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悪夢を殺せるのは、夢の中で死んだ人間だけ  作者: 妙原奇天


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7/12

第7話 崩れる境界線

 真白を救った翌日。

 凪斗は朝から、どうにも指先の収まりが悪かった。


 教室の机は平らで、椅子はガタつかない。ノートも教科書も、きちんと昨日の続きの位置で開ける。世界は、何事もなかったみたいに正常だった。

 それが逆に、落ち着かない。


 悪夢の中で人が死ぬ。

 その一文だけでも、日常の床が薄くなる。なのに、学校という場所は、薄くなった床の上で平気で日直が黒板を拭き、学級委員が連絡事項を読み上げる。人間の適応力は素晴らしい。素晴らしいが、こういうときは腹が立つ。


 凪斗は、自分の胸元に意識を向ける。制服の下、肌に残った痣は、昨日より少しだけ薄い。薄いが、消えていない。

 消えていないということは、終わっていないということだ。


 昼休みのチャイムが鳴った瞬間、凪斗は立ち上がった。

 真白の机の横に立つと、彼女は箸を持ったまま顔を上げる。


「なに、そんな顔」


 真白は笑った。いつもの軽さだ。

 凪斗の中で、その軽さが一瞬だけ痛みに変わる。


 昨夜、彼女は夢の中で泥に沈みかけていた。

 それを知っているのは、凪斗だけだ。


「屋上、来て」


「え、なに。告白?」


「ちがう」


 真白は目を細めた。冗談の顔から、探る顔へ切り替わるのが早い。幼なじみの強みは、こういうときに敵になる。


「分かった。行く」


 屋上へ向かう階段は、昼休みのせいで人が少ない。廊下の窓から入る光が白く、冬の一歩手前の空気が肌に触れる。

 凪斗は、足音を数えないようにした。数えると、逃げたくなる。


 屋上の扉を開けると、風が顔を叩いた。

 フェンス越しに見える霧ヶ丘の街は、相変わらず平凡だ。スーパーの看板、住宅の屋根、遠くの山。どこにも悪夢の気配はない。

 現実は、だいたいこんな顔をしている。


「で、なに」


 真白は腕を組む。表情は軽いが、視線は真剣だ。

 凪斗は息を吸った。肺の奥が冷たい。


「……話す」


 凪斗は言った。


「昨日のこと。俺のこと。全部」


 真白は目を瞬かせた。

 それから、ゆっくり頷く。言い返さない。逃げない。そういうところが、昔から凪斗の救いで、同時に罪悪感の種でもある。


 凪斗は、順番に話した。

 ドリーム・チェインというアプリのこと。睡眠管理だの夢の共有だの、甘い文句で人を誘うこと。

 そして、その影で「寝ている間に死ぬ若者」が増えていること。


 夢の中で死んだら、現実でも死ぬ。

 そんな馬鹿みたいな理屈が、霧ヶ丘ではニュースになりかけている。ニュースになりかけ、というのが厄介だ。現実味が薄いからこそ、冗談と同じ棚に置かれる。


