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悪夢を殺せるのは、夢の中で死んだ人間だけ  作者: 妙原奇天


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第5話 罪悪感という夢

 悪夢の奔流というのは、洪水より質が悪い。水なら濡れるだけだが、悪夢は濡れたついでに記憶までふやかして剥がしてくる。触れたくないところほど柔らかくして、簡単に破く。


 ドリーマーの部屋で、壁紙が剥がれ落ちた瞬間、凪斗は「映像」に飲まれたのではなく、「意味」に飲まれた。廃遊園地、血の教室、底なしの海、炎の街。場所の違いはあるのに、共通しているのは結論だ。逃げ場がない。助けが来ない。自分が弱い。


 そして、たいていの悪夢は最後にこう言う。

 これはお前のせいだ、と。


 息ができなくなり、視界が白く飛んで、耳鳴りだけが残った。溺れる、と思った。実際、溺れたのだろう。


 次に息ができたとき、凪斗は硬い床の上に立っていた。


 教室だった。

 黒板があって、窓があって、机と椅子が整然と並んでいる。新品の机ではない。角に傷があり、天板の木目が少し剥げている。誰かがシャーペンで掘った浅い傷まで見える。


 中学時代の教室。自分が使っていた教室だ。


 懐かしいと言うには、胃が重かった。

 嫌だと言うには、遅すぎた。


 放課後。夕焼けの光が窓から差し込み、机の上に斜めの帯を作っている。なのにその橙色は、記憶の中より少し薄い。夕焼けのはずなのに、最初から褪せている。時間が経って褪せたのではなく、褪せたものとして配置された色だ。


 凪斗は、そういう加工の仕方を知っている。夢は都合がいい。嫌な場面を再生するとき、夢は「感情」だけを抜き取って、代わりに「雰囲気」を足す。怖さは増幅され、責任は補強される。


 それから、音がない。


 廊下を走る足音も、部活帰りの声も、窓の外を通る車の音も聞こえない。カーテンは揺れているのに、布の擦れる音すらない。教室は映像だけが残った標本みたいに静まり返っていた。


 凪斗が唾を飲み込む音だけが、やけに大きい。

 自分が生きていることを、音で思い出させられる。


 夢だ。

 しかも、自由な夢ではない。


 自由な夢は、起きたら溶ける。細部が曖昧になり、怖さだけが残る。自由がない夢は、細部が残る。痛みも残る。床に足跡が残ることすらある。凪斗はもう、それを経験している。


 胸の痣のあたりに、熱が集まっている気がした。

 いつもここが反応する。そこから先は、たいていろくでもない。


 教室の後ろに視線を向ける。

 窓から最も遠い席。教壇からも遠い席。誰にも見つけてもらえない席。


 そこにひとり、座っている生徒がいた。


 うつむいて、机に額を押し付けるようにしている。肩が丸い。背中が小さい。制服の襟が少しよれているのが妙にリアルだ。夢にしては、細部が行き届きすぎている。つまり、作ったやつが丁寧だ。


 凪斗の喉が、わずかに詰まった。

 名前が、勝手に出てくる。


 拓海。

 中二のときの同級生。


 凪斗は一歩踏み出しかけて、足が止まった。

 近づくのが怖い。理由は分かっている。近づいたら、何かをしないといけなくなるからだ。何かをしないといけなくなる状況が一番怖い。やるか、やらないか。選んだ瞬間に、責任が生まれる。


 拓海は不器用だった。集団の中で上手く笑えない。面白くないのに面白いふりをできない。空気を読む以前に、空気に入れてもらえていない。そういう生徒は、だいたい目立つ。目立つものは、いじられる。


 いじめはいつも、正義の顔をして始まる。

 「ノリが悪い」

 「空気読め」

 「みんなに合わせろ」

 つまり、欠点を直してやっているだけ、という言い訳だ。言い訳があると、罪悪感は減る。罪悪感が減ると、やる側は遠慮を失う。


 暴力はなかった。少なくとも目に見える形では。

 机の上に消しカスが増える。体育着が見つからない。筆箱が勝手に移動する。拾ってくれたことになって返ってくる。返ってくるとき、少し汚れている。何に汚れたのかは分からない。分からないから余計に気持ち悪い。


