第5話 罪悪感という夢
悪夢の奔流というのは、洪水より質が悪い。水なら濡れるだけだが、悪夢は濡れたついでに記憶までふやかして剥がしてくる。触れたくないところほど柔らかくして、簡単に破く。
ドリーマーの部屋で、壁紙が剥がれ落ちた瞬間、凪斗は「映像」に飲まれたのではなく、「意味」に飲まれた。廃遊園地、血の教室、底なしの海、炎の街。場所の違いはあるのに、共通しているのは結論だ。逃げ場がない。助けが来ない。自分が弱い。
そして、たいていの悪夢は最後にこう言う。
これはお前のせいだ、と。
息ができなくなり、視界が白く飛んで、耳鳴りだけが残った。溺れる、と思った。実際、溺れたのだろう。
次に息ができたとき、凪斗は硬い床の上に立っていた。
教室だった。
黒板があって、窓があって、机と椅子が整然と並んでいる。新品の机ではない。角に傷があり、天板の木目が少し剥げている。誰かがシャーペンで掘った浅い傷まで見える。
中学時代の教室。自分が使っていた教室だ。
懐かしいと言うには、胃が重かった。
嫌だと言うには、遅すぎた。
放課後。夕焼けの光が窓から差し込み、机の上に斜めの帯を作っている。なのにその橙色は、記憶の中より少し薄い。夕焼けのはずなのに、最初から褪せている。時間が経って褪せたのではなく、褪せたものとして配置された色だ。
凪斗は、そういう加工の仕方を知っている。夢は都合がいい。嫌な場面を再生するとき、夢は「感情」だけを抜き取って、代わりに「雰囲気」を足す。怖さは増幅され、責任は補強される。
それから、音がない。
廊下を走る足音も、部活帰りの声も、窓の外を通る車の音も聞こえない。カーテンは揺れているのに、布の擦れる音すらない。教室は映像だけが残った標本みたいに静まり返っていた。
凪斗が唾を飲み込む音だけが、やけに大きい。
自分が生きていることを、音で思い出させられる。
夢だ。
しかも、自由な夢ではない。
自由な夢は、起きたら溶ける。細部が曖昧になり、怖さだけが残る。自由がない夢は、細部が残る。痛みも残る。床に足跡が残ることすらある。凪斗はもう、それを経験している。
胸の痣のあたりに、熱が集まっている気がした。
いつもここが反応する。そこから先は、たいていろくでもない。
教室の後ろに視線を向ける。
窓から最も遠い席。教壇からも遠い席。誰にも見つけてもらえない席。
そこにひとり、座っている生徒がいた。
うつむいて、机に額を押し付けるようにしている。肩が丸い。背中が小さい。制服の襟が少しよれているのが妙にリアルだ。夢にしては、細部が行き届きすぎている。つまり、作ったやつが丁寧だ。
凪斗の喉が、わずかに詰まった。
名前が、勝手に出てくる。
拓海。
中二のときの同級生。
凪斗は一歩踏み出しかけて、足が止まった。
近づくのが怖い。理由は分かっている。近づいたら、何かをしないといけなくなるからだ。何かをしないといけなくなる状況が一番怖い。やるか、やらないか。選んだ瞬間に、責任が生まれる。
拓海は不器用だった。集団の中で上手く笑えない。面白くないのに面白いふりをできない。空気を読む以前に、空気に入れてもらえていない。そういう生徒は、だいたい目立つ。目立つものは、いじられる。
いじめはいつも、正義の顔をして始まる。
「ノリが悪い」
「空気読め」
「みんなに合わせろ」
つまり、欠点を直してやっているだけ、という言い訳だ。言い訳があると、罪悪感は減る。罪悪感が減ると、やる側は遠慮を失う。
暴力はなかった。少なくとも目に見える形では。
机の上に消しカスが増える。体育着が見つからない。筆箱が勝手に移動する。拾ってくれたことになって返ってくる。返ってくるとき、少し汚れている。何に汚れたのかは分からない。分からないから余計に気持ち悪い。
笑いながらやるから、深刻に見えない。
深刻に見えないから、止める理由が薄い。
薄くなった理由は、最後に「面倒」に変わる。
凪斗は止めなかった。
