第4話 夢喰いアプリ
昼休みの教室は、いつも通り騒がしかった。
パンの袋を開ける音。炭酸の缶を鳴らす音。笑い声。
その全部が、僕の耳に薄く届く。
僕の頭の中は、夜の続きを引きずっていた。
黒い影。天井いっぱいの目。焼けるような痛み。
助けた一年生の顔。桐谷綾乃。息を吹き返した現実。
僕は箸を動かしながら、胸のあたりを服の上から押さえた。
痣は、昨日より確実に濃い。
熱もある。
ナイフを振るうたび、現実の体が削られる。
それが分かったから、怖い。
でも、怖いからってやめたら、誰かが死ぬ。
「相原」
低い声。
不知火瑛士が、僕の机の前に立っていた。
昼休みの途中から、瑛士は何度も教室を出たり入ったりしていた。
誰かに聞き込みでもしていたんだろう。
「ちょっと付き合え」
「今、飯」
「飯は逃げない」
瑛士は当然みたいな顔で言う。
僕はため息をつき、弁当箱を閉めた。
真白がこちらを見ている。
不機嫌そうに、眉が寄っている。
「どこ行くの」
真白が小声で言う。
僕は視線を逸らした。
「すぐ戻る」
「……凪斗」
名前で呼ばれて、心臓がきゅっと縮む。
ごめん、と言いそうになって、飲み込んだ。
言ったら余計に怪しまれる。
瑛士に引っ張られるように廊下へ出た。
昼の廊下は明るいのに、僕の背中は冷たい。
「で、何だよ」
「被害者の共通点、もう一段掘る」
瑛士は歩きながらスマホをいじる。
目的地は、使われていない第二情報室だった。
鍵は閉まっているはずなのに、瑛士はポケットから鍵を出した。
「それ、どこで」
「用務員さんと仲良くなった」
「どうやって」
「世界は交渉だ」
瑛士は淡々と言い、鍵を回した。
カチャ、と乾いた音。
扉が開く。
薄暗い部屋。使われていない机。古いパソコン。
埃っぽい匂いがして、昔の教科書みたいな空気だった。
「ここ、入って大丈夫かよ」
「大丈夫じゃない。でも必要」
瑛士は椅子に座り、ノートパソコンを開いた。
その動きが手慣れていて、腹が立つ。
「倫理的にアウトだろ」
「倫理の話、今する?」
瑛士は指を止めずに言う。
画面には、いくつものタブが開かれていた。
ニュース、SNS、掲示板、アプリのレビュー。
全部、あの事件に繋がるもの。
「人が死ぬのと、プライバシーが漏れるの、どっちが重い?」
「……そういう二択にするな」
「現実は二択にしてくる」
瑛士はキーボードを叩き続けた。
「相原。お前が助けた二人。神崎の友人と、桐谷綾乃」
「……うん」
「二人のSNS、共通点がある」
瑛士は画面を僕に向けた。
そこには、短い投稿が並んでいる。
『寝ても疲れ取れない』
『最近、夢がリアルすぎ』
『悪夢見たけどアプリ入れたらマシになった』
僕の喉が乾いた。
「アプリ?」
「そう。睡眠系。夢記録系」
瑛士は別のタブを開く。
そこに、アイコンが表示されていた。
青い月のマーク。
「ドリーム・チェイン」
名前だけで嫌な感じがした。
チェイン。鎖。繋ぐ。
夢を繋ぐ。誰と。何と。
「無料アプリ。睡眠管理。夢を記録して共有」
瑛士は読み上げる。
画面には、甘い宣伝文句が並ぶ。
『あなたの夢を記録して友達と共有しよう』
『悪夢を減らし、ぐっすり眠れるようサポート』
『夢のマッチングで、孤独な夜を終わらせる』
「孤独な夜を終わらせるって何だよ」
「刺さるやつには刺さる」
瑛士はレビュー欄をスクロールした。
星五つ。星一つ。バラバラ。
でも、内容は妙に似ている。
『最初は怖い夢見たけど、だんだん慣れてきた』
『夢がリアルで楽しい。現実より好き』
『悪夢が増えた。でも癖になる』
『夜が待ち遠しい。自分じゃない自分になれる』
背中がぞくっとした。
怖い夢が増えたのに、癖になる。