 笑いながらやるから、深刻に見えない。

 深刻に見えないから、止める理由が薄い。

 薄くなった理由は、最後に「面倒」に変わる。


 凪斗は止めなかった。

 止めたことがない。


 教室の隅に、もうひとりの自分がいることに気づいた。

 当時の凪斗だ。


 椅子に浅く腰かけ、スマホを覗き込みながら笑っている。輪の中心には入っていない。けれど、外側から眺めて笑うことはしている。笑うことで、自分が安全側だと示す。安全側の証明をしないと、危ない側に落ちるかもしれない。中学生の世界は、そういう雑な理屈で回っている。


 今の凪斗は、その当時の自分を直視できなかった。

 視線を逸らしたのは一瞬だ。だが、一瞬でも逸らせる自分が嫌だった。逸らすのが得意だったのは、当時からだ。


 その一瞬の間に、教室のドアが開いた。


 勢いよく、というより、遠慮なく。

 数人の生徒が入ってくる。顔も声も、記憶とほとんど同じだ。夢というのは、嫌な記憶ほど解像度が高い。


「おーい、拓海いる?」

「いるいる。生きてる?」

「今日さ、宿題やった?」


 笑い声。

 冗談めいた調子。

 だが拓海は顔を上げない。


「見せてよ、ちょっと」

「別に全部じゃなくていいって」

「半分でもいい、半分でも」


 親切のふりをした要求が続く。相手が黙っているのをいいことに、勝手に条件が変わる。最初は「見せて」、次に「貸して」、最後は「もらう」。返す気は最初からない。


「なあ、聞こえてる?」

「返事くらいしろよ、感じ悪いな」


 感じ悪いのはどっちだ。

 凪斗はそう思った。だが当時の自分は、それを口にしなかった。口にしなかったというより、口にする発想を捨てていた。自分の世界を守るために。


 拓海の背中がほんのわずかに揺れた。

 息を吸ったのか、飲み込んだのか分からない。

 それだけで、凪斗の胸が痛んだ。


 誰かが拓海の机を指で弾いた。

 コン、と軽い音。音がないはずの教室で、その音だけが異様に鮮明だった。夢は、残酷な音だけ残す。


 凪斗は一歩踏み出そうとして、足が動かないことに気づいた。床に縫い付けられているように重い。助けに行けないのではなく、助けに行かない自分を再現している、と言ったほうが近い。