止めたことがない。
教室の隅に、もうひとりの自分がいることに気づいた。
当時の凪斗だ。
椅子に浅く腰かけ、スマホを覗き込みながら笑っている。輪の中心には入っていない。けれど、外側から眺めて笑うことはしている。笑うことで、自分が安全側だと示す。安全側の証明をしないと、危ない側に落ちるかもしれない。中学生の世界は、そういう雑な理屈で回っている。
今の凪斗は、その当時の自分を直視できなかった。
視線を逸らしたのは一瞬だ。だが、一瞬でも逸らせる自分が嫌だった。逸らすのが得意だったのは、当時からだ。
その一瞬の間に、教室のドアが開いた。
勢いよく、というより、遠慮なく。
数人の生徒が入ってくる。顔も声も、記憶とほとんど同じだ。夢というのは、嫌な記憶ほど解像度が高い。
「おーい、拓海いる?」
「いるいる。生きてる?」
「今日さ、宿題やった?」
笑い声。
冗談めいた調子。
だが拓海は顔を上げない。
「見せてよ、ちょっと」
「別に全部じゃなくていいって」
「半分でもいい、半分でも」
親切のふりをした要求が続く。相手が黙っているのをいいことに、勝手に条件が変わる。最初は「見せて」、次に「貸して」、最後は「もらう」。返す気は最初からない。
「なあ、聞こえてる?」
「返事くらいしろよ、感じ悪いな」
感じ悪いのはどっちだ。
凪斗はそう思った。だが当時の自分は、それを口にしなかった。口にしなかったというより、口にする発想を捨てていた。自分の世界を守るために。
拓海の背中がほんのわずかに揺れた。
息を吸ったのか、飲み込んだのか分からない。
それだけで、凪斗の胸が痛んだ。
誰かが拓海の机を指で弾いた。
コン、と軽い音。音がないはずの教室で、その音だけが異様に鮮明だった。夢は、残酷な音だけ残す。
凪斗は一歩踏み出そうとして、足が動かないことに気づいた。床に縫い付けられているように重い。助けに行けないのではなく、助けに行かない自分を再現している、と言ったほうが近い。
頭の内側に、声が滑り込んできた。
「いいね」
甘く、湿った声。ドリーマーだ。
「こういうの、好きだよ。人間らしい」
凪斗は唇を噛んだ。夢の中なのに血の味がする気がする。夢は体の反応まで借りてくる。貸し出しは無料だが、返却のときに利子がつく。
「人間の悪夢の多くは、罪悪感から生まれる」
「罪悪感は甘い。腐るともっと甘い」
変な言い回しなのに、妙に理解できてしまうのが腹立たしい。腐った甘さ。つまり後悔だ。
「君の悪夢は、とても美味しそうだね」
ドリーマーの声は楽しそうだった。
楽しさが本物だからこそ、凪斗の胸が冷える。
拓海が、机に額を押し付けたまま小さく言った。
「……誰も、本気で助けてくれなかった」
声は小さい。だが教室の隅々まで染み渡るように響いた。
責める声ではない。責めない声ほど刺さる。責められると反論できるが、責められないと逃げ道がない。
次の瞬間、床の色が変わり始めた。
最初は、拓海の椅子の脚の下。
黒い染みがじわりと広がる。水たまりのようでもあり、焦げのようでもある。
染みから、影が伸びた。
細長い触手のような影。粘り気のある黒さが、床を滑る。
影は、いじめていた生徒たちの足元に絡みついた。
「うわ、何だよこれ」
「気持ち悪っ」
「やめろって、マジで」
足を引こうとするが、影は足首を掴む。引っ張る力は見た目より強い。
一人が尻もちをつき、机の脚にぶつかった。机が揺れ、椅子が倒れる。倒れる音はしない。だが、倒れた事実だけが妙にリアルだ。
影は笑わない。
ただ淡々と引きずり込む。仕事が丁寧な機械みたいに。
いじめていた者だけではない。
笑って見ていた者にも絡む。
興味なさそうにスマホを触っていた者にも絡む。
そして、教室の隅にいる当時の凪斗にも。
当時の凪斗は顔を上げない。スマホを見たまま笑っている。影が足を絡めても笑っている。最初からそういう役割だからだ。役割というより、習慣の再生だ。