それって、まるで。
「夢を餌にしてるみたいだな」
僕が言うと、瑛士はニヤついた。
「ビンゴっぽいだろ」
「……勝手にビンゴにすんな」
「でも、共通してる。被害者の端末に入ってる率が高い」
「どうやって分かった」
「噂と、スクショと、裏」
「裏って何だよ」
瑛士は肩をすくめた。
「今は聞くな」
聞きたくもない。
でも、瑛士が危ない橋を渡ってるのは分かる。
このまま放っておいたら、瑛士はいつか自爆する。
「相原」
瑛士が画面を閉じ、僕を見た。
「お前のスマホにも入れよう」
僕は即答した。
「嫌だ」
「拒否早いな」
「当たり前だろ」
「敵を知るには、敵の巣に踏み込むしかない」
瑛士は真面目な顔で言う。
その言葉が、妙に腹に落ちてしまうのが嫌だった。
「踏み込んだら食われる」
「食われないように工夫する」
「工夫でどうにかなるか」
「する」
瑛士は机の上にスマホを置いた。
僕のスマホを指差す。
「オフラインモード」
「そんなのあるのか」
「ある。設定をいじれば通信を絞れる」
瑛士は淡々と続けた。
「位置情報オフ。連絡先連動オフ。写真アクセス拒否」
「通知も切る。バックグラウンド更新も切る」
「寝るときだけ起動。起動してすぐ機内モード」
「機内モードで動くのかよ」
「動くように作ってあるっぽい」
「なんで分かる」
「レビューに書いてある。オフラインでも夢が濃いって」
僕は頭を抱えたくなった。
オフラインでも夢が濃い。
それ、ますます危ない。
「やめよう。別の方法で調べろ」
「相原」
瑛士が少しだけ声を落とした。
「次は二人だって通知、来ただろ」
僕の心臓が跳ねた。
瑛士は知っている。僕が言ったわけじゃない。
つまり、瑛士も受け取った?
それとも、僕の反応から推理した?
「……なんで」
「お前の顔が言ってた」
瑛士は平然と言った。
「相原。もう遊びじゃない。時間がない」
「このアプリが媒介なら、止めるには触るしかない」
正論に聞こえる。
でも、正論は人を殺すことがある。
僕はその正論で、毎晩削れている。
「……条件がある」
僕は言った。
「何でも」
「入れるのは、僕だけ」
「俺も入れる」
「入れるな」
僕は強く言った。
瑛士が入れたら、瑛士が死ぬかもしれない。
僕が守れる保証はない。
「相原、お前優しいな」
「優しくない。面倒が増えるだけ」
「同じことだ」
瑛士は笑って、頷いた。
「分かった。お前だけ。俺は現実で支える」
嫌な予感は消えない。
でも、止まるよりはマシだと思ってしまった。
僕は観念してスマホを取り出した。
瑛士が横で、設定を次々に指示する。
位置情報オフ。連絡先オフ。権限拒否。
最後に、インストール。
青い月のアイコンが、僕の画面に増えた。
それだけで、胸の痣がじりっと熱くなった気がした。
「……気のせいだよな」
「気のせいじゃないかもな」
瑛士はあっさり言う。
怖いことをさらっと言うな。
「今夜、起動する」
瑛士が言った。
「するのかよ」
「するって決めたの、お前だろ」
「……」
僕はスマホを握りしめた。
薄いガラスの向こうに、夜がある気がした。
第二情報室を出ると、廊下の向こうから足音がした。
真白だった。
目が合った瞬間、真白の顔が固くなる。
「……何してたの」
真白はまっすぐ来た。
逃げ道がない。
「ちょっと」
「ちょっとで済む顔じゃない」
真白は瑛士を睨んだ。
「不知火。あんた、凪斗に何してるの」
「情報交換」
瑛士は余裕の顔だ。
その余裕が、真白を余計に苛立たせる。
「凪斗。屋上」
真白は短く言い、先に歩いた。
断る余地がない声だった。
僕は瑛士を見た。
瑛士は肩をすくめた。
「行け。幼馴染は爆発させると怖い」
「お前のせいだろ」
