第11話 悪夢の先で
霧ヶ丘の朝は、何事もなかったみたいに始まる。
駅前のコンビニに新しいアイスのポスターが貼られていて、通学路の角の自販機は相変わらず釣り銭切れで、校門前の坂は今日も息が切れる。そんな当たり前が、数週間前の僕には、たぶん一番遠かった。
ニュースでは「睡眠中の突然死」が減った、と言っていた。
全国的に、目に見えて。
司会者が明るい声で「生活習慣の改善でしょうか」と言い、医師っぽい人が「ストレスが軽減した可能性も」と当たり障りのない説明をする。画面の隅には“原因不明”の四文字が小さく添えられているけど、誰もそこに突っ込まない。朝の情報番組は、視聴者に安心を配る仕事だ。
僕は食パンをかじりながら、画面の“原因不明”に視線を止めた。
分かっている。
理由は、僕らが見てきたものの中にある。
ただ、言えないだけだ。
「おい、相原。ぼーっとしてると遅刻するぞ」
玄関で父さんが言う。僕はパンを飲み込んで、うなずいた。
「分かってる」
胸の痣は薄くなった。薄くなった、という言い方は正確じゃない。色が抜けた部分が増えた、という感じだ。焼けた跡が完全に消えるわけじゃないみたいに、僕の身体には“覚えた跡”が残っている。
その跡は、寝起きのたびに少し疼く。
痛みは、今でも“合図”になる。
夢が濃くなる日。
境界が薄い日。
なぜだか分からないけど、そういう日がある。
僕は制服のネクタイを締めながら、玄関の鏡で自分の顔を見た。普通の高校生の顔だ。少し寝不足っぽい目。整っているわけでもなく、崩れているわけでもない。
この顔で、あんなものを見た。
この顔で、あんな場所を歩いた。
自分のことなのに、たまに他人事みたいに感じる。
教室に入ると、真白がいつもの勢いで手を振ってきた。
「おーい、生きてる?」
「生きてるよ」
「それ、確認する必要ある?」
「ある」
僕が即答すると、真白は「だよね」と笑った。笑い方が、前と同じで、少しだけ違う。明るさは変わらないのに、目が一瞬だけ慎重になる。僕が気づいていることに、真白も気づいている。
瑛士は後ろの席で、スマホを見ていた。授業前なのに、すでに何かの記事を読んでいるらしい。画面にはオカルト系のまとめサイトっぽい見出しが並んでいた。
「またそれ?」
僕が言うと、瑛士は目だけ動かして僕を見た。
「情報は鮮度が命だ。今日の“原因不明”の報道、SNSの反応が面白い」
「面白がるな」
「面白がってない。分析してるだけ」
「それ、言い換えてるだけだろ」
真白がツッコミを入れる。瑛士は肩をすくめた。
「はいはい。で、相原。昨夜どうだった」
それは、僕らの合言葉になっていた。
“昨夜どうだった?”
普通のクラスメイトが聞いたら、「宿題?」とか「寝れた?」くらいにしか見えない。でも僕らにとっては、もっと具体的な意味がある。
悪夢は来たか。
境界は揺れたか。
誰かの気配は近づいたか。
「……薄かった」
僕は小さく答える。
「薄かったって何」
真白が眉を寄せる。
「夢が。色が薄い。音も遠い。あんまり引っ張られる感じがなかった」
「いいじゃん」
真白が言う。
「いいけど、逆に怖い」
僕が正直に言うと、真白の笑顔が少しだけ固まった。
薄い夢は、静かだ。静かすぎる夢は、何かが潜んでいる気がする。あの時計塔の内部の静けさを思い出す。音がなくて、圧だけがある感じ。
瑛士が頷いた。
「薄い日は、反動が来ることがある。ログ的に」
「ログって言うな」
真白がまた突っ込む。
「……いや、言いたくなるだろ。俺ら、変な世界に片足突っ込んでるんだから」
瑛士は軽く言った。でも、その軽さの奥に、警戒がある。
チャイムが鳴って、授業が始まる。
数学、英語、世界史。
板書、ノート、当てられる声。
周りのクラスメイトの笑い。
普通の一日だ。
