第7話 崩れる境界線
真白を救った翌日。
凪斗は朝から、どうにも指先の収まりが悪かった。
教室の机は平らで、椅子はガタつかない。ノートも教科書も、きちんと昨日の続きの位置で開ける。世界は、何事もなかったみたいに正常だった。
それが逆に、落ち着かない。
悪夢の中で人が死ぬ。
その一文だけでも、日常の床が薄くなる。なのに、学校という場所は、薄くなった床の上で平気で日直が黒板を拭き、学級委員が連絡事項を読み上げる。人間の適応力は素晴らしい。素晴らしいが、こういうときは腹が立つ。
凪斗は、自分の胸元に意識を向ける。制服の下、肌に残った痣は、昨日より少しだけ薄い。薄いが、消えていない。
消えていないということは、終わっていないということだ。
昼休みのチャイムが鳴った瞬間、凪斗は立ち上がった。
真白の机の横に立つと、彼女は箸を持ったまま顔を上げる。
「なに、そんな顔」
真白は笑った。いつもの軽さだ。
凪斗の中で、その軽さが一瞬だけ痛みに変わる。
昨夜、彼女は夢の中で泥に沈みかけていた。
それを知っているのは、凪斗だけだ。
「屋上、来て」
「え、なに。告白?」
「ちがう」
真白は目を細めた。冗談の顔から、探る顔へ切り替わるのが早い。幼なじみの強みは、こういうときに敵になる。
「分かった。行く」
屋上へ向かう階段は、昼休みのせいで人が少ない。廊下の窓から入る光が白く、冬の一歩手前の空気が肌に触れる。
凪斗は、足音を数えないようにした。数えると、逃げたくなる。
屋上の扉を開けると、風が顔を叩いた。
フェンス越しに見える霧ヶ丘の街は、相変わらず平凡だ。スーパーの看板、住宅の屋根、遠くの山。どこにも悪夢の気配はない。
現実は、だいたいこんな顔をしている。
「で、なに」
真白は腕を組む。表情は軽いが、視線は真剣だ。
凪斗は息を吸った。肺の奥が冷たい。
「……話す」
凪斗は言った。
「昨日のこと。俺のこと。全部」
真白は目を瞬かせた。
それから、ゆっくり頷く。言い返さない。逃げない。そういうところが、昔から凪斗の救いで、同時に罪悪感の種でもある。
凪斗は、順番に話した。
ドリーム・チェインというアプリのこと。睡眠管理だの夢の共有だの、甘い文句で人を誘うこと。
そして、その影で「寝ている間に死ぬ若者」が増えていること。
夢の中で死んだら、現実でも死ぬ。
そんな馬鹿みたいな理屈が、霧ヶ丘ではニュースになりかけている。ニュースになりかけ、というのが厄介だ。現実味が薄いからこそ、冗談と同じ棚に置かれる。
凪斗は、最初の夜の話をした。廃遊園地。錆びた観覧車。黒いシミ。異形の怪物。胸を貫かれた感覚。
そして、目覚めた部屋の床に残っていた足跡。
真白は、口元を押さえた。
信じられない、という顔は確かにした。だが、「嘘だ」とは言わない。自分が悪夢に触れたからだろう。触れた人間は、軽口を叩けない。
「俺は一回、夢の中で死んだ」
凪斗は淡々と言った。淡々と言わないと、声が壊れる。
「そっから、見えるようになった。悪夢の中の、やつらが」
真白が喉を鳴らす。
風がフェンスを揺らし、金属音が短く鳴った。
「瑛士と一緒に……狩ってる」
「不知火くん?」
真白が即座に名前を出した。
彼女の記憶は、こういうところで無駄に正確だ。
「なんで、あの子が」
「オカルト好きだろ。あと、頭がいい。悪い意味でも」
凪斗は口を滑らせてから、しまったと思った。
真白が眉を上げる。だが、突っ込むより先に、凪斗は続けた。
「真白、お前も……狙われてた」
真白の肩が、ぴくりと動いた。
「最近変な夢が続くって言ってたの、あれ」
「予兆だった。昨日、俺が夢の中で……」
助けた、と言いかけて、凪斗は言葉を飲んだ。
助けたという事実はある。でも、そこで自分が胸を張ったら、この話は一気に薄っぺらくなる。
真白は、しばらく黙っていた。
黙って、屋上から街を見下ろす。霧ヶ丘の平凡な景色が、逆に異物に見える。ここでそんな話をしている自分たちが、世界から浮いているみたいだった。
「……昨日」
真白が口を開く。
