第10話「目覚めの選択(後編)」
窓の外の空が、薄い紙みたいに明るくなっていく。
病室の蛍光灯とは違う、朝の光だ。色がついていないのに、どこか温度がある。凪斗はそれを眺めながら、息を整えた。母さんの手がまだ自分の手を握っている。父さんは椅子に腰を下ろしたまま、何度も頷いている。
生きてる。
その事実だけで、胸の奥の氷が少し溶ける。
けれど、溶けた分だけ、別の冷たさが入ってくる。
夢の匂い。
境界の色。
凪斗は目を閉じて、胸の痣の痛みを確かめる。ある。確かにある。薄い火傷みたいに、じわじわと残る。
母さんが震える声で言った。
「先生がね、何度も言ってた。原因は分からないけど、命は助かったって。……よかった、ほんとに」
凪斗は頷く。
「うん。ごめん、心配かけた」
「ごめんじゃない」
母さんは泣き笑いの顔をして、凪斗の手をぎゅっと握る。
父さんが少し言いにくそうに口を開いた。
「学校で倒れたって聞いた。……何か、無理してたのか?」
凪斗は一瞬、言葉に詰まった。
無理してた。してたけど、説明できない。夢の中で龍と戦ったなんて言えない。言っても信じてもらえない。信じてもらえたとしても、心配が増えるだけだ。
凪斗は視線を落として、現実的な答えに寄せる。
「最近、寝不足だった。色々考えてて」
嘘ではない。寝不足だ。考えていた。全部本当だ。
父さんはそれ以上追及しなかった。ただ、口を結んで頷いた。
「……分かった。今は休め」
その言葉が、妙に重い。
休む、というのは、眠ることでもある。眠ったら、夢を見る。濃い夢を見る。悪夢が戻る可能性もある。凪斗の身体は、もう普通の睡眠じゃ終わらないかもしれない。
凪斗はそれを飲み込んで、頷いた。
「うん」
カーテンの向こうで、真白と瑛士が小声で話している気配がする。母さんと父さんがいる前では、二人もさすがに軽口を抑えている。でも、急いでいるのは伝わってくる。
しばらくして、看護師が入ってきた。
「ご家族の方、お時間少しよろしいですか。担当医からご説明が」
母さんが慌てて立ち上がる。
「はい、すみません」
父さんも続く。二人は凪斗に「すぐ戻るね」と声をかけ、病室を出ていった。
ドアが閉まった瞬間、空気が変わる。
真白が一歩前に出て、凪斗の枕元に顔を寄せた。
「ねえ。今、話せる?」
「話せる」
凪斗は頷いた。喉は乾いているが、今はそれどころじゃない。
瑛士がスマホを操作しながら言う。
「さっき、病院のロビーにいた記者っぽい奴を見た。『集団覚醒』で騒ぎになってる」
「やっぱり」
凪斗は息を吐く。
助かった人がいる。家族が泣いている。奇跡だ。でも、奇跡が大きすぎると、別の厄介ごとを呼ぶ。
真白が眉をひそめる。
「夢山柊司は?」
「今、同じ病院の別棟にいる可能性が高い」
瑛士は即答した。
「医療スタッフの会話を拾った。『眠ってた研究者が目を開けた』って」
「研究者って言ってた?」
「言ってた。『睡眠研究』とか『夢』とか」
凪斗の胸がきゅっと縮む。
夢山柊司。あの寝台の男。目覚める、とプロットで書かれていた。実際に目覚めた。なら、次は彼が何をするかだ。
凪斗は自分に言い聞かせる。
落ち着け。まだ彼が何かするとは限らない。目覚めたばかりで、まともに動けないかもしれない。記憶がない可能性もある。罪の自覚がない可能性だってある。
真白が小さく言った。
「会いに行くの?」
凪斗は迷いを見せたくないのに、少しだけ黙ってしまう。
会いに行ったところで、何を言う。責めるのか。殴るのか。許すのか。そんな単純な話じゃない。
凪斗は、夢山柊司に「もう二度と食うな」と言った。あれは釘だった。祈りでもあった。でも、現実で本人に言うべき言葉は、もっと厄介だ。
瑛士が言う。
「会いに行くっていうか、確認だな。『覚えてるかどうか』が分かるだけで、今後の危険度が変わる」
「危険度って」
真白が噛みつく。
「また悪夢が起きるかどうか」
瑛士は淡々と言った。
「柊司が『夢の神』になろうとしてたのは、夢の中の人格の暴走もあるけど、根っこは本人の思想だろ。本人が目覚めて、その思想を持ったままだったら、またやる可能性はゼロじゃない」
凪斗は拳を握った。
やる。
もし、またやるなら止めるしかない。
だが、それは「悪役を倒す」みたいに簡単じゃない。夢山柊司は生身の人間だ。しかも今は患者だ。現実で傷つけるわけにはいかない。だから余計に、厄介だ。
真白が凪斗を見た。
「ねえ、凪斗。あんた、無理しないって約束して」
凪斗は苦笑した。
「今の状況で無理しないって、どうやるんだよ」
「言い返すな。約束」
「……約束」
凪斗は頷く。真白はそれで少しだけ安心した顔をした。
瑛士がスマホをしまう。
「じゃあ、行動は俺と真白でやる。凪斗は今は動けない。医者も止める」
「……頼む」