普通の一日を続けるのは、意外と体力がいる。何も知らないふりをするのは、嘘をつくのとは違う。僕は嘘をついているわけじゃない。ただ、言えないだけだ。でも、言えないことが多いと、それは嘘に近づく。
昼休み、国語の先生が教卓に肘をついて言った。
「来週までに作文。テーマは“夢”。最近見た夢でもいいし、小さい頃の夢でもいい。あるいは、こんな夢を見てみたいでもいい。自由だ」
教室が一斉にざわつく。
「楽勝じゃん」
「夢とか覚えてねー」
「最近の夢って言われても……」
そんな声が飛び交う。僕の耳には、そのざわつきが少し遠く聞こえた。
夢。
夢について書け。
先生は軽い課題として言っただけだ。文学的なテーマに親しませるための、いつもの国語の宿題。なのに僕は、ペンを握る指が固まって動かない。
夢を思い出すと、僕の頭の中は一瞬で“あっち”に引っ張られる。
廃遊園地の錆びた観覧車。
血管みたいに脈打つ道路の白線。
時計塔の螺旋階段。
拓海の机。
真白の砂時計。
龍の鱗に刻まれていた誰かの恐怖。
全部、視界の裏側に貼り付いている。
僕は深呼吸をして、ノートを開いた。
悪夢は書けない。
書いたら、現実に漏れる気がする。誰かに読まれる前提の文章は、言葉の形を持ちすぎる。形を持つと、境界を越える。僕はそういう感覚を、もう無視できない。
だから、別の形にする。
“夢”という枠の中に、僕の選択を隠す。
放課後、僕は机に残って、作文の下書きを始めた。
タイトルは書かない。
最初の一文だけ、ゆっくり書く。
いつか見てみたい夢がある。
それは、怖い夢を見ても、朝になったら笑って話せる夢だ。
書きながら、僕は自分でも変だと思った。“夢の中で笑う”じゃない。“朝になったら笑って話せる”だ。夢そのものより、夢の外側にあるものを、僕は欲しがっている。
夢は消せない。
消す方法は、もう見た。
誰かの夢を勝手に繋いで、勝手に食って、勝手に管理する。そういう“消し方”は最悪だ。悪夢をなくすために、悪夢よりひどいことをする。僕らはそれを止めた。
じゃあ、これから先、どうする。
なくせないなら、持っていくしかない。
抱えていくしかない。
それを一人で抱えるのは無理だ。
だから、朝になったら笑って話せる。
そういう夢が欲しい。
僕はそこまで書いて、ペンを止めた。
教室にはもうほとんど人がいない。窓から入る光が、黒板の端に斜めに落ちている。誰かの笑い声が廊下から遠ざかっていく。部活の掛け声が体育館の方から聞こえる。
普通の放課後。
この普通が、僕にとってはご褒美みたいに感じる。
でも、油断すると、普通が壊れることも知っている。
「相原ー」
真白の声が、教室の入口から飛んできた。
「まだ残ってんの? 一緒に帰ろ」
「うん」
僕が立ち上がると、瑛士も廊下側から顔を出した。
「作文か」
「見ないでよ」
僕が言うと、瑛士はニヤっとする。
「見ない。見ないけど、テーマが“夢”ってのは悪趣味だな、先生」
「先生に罪はない」
真白が言って、僕のノートをぱたんと閉じた。
「はい、切り替え。帰るよ」
僕らは校舎を出て、いつもの道を歩き始めた。
夕方の空は、少し赤い。霧ヶ丘の街は小さい。坂が多くて、見通しのいい場所が少ない。その分、角を曲がるたびに景色が変わる。
真白は歩きながら、あの軽口を叩いた。
「最近の夢事情どう?」
「それ、定型文にするなよ」
「定型文じゃないし。ちゃんと気にしてるし」
「……相変わらず悪夢は多い」
僕が言うと、真白が「うわ」と顔をしかめる。
「でも、前よりちょっとマシ」
「どっちだよ」
「怖い夢でも、ああまたかって思えるようになってきた」
僕が笑うと、真白は即座にツッコミを入れた。
「あんた、悪夢慣れとか嫌な慣れ方してるね」
「僕だって好きで慣れてるわけじゃない」
「分かってるけどさ」
真白は小さく息を吐く。
「でも、慣れって大事だよ。慣れないまま怖がると、飲まれる」
その言葉が、やけに重い。