「急に、夢が切れたんだよね」
声が少し震える。自分でも気づいていないふりをしていたのかもしれない。あの悪夢が毎晩続いていたとしたら、心はそう簡単に保たない。
「探してた」
真白は言った。
「誰かを、ずっと探してた」
「顔も名前も分からないのに、いないと終わる気がして」
「見つからなくて、落ちて……それが、昨日で止まった」
凪斗は喉の奥が熱くなるのを感じた。
守ったつもりで、守られている。そんな感じだ。
「……本当なんだね」
真白が言う。
その言い方が、凪斗には妙に重かった。
本当かどうか確かめる方法なんて、本当はない。ただ、辻褄が合ってしまう。そういう種類の真実だ。
「ねえ」
真白が、凪斗を見る。
目に涙が溜まっているのが、はっきり分かった。
「なんで、黙ってたの」
「なんで、言ってくれなかったの」
責める声ではない。
それが、凪斗の背中を強く押した。
「巻き込みたくなかった」
凪斗は、正直に言った。
正直に言ってしまったが、言った瞬間に分かる。これは免罪符ではなく、ただの自己満足だ。相手が危険に巻き込まれている時点で、「巻き込みたくなかった」は結果として無意味になる。
「……もう巻き込まれてるよ」
真白は、静かに言った。
その静かさが、逆に強い。
「夢も見たし」
「狙われたし」
「助けられた」
そして、少し間を置いて。
「だったら最後まで、一緒に巻き込まれてやる」
凪斗は言葉を失った。
真白は涙を拭うでもなく、泣き喚くでもない。泣くことを許さない種類の強さで立っている。
守る側。守られる側。
凪斗の中にあった線引きは、真白の言葉で簡単に割れた。
守る、という言葉は便利だ。
でも、便利な言葉ほど、人を鈍らせる。
守る側は、守られる側の判断を奪ってしまう。危険を知らせず、選択肢を渡さず、「君のため」という顔で勝手に決める。それは優しさに見える。見えるが、同時に傲慢だ。
凪斗は、自分がそれをやったことに気づく。
そして、気づいた瞬間が一番遅い。
「……ごめん」
凪斗は、そう言うしかなかった。
「うん」
真白は頷く。
「今は、それでいい」
「でも、次は黙らないで」
次は、という言葉が刺さる。
次がある前提で話してくれるのが、救いでもあり怖さでもあった。
昼休みの残り時間が、妙に短く感じた。
チャイムが鳴る。二人は屋上を出た。
扉が閉まる音が、やけに現実的だった。
放課後。
凪斗は瑛士に呼び止められた。
呼び止めた、というより捕まえたに近い。
瑛士は、廊下の隅でスマホをいじっていたが、凪斗の顔を見るなり手招きする。
「相原。今、時間ある?」
「……何」
「見せたいもんがある」
瑛士の目は妙に冴えていた。
あの目は、面白いオカルト記事を見つけた時の目だ。今は、それが人命に直結しているのが笑えない。
瑛士は、人気のない視聴覚室前のベンチに凪斗を座らせ、スマホの画面を差し出した。
「ログ、また洗い直した」
瑛士が言う。
その言い方が、すでに嫌な予感を運んでくる。
「昨日の発生数が、おかしい」
画面には、地図と数字が並んでいた。細かい説明文ではなく、ただの点と数。瑛士は、こういう時だけ無駄に親切だ。
「ここ、見て」
霧ヶ丘市。
点が密集している。
「……集中してる」
凪斗が呟くと、瑛士は満足そうに頷いた。
「そう。昨夜だけ異様に偏った」
「今までは全国に散ってた。数件ずつ」
「でも、昨日は霧ヶ丘に寄せてきてる」
凪斗は背筋が冷える。
偶然ではない。偶然にしては、性格が悪すぎる偏り方だ。
「ドリーマーが、戦場を集約してる」
瑛士は言った。
「バグを仕留めたいんだろ」
「つまり、お前を」
凪斗は、言い返せなかった。
実感がある。ドリーマーの声は、明らかにこちらを意識していた。獲物を追う目だった。
「今夜、来るな」
瑛士の声が少し低くなる。
「多分、今までとは違う規模で」
凪斗は、拳を握った。
そのとき、背後から足音がした。
「……何の話?」
真白だった。
帰り支度を終えたのだろう。カバンを肩にかけたまま、こちらを見ている。