凪斗の右手に、黒いナイフが現れた。
重い。冷たい。握った瞬間、掌の皮膚が少し硬くなる感覚がある。
武器というより、感情の塊に近い。怖さや痛みや後悔を固めて刃にしたもの。そう考えると納得できる。嫌な納得だ。
凪斗は影を斬れる。
これまでの経験で分かっている。
だが刃を振り上げた瞬間、胸の奥に別のものが浮かんだ。
こいつらは、少し痛い目を見ればいい。
全部じゃなくていい。少しだけでいい。
その考えが浮かんだこと自体が、凪斗を怒らせた。怒りは相手に向けるものだと思っていたのに、今回は自分に向いた。自分の中にある黒さが、はっきり見えたからだ。
ドリーマーの声が、耳元で囁く。
「ほら」
「君だって、人を憎んでる」
憎んでいる。そう言われると否定しづらい。
凪斗は正義の人間じゃない。いじめを止められなかった。見て見ぬふりをした。だから拓海は消えた。
消えたと言っても死んだわけではない。転校しただけだ。
だが、いなくなった人間は、残った側の生活からは死んだも同じだ。いなくなっても生活は続く。続くからこそ、罪悪感は溜まる。溜まって腐る。腐ると甘くなる。ドリーマーが喜ぶ。
「君が守りたいのは、本当に正しい誰かかな」
ドリーマーは面白がっている。人の心の汚い部分が、メニューとして並ぶのが楽しいのだろう。
影はさらに広がり、教室の床が黒く染まっていく。まるで教室全体が底なし沼になるみたいに。
凪斗は息を吸った。
こういうとき、考える時間は短い。
影が引きずり込もうとしているのは、いじめっ子だけではない。黙っていた者も、笑っていた者も、何もしなかった者も、まとめて沈む。
それは公平に見える。
だから危険だ。
公平は正義に見える。見えるだけで、正義とは限らない。
凪斗は刃先を少し下げた。
そして声に出した。声は夢の中でも、自分を固定する。
「違う」
自分の声だけは、教室に響いた。音が戻ったというより、凪斗の言葉だけが音として許可された。
「いじめっ子がどうとかじゃない」
影の動きが、わずかに鈍る。言葉が夢に干渉している。この夢は凪斗の認識を材料にしている。材料が変われば、形も変わる。ドリーマーの夢は、そうやって人を料理する。
凪斗は続けた。
「拓海が……」
机に伏した背中を見る。背中は小さく、硬い。
「誰も本気で助けてくれなかったって思った」
「その事実がつらいだけだ」
影が一瞬止まった。止まったように見えただけかもしれない。だが夕焼けの色が少し濃くなったのは確かだった。
凪斗はさらに言葉を選ぶ。こういう夢は言葉を嘘にすると、すぐに噛み殺される。
自分の中の黒さを隠して正義ぶると、夢はそれを餌にして巨大化する。
「俺は、あのとき何もしなかった自分が嫌いだ」
言い切った瞬間、冷たいものが足首に巻きついた。
凪斗は下を見た。影の触手が、自分の足を掴んでいる。
同時に胸の奥に納得が湧いた。そうだろうな。この夢は罪悪感の夢だ。なら罰は外ではなく内に向く。
影はぐいと引いた。
床が沈む。靴底が吸い込まれる。
沈む感覚は、かつて見た廃遊園地の泥と似ている。夢はパーツを使い回す。節約が上手い。
凪斗は咄嗟にナイフを構えた。
だが刃を向ける先が、いつもと違う。
敵の影ではない。
自分の足元の影だ。
怖い。
当然だ。
自分を切るのは、誰だって怖い。
それでも、逃げたら終わる。
この夢は、逃げる自分を再現して、それを罰する形で追い込む。
凪斗は歯を食いしばった。
そして、低く言った。
「俺は、罰するために死ぬんじゃない」
刃を振り下ろす。
影が裂けた。
裂けた瞬間、現実の身体へ痛みが走った。
足首から膝、太もも、背骨、首の裏、頭のてっぺん。電流が神経をなぞるように通る。
視界が白く弾け、膝が床についた。夢の床は冷たい。冷たさだけはなぜか忠実だ。
息が荒い。汗が出る。夢なのに汗が出るのは理不尽だが、理不尽であることがこの世界の正確さでもある。
それでも影はほどけた。
足元の沈みが止まる。