 凪斗は、最初の夜の話をした。廃遊園地。錆びた観覧車。黒いシミ。異形の怪物。胸を貫かれた感覚。

 そして、目覚めた部屋の床に残っていた足跡。


 真白は、口元を押さえた。

 信じられない、という顔は確かにした。だが、「嘘だ」とは言わない。自分が悪夢に触れたからだろう。触れた人間は、軽口を叩けない。


「俺は一回、夢の中で死んだ」


 凪斗は淡々と言った。淡々と言わないと、声が壊れる。


「そっから、見えるようになった。悪夢の中の、やつらが」


 真白が喉を鳴らす。

 風がフェンスを揺らし、金属音が短く鳴った。


「瑛士と一緒に……狩ってる」


「不知火くん?」


 真白が即座に名前を出した。

 彼女の記憶は、こういうところで無駄に正確だ。


「なんで、あの子が」


「オカルト好きだろ。あと、頭がいい。悪い意味でも」


 凪斗は口を滑らせてから、しまったと思った。

 真白が眉を上げる。だが、突っ込むより先に、凪斗は続けた。


「真白、お前も……狙われてた」


 真白の肩が、ぴくりと動いた。


「最近変な夢が続くって言ってたの、あれ」

「予兆だった。昨日、俺が夢の中で……」


 助けた、と言いかけて、凪斗は言葉を飲んだ。

 助けたという事実はある。でも、そこで自分が胸を張ったら、この話は一気に薄っぺらくなる。


 真白は、しばらく黙っていた。

 黙って、屋上から街を見下ろす。霧ヶ丘の平凡な景色が、逆に異物に見える。ここでそんな話をしている自分たちが、世界から浮いているみたいだった。


「……昨日」


 真白が口を開く。


「急に、夢が切れたんだよね」


 声が少し震える。自分でも気づいていないふりをしていたのかもしれない。あの悪夢が毎晩続いていたとしたら、心はそう簡単に保たない。


「探してた」


 真白は言った。


「誰かを、ずっと探してた」

「顔も名前も分からないのに、いないと終わる気がして」

「見つからなくて、落ちて……それが、昨日で止まった」


 凪斗は喉の奥が熱くなるのを感じた。

 守ったつもりで、守られている。そんな感じだ。


「……本当なんだね」


 真白が言う。


 その言い方が、凪斗には妙に重かった。

 本当かどうか確かめる方法なんて、本当はない。ただ、辻褄が合ってしまう。そういう種類の真実だ。


「ねえ」


 真白が、凪斗を見る。

 目に涙が溜まっているのが、はっきり分かった。


「なんで、黙ってたの」

「なんで、言ってくれなかったの」


 責める声ではない。

 それが、凪斗の背中を強く押した。


「巻き込みたくなかった」


 凪斗は、正直に言った。


 正直に言ってしまったが、言った瞬間に分かる。これは免罪符ではなく、ただの自己満足だ。相手が危険に巻き込まれている時点で、「巻き込みたくなかった」は結果として無意味になる。