凪斗は一瞬だけ迷った。だが、迷うこと自体がもう遅い。
「真白には話した」
凪斗が言うと、瑛士は目を丸くした。
そして、すぐに口角を上げる。
「へえ。やっと腹括った?」
「うるさい」
真白は、画面を覗き込み、霧ヶ丘に集まった点の数を見て顔色を変えた。
「これ、全部……」
「候補な」
瑛士が言う。
「悪夢死の候補。実際に死ぬかは、夢の中で決まる」
「そして夢の中で決まるなら、相原の仕事になる」
凪斗は、胸の痣が微かに疼くのを感じた。
責任、という言葉は、ここでは重すぎる。ただ、事実として自分が矢面に立っている。
「……行くしかない」
凪斗が言うと、真白は頷いた。
「私も」
凪斗は反射的に「だめ」と言いかけて、飲み込んだ。
もう、その線引きはできない。
瑛士は、真白をちらりと見て、肩をすくめた。
「守りたいなら、まず情報共有だよ」
「黙ってるほうが危険」
正論は痛い。
それでも、今は正論に縋るしかない。
その夜。
三人はそれぞれの家に戻った。
凪斗は布団に入っても、すぐには眠れなかった。
夢に行くのが怖いのではない。行った先で、今夜は何が起きるのか分からないのが怖い。
現実の夜は静かだ。
静かすぎて、悪夢の入り口を隠す。
まるで、ドアが最初から存在しないみたいに。
凪斗は目を閉じる。
意識が沈む。
その沈み方が、いつもより急だった。
引きずられる。
誰かの手が、足首を掴んでいるみたいに。
次に目を開けた瞬間。
そこは、霧ヶ丘の街だった。
ただし、見慣れた霧ヶ丘ではない。
道路の白線が、血管みたいに脈打っている。
アスファルトの下を、何かが生き物のように流れている。
建物の窓から、目が覗いている。
ひとつ、ふたつではない。無数だ。
窓の数だけ、視線がある。
視線の数だけ、人間の心が削れていく。
「……混ざってる」
凪斗が呟くと、自分の声が妙に乾いて響いた。
現実の街と、悪夢の世界。
境界線が曖昧になって、重なり始めている。
遠くで、鐘のような音が鳴った。
いや、鐘ではない。鼓動だ。巨大な心臓が、街の中心で脈打っている音。
凪斗が視線を向けると、そこには巨大な時計塔のような構造物が出現していた。
時計塔なのに針はない。
代わりに、塔そのものが呼吸するみたいに膨らんで、縮む。
近づくほど、空気が重くなる。
酸素が薄くなるのとは違う。言葉にしづらい圧だ。
思考が遅れ、感情が鈍り、足が勝手に止まりたがる。
道端には、人影がいた。
半透明で、ぼんやりと街を歩き回っている。
目は虚ろで、何かを探すように手を伸ばしている。
夢に取り込まれた人々。
まだ完全に死んでいないのに、もう生きてもいない。
凪斗は、胸の奥が冷たくなるのを感じた。
ここで手を伸ばせば助けられるのか。
そんな余裕があるのか。
どちらも、答えは出ない。
そのとき、背後から声がした。
「やっと来た」
瑛士だった。
続けて、真白が現れる。
「……ここ、なにこれ」
真白は言葉を失っていた。
昨日まで、学校の廊下で同じ制服を着ていたのに。今は、同じ街が、別の皮を被っている。
「霧ヶ丘の皮を借りた悪夢」
瑛士が言う。
「もしくは、悪夢が現実を借り始めた」
凪斗は、時計塔を見上げた。
そして、理解する。
今夜は、逃げられない。
この街ごと、戦場にされている。
霧ヶ丘の夜は、いつもなら静かだ。
コンビニの光が白く、信号が律儀に色を変え、帰宅途中の車が数台流れるだけ。そういう「普通」が、この街の売りだったはずだ。
なのに今は、普通が仮装している。
道路の白線が血管のように膨らみ、収縮するたびに、靴底から嫌な振動が伝わってくる。建物の窓に貼り付いた目玉は、瞬きもしない。瞬きしない目で見られ続けると、人間は自分が「間違っている」と思い始める。視線というのは、そういう道具だ。
「ねえ、これ……誰の夢なの」
真白が、声を落として言った。
怖がっているのに、質問が先に出る。彼女はそういう人間だ。怖いから黙るのではなく、怖いから知ろうとする。結果として、余計に怖いものを見に行く。
「多分、誰のでもある」