凪斗は息を整える暇もなく、影の群れへ向き直った。
いじめっ子たちは泣きそうな顔で足をばたつかせている。笑っていた者たちは叫び、黙っていた者たちは声も出せない。
当時の凪斗は、まだスマホを見て笑っている。影が絡んでも笑っている。
その笑いが一番腹立たしかった。
腹立たしいのに、それが自分だという事実が一番きつい。
凪斗はナイフを握り直した。
刃が少し重くなった気がする。自分を切ったぶん、重さが増したのかもしれない。そういう理屈の通らなさが夢にはある。理屈が通らないのに、因果だけは通る。だから逃げられない。
「……ごめん」
凪斗は拓海に向けて小さく言った。届かないかもしれない。だが言わないと自分が崩れる。
謝罪は免罪符じゃない。免罪符にするな、と自分に言い聞かせる。
そして動いた。
影を斬る。
影は切れる。
切れた影は黒い霧になって散る。
斬るたびに身体が痛む。切ったのは影なのに、刃が自分の肉をかすめたみたいな痛みが返ってくる。
それでもやるしかない。痛みが返ってくるのは、たぶん「これは他人事じゃない」という証拠だ。夢は説教をしない。痛みで説明する。
凪斗は一人ずつ、影を解いていく。
いじめっ子の足元。笑っていた者の足元。黙っていた者の足元。
順番はどうでもよかった。重要なのは、全員を沈めないことだ。沈めば終わりになる。終わりにしてしまうと、拓海の言葉が「結論」になってしまう。
結論にしてはいけない。
「誰も助けてくれなかった」が結論になったら、拓海の世界はそこで終わる。
終わった世界は、悪夢に食われて、数字にされる。ドリーマーの管理画面に並ぶ、あの嫌な数字に。
影を斬り終えると、床の黒さが薄れていった。夕焼けの色がもう一段濃くなる。音が少し戻る。机の脚がきしむ音が聞こえた気がした。
夢のくせに、ほんの少しだけ救いがあるのが腹立たしい。救いがあるから、人は期待してしまう。
いじめっ子たちは逃げるように教室の外へ出ようとする。
だがドアは開かない。夢の出口は、本人の都合では作れないらしい。
「開けろよ!」
「何だよこれ、ふざけんな!」
「誰か、先生呼べって!」
先生は来ない。
先生が来ないから成立するのが、そもそもの現実だった。
凪斗は叫び声を聞きながら、少しだけ冷静になった。
この夢は「いじめ」を再現したいのではなく、「凪斗の罪悪感」を煮詰めたいのだ。だから、教師という要素は邪魔になる。教師が来たら話が変わる。変わる話は、罪悪感を固定できない。
代わりに、彼らの姿がぼやけた。
輪郭が溶け、影が薄まり、景色に混ざって消えていく。
夢が不要な部品を片付けている。
最後に残ったのは、拓海と、当時の凪斗だけだった。
当時の凪斗は、ようやくスマホから顔を上げた。
だが目は空っぽだった。凪斗自身を見ているのに、見えていない。
人間としてではなく、「役割」としてそこにいる。
凪斗はその当時の自分を見て、思った。
こいつを殴っても、何も変わらない。
夢の中で殴ったら気が済むかもしれないが、気が済むということが一番危ない。気が済んだ瞬間に、罪悪感は「終わったこと」にされる。終わったことにしたい自分が、また逃げる。
凪斗は当時の自分から目を逸らさずに、拓海へ近づいた。
今度は足が動いた。
近づくほど、教室の匂いがする気がした。古いワックスと湿った木の匂い。黒板消しの粉の匂い。
それは記憶が作った匂いだろう。だが匂いがあるという事実だけで、この夢は現実味を増す。現実味が増すほど、胸が苦しくなる。
「拓海」
凪斗が呼ぶと、拓海の肩が少し動いた。
顔を上げる。
目が合った、と思った。だが拓海の目は凪斗の向こう側を見ているようでもある。人はつらいものを見るとき、だいたい焦点が合わない。
拓海の目の奥には疲れがあった。
疲れは怒りより厄介だ。怒りは燃える。燃えればまだ動ける。疲れは冷える。冷えたものは戻りにくい。
冷えたまま固まると、人は静かに壊れる。
拓海はゆっくり口を開いた。