「……もう巻き込まれてるよ」


 真白は、静かに言った。

 その静かさが、逆に強い。


「夢も見たし」

「狙われたし」

「助けられた」


 そして、少し間を置いて。


「だったら最後まで、一緒に巻き込まれてやる」


 凪斗は言葉を失った。

 真白は涙を拭うでもなく、泣き喚くでもない。泣くことを許さない種類の強さで立っている。


 守る側。守られる側。

 凪斗の中にあった線引きは、真白の言葉で簡単に割れた。


 守る、という言葉は便利だ。

 でも、便利な言葉ほど、人を鈍らせる。


 守る側は、守られる側の判断を奪ってしまう。危険を知らせず、選択肢を渡さず、「君のため」という顔で勝手に決める。それは優しさに見える。見えるが、同時に傲慢だ。


 凪斗は、自分がそれをやったことに気づく。

 そして、気づいた瞬間が一番遅い。


「……ごめん」


 凪斗は、そう言うしかなかった。


「うん」


 真白は頷く。


「今は、それでいい」

「でも、次は黙らないで」


 次は、という言葉が刺さる。

 次がある前提で話してくれるのが、救いでもあり怖さでもあった。


 昼休みの残り時間が、妙に短く感じた。

 チャイムが鳴る。二人は屋上を出た。

 扉が閉まる音が、やけに現実的だった。


 放課後。

 凪斗は瑛士に呼び止められた。


 呼び止めた、というより捕まえたに近い。

 瑛士は、廊下の隅でスマホをいじっていたが、凪斗の顔を見るなり手招きする。


「相原。今、時間ある?」


「……何」


「見せたいもんがある」


 瑛士の目は妙に冴えていた。

 あの目は、面白いオカルト記事を見つけた時の目だ。今は、それが人命に直結しているのが笑えない。


 瑛士は、人気のない視聴覚室前のベンチに凪斗を座らせ、スマホの画面を差し出した。


「ログ、また洗い直した」


 瑛士が言う。

 その言い方が、すでに嫌な予感を運んでくる。


「昨日の発生数が、おかしい」


 画面には、地図と数字が並んでいた。細かい説明文ではなく、ただの点と数。瑛士は、こういう時だけ無駄に親切だ。


「ここ、見て」


 霧ヶ丘市。

 点が密集している。


「……集中してる」


 凪斗が呟くと、瑛士は満足そうに頷いた。


「そう。昨夜だけ異様に偏った」

「今までは全国に散ってた。数件ずつ」

「でも、昨日は霧ヶ丘に寄せてきてる」


 凪斗は背筋が冷える。

 偶然ではない。偶然にしては、性格が悪すぎる偏り方だ。


「ドリーマーが、戦場を集約してる」


 瑛士は言った。


「バグを仕留めたいんだろ」

「つまり、お前を」


 凪斗は、言い返せなかった。

 実感がある。ドリーマーの声は、明らかにこちらを意識していた。獲物を追う目だった。


「今夜、来るな」


 瑛士の声が少し低くなる。


「多分、今までとは違う規模で」


 凪斗は、拳を握った。

 そのとき、背後から足音がした。


「……何の話?」


 真白だった。

 帰り支度を終えたのだろう。カバンを肩にかけたまま、こちらを見ている。

 凪斗は一瞬だけ迷った。だが、迷うこと自体がもう遅い。


「真白には話した」


 凪斗が言うと、瑛士は目を丸くした。

 そして、すぐに口角を上げる。


「へえ。やっと腹括った?」


「うるさい」


 真白は、画面を覗き込み、霧ヶ丘に集まった点の数を見て顔色を変えた。


「これ、全部……」


「候補な」


 瑛士が言う。


「悪夢死の候補。実際に死ぬかは、夢の中で決まる」

「そして夢の中で決まるなら、相原の仕事になる」


 凪斗は、胸の痣が微かに疼くのを感じた。

 責任、という言葉は、ここでは重すぎる。ただ、事実として自分が矢面に立っている。


「……行くしかない」


 凪斗が言うと、真白は頷いた。


「私も」


 凪斗は反射的に「だめ」と言いかけて、飲み込んだ。

 もう、その線引きはできない。


 瑛士は、真白をちらりと見て、肩をすくめた。


「守りたいなら、まず情報共有だよ」

「黙ってるほうが危険」


 正論は痛い。

 それでも、今は正論に縋るしかない。


 その夜。

 三人はそれぞれの家に戻った。


 凪斗は布団に入っても、すぐには眠れなかった。

 夢に行くのが怖いのではない。行った先で、今夜は何が起きるのか分からないのが怖い。


 現実の夜は静かだ。

 静かすぎて、悪夢の入り口を隠す。