「俺だけのせいじゃない」
その言葉が地味に刺さる。
僕のせいでもある。
屋上は風が冷たかった。
フェンスがガタガタ鳴る。
冬の空は高いのに、息は重い。
真白はフェンスの前に立って、振り向いた。
顔が怒っている。だけど、目の奥が揺れている。
「凪斗」
名前を呼ばれて、僕は身構えた。
「あたしに隠し事してるでしょ」
直球だった。
逃げる言葉が見つからない。
「してない」
僕は苦しくなる嘘を吐いた。
「してる」
真白は即答した。
「最近ずっと変」
「夜、連絡の頻度もおかしい」
「胸押さえてる」
「不知火と二人で動いてる」
真白は一つずつ積み上げる。
僕が崩れそうになる。
「大したことじゃない」
「大したことじゃないなら言えるでしょ」
真白の声が少し震えた。
怒りだけじゃない。怖さが混じっている。
「……真白」
「凪斗」
真白は一歩近づいた。
「あたし、置いてかれるの嫌なんだけど」
胸が痛い。
痣じゃなくて、別の痛み。
「巻き込みたくない」
僕は本音を漏らした。
それは正解でもあり、地雷でもある。
「巻き込みたくないって何」
真白の眉が跳ねた。
「あんた、昔は何でも相談してくれた」
「悪夢見た日も、泣きながら言った」
「熱で寝込んだ日も、あたしがプリント持ってった」
真白の言葉は、過去を引っ張り出す。
僕が守ってきた普通を、簡単に剥がす。
「今は?」
真白が言う。
「今は、あたしは何?」
答えられない。
友達だ。幼馴染だ。大切だ。
だからこそ言えない。
この矛盾が僕を殺す。
「……ごめん」
僕が言うと、真白は唇を噛んだ。
怒りと悲しみを飲み込む顔だった。
「謝らないで」
真白は低い声で言った。
「謝られたら、許さなきゃいけなくなる」
その言い方が痛かった。
真白は僕を責めたいんじゃない。
置いていかれるのが怖いんだ。
「凪斗。あんた、今、危ないことしてるんでしょ」
真白が言った。
「危なくない」
また嘘。
真白はすぐ見抜く。
「嘘」
真白は一歩下がり、息を吐いた。
「……分かった」
その声が冷たくて、僕はぞっとした。
「凪斗が言わないなら、あたしも無理に聞かない」
「でも」
真白は僕を見た。
「信じてほしかった」
その一言で、僕の中の何かが崩れた。
「真白、違う」
「違わない」
真白は首を振った。
「あんた、あたしを守りたいのかもしれない」
「でも、守られてる側って、すごく怖いんだよ」
真白は笑わなかった。
「何が起きてるか分からない」
「凪斗が遠くなる」
「夜が怖い」
真白の声が小さくなる。
その小ささが、逆に重い。
「じゃあ言ってよ」
真白は最後に言った。
「言わないなら、せめて一人で壊れないで」
そして、真白は屋上の扉へ向かった。
僕は追いかけられなかった。
追いかけたら、真白を巻き込む。
でも追いかけないと、真白が遠くなる。
どうして僕は、どっちも選べないんだ。
放課後の空が暗くなる。
家に帰る。夕飯を食べる。風呂に入る。
全部が普通の動作なのに、心が落ち着かない。
机の上にスマホを置いた。
青い月のアイコンが、僕を見ている気がした。
夜。
瑛士からメッセージが来た。
桐谷、今日は普通に登校してた。顔色は悪かった。
でも笑ってた。助かったのは確定。
で、ドリーム・チェインの利用履歴が濃い。毎晩。
他の被害者も似てる。
僕はスマホを握った。
指が冷たい。
起動するしかない。
僕が入れてしまった以上、避けられない。
ベッドに横になり、アプリをタップした。
青い月が広がり、画面が切り替わる。
柔らかい音楽。眠気を誘うような音。
白い文字。
『接続中』
『夢のリンクを確認しています』
心臓が嫌な打ち方をする。
胸の痣が熱い。
『今夜、あなたの夢とつながるのは──』