「遅いよ」
たったそれだけ。
なのに凪斗の胸が詰まった。
言い訳は用意できない。怖かった。巻き込まれたくなかった。自分も笑われたくなかった。
全部本当だ。
本当だからこそ醜い。
拓海は続けた。
声は静かで、責める調子ではない。責めない声は、反論の余地を残さない。
「でもさ」
「今でも覚えててくれたなら」
拓海は視線を窓へ向ける。夕焼けは、もう少し濃くなっている。
夕焼けが濃いというだけで、この場面が救われるわけじゃない。だが夢はそういう小細工をする。小細工があると、人は「まだ間に合うかもしれない」と思ってしまう。間に合わなかったときの絶望が増えるだけなのに。
「それでいいや」
その言葉が終わる前に、拓海の輪郭がほどけ始めた。
光の粒になる。
細かい砂みたいな光が、夕焼けの中へ舞う。
凪斗は手を伸ばした。
触れることはできない。
光は指の隙間を通り抜ける。
そしてその光は、凪斗の胸へ向かった。痣のある場所。いつも痛む場所。
熱が広がる。痛みではない。冷えた手を温めるみたいな熱だ。
痣が少し薄くなった。鏡がなくても分かるくらい、感覚が変わる。
教室の景色が揺れた。
夕焼けが白く飛ぶ。机の輪郭が溶ける。
凪斗は落ちる感覚を覚えた。悪夢の奔流に飲まれたときと同じ。ただ今回は溺れるのではなく、引き戻される感じだ。
次の瞬間、凪斗は自分のベッドの上で息を吸い込んだ。
喉がからからで、胸が痛く、足首が熱い。
現実の体に戻ったはずなのに、夢の続きが皮膚に残っている。嫌な残り香だ。
凪斗は枕を見た。濡れている。涙で濡れたのだと、少し遅れて理解した。
「……泣いてたのか」
声が掠れた。
恥ずかしいというより驚いた。泣くほどの資格が自分にあるのか、と考えるのはまた別の種類の逃げだ。資格があるかどうかを議論している間に、現実は何も変わらない。夢はそういう逃げを好む。逃げれば逃げるほど、罪悪感が腐って甘くなる。
凪斗は胸の痣に指を当てた。
薄くなっている。
完全に消えたわけではない。消えるはずもない。
罪悪感というのは便利なもので、抱えている間は「自分は悪いことをした」と分かった気になれる。
分かった気になるだけで、何かをしたことにはならない。
だから罪悪感は、ただの免罪符にもなる。
凪斗は、その仕組みを今さら理解した。
理解したところで過去が消えるわけじゃない。
けれど過去を棚に戻して鍵をかけるだけでは、きっとまた同じ夢が来る。
守りたいのは、これからの誰かだ。
同時に、守りたいという言葉で過去から逃げたくない。
守ると言うなら、まず見て見ぬふりをしないことだ。
部屋の空気が少し冷える。窓の外では風が鳴っている。現実の音があるだけで安心する自分がいる。
その安心が弱点になるのも、もう分かっている。
頭の奥で、笑い声のような気配がした。
「バグのくせに、随分としぶとい」
ドリーマーの声だ。
今夜は夢の中で聞いたはずなのに、起きても残っている。声が残るのは良くない兆候だ。痛みが残るのも良くないが、声が残るのはさらに良くない。境界が薄くなっている。
凪斗は返事をしなかった。返事をしたところで、相手は喜ぶだけだ。
代わりにスマホを手に取った。
画面を見た瞬間、心臓が一段強く打った。
通知が来ている。
ドリーム・チェインからだ。
凪斗はロック画面のまま指を止めた。
開けばまた繋がる。
開かなければ何も分からない。
どちらを選ぶにしても、誰かが死ぬ可能性がある。
そういう二択は、たぶん二択じゃない。自分の都合を優先するか、他人の都合を優先するか、というだけだ。
そして凪斗は、過去に一度、自分の都合を優先した。結果、誰かを傷つけた。
同じことを繰り返すのか。
繰り返さないなら、何が必要なのか。
凪斗は息を吐き、ロックを解除した。
通知を開く。
画面には短い文が表示されていた。
「次のリンク候補が見つかりました」
候補。
つまり次がいる。
凪斗は目を閉じた。