 頭の内側に、声が滑り込んできた。


「いいね」


 甘く、湿った声。ドリーマーだ。


「こういうの、好きだよ。人間らしい」


 凪斗は唇を噛んだ。夢の中なのに血の味がする気がする。夢は体の反応まで借りてくる。貸し出しは無料だが、返却のときに利子がつく。


「人間の悪夢の多くは、罪悪感から生まれる」

「罪悪感は甘い。腐るともっと甘い」


 変な言い回しなのに、妙に理解できてしまうのが腹立たしい。腐った甘さ。つまり後悔だ。


「君の悪夢は、とても美味しそうだね」


 ドリーマーの声は楽しそうだった。

 楽しさが本物だからこそ、凪斗の胸が冷える。


 拓海が、机に額を押し付けたまま小さく言った。


「……誰も、本気で助けてくれなかった」


 声は小さい。だが教室の隅々まで染み渡るように響いた。

 責める声ではない。責めない声ほど刺さる。責められると反論できるが、責められないと逃げ道がない。


 次の瞬間、床の色が変わり始めた。


 最初は、拓海の椅子の脚の下。

 黒い染みがじわりと広がる。水たまりのようでもあり、焦げのようでもある。

 染みから、影が伸びた。


 細長い触手のような影。粘り気のある黒さが、床を滑る。

 影は、いじめていた生徒たちの足元に絡みついた。


「うわ、何だよこれ」

「気持ち悪っ」

「やめろって、マジで」


 足を引こうとするが、影は足首を掴む。引っ張る力は見た目より強い。

 一人が尻もちをつき、机の脚にぶつかった。机が揺れ、椅子が倒れる。倒れる音はしない。だが、倒れた事実だけが妙にリアルだ。


 影は笑わない。

 ただ淡々と引きずり込む。仕事が丁寧な機械みたいに。


 いじめていた者だけではない。

 笑って見ていた者にも絡む。

 興味なさそうにスマホを触っていた者にも絡む。


 そして、教室の隅にいる当時の凪斗にも。


 当時の凪斗は顔を上げない。スマホを見たまま笑っている。影が足を絡めても笑っている。最初からそういう役割だからだ。役割というより、習慣の再生だ。


 凪斗の右手に、黒いナイフが現れた。


 重い。冷たい。握った瞬間、掌の皮膚が少し硬くなる感覚がある。

 武器というより、感情の塊に近い。怖さや痛みや後悔を固めて刃にしたもの。そう考えると納得できる。嫌な納得だ。


 凪斗は影を斬れる。

 これまでの経験で分かっている。


 だが刃を振り上げた瞬間、胸の奥に別のものが浮かんだ。


 こいつらは、少し痛い目を見ればいい。

 全部じゃなくていい。少しだけでいい。


 その考えが浮かんだこと自体が、凪斗を怒らせた。怒りは相手に向けるものだと思っていたのに、今回は自分に向いた。自分の中にある黒さが、はっきり見えたからだ。


 ドリーマーの声が、耳元で囁く。


「ほら」

「君だって、人を憎んでる」


 憎んでいる。そう言われると否定しづらい。

 凪斗は正義の人間じゃない。いじめを止められなかった。見て見ぬふりをした。だから拓海は消えた。


 消えたと言っても死んだわけではない。転校しただけだ。

 だが、いなくなった人間は、残った側の生活からは死んだも同じだ。いなくなっても生活は続く。続くからこそ、罪悪感は溜まる。溜まって腐る。腐ると甘くなる。ドリーマーが喜ぶ。