ポップアップが現れた。
指が止まる。
『マッチング相手:不明』
不明。
名前がない。
相手が人かどうかも分からない。
画面が暗転した。
音楽が止まる。
そして、スマホの画面に一瞬だけ、黒い影が映った気がした。
「……」
僕は機内モードにした。
でも、もう遅い気がした。
繋がるっていうのは、通信の話じゃない。
夢の話だ。
目を閉じた。
落ちる。
いつもの沈む感覚。
次の瞬間、僕は見知らぬ部屋に立っていた。
狭い。
息が詰まるくらい狭い。
壁一面にポスターと写真が貼られている。
アニメのキャラ。アイドル。知らない風景。
切り抜かれた誰かの顔。
落書き。
床にはゴミ袋が積み上がっている。
コンビニの袋。空き缶。コード。
甘ったるい匂いと、湿った匂いが混ざっている。
部屋の中央に、机があった。
机の上にはパソコン。
モニターが二つ。
片方には、ドリーム・チェインのロゴ。
もう片方には、管理画面みたいなものが表示されている。
『ユーザー数:102,418』
『夢リンク数:389,002』
『悪夢生成数:12,901』
『死亡率:0.31』
数字が並ぶ。
人の生死が、ただの数字になっている。
「……ふざけんな」
僕の声が震えた。
これが現実なら、怒鳴り散らしたい。
でもこれは夢だ。
夢なのに、空気が重い。
モニターの前に、誰かが座っていた。
フードを被った人物。
背中が細い。
肩が小さい。
でも、指が異様に長い。
その指がキーボードを叩いている。
カタカタ、という音が、部屋の中でやけに響く。
「お前が……」
僕が一歩近づいた瞬間、その人物が振り向いた。
顔を見て、胃がひっくり返る。
人の顔だ。
でも、人の顔を無理やり仮面に貼り付けたみたいに歪んでいる。
口元だけが極端に大きく裂けていて、笑っている。
笑っているのに、頬が動かない。
目は真っ黒で、底がない。
その黒い目から、コードのようなものが伸びていた。
天井の闇へ繋がっている。
まるで、部屋そのものが巨大な機械の中みたいだ。
「やあ」
そいつは軽い声で言った。
声だけ聞いたら、普通の青年みたいだった。
そのギャップが気持ち悪い。
「君が、相原凪斗だね」
僕の名前を呼ぶ。
勝手に。
当然みたいに。
「お前は誰だ」
僕は右手を見る。
黒いナイフが握られていた。
いつの間にか。
僕の恐怖が形になっている。
そいつは椅子に座ったまま、肩をすくめた。
「僕? 僕はドリーマー」
「……ドリーマー」
「そう。夢を見る人。夢を食べる人」
ドリーマーは笑った。
裂けた口がさらに広がる。
見ているだけで吐きそうになる。
「人間ってさ、起きてる間は嘘をつくよね」
ドリーマーは指を鳴らした。
パチン、という音。
すると、壁の写真のいくつかが、ふっと光った。
写真の中の人が、泣いている。
笑っている。
怒っている。
全部、僕の知らない顔。
「いい子のふり」
「平気のふり」
「普通のふり」
ドリーマーは楽しそうに言う。
僕の胸が痛んだ。
真白の顔が浮かぶ。
「でも眠ってる間だけは、本音が出る」
ドリーマーは、自分の頬を指でなぞった。
その指が長すぎて、気持ち悪い。
「怖い。寂しい。死にたい。助けて」
「そういうのが、夢にはそのまま出る」
ドリーマーは舌なめずりするように口を動かした。
裂けた口の奥が暗い。
「だから、その本音ごと食べてあげてるんだ」
僕は歯を食いしばった。
「お前が……全部の元凶か」
「元凶?」
ドリーマーは首を傾げた。
「僕はただの仕事だよ」
「仕事?」
「そう。下請け」
ドリーマーは椅子の背にもたれ、画面を指した。
「ほら、見て」
モニターの数字が動く。
悪夢生成数が増える。
死亡率が微かに上下する。