 まるで、ドアが最初から存在しないみたいに。


 凪斗は目を閉じる。

 意識が沈む。

 その沈み方が、いつもより急だった。


 引きずられる。

 誰かの手が、足首を掴んでいるみたいに。


 次に目を開けた瞬間。


 そこは、霧ヶ丘の街だった。


 ただし、見慣れた霧ヶ丘ではない。

 道路の白線が、血管みたいに脈打っている。

 アスファルトの下を、何かが生き物のように流れている。


 建物の窓から、目が覗いている。

 ひとつ、ふたつではない。無数だ。

 窓の数だけ、視線がある。

 視線の数だけ、人間の心が削れていく。


「……混ざってる」


 凪斗が呟くと、自分の声が妙に乾いて響いた。

 現実の街と、悪夢の世界。

 境界線が曖昧になって、重なり始めている。


 遠くで、鐘のような音が鳴った。

 いや、鐘ではない。鼓動だ。巨大な心臓が、街の中心で脈打っている音。


 凪斗が視線を向けると、そこには巨大な時計塔のような構造物が出現していた。

 時計塔なのに針はない。

 代わりに、塔そのものが呼吸するみたいに膨らんで、縮む。


 近づくほど、空気が重くなる。

 酸素が薄くなるのとは違う。言葉にしづらい圧だ。

 思考が遅れ、感情が鈍り、足が勝手に止まりたがる。


 道端には、人影がいた。

 半透明で、ぼんやりと街を歩き回っている。

 目は虚ろで、何かを探すように手を伸ばしている。


 夢に取り込まれた人々。

 まだ完全に死んでいないのに、もう生きてもいない。


 凪斗は、胸の奥が冷たくなるのを感じた。

 ここで手を伸ばせば助けられるのか。

 そんな余裕があるのか。

 どちらも、答えは出ない。


 そのとき、背後から声がした。


「やっと来た」


 瑛士だった。

 続けて、真白が現れる。


「……ここ、なにこれ」


 真白は言葉を失っていた。

 昨日まで、学校の廊下で同じ制服を着ていたのに。今は、同じ街が、別の皮を被っている。


「霧ヶ丘の皮を借りた悪夢」


 瑛士が言う。


「もしくは、悪夢が現実を借り始めた」


 凪斗は、時計塔を見上げた。

 そして、理解する。


 今夜は、逃げられない。

 この街ごと、戦場にされている。



 霧ヶ丘の夜は、いつもなら静かだ。

 コンビニの光が白く、信号が律儀に色を変え、帰宅途中の車が数台流れるだけ。そういう「普通」が、この街の売りだったはずだ。


 なのに今は、普通が仮装している。

 道路の白線が血管のように膨らみ、収縮するたびに、靴底から嫌な振動が伝わってくる。建物の窓に貼り付いた目玉は、瞬きもしない。瞬きしない目で見られ続けると、人間は自分が「間違っている」と思い始める。視線というのは、そういう道具だ。


「ねえ、これ……誰の夢なの」


 真白が、声を落として言った。

 怖がっているのに、質問が先に出る。彼女はそういう人間だ。怖いから黙るのではなく、怖いから知ろうとする。結果として、余計に怖いものを見に行く。


「多分、誰のでもある」


 瑛士が、いつもの軽い口調で言った。

 軽いが、目は冴えている。冴えすぎていて、逆に危うい。


「ほら、夢ってさ。個人のもので、個人のものじゃないだろ」

「怖いもののテンプレがある。落ちるとか、追われるとか」

「それを寄せ集めたら、こうなる」


 説明は分かりやすい。分かりやすいからこそ、腹が立つ。

 夢の話を、理科の実験みたいに扱うな、と言いたくなる。だが瑛士は、その距離感でしか耐えられないのだろう。近づきすぎると、自分が壊れるから。


 凪斗は、時計塔を見上げた。

 塔は街の中心にそびえ、空に刺さっている。影が濃い。夜のはずなのに、塔の周りだけ「昼みたいに見える」。見えるのに、明るくない。輪郭だけが浮き上がっている。


 あれが、発信源。

 悪夢の脈動が、そこから街全体に送られている。


「行く」


 凪斗が言うと、真白が頷いた。

 瑛士も肩を回す。無駄に準備運動をするところが、現実っぽい。


 歩き出した瞬間、道端の半透明の人影が、ゆらりとこちらを向いた。

 正確には、「向いたように見えた」。目が虚ろなのに、視線だけは合う。人間の形をしているのに、人間の手順で動かない。それが一番怖い。


 人影は、手を伸ばした。

 助けを求めるような手にも見えるし、引きずり込むための手にも見える。どちらか分からない、というのが厄介だ。人間は分からないものに弱い。分からないから、勝手に意味を盛る。