「君が守りたいのは、本当に正しい誰かかな」


 ドリーマーは面白がっている。人の心の汚い部分が、メニューとして並ぶのが楽しいのだろう。

 影はさらに広がり、教室の床が黒く染まっていく。まるで教室全体が底なし沼になるみたいに。


 凪斗は息を吸った。

 こういうとき、考える時間は短い。


 影が引きずり込もうとしているのは、いじめっ子だけではない。黙っていた者も、笑っていた者も、何もしなかった者も、まとめて沈む。


 それは公平に見える。

 だから危険だ。

 公平は正義に見える。見えるだけで、正義とは限らない。


 凪斗は刃先を少し下げた。

 そして声に出した。声は夢の中でも、自分を固定する。


「違う」


 自分の声だけは、教室に響いた。音が戻ったというより、凪斗の言葉だけが音として許可された。


「いじめっ子がどうとかじゃない」


 影の動きが、わずかに鈍る。言葉が夢に干渉している。この夢は凪斗の認識を材料にしている。材料が変われば、形も変わる。ドリーマーの夢は、そうやって人を料理する。


 凪斗は続けた。


「拓海が……」


 机に伏した背中を見る。背中は小さく、硬い。


「誰も本気で助けてくれなかったって思った」

「その事実がつらいだけだ」


 影が一瞬止まった。止まったように見えただけかもしれない。だが夕焼けの色が少し濃くなったのは確かだった。


 凪斗はさらに言葉を選ぶ。こういう夢は言葉を嘘にすると、すぐに噛み殺される。

 自分の中の黒さを隠して正義ぶると、夢はそれを餌にして巨大化する。


「俺は、あのとき何もしなかった自分が嫌いだ」


 言い切った瞬間、冷たいものが足首に巻きついた。


 凪斗は下を見た。影の触手が、自分の足を掴んでいる。

 同時に胸の奥に納得が湧いた。そうだろうな。この夢は罪悪感の夢だ。なら罰は外ではなく内に向く。


 影はぐいと引いた。

 床が沈む。靴底が吸い込まれる。

 沈む感覚は、かつて見た廃遊園地の泥と似ている。夢はパーツを使い回す。節約が上手い。


 凪斗は咄嗟にナイフを構えた。

 だが刃を向ける先が、いつもと違う。


 敵の影ではない。

 自分の足元の影だ。


 怖い。

 当然だ。

 自分を切るのは、誰だって怖い。


 それでも、逃げたら終わる。

 この夢は、逃げる自分を再現して、それを罰する形で追い込む。


 凪斗は歯を食いしばった。

 そして、低く言った。


「俺は、罰するために死ぬんじゃない」


 刃を振り下ろす。


 影が裂けた。

 裂けた瞬間、現実の身体へ痛みが走った。


 足首から膝、太もも、背骨、首の裏、頭のてっぺん。電流が神経をなぞるように通る。

 視界が白く弾け、膝が床についた。夢の床は冷たい。冷たさだけはなぜか忠実だ。


 息が荒い。汗が出る。夢なのに汗が出るのは理不尽だが、理不尽であることがこの世界の正確さでもある。


 それでも影はほどけた。

 足元の沈みが止まる。


 凪斗は息を整える暇もなく、影の群れへ向き直った。

 いじめっ子たちは泣きそうな顔で足をばたつかせている。笑っていた者たちは叫び、黙っていた者たちは声も出せない。

 当時の凪斗は、まだスマホを見て笑っている。影が絡んでも笑っている。


 その笑いが一番腹立たしかった。

 腹立たしいのに、それが自分だという事実が一番きつい。


 凪斗はナイフを握り直した。

 刃が少し重くなった気がする。自分を切ったぶん、重さが増したのかもしれない。そういう理屈の通らなさが夢にはある。理屈が通らないのに、因果だけは通る。だから逃げられない。


「……ごめん」


 凪斗は拓海に向けて小さく言った。届かないかもしれない。だが言わないと自分が崩れる。

 謝罪は免罪符じゃない。免罪符にするな、と自分に言い聞かせる。


 そして動いた。


 影を斬る。

 影は切れる。

 切れた影は黒い霧になって散る。


 斬るたびに身体が痛む。切ったのは影なのに、刃が自分の肉をかすめたみたいな痛みが返ってくる。

 それでもやるしかない。痛みが返ってくるのは、たぶん「これは他人事じゃない」という証拠だ。夢は説教をしない。痛みで説明する。


 凪斗は一人ずつ、影を解いていく。

 いじめっ子の足元。笑っていた者の足元。黙っていた者の足元。

 順番はどうでもよかった。重要なのは、全員を沈めないことだ。沈めば終わりになる。終わりにしてしまうと、拓海の言葉が「結論」になってしまう。


 結論にしてはいけない。

 「誰も助けてくれなかった」が結論になったら、拓海の世界はそこで終わる。

 終わった世界は、悪夢に食われて、数字にされる。ドリーマーの管理画面に並ぶ、あの嫌な数字に。


 影を斬り終えると、床の黒さが薄れていった。夕焼けの色がもう一段濃くなる。音が少し戻る。机の脚がきしむ音が聞こえた気がした。

 夢のくせに、ほんの少しだけ救いがあるのが腹立たしい。救いがあるから、人は期待してしまう。


 いじめっ子たちは逃げるように教室の外へ出ようとする。

 だがドアは開かない。夢の出口は、本人の都合では作れないらしい。


「開けろよ!」

「何だよこれ、ふざけんな!」

「誰か、先生呼べって!」


 先生は来ない。

 先生が来ないから成立するのが、そもそもの現実だった。


 凪斗は叫び声を聞きながら、少しだけ冷静になった。

 この夢は「いじめ」を再現したいのではなく、「凪斗の罪悪感」を煮詰めたいのだ。だから、教師という要素は邪魔になる。教師が来たら話が変わる。変わる話は、罪悪感を固定できない。


 代わりに、彼らの姿がぼやけた。

 輪郭が溶け、影が薄まり、景色に混ざって消えていく。

 夢が不要な部品を片付けている。


 最後に残ったのは、拓海と、当時の凪斗だけだった。


 当時の凪斗は、ようやくスマホから顔を上げた。

 だが目は空っぽだった。凪斗自身を見ているのに、見えていない。

 人間としてではなく、「役割」としてそこにいる。


 凪斗はその当時の自分を見て、思った。

 こいつを殴っても、何も変わらない。

 夢の中で殴ったら気が済むかもしれないが、気が済むということが一番危ない。気が済んだ瞬間に、罪悪感は「終わったこと」にされる。終わったことにしたい自分が、また逃げる。