「世界にはね、悪夢のシステムがある」
「誰かが回してる」
「僕はその一部を担当してるだけ」
僕の背中が冷たくなった。
下請け。
つまり、上がいる。
この気持ち悪い存在を使う、さらに気持ち悪い何かが。
「じゃあ、お前を倒しても終わらないのか」
僕がナイフを構えると、ドリーマーは嬉しそうに笑った。
「その目。いいね」
ドリーマーは拍手した。
長い指がパチパチ鳴る。
「君みたいな子、好きだよ」
「気持ち悪い」
「うん。よく言われる」
ドリーマーは軽く言って、モニターを撫でた。
「でも困るんだよね。時々、君みたいなバグが出る」
「バグ?」
「そう。死んでも戻ってくる」
「普通は、そこで終わりなのに」
ドリーマーは僕を見た。
真っ黒な目が、僕の奥を覗く。
その視線だけで、頭の中がざわざわする。
「君、面倒なんだ」
「だから、処理しないと」
ドリーマーが指を鳴らした。
パチン。
部屋の壁紙が、ずるりと剥がれ落ちた。
その下から、真っ黒な水みたいなものが溢れ出した。
いや、水じゃない。
悪夢だ。
映像の断片。
感情の断片。
音の断片。
廃遊園地。
血だらけの教室。
底なしの海。
炎に包まれた街。
見たことのあるものも、ないものも、全部が押し寄せる。
洪水みたいに、僕の足元を飲み込む。
冷たい。重い。息が苦しい。
「うわっ……!」
僕は後退した。
でも、足が動かない。
悪夢の奔流が、床から絡みつく。
天井の闇から、視線を感じた。
目玉の気配。
僕の頭がじりじり熱くなる。
ドリーマーは楽しそうに言った。
「さあ、君のコレクションだよ」
「今まで戦ってきた悪夢」
「これから戦うはずだった悪夢」
「全部、君にプレゼント」
「ふざけんな!」
僕は叫び、ナイフを振った。
悪夢の奔流を切る。
切れる。
でも、切っても切っても、増える。
廃遊園地の観覧車が、目の前に現れた。
ギシギシ軋む音。
ゲートのネオン。
目覚めはない。
その文字が、僕の目に突き刺さる。
次に、学校の廊下。
天井の目玉。
影の怪物。
桐谷綾乃の泣き顔。
次に、知らない海。
底がない。
沈む。沈む。
誰かの手が足首を掴む。
次に、炎の街。
逃げる人。
燃える髪。
熱で息ができない。
全部が一気に押し寄せて、僕の意識を裂こうとする。
恐怖の量が、多すぎる。
心がパンクする。
僕は歯を食いしばった。
ここで折れたら終わる。
僕が折れたら、現実で誰かが死ぬ。
真白が死ぬかもしれない。
「……こいつを倒さないと」
僕は息を吐き、ドリーマーを睨んだ。
ドリーマーは椅子に座ったまま、楽しそうに揺れている。
「いい顔」
「黙れ」
僕は走った。
悪夢の奔流を切り裂きながら、ドリーマーへ向かう。
ナイフが黒い軌跡を描く。
ドリーマーの前まで来た。
ナイフを振り下ろす。
その瞬間、ドリーマーの体が、砂みたいに崩れた。
椅子だけが残る。
空っぽ。
「……は?」
背後で声がした。
「そういうとこ、好き」
振り向く。
ドリーマーが、僕の背後に立っていた。
いつの間に。
僕は反射で振り向きざまに斬った。
刃が空を切る。
ドリーマーはふっと消える。
どこだ。
どこにいる。
悪夢の奔流が僕の足を掴み、引きずり込もうとする。
胸の痣が焼ける。
頭が割れそうだ。
現実の体が悲鳴を上げている。
「相原凪斗」
ドリーマーの声が、部屋中から響いた。
壁の写真から。
モニターから。
天井の闇から。
「君はね、いい素材なんだ」
「死んでも戻る。悪夢を切れる」
「つまり、君は……繋ぎ直せる」
「繋ぎ直す?」
僕が叫ぶと、モニターの数字が急に変わった。
死亡率が、上がる。
悪夢生成数が、跳ねる。
画面の端に、新しい項目が出た。
『狩人稼働率:上昇』
僕の背中が凍った。
