に沈む世界。
瑛士にとって、それは痛い。
真白も唇を噛み、短く言った。
「私も」
「誰かを探す夢すら、なくなった」
「ただ、空を見てた」
凪斗は鎖を握り直した。
輪の光が、強くなる。
三人が「忘れたくない」と思った瞬間、夢は裂け目を作る。
「来るぞ!」
瑛士が叫ぶ。
龍が咆哮し、黒い霧が噴き出した。
霧の中に、さっきの世界が混ざっている。
平和で、静かで、空っぽな世界。
誘惑の形をした悪夢。
凪斗は歯を食いしばった。
「騙されるな!」
凪斗が言う。
声が震える。震えてもいい。震えたまま言えるなら、折れていない。
「悪夢がなくなるのは救いじゃない」
「救いは、誰かと一緒に苦しめることだ」
「苦しめるってことは、まだ生きてるってことだ!」
真白が、迷路をさらに歪めた。
公園のブランコが、龍の足を絡め取る鎖になる。
商店街の看板が、龍の翼を叩く板になる。
霧ヶ丘の思い出の断片が、現実にしがみつく爪になる。
「ほら、ここは私たちの街だ!」
真白が叫んだ。
「勝手に飲み込むな!」
「悪夢にするなら、私が先に書き換える!」
瑛士が、空中のコンソールを叩いた。
夢のログが流れる。数字と文字列が滲む。
瑛士は目を細め、短く笑った。
「見つけた」
「核への同期タイミング」
「今だ、相原!」
龍の胸が、鼓動と同時に一瞬だけ薄くなる。
核が露出する。黒い渦の中心に、赤黒い心臓みたいなものが見える。
それは夢山柊司の心臓に連動している。ここを刺せば、龍が崩れる。
凪斗は鎖を引き、先端を槍に変形させた。
輪の光が、一本の線になる。
温かい。痛い。怖い。全部がある。
全部があるから、刺せる。
「行くぞ!」
凪斗は走った。
龍の胸へ。核へ。
足元の床が崩れても、真白の迷路が新しい足場を作る。
瑛士のログ改変が、龍の動きを一瞬止める。
凪斗は槍を突き出した。
狙いは一点。
核。
刺さった。
鎖の先端が、核に食い込む。
黒い渦が、悲鳴を上げるようにうねる。
龍の体が硬直し、次の瞬間、内部から白い光が溢れ出した。
「……っ!」
凪斗の胸の痣が、焼けるように痛い。
痛みが全身を走る。
でも、今は逃げない。
逃げたら、鎖が抜ける。
「相原!」
真白の声が背中に当たる。
瑛士の声も重なる。
「抜くな!」
「最後まで通せ!」
凪斗は歯を食いしばり、槍をさらに押し込んだ。
核が、ひび割れた。
ひびから白い光が噴き出し、黒い霧を押し返す。
龍が絶叫した。
音が、塔の外へ突き抜ける。
霧ヶ丘の街が揺れる。現実の地面も揺れる。
ニュース速報がまた走る。人々が悲鳴を上げる。
夢と現実の境界が、最後に抵抗する。
だが白い光が、境界の亀裂を縫うように広がった。
龍の体が崩れ始めた。
鱗が剥がれ、霧が散り、巨大な影がほどけていく。
崩れた破片は、無数の光の粒になった。
黒い粒ではない。白い粒。温かい粒。
光の粒が、時計塔の外へ舞い上がる。
霧ヶ丘の街全体に、雪みたいに降り注ぐ。
人々は空を見上げ、口を開けたまま動けない。
だがその目に、ほんの少しだけ、温度が戻る。
半透明のまま歩いていた夢に取り込まれた人々が、足を止めた。
ぼんやりした目が、焦点を取り戻す。
誰かの名前を思い出すように、唇が動く。
「……母さん」
「……家」
「……帰らなきゃ」
凪斗は、その光景を見て、膝が抜けそうになった。
勝った。
でも、勝っただけじゃ終わらない。
塔の頂上に、重い沈黙が落ちた。
龍が消えた空間に、ドリーマーの笑い声が響かない。
代わりに、寝台の男――夢山柊司の呼吸のようなものが聞こえる。
凪斗は鎖を握ったまま、寝台を見た。
コードで繋がれた男の胸が、かすかに上下している。
生きている。眠っている。
そして、その眠りが、世界を壊しかけた。
真白が、凪斗の肩に手を置いた。
瑛士も、息を整えながら言った。
「……これで終わり、って顔するなよ」
「多分、終わってない」
凪斗も分かっていた。
ドリーマーは言っていた。自分は下請けだと。
この夢のシステムを回している“依頼主”がいる。
けれど今は、少しだけ息をしたかった。
少しだけ、街が生きているのを感じたかった。
凪斗は、鎖の輪の光を見つめた。
光はまだ消えていない。
それはつまり、まだ守るべき「生」が残っているということだ。
「……帰ろう」
凪斗が言った。
誰にでもなく。けれど、真白と瑛士が同時に頷いた。
帰る場所は、現実だ。
現実は痛い。面倒だ。綺麗じゃない。
でも、だからこそ生きている。
時計塔の外で、光の粒が降り続けていた。
霧ヶ丘の夜は、まだ終わらない。