罪悪感の夢は終わった。けれど悪夢は終わらない。悪夢は、続きがあるから商品になる。ドリーマーが下請けだというなら、元請けはもっと露骨に効率を求めるはずだ。
凪斗は起き上がり、足首を見た。見た目には何もない。だが痛みだけは確かに残っている。
痛みが残るということは、夢の出来事が「現実側の代償」として処理されているということだ。つまり、夢の中での戦いは、冗談ではない。
「……行くしかない」
それは決意というより状況認識だった。
選びたくない選択を、選ばされている。
そういうとき人は強くなるのではなく、ただ慣れていく。
慣れが一番怖い。人を救うことに慣れるのも。人を裁く感覚に慣れるのも。自分の黒さに慣れてしまうのも。
凪斗は部屋の明かりをつけた。
明かりは現実を強くする。強すぎる現実は嫌いだが、今は必要だった。
机の上にナイフはない。現実には持ち込めない。だから夢の中でしか戦えない。そういう縛りは、ゲームなら面白いが、現実だとただ理不尽だ。
凪斗は水を飲んだ。喉を潤すのはたぶん意味がない。夢の中では喉の渇きも再現される。それでも飲む。意味がないことをしているとき、人はまだ人間でいられる気がする。
窓の外で風が鳴った。
その音は確かに現実の音だった。
凪斗はスマホの画面をもう一度見た。
リンク候補の詳細は、まだ表示されていない。通知は、呼び鈴のようなものだ。ドアを開けるかどうかは、こちらに委ねられているふりをしている。
だが、委ねられていない。開けなくても、向こうは回り道をして入ってくる。夢はそういうものだ。
凪斗は画面を閉じ、膝の上に両手を置いた。
今夜の夢で、拓海は「それでいいや」と言った。
それは許しではない。許しだと受け取りたい自分がいるだけだ。拓海の疲れた目を思い出す。疲れは、許す余裕の別名でもある。余裕があるから許すのではなく、諦めたから許すこともある。
凪斗はその違いを、きちんと理解したいと思った。
理解したうえで、進みたい。
進む、という言葉も便利だ。
進んでいるふりをして、実は逃げていることがある。
だから、進むなら、具体的に何をするのかを決めないといけない。
次のリンク候補を救う。
ドリーマーを追う。
その上にいる管理者を突き止める。
やることは山ほどあるのに、今できることは少ない。
少ないからこそ、ひとつずつやるしかない。
凪斗はベッドに座ったまま、しばらく動けなかった。
動けないのは怖いからではない。怖いのはもう分かっている。
動けないのは、自分が今まで「動かないことで生き延びた」人間だからだ。動かないことが得意だった人間が、動く側に回るのは、筋肉の使い方が違う。
その筋肉痛を、今夜は思い知らされた。
凪斗は深呼吸をして、スマホのメモを開いた。
拓海のことを書く。
いじめの場面を書く。
当時の自分の立ち位置を書く。
そして、今夜言った言葉を書く。
書くことで、逃げ道を塞ぐ。
言ったのに、言わなかったことにするのが、一番卑怯だ。卑怯さは悪夢の餌になる。餌を減らすなら、まずそこからだ。
メモに書き終えた瞬間、胸の痣がじんと熱を持った。
痛みではない。だが、警告に近い。
夢は、見られている。
ドリーマーがどこから見ているのかは分からない。
だが、見ている。
見ている相手に見られていると分かっても、こちらはやることをやるしかない。
それが悔しい。悔しいという感情は、意外と役に立つ。悔しいと、人は言い訳が減る。
凪斗はスマホを置き、布団に潜り込んだ。
次に眠ったら、また夢が来る。
来るなら来い、と思いたい。
思いたいが、怖いものは怖い。
凪斗は目を閉じた。
夕焼けの薄い教室が、まぶたの裏に残る。
拓海の「遅いよ」が残る。
それでも、今夜はひとつだけ違う感覚があった。
逃げたくない、という感覚だ。
遅い。確かに遅い。
でも、遅いまま何もしないよりは、ずっとましだ。
その考えが、次の悪夢に飲み込まれないための、かろうじて残った足場になった。