瑛士が、いつもの軽い口調で言った。
軽いが、目は冴えている。冴えすぎていて、逆に危うい。
「ほら、夢ってさ。個人のもので、個人のものじゃないだろ」
「怖いもののテンプレがある。落ちるとか、追われるとか」
「それを寄せ集めたら、こうなる」
説明は分かりやすい。分かりやすいからこそ、腹が立つ。
夢の話を、理科の実験みたいに扱うな、と言いたくなる。だが瑛士は、その距離感でしか耐えられないのだろう。近づきすぎると、自分が壊れるから。
凪斗は、時計塔を見上げた。
塔は街の中心にそびえ、空に刺さっている。影が濃い。夜のはずなのに、塔の周りだけ「昼みたいに見える」。見えるのに、明るくない。輪郭だけが浮き上がっている。
あれが、発信源。
悪夢の脈動が、そこから街全体に送られている。
「行く」
凪斗が言うと、真白が頷いた。
瑛士も肩を回す。無駄に準備運動をするところが、現実っぽい。
歩き出した瞬間、道端の半透明の人影が、ゆらりとこちらを向いた。
正確には、「向いたように見えた」。目が虚ろなのに、視線だけは合う。人間の形をしているのに、人間の手順で動かない。それが一番怖い。
人影は、手を伸ばした。
助けを求めるような手にも見えるし、引きずり込むための手にも見える。どちらか分からない、というのが厄介だ。人間は分からないものに弱い。分からないから、勝手に意味を盛る。
「触るな」
瑛士が言った。
凪斗が反射で立ち止まる。真白も同時に止まった。
「今は優先順位が違う」
「助けたいなら、あの塔を止めないと増えるだけ」
正しい。正しいが、正しさはいつも気分が悪い。
凪斗は唇を噛んで、歩く速度を上げた。
時計塔へ近づくほど、街の歪みは露骨になった。
街灯が、何かの骨みたいに細く見える。看板の文字が、勝手に別の文へ変わる。「安全運転」だったはずが「眠れ」になり、「ようこそ」が「目覚めるな」になる。
言葉が改ざんされると、人間の心は簡単に乱れる。自分の理解が、世界の側から拒否されるからだ。
「すごいよね」
声がした。
ビルの谷間から、笑い声が転がってくる。
ドリーマー。
姿は見えないのに、いる。声だけで、空間の温度が変わる。
「夢と現実が混ざる瞬間って」
「どこまでが本当で、どこからが嘘か分からなくなる」
笑い声に、無邪気さが混じっている。
子どもの無邪気さは、時々、刃物より怖い。
「人間って、曖昧さに弱い生き物だからさ」
「ほら、今も。君たち、少しずつ『ここが現実かも』って思い始めてる」
凪斗は、歯を食いしばる。
否定したい。だが否定の言葉を口にした時点で、相手の土俵に上がることになる。
真白が、凪斗の袖を掴んだ。
小さな力。けれど、その力が「現実側」につなぎ止める釘になる。
「相原。目、逸らさないで」
真白の声は震えていた。
震えているのに、言う。自分が怖いと分かっているからこそ、逸らしたら負けると知っている。
時計塔の入口は、いつの間にか開いていた。
開いているというより、口を開けている。中は黒い。黒いが、ただの暗闇ではない。濃度がある。引力がある。覗き込むだけで、意識が吸われそうになる。
「行くぞ」
凪斗が言った。
黒いナイフは、いつの間にか手の中にあった。握ると冷たい。冷たいのに、掌が汗ばむ。矛盾しているが、悪夢はだいたいそんなものだ。
塔の中は、迷宮だった。
螺旋階段があり、歪んだ廊下があり、扉がいくつもある。どれも「ここを通れ」と主張しているのに、同時に「通るな」と言っている。
階段の手すりは湿っている。湿り気が、妙に生々しい。夢なのに手触りがある時点で、嫌な予感しかしない。
壁に、映像が浮かんだ。
知らない家の玄関で、泣いている子ども。
救急車のサイレン。
ベッドの上で、心臓が止まりかけたまま動かない高校生。
凪斗がナイフを振るう場面。
助かった人が、翌朝に「奇跡」と呼ばれる場面。
「この子は、本当に救われたと思う?」
ドリーマーの声が、壁の内側から響く。
やけに近い。耳のすぐ後ろで囁かれているみたいだ。
「ただ一時的に悪夢から逃げただけじゃない?」