 凪斗は当時の自分から目を逸らさずに、拓海へ近づいた。

 今度は足が動いた。


 近づくほど、教室の匂いがする気がした。古いワックスと湿った木の匂い。黒板消しの粉の匂い。

 それは記憶が作った匂いだろう。だが匂いがあるという事実だけで、この夢は現実味を増す。現実味が増すほど、胸が苦しくなる。


「拓海」


 凪斗が呼ぶと、拓海の肩が少し動いた。

 顔を上げる。

 目が合った、と思った。だが拓海の目は凪斗の向こう側を見ているようでもある。人はつらいものを見るとき、だいたい焦点が合わない。


 拓海の目の奥には疲れがあった。

 疲れは怒りより厄介だ。怒りは燃える。燃えればまだ動ける。疲れは冷える。冷えたものは戻りにくい。

 冷えたまま固まると、人は静かに壊れる。


 拓海はゆっくり口を開いた。


「遅いよ」


 たったそれだけ。

 なのに凪斗の胸が詰まった。


 言い訳は用意できない。怖かった。巻き込まれたくなかった。自分も笑われたくなかった。

 全部本当だ。

 本当だからこそ醜い。


 拓海は続けた。

 声は静かで、責める調子ではない。責めない声は、反論の余地を残さない。


「でもさ」

「今でも覚えててくれたなら」


 拓海は視線を窓へ向ける。夕焼けは、もう少し濃くなっている。

 夕焼けが濃いというだけで、この場面が救われるわけじゃない。だが夢はそういう小細工をする。小細工があると、人は「まだ間に合うかもしれない」と思ってしまう。間に合わなかったときの絶望が増えるだけなのに。


「それでいいや」


 その言葉が終わる前に、拓海の輪郭がほどけ始めた。

 光の粒になる。

 細かい砂みたいな光が、夕焼けの中へ舞う。


 凪斗は手を伸ばした。

 触れることはできない。

 光は指の隙間を通り抜ける。


 そしてその光は、凪斗の胸へ向かった。痣のある場所。いつも痛む場所。

 熱が広がる。痛みではない。冷えた手を温めるみたいな熱だ。

 痣が少し薄くなった。鏡がなくても分かるくらい、感覚が変わる。


 教室の景色が揺れた。

 夕焼けが白く飛ぶ。机の輪郭が溶ける。

 凪斗は落ちる感覚を覚えた。悪夢の奔流に飲まれたときと同じ。ただ今回は溺れるのではなく、引き戻される感じだ。


 次の瞬間、凪斗は自分のベッドの上で息を吸い込んだ。


 喉がからからで、胸が痛く、足首が熱い。

 現実の体に戻ったはずなのに、夢の続きが皮膚に残っている。嫌な残り香だ。


 凪斗は枕を見た。濡れている。涙で濡れたのだと、少し遅れて理解した。


「……泣いてたのか」


 声が掠れた。

 恥ずかしいというより驚いた。泣くほどの資格が自分にあるのか、と考えるのはまた別の種類の逃げだ。資格があるかどうかを議論している間に、現実は何も変わらない。夢はそういう逃げを好む。逃げれば逃げるほど、罪悪感が腐って甘くなる。