真白が言うと、ただの励ましじゃなくなる。真白自身が飲まれかけたからだ。砂時計の中で、忘れられそうになった。あの恐怖を、僕は見ていた。
瑛士が会話に割り込む。
「それで言うと、俺は最近、夢の中で文字が読めるようになった」
「うわ、やめて」
真白が即座に嫌そうな顔をする。
「それ、危ないやつじゃない?」
「危ないかどうかは分からん。でも、普通は夢の中で文字って読めないらしい」
「それは一般論」
僕が言う。
「一般論が崩れてるから俺らは困ってる」
瑛士はさらっと言って、スマホをポケットに突っ込んだ。
「……だからさ。俺、今度は“楽しい夢の研究”でもしようかなって思ってる」
「また始まった」
真白が言う。
「人の悪夢じゃなくて、いい夢ばっかり集めて眺めるアプリとか作ったら、ワンチャンバズる。ほら、睡眠管理ってジャンルは需要あるし」
「やめとけ」
僕が言うと、瑛士は口を尖らせた。
「なんで」
「また繋がるから」
「繋げない。共有しない。ローカルで完結」
「それでも怖い」
僕は正直に言った。
瑛士は一瞬だけ黙って、それから笑った。
「分かってるよ。冗談半分、本気半分だ。でもさ、あれを“全部最悪”で終わらせるのも嫌なんだよ」
その言葉に、僕は足を止めそうになった。
最悪で終わらせない。
ドリーム・チェインがやったことは最悪だ。でも、“夢を知りたい”という動機そのものまで、全部汚したくない。僕も、あの仮面の中から出てきた白い欠片を思い出す。最初の好奇心。純粋な部分。
瑛士は、そこを拾いたいんだ。
拾い方を間違えると、また地獄になるけど。
「……バズらせるとか言うな」
真白が言った。
「バズらせたいなら、まず私に相談して。変な機能つけたら殴る」
「殴るな」
瑛士が言い返す。そのやり取りが、少しだけ普通の高校生っぽくて、僕は安心した。
僕らは例の公園に寄った。
真白が一度は“底なしの泥沼”に変わった場所。現実の公園は、ただの公園だ。ブランコはきしむ音を立てて揺れ、砂場には小さい子どもの足跡が残っている。街灯の柱には、地域の防犯ポスターが貼られている。
夕焼けがブランコの鎖を赤く染めていた。
真白がブランコに腰を下ろして、足で軽く地面を蹴る。
「ここさ、普通に見ると、ただの公園なんだよね」
「普通だよ」
僕が言うと、真白は「だから怖い」と言った。
「普通の場所が、あんなふうになるって知っちゃったから」
僕は返す言葉が見つからなかった。
知る、というのは戻れないことでもある。知らなければ、ただの公園だ。知ってしまうと、普通の景色にも“裏側”が見える気がする。
瑛士がベンチに座って、空を見上げた。
「でもさ、普通の場所だから、戻ってこれるってのもある」
「何それ、哲学?」
真白が言う。
「哲学じゃない。経験則」
瑛士は言った。
「時計塔の中で、ずっと異常ばっか見せられてたら、最後の選択で折れてたかもしれない。でも、俺らには帰る場所があった。こういう、くだらない場所」
「くだらないって言うな」
真白がブランコを止めて睨む。
「この公園、私の思い出の場所なんだけど」
「思い出は尊い。でも公園はくだらない」
「うるさい」
真白が言って、ブランコの鎖を握り直した。
僕は二人の会話を聞きながら、胸の痣に触れた。痛みは、今は静かだ。強くもなく、弱くもない。ちょうど“ここにある”という感じ。
僕は思った。
悪夢は完全にはなくならない。
でも、悪夢だけが世界じゃない。
そういう当たり前を、僕は今、ちゃんと手で触れている。
日が沈む前に、僕らは別れた。
真白は「宿題ある」と言い、瑛士は「記事まとめたい」と言った。僕は家に帰って、作文の続きを書かなきゃいけない。
家に着いて、夕飯を食べ、風呂に入って、布団に入る。
ここからが本番だ。
日常は、夜に試される。
僕は部屋の電気を消して、暗闇の中で目を閉じた。
呼吸を整える。心拍の速さを確かめる。胸の痣に手を置く。