狩人。
僕のことだ。
「君が動くほど、システムは回る」
ドリーマーの声は笑っている。
「君が悪夢を斬るたび、別の悪夢が生まれる」
「君が助けるたび、別の誰かが狙われる」
「……無限ループじゃねえか」
僕は息を荒くした。
そんなの、勝てるわけがない。
「勝てるよ」
ドリーマーの声が甘くなる。
「依頼主に届けばね」
依頼主。
上の存在。
ラスボス。
その言葉を聞いた瞬間、部屋の天井の闇が、少しだけ裂けた。
裂け目の向こうに、何かの輪郭が見えた。
巨大な影。
目がいくつあるのか分からない。
ただ、見られている。
僕の喉が詰まる。
あれが、上。
あれが、悪夢システムの中心。
ドリーマーが囁く。
「君は、そこまで来られるかな」
悪夢の奔流が、さらに増した。
廃遊園地のゲートが迫る。
学校の廊下が迫る。
底なしの海が口を開ける。
炎の街が僕の皮膚を焼く。
僕は叫び、ナイフを振るった。
振るうしかない。
切っても増える。
でも、切らないと死ぬ。
そのとき、僕の耳に小さな声が混じった。
「……凪斗……」
真白の声。
ありえない。
夢の中で聞こえるはずがない。
でも、確かに聞こえた。
胸が痛い。
僕が隠したせいで、真白が何かに触れたのか。
あのアプリに。
僕のせいで。
「真白……?」
僕が名前を呼んだ瞬間、悪夢の奔流が一気に僕の口と鼻を塞いだ。
息ができない。
視界が真っ黒になる。
ドリーマーの笑い声。
「焦りも、いい味」
そして、最後に見えたのは、モニターの文字だった。
『マッチング相手:不明』
『リンク先:追加』
追加。
誰かが繋がった。
僕以外の誰かが。
次の瞬間、世界が崩れた。
僕はベッドの上で跳ね起きた。
「はっ……!」
息が荒い。
胸が焼ける。
喉が痛い。
涙が出ている。
夢の中で溺れたみたいに、呼吸が整わない。
僕はスマホを掴んだ。
画面を見て、血の気が引いた。
ドリーム・チェインが、勝手に開いている。
さっきまで機内モードだったはずなのに。
画面に表示された文字。
『接続完了』
『リンク成立:2』
リンク成立。二人。
僕の指が震える。
二人。
僕と、もう一人。
そして、画面の下に、通知が一件。
差出人不明。
内容は短かった。
次は、彼女だ。
僕は息を止めた。
彼女。
真白。
スマホが震えた。
瑛士からの着信。
出る。
『相原、起きてるか』
瑛士の声が、いつもより低い。
ふざけた調子がない。
「……起きてる」
『今、桐谷の親が救急車呼んだって情報が入った』
僕の心臓が跳ねる。
「え」
『息が苦しいって。突然。夜中に』
瑛士が続ける。
『お前、今夜、アプリ起動したな』
「した」
『じゃあ当たりだ』
瑛士は一拍置いて言った。
『夢喰いは、もう隠れない』
僕はスマホを握りしめた。
胸の痣が熱い。
頭の奥がじりじりする。
また、夜が来る。
僕は言った。
「瑛士。明日じゃない」
「今だ。今、止める」
『どうやって』
「……廃遊園地」
僕は言った。
夢の入口が、そこにある。
アプリの管理画面も、そこへ繋がっていた。
「現実側の巣に踏み込む」
瑛士が短く笑った。
笑いじゃない。息みたいな音。
『了解。悪夢ハンター、出動だな』
僕は答えなかった。
ハンターなんて格好いい言葉は、今はいらない。
必要なのは、間に合うことだけだ。
通話を切る。
僕はベッドから立ち上がった。
窓の外は真っ暗だ。
霧ヶ丘の夜は静かだ。
静かだからこそ、何かが動いている気がする。
スマホの画面には、青い月がまだ光っていた。
まるで、僕を誘導するみたいに。
僕は、上着を掴んだ。
玄関へ向かう。
足が震える。
怖い。
でも、止まれない。
次は、彼女だ。
その言葉を、現実にさせないために。