「触るな」


 瑛士が言った。

 凪斗が反射で立ち止まる。真白も同時に止まった。


「今は優先順位が違う」

「助けたいなら、あの塔を止めないと増えるだけ」


 正しい。正しいが、正しさはいつも気分が悪い。

 凪斗は唇を噛んで、歩く速度を上げた。


 時計塔へ近づくほど、街の歪みは露骨になった。

 街灯が、何かの骨みたいに細く見える。看板の文字が、勝手に別の文へ変わる。「安全運転」だったはずが「眠れ」になり、「ようこそ」が「目覚めるな」になる。

 言葉が改ざんされると、人間の心は簡単に乱れる。自分の理解が、世界の側から拒否されるからだ。


「すごいよね」


 声がした。

 ビルの谷間から、笑い声が転がってくる。


 ドリーマー。

 姿は見えないのに、いる。声だけで、空間の温度が変わる。


「夢と現実が混ざる瞬間って」

「どこまでが本当で、どこからが嘘か分からなくなる」


 笑い声に、無邪気さが混じっている。

 子どもの無邪気さは、時々、刃物より怖い。


「人間って、曖昧さに弱い生き物だからさ」

「ほら、今も。君たち、少しずつ『ここが現実かも』って思い始めてる」


 凪斗は、歯を食いしばる。

 否定したい。だが否定の言葉を口にした時点で、相手の土俵に上がることになる。


 真白が、凪斗の袖を掴んだ。

 小さな力。けれど、その力が「現実側」につなぎ止める釘になる。


「相原。目、逸らさないで」


 真白の声は震えていた。

 震えているのに、言う。自分が怖いと分かっているからこそ、逸らしたら負けると知っている。


 時計塔の入口は、いつの間にか開いていた。

 開いているというより、口を開けている。中は黒い。黒いが、ただの暗闇ではない。濃度がある。引力がある。覗き込むだけで、意識が吸われそうになる。


「行くぞ」


 凪斗が言った。

 黒いナイフは、いつの間にか手の中にあった。握ると冷たい。冷たいのに、掌が汗ばむ。矛盾しているが、悪夢はだいたいそんなものだ。


 塔の中は、迷宮だった。

 螺旋階段があり、歪んだ廊下があり、扉がいくつもある。どれも「ここを通れ」と主張しているのに、同時に「通るな」と言っている。

 階段の手すりは湿っている。湿り気が、妙に生々しい。夢なのに手触りがある時点で、嫌な予感しかしない。


 壁に、映像が浮かんだ。


 知らない家の玄関で、泣いている子ども。

 救急車のサイレン。

 ベッドの上で、心臓が止まりかけたまま動かない高校生。

 凪斗がナイフを振るう場面。

 助かった人が、翌朝に「奇跡」と呼ばれる場面。


「この子は、本当に救われたと思う?」


 ドリーマーの声が、壁の内側から響く。

 やけに近い。耳のすぐ後ろで囁かれているみたいだ。


「ただ一時的に悪夢から逃げただけじゃない?」

「逃げた先で、また別の悪夢に食われるかもしれないのに」


 凪斗の胸が、ぐらつく。

 言い返したい。救った意味はあった、と叫びたい。だが、壁の映像が現実だったからこそ、揺れる。


 助けた人間が、この先どうなるか。

 凪斗は知らない。知りようがない。

 それでも「助けた」と言っていいのか。そういう問いは、正しさの形をして人を殺す。


「……今日、生き延びることに意味がある」


 凪斗は、言葉を選びながら言った。

 大きな正義を語ると、逆に嘘になる。だから小さく言う。今日、と言う。今、と言う。


「明日を選べるのは、生きてるやつだけだ」


 その言葉が、壁に吸い込まれる。

 映像が一瞬だけ乱れ、ノイズが走った。ドリーマーが気に食わない時の反応だ。効いている。


「へえ」


 ドリーマーが笑った。


「生存バイアスってやつ?」

「生きてる側の論理は、いつも強いね」


 瑛士が鼻で笑った。


「お前の論理は、弱い側のふりしてるだけだろ」