「逃げた先で、また別の悪夢に食われるかもしれないのに」
凪斗の胸が、ぐらつく。
言い返したい。救った意味はあった、と叫びたい。だが、壁の映像が現実だったからこそ、揺れる。
助けた人間が、この先どうなるか。
凪斗は知らない。知りようがない。
それでも「助けた」と言っていいのか。そういう問いは、正しさの形をして人を殺す。
「……今日、生き延びることに意味がある」
凪斗は、言葉を選びながら言った。
大きな正義を語ると、逆に嘘になる。だから小さく言う。今日、と言う。今、と言う。
「明日を選べるのは、生きてるやつだけだ」
その言葉が、壁に吸い込まれる。
映像が一瞬だけ乱れ、ノイズが走った。ドリーマーが気に食わない時の反応だ。効いている。
「へえ」
ドリーマーが笑った。
「生存バイアスってやつ?」
「生きてる側の論理は、いつも強いね」
瑛士が鼻で笑った。
「お前の論理は、弱い側のふりしてるだけだろ」
「弱いふりして人を弄ぶのが趣味って、性格終わってる」
こういう時、瑛士は強い。
強いというより、口が悪い。だが口の悪さは、時々、盾になる。相手の言葉を「言葉のまま」扱って、神格化しないから。
真白は、壁の映像から目を逸らさずに言った。
「相原が助けた人、助かったよ」
「少なくとも、昨日は生きてた」
「それで十分じゃない?」
十分、という言葉が、凪斗の胸に落ちる。
十分というのは、諦めではない。欲張らない勇気だ。
欲張らない勇気がないと、人は救う側でいられない。
三人は階段を上った。
螺旋は、やけに長い。途中で方向感覚が狂う。上っているのに下っている気がする。脳が「落ちる夢」を勝手に再生する。
その途中で、瑛士が足を止めた。
「……おい」
声が低い。
凪斗が振り向くと、瑛士の足元から黒い影がじわりと染み出していた。影は液体みたいに広がり、階段の段差を舐めるように這い上がる。
影が、瑛士の足首に絡みつく。
次の瞬間、引っ張る力が走った。下へ。底へ。引きずり戻す力。
「ああ、やっぱりね」
ドリーマーの声が嬉しそうに響く。
嬉しそうで、気持ちが悪い。笑い声が弾むほど、人の背筋は冷える。
「君、前から“誰かの悪夢”に興味津々だったでしょ?」
「君自身の悪夢は、どんな味がするのかな」
瑛士の表情が、一瞬だけ固まった。
固まったのは恐怖ではない。図星を刺された時の苛立ちだ。
「……うるせえ」
瑛士は吐き捨てる。だが影は容赦しない。足首だけでなく、膝へ、腰へ、這い上がる。黒い触手が、骨の形をなぞるように絡む。
凪斗と真白は同時に動いた。
凪斗が瑛士の腕を掴み、真白が反対側から掴む。引き上げようとするが、影の力は重い。重さが物理的ではない。心の底にある「戻りたい場所」を引っ張る重さだ。
「くっ……!」
凪斗の肩が軋む。
夢なのに筋が痛む。夢なのに息が切れる。悪夢は、こういうところだけ無駄にリアルだ。
「瑛士!」
真白が叫ぶ。
「手、離すな!」
瑛士は笑った。
笑い方が、いつもの瑛士じゃない。自嘲が混じっている。自分の弱さを知っている笑いだ。
「俺は、ただ……知りたかっただけなんだよ」
その言葉と同時に、瑛士の視界が暗転する。
いや、凪斗たちの視界が「瑛士の中」に引き込まれる。
フラッシュバック。
子どもの頃の瑛士がいる。薄暗い部屋。テレビの砂嵐。夜中のリビング。親は寝ている。
瑛士は一人で、ホラー番組を見ている。怖いのに、目を逸らせない。
怖いものを見ることで、怖さをごまかしている。怖いものを「知る」ことで、怖さを支配しているつもりになる。
次の場面。
学校の図書室。都市伝説の本を抱え、ニヤつく瑛士。
その横で、誰かが泣いている。瑛士は見ていない。怖いものだけを見て、怖がっている人間は見ない。そうやって、自分の足元の弱さから目を逸らしてきた。
「怖いものを覗き込むとさ」
瑛士の声が、遠くから聞こえる。
いや、近い。凪斗の胸の中から聞こえる。
「自分が怖いって気づかなくて済むんだよ」
「俺は、ずっとそうしてきた」
影が、瑛士の腰を引いた。