数週間前なら、眠るのが怖くて仕方なかった。今も怖い。怖くないわけじゃない。でも、“怖いから眠らない”を続けると、現実が壊れる。僕はそれも知っている。
暗闇の奥で、一瞬だけ、あの気配が近づいてくる。
廃遊園地の観覧車が遠くに見えた気がした。錆びた輪郭。止まったままのゴンドラ。風もないのに、きい、と音が鳴るような錯覚。
子どもの笑い声も聞こえた。
かすかに。
だけど、それは以前のような「僕を殺しにくる音」じゃない。
ただそこにある。
記憶の影みたいに。
僕は目を閉じたまま、胸の痣を撫でた。
ここで恐怖に引っ張られたら、また悪夢が形を持つ。形を持てば、襲ってくる。
僕は、言葉を選ぶ。
強すぎない言葉。
弱すぎない言葉。
「……今夜も、もし誰かが泣いてたら」
声に出さず、心の中で呟く。
「その分、ちょっと分けてもらうくらいのつもりでいよう」
救う、という言葉は怖い。
救う、と言った瞬間、自分が正しい側に立った気がしてしまう。僕はもう、自分が綺麗じゃないことを知っている。罪悪感も、黒い感情もある。それでも、目を逸らさずにいることはできる。
だから、“分けてもらう”。
痛みを、恐怖を、少しだけ受け取る。
全部は無理だ。全部受け取ったら僕が壊れる。でも、少しなら。
誰かが死なないために。
その瞬間、僕の手のひらの中に、細い光が生まれた気がした。
黒いナイフじゃない。
鎖でもない。
糸みたいに細い。指先に絡むくらいの、頼りない光。だけど、温度がある。ほんの少しだけあったかい。
僕はその糸を、闇に向かって伸ばす。
闇の奥が、わずかに揺れた。
揺れたのは、こちらが触れたからだ。
僕の意志が、境界に触れたからだ。
悪夢を完全になくすことはできない。
でも、その先で誰かと笑えるなら、それでいい。
僕はそう思った。
そして、眠りに落ちる。
次に目を開けると、僕は夢の中にいるかもしれない。現実にいるかもしれない。境界の上にいるかもしれない。
それでも、僕は目を閉じる。
怖いまま、眠る。
怖いまま、朝を迎える。
それが、僕らの選んだ世界だ。
視界が暗転する直前、霧ヶ丘の夜景が浮かぶ。
街灯が点々と並ぶ坂道。住宅の窓から漏れる灯り。遠くの国道を走る車のライト。小さな街の、小さな光。
その光のひとつひとつが、誰かの眠りの灯りだと、僕は知っている。
かつて悪夢に囚われていた人たちも、今は穏やかな夢を見ているかもしれない。何も見ない眠りを迎えているかもしれない。
それだけで、少し救われる。
けれど、その夜景の端に、僕だけが気づく“違和感”が混じる。
空の高いところ。
街の上に、見えないはずの文字列が流れる。
目の錯覚だ、と言い聞かせても、消えない。
白い文字。冷たい文字。
観測ログみたいな、感情のない表示。
悪夢システム:再起動待機
人間側の自己修復プロセスに移行
僕の喉が、ひゅっと鳴った。
消えたはずのものが、消えていない。
終わったはずの運用が、完全には停止していない。
それでも文字列は、すぐに薄れていく。霧の中に溶けるみたいに。
最後に、ほんの一瞬だけ、別の表示が差し込まれた。
観測者:介入せず
僕は、笑ってしまいそうになった。
介入せず、だって。
こっちは散々巻き込まれたのに。
でも、その冷たさが逆に分かりやすい。あれは感情じゃない。運用だ。ルールだ。だから、交渉できるかもしれない。そういう希望が、ほんの少しだけ生まれる。
文字列が、ふっと消える。
夜景が静かに揺れて、僕の意識が沈む。
最後に頭の中に残ったのは、誰かの声じゃない。
僕自身の言葉だった。
悪夢を殺せるのは、夢の中で死んだ人間だけ。
そして、悪夢の先で生き続けられるのも、同じ人間だけだ。
その一文が、胸の痣の痛みと一緒に、僕の中に落ちていく。
幕が下りる。
でも、真っ暗にはならない。
闇の中にも、細い光の糸が、まだ残っている。