「弱いふりして人を弄ぶのが趣味って、性格終わってる」


 こういう時、瑛士は強い。

 強いというより、口が悪い。だが口の悪さは、時々、盾になる。相手の言葉を「言葉のまま」扱って、神格化しないから。


 真白は、壁の映像から目を逸らさずに言った。


「相原が助けた人、助かったよ」

「少なくとも、昨日は生きてた」

「それで十分じゃない?」


 十分、という言葉が、凪斗の胸に落ちる。

 十分というのは、諦めではない。欲張らない勇気だ。

 欲張らない勇気がないと、人は救う側でいられない。


 三人は階段を上った。

 螺旋は、やけに長い。途中で方向感覚が狂う。上っているのに下っている気がする。脳が「落ちる夢」を勝手に再生する。


 その途中で、瑛士が足を止めた。


「……おい」


 声が低い。

 凪斗が振り向くと、瑛士の足元から黒い影がじわりと染み出していた。影は液体みたいに広がり、階段の段差を舐めるように這い上がる。


 影が、瑛士の足首に絡みつく。

 次の瞬間、引っ張る力が走った。下へ。底へ。引きずり戻す力。


「ああ、やっぱりね」


 ドリーマーの声が嬉しそうに響く。

 嬉しそうで、気持ちが悪い。笑い声が弾むほど、人の背筋は冷える。


「君、前から“誰かの悪夢”に興味津々だったでしょ?」

「君自身の悪夢は、どんな味がするのかな」


 瑛士の表情が、一瞬だけ固まった。

 固まったのは恐怖ではない。図星を刺された時の苛立ちだ。


「……うるせえ」


 瑛士は吐き捨てる。だが影は容赦しない。足首だけでなく、膝へ、腰へ、這い上がる。黒い触手が、骨の形をなぞるように絡む。


 凪斗と真白は同時に動いた。

 凪斗が瑛士の腕を掴み、真白が反対側から掴む。引き上げようとするが、影の力は重い。重さが物理的ではない。心の底にある「戻りたい場所」を引っ張る重さだ。


「くっ……!」


 凪斗の肩が軋む。

 夢なのに筋が痛む。夢なのに息が切れる。悪夢は、こういうところだけ無駄にリアルだ。


「瑛士!」


 真白が叫ぶ。


「手、離すな!」


 瑛士は笑った。

 笑い方が、いつもの瑛士じゃない。自嘲が混じっている。自分の弱さを知っている笑いだ。


「俺は、ただ……知りたかっただけなんだよ」


 その言葉と同時に、瑛士の視界が暗転する。

 いや、凪斗たちの視界が「瑛士の中」に引き込まれる。


 フラッシュバック。

 子どもの頃の瑛士がいる。薄暗い部屋。テレビの砂嵐。夜中のリビング。親は寝ている。

 瑛士は一人で、ホラー番組を見ている。怖いのに、目を逸らせない。

 怖いものを見ることで、怖さをごまかしている。怖いものを「知る」ことで、怖さを支配しているつもりになる。


 次の場面。

 学校の図書室。都市伝説の本を抱え、ニヤつく瑛士。

 その横で、誰かが泣いている。瑛士は見ていない。怖いものだけを見て、怖がっている人間は見ない。そうやって、自分の足元の弱さから目を逸らしてきた。


「怖いものを覗き込むとさ」


 瑛士の声が、遠くから聞こえる。

 いや、近い。凪斗の胸の中から聞こえる。


「自分が怖いって気づかなくて済むんだよ」

「俺は、ずっとそうしてきた」


 影が、瑛士の腰を引いた。

 引かれる方向は階段の下。落下ではない。戻る。戻される。

 怖い場所へ戻される。


「依存だね」


 ドリーマーが、楽しそうに言う。


「恐怖への依存」

「怖いものを見ないと、君は君でいられない」


 凪斗は歯を食いしばった。

 瑛士の弱さを、餌にする。

 瑛士の弱さを、味見する。

 それがドリーマーのやり方だ。


「知りたいって気持ちは!」


 凪斗は叫んだ。


「誰かを傷つけるためじゃないだろ!」

「お前が怖いのは分かる。でも、怖いからって、落ちていい理由にはならない!」


 凪斗は黒いナイフを振り下ろし、影に突き立てた。