引かれる方向は階段の下。落下ではない。戻る。戻される。
怖い場所へ戻される。
「依存だね」
ドリーマーが、楽しそうに言う。
「恐怖への依存」
「怖いものを見ないと、君は君でいられない」
凪斗は歯を食いしばった。
瑛士の弱さを、餌にする。
瑛士の弱さを、味見する。
それがドリーマーのやり方だ。
「知りたいって気持ちは!」
凪斗は叫んだ。
「誰かを傷つけるためじゃないだろ!」
「お前が怖いのは分かる。でも、怖いからって、落ちていい理由にはならない!」
凪斗は黒いナイフを振り下ろし、影に突き立てた。
刃が刺さる感触は、粘る布に穴を開けるようだった。影が悲鳴を上げる。悲鳴というより、ノイズだ。スピーカーが壊れるときの音に似ている。
真白も叫んだ。
「あんたがいないと、情報戦が成り立たないんだよ!」
「かっこつけて落ちるな! 空気読め!」
半分冗談みたいな言い方なのに、声が震えていた。
震えているのに言う。真白は、いつもそうだ。怖いからこそ、言葉で釘を打つ。
瑛士が、ふっと笑った。
その笑いが、いつもの瑛士に戻る。強がりの笑い。生きるための笑い。
「……空気読むの、苦手なんだけど」
「読め!」
真白が即答した。
その瞬間、影の絡みが、ほんの少し緩む。
凪斗は、緩んだ隙を逃さなかった。
ナイフをねじ込み、影を切り裂く。切り裂かれた影は、黒い砂のように崩れて落ちる。階段の隙間へ消える。
瑛士の足首から、重さが抜けた。
「くそ……」
瑛士は息を吐きながら、階段に膝をついた。
その膝のつき方が、妙に現実的で、凪斗は一瞬だけ安心する。夢の中でも、人は膝をつく。そういう「当たり前」が、ここでは貴重だ。
「大丈夫か」
凪斗が言うと、瑛士は顔を上げる。
「大丈夫じゃない」
「でも、死んではない」
瑛士は口角を上げた。
その言い方が、凪斗の「今日生き延びることに意味がある」という言葉と重なった。
大きな勝利じゃない。小さな生存だ。だが、その小ささこそが積み重なる。
ドリーマーが、つまらなそうに舌打ちした気配がした。
「しぶといねえ」
「バグが増えてる」
「バグじゃない」
真白が言った。
「ただの人間だよ」
「人間が、簡単に壊れると思うな」
その言葉が、凪斗の胸を少しだけ温めた。
真白は自分も壊れかけた。壊れかけたからこそ、人間のしぶとさを信じたいのだろう。
三人は立ち上がった。
息を整える暇はない。時計塔は、まだ脈打っている。
壁の目は、まだ瞬きもしない。
「行くぞ」
瑛士が先に言った。
さっきまで引きずられかけていたくせに、前に出る。そういうところが、瑛士の危うさで、同時に強さでもある。
「頂上に、いる」
凪斗は確信した。
ドリーマーの声が、近い。近いということは、上だ。
悪夢の中心は、いつも「見上げさせる位置」にある。人間に、弱さを思い出させるために。
真白が、凪斗の横に並ぶ。
「ねえ、相原」
「なに」
「……怖い?」
凪斗は一瞬だけ迷ってから、言った。
「怖い」
「でも、逃げたらもっと怖い」
真白は、短く笑った。
笑い方が、泣きそうだった。
「だよね」
瑛士が振り返る。
「ほら、三人そろってビビってる」
「最悪だな」
「最悪だよ」
真白が言い返した。
「でも、三人いる」
「一人よりマシ」
三人は、螺旋階段を再び上り始めた。
時計塔の奥で、鼓動が大きくなる。
壁の映像が、また別の悪夢を映し出そうと揺れる。
凪斗はナイフを握り直した。
冷たい。重い。
それでも、この冷たさは自分のものだ。自分の恐怖と痛みからできた武器なら、最後まで握っていられる。
そして、凪斗は思った。
境界線が崩れるなら、こちらも崩してやるしかない。
守る側と守られる側。強い側と弱い側。夢と現実。
全部、都合よく線を引いて安心していたのは、人間のほうだ。
今夜は、その線を全部、試されている。
三人は、互いの弱さを知っている。
知った上で、手を離さない。
時計塔の頂上へ向かって。
脈動の中心へ向かって。
ここで決着をつけなきゃ、と。
誰も言わないまま、同じ結論を抱えて進んでいく。