 凪斗は胸の痣に指を当てた。

 薄くなっている。

 完全に消えたわけではない。消えるはずもない。


 罪悪感というのは便利なもので、抱えている間は「自分は悪いことをした」と分かった気になれる。

 分かった気になるだけで、何かをしたことにはならない。

 だから罪悪感は、ただの免罪符にもなる。


 凪斗は、その仕組みを今さら理解した。

 理解したところで過去が消えるわけじゃない。

 けれど過去を棚に戻して鍵をかけるだけでは、きっとまた同じ夢が来る。


 守りたいのは、これからの誰かだ。

 同時に、守りたいという言葉で過去から逃げたくない。

 守ると言うなら、まず見て見ぬふりをしないことだ。


 部屋の空気が少し冷える。窓の外では風が鳴っている。現実の音があるだけで安心する自分がいる。

 その安心が弱点になるのも、もう分かっている。


 頭の奥で、笑い声のような気配がした。


「バグのくせに、随分としぶとい」


 ドリーマーの声だ。

 今夜は夢の中で聞いたはずなのに、起きても残っている。声が残るのは良くない兆候だ。痛みが残るのも良くないが、声が残るのはさらに良くない。境界が薄くなっている。


 凪斗は返事をしなかった。返事をしたところで、相手は喜ぶだけだ。

 代わりにスマホを手に取った。


 画面を見た瞬間、心臓が一段強く打った。


 通知が来ている。

 ドリーム・チェインからだ。


 凪斗はロック画面のまま指を止めた。

 開けばまた繋がる。

 開かなければ何も分からない。


 どちらを選ぶにしても、誰かが死ぬ可能性がある。

 そういう二択は、たぶん二択じゃない。自分の都合を優先するか、他人の都合を優先するか、というだけだ。

 そして凪斗は、過去に一度、自分の都合を優先した。結果、誰かを傷つけた。


 同じことを繰り返すのか。

 繰り返さないなら、何が必要なのか。


 凪斗は息を吐き、ロックを解除した。

 通知を開く。


 画面には短い文が表示されていた。


 「次のリンク候補が見つかりました」


 候補。

 つまり次がいる。


 凪斗は目を閉じた。

 罪悪感の夢は終わった。けれど悪夢は終わらない。悪夢は、続きがあるから商品になる。ドリーマーが下請けだというなら、元請けはもっと露骨に効率を求めるはずだ。


 凪斗は起き上がり、足首を見た。見た目には何もない。だが痛みだけは確かに残っている。

 痛みが残るということは、夢の出来事が「現実側の代償」として処理されているということだ。つまり、夢の中での戦いは、冗談ではない。


「……行くしかない」


 それは決意というより状況認識だった。

 選びたくない選択を、選ばされている。

 そういうとき人は強くなるのではなく、ただ慣れていく。

 慣れが一番怖い。人を救うことに慣れるのも。人を裁く感覚に慣れるのも。自分の黒さに慣れてしまうのも。


 凪斗は部屋の明かりをつけた。

 明かりは現実を強くする。強すぎる現実は嫌いだが、今は必要だった。

 机の上にナイフはない。現実には持ち込めない。だから夢の中でしか戦えない。そういう縛りは、ゲームなら面白いが、現実だとただ理不尽だ。


 凪斗は水を飲んだ。喉を潤すのはたぶん意味がない。夢の中では喉の渇きも再現される。それでも飲む。意味がないことをしているとき、人はまだ人間でいられる気がする。


 窓の外で風が鳴った。

 その音は確かに現実の音だった。


 凪斗はスマホの画面をもう一度見た。

 リンク候補の詳細は、まだ表示されていない。通知は、呼び鈴のようなものだ。ドアを開けるかどうかは、こちらに委ねられているふりをしている。

 だが、委ねられていない。開けなくても、向こうは回り道をして入ってくる。夢はそういうものだ。


 凪斗は画面を閉じ、膝の上に両手を置いた。

 今夜の夢で、拓海は「それでいいや」と言った。

 それは許しではない。許しだと受け取りたい自分がいるだけだ。拓海の疲れた目を思い出す。疲れは、許す余裕の別名でもある。余裕があるから許すのではなく、諦めたから許すこともある。


 凪斗はその違いを、きちんと理解したいと思った。

 理解したうえで、進みたい。


 進む、という言葉も便利だ。

 進んでいるふりをして、実は逃げていることがある。

 だから、進むなら、具体的に何をするのかを決めないといけない。


 次のリンク候補を救う。

 ドリーマーを追う。

 その上にいる管理者を突き止める。


 やることは山ほどあるのに、今できることは少ない。

 少ないからこそ、ひとつずつやるしかない。


 凪斗はベッドに座ったまま、しばらく動けなかった。

 動けないのは怖いからではない。怖いのはもう分かっている。

 動けないのは、自分が今まで「動かないことで生き延びた」人間だからだ。動かないことが得意だった人間が、動く側に回るのは、筋肉の使い方が違う。


 その筋肉痛を、今夜は思い知らされた。


 凪斗は深呼吸をして、スマホのメモを開いた。

 拓海のことを書く。

 いじめの場面を書く。

 当時の自分の立ち位置を書く。

 そして、今夜言った言葉を書く。


 書くことで、逃げ道を塞ぐ。

 言ったのに、言わなかったことにするのが、一番卑怯だ。卑怯さは悪夢の餌になる。餌を減らすなら、まずそこからだ。


 メモに書き終えた瞬間、胸の痣がじんと熱を持った。

 痛みではない。だが、警告に近い。


 夢は、見られている。


 ドリーマーがどこから見ているのかは分からない。

 だが、見ている。

 見ている相手に見られていると分かっても、こちらはやることをやるしかない。

 それが悔しい。悔しいという感情は、意外と役に立つ。悔しいと、人は言い訳が減る。


 凪斗はスマホを置き、布団に潜り込んだ。

 次に眠ったら、また夢が来る。

 来るなら来い、と思いたい。

 思いたいが、怖いものは怖い。


 凪斗は目を閉じた。

 夕焼けの薄い教室が、まぶたの裏に残る。

 拓海の「遅いよ」が残る。

 それでも、今夜はひとつだけ違う感覚があった。


 逃げたくない、という感覚だ。


 遅い。確かに遅い。

 でも、遅いまま何もしないよりは、ずっとましだ。


 その考えが、次の悪夢に飲み込まれないための、かろうじて残った足場になった。

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