 刃が刺さる感触は、粘る布に穴を開けるようだった。影が悲鳴を上げる。悲鳴というより、ノイズだ。スピーカーが壊れるときの音に似ている。


 真白も叫んだ。


「あんたがいないと、情報戦が成り立たないんだよ!」

「かっこつけて落ちるな! 空気読め!」


 半分冗談みたいな言い方なのに、声が震えていた。

 震えているのに言う。真白は、いつもそうだ。怖いからこそ、言葉で釘を打つ。


 瑛士が、ふっと笑った。

 その笑いが、いつもの瑛士に戻る。強がりの笑い。生きるための笑い。


「……空気読むの、苦手なんだけど」


「読め!」


 真白が即答した。

 その瞬間、影の絡みが、ほんの少し緩む。


 凪斗は、緩んだ隙を逃さなかった。

 ナイフをねじ込み、影を切り裂く。切り裂かれた影は、黒い砂のように崩れて落ちる。階段の隙間へ消える。

 瑛士の足首から、重さが抜けた。


「くそ……」


 瑛士は息を吐きながら、階段に膝をついた。

 その膝のつき方が、妙に現実的で、凪斗は一瞬だけ安心する。夢の中でも、人は膝をつく。そういう「当たり前」が、ここでは貴重だ。


「大丈夫か」


 凪斗が言うと、瑛士は顔を上げる。


「大丈夫じゃない」

「でも、死んではない」


 瑛士は口角を上げた。

 その言い方が、凪斗の「今日生き延びることに意味がある」という言葉と重なった。

 大きな勝利じゃない。小さな生存だ。だが、その小ささこそが積み重なる。


 ドリーマーが、つまらなそうに舌打ちした気配がした。


「しぶといねえ」

「バグが増えてる」


「バグじゃない」


 真白が言った。


「ただの人間だよ」

「人間が、簡単に壊れると思うな」


 その言葉が、凪斗の胸を少しだけ温めた。

 真白は自分も壊れかけた。壊れかけたからこそ、人間のしぶとさを信じたいのだろう。


 三人は立ち上がった。

 息を整える暇はない。時計塔は、まだ脈打っている。

 壁の目は、まだ瞬きもしない。


「行くぞ」


 瑛士が先に言った。

 さっきまで引きずられかけていたくせに、前に出る。そういうところが、瑛士の危うさで、同時に強さでもある。


「頂上に、いる」


 凪斗は確信した。

 ドリーマーの声が、近い。近いということは、上だ。

 悪夢の中心は、いつも「見上げさせる位置」にある。人間に、弱さを思い出させるために。


 真白が、凪斗の横に並ぶ。


「ねえ、相原」


「なに」


「……怖い?」


 凪斗は一瞬だけ迷ってから、言った。


「怖い」

「でも、逃げたらもっと怖い」


 真白は、短く笑った。

 笑い方が、泣きそうだった。


「だよね」


 瑛士が振り返る。


「ほら、三人そろってビビってる」

「最悪だな」


「最悪だよ」


 真白が言い返した。


「でも、三人いる」

「一人よりマシ」


 三人は、螺旋階段を再び上り始めた。

 時計塔の奥で、鼓動が大きくなる。

 壁の映像が、また別の悪夢を映し出そうと揺れる。


 凪斗はナイフを握り直した。

 冷たい。重い。

 それでも、この冷たさは自分のものだ。自分の恐怖と痛みからできた武器なら、最後まで握っていられる。


 そして、凪斗は思った。

 境界線が崩れるなら、こちらも崩してやるしかない。

 守る側と守られる側。強い側と弱い側。夢と現実。

 全部、都合よく線を引いて安心していたのは、人間のほうだ。


 今夜は、その線を全部、試されている。


 三人は、互いの弱さを知っている。

 知った上で、手を離さない。


 時計塔の頂上へ向かって。

 脈動の中心へ向かって。


 ここで決着をつけなきゃ、と。

 誰も言わないまま、同じ結論を抱えて進んでいく。

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