凪斗は言った。頼むしかないのが悔しい。自分が中心にいたはずなのに、今はベッドに縛られている。
真白が立ち上がる。
「行く前に、もう一個確認」
「何」
「オペレーター」
真白の声が低くなる。
「あれ、夢だったの? それとも……本当にいるの?」
凪斗は一瞬言葉を失った。
オペレーター。夢の管理システムの運用担当。あれが嘘なら、あんなふうに選択肢が提示される理由がない。夢山柊司が勝手に用意した舞台だった可能性もある。でも、あの存在は違った。ドリーマーとは違う質感だった。冷たく、正確で、個人の感情に寄らない。
瑛士が答える。
「俺はいると思う。夢山の管理画面より上のレイヤーって感じだった」
「レイヤーとか言うな」
真白が睨む。でも、否定できない顔。
凪斗はゆっくり言う。
「俺も、いると思う。……少なくとも、俺たちが選んだ『覚えている』って結果は、現実に残ってる」
真白が頷いた。
「じゃあさ。今後、また何か起きたら、また現れるのかな」
その問いは怖い。答えが出ない。
瑛士が肩をすくめる。
「向こうが『運用』って言ってるなら、異常が起きたら出てくる可能性は高い。つまり」
「つまり?」
「俺らは、もう普通の一般人じゃない」
真白が舌打ちする。
「最悪」
でも、その「最悪」の言い方が、少しだけ柔らかかった。受け入れ始めている声だった。
凪斗は息を吐く。
普通じゃない。でも、普通の顔をして学校に行き、普通の顔で授業を受け、普通の顔で笑う。そういう日常に戻る努力をしないと、日常の側からこぼれ落ちる。
こぼれ落ちたら、夢の側に引っ張られる。
それだけは嫌だ。
真白が凪斗の額を指で軽く叩いた。
「だから、無理しない。約束」
「二回目」
「大事だから」
凪斗は小さく笑って頷いた。
「分かった」
そのとき、病室のドアが開いた。看護師が顔を出す。
「相原くん、少し検査があります。お友だちは、一旦待合のほうで」
真白と瑛士が「はい」と揃って返事をした。二人は凪斗を見て、短く頷き合う。
「行ってくる」
真白が言う。
「情報取ってくる」
瑛士も言う。
凪斗は頷いた。
「頼む」
二人が出ていく。ドアが閉まる。病室がまた静かになる。
検査のためにストレッチャーが運ばれ、凪斗は移動させられた。廊下の天井は低い。病院特有の明るさと、忙しい足音。看護師の声。医者の早口。救急搬送のベル。
現実は、うるさい。
でも、そのうるささが、今はありがたい。夢の静けさは、怖い。静かすぎると、境界の音が聞こえる気がする。
検査室で心電図や血液検査を済ませ、凪斗はまた病室に戻った。途中、別の病室の前で、泣き崩れる家族を見た。喜びの泣き方だった。誰かが目覚めたのだろう。奇跡が、廊下のあちこちで起きている。
凪斗は胸が締めつけられた。
自分たちの戦いは、誰かの人生を救った。
でも、その救いの形は、誰にも説明できない。
説明できないまま、奇跡だけが残る。
その不均衡が、怖い。
病室に戻ると、母さんと父さんがいた。医師の説明を受けて戻ってきたようだ。二人とも少し落ち着いている。
「検査、どうだった?」
母さんが聞く。凪斗は頷いた。
「大丈夫って言われた」
父さんが言う。
「しばらく入院だそうだ。無理はするな」
凪斗は「うん」と頷く。
その言葉の「無理」の意味は、父さんと凪斗では違う。でも、同じ言葉で繋いでおくしかない。
しばらくして、母さんと父さんは一度家に戻ることになった。着替えや必要な物を取りに行くらしい。凪斗は「行ってきて」と言った。母さんは何度も振り返り、父さんは一度だけ深く頭を下げた。
再び、病室が静かになる。
凪斗は天井を見上げた。
眠りたくない。
でも、眠らないと体がもたない。
眠れば、夢を見る。
濃い夢を見る。
凪斗は唇を噛んだ。勇気を出して目を閉じる。浅い呼吸で、眠りに落ちないように耐える。でも、疲労が勝つ。
ふっと意識が沈みかけた、その瞬間。
病室の空気が少しだけ変わった。
音が遠くなる。
機械の「ピ」という音が、薄い布の向こうに行く。
凪斗は慌てて目を開けた。
天井は同じ。蛍光灯も同じ。カーテンも同じ。
でも、影が濃い。
部屋の隅が、黒く沈んでいる。
凪斗は息を止めた。
これは夢か。
現実か。
境界の色が、また見えた気がした。朝の空の色。あれは錯覚じゃなかったのかもしれない。
凪斗は必死に自分の掌を見る。爪を立てて、痛みを確かめる。痛い。現実の痛みだ。なら、現実だ。
それでも、影が動く気配がある。
凪斗は喉を鳴らした。
「……来るなよ」
誰に言ったのか分からない。
そのとき、病室のドアが勢いよく開いた。
真白と瑛士が戻ってきた。
二人とも息が上がっている。走ってきた顔だ。
「凪斗」
真白が言う。
「聞いて」
瑛士が続ける。
「夢山柊司、目覚めてた。……ただし」
凪斗の心臓が跳ねる。
「ただし?」
瑛士は一拍置いて、言った。
「記憶が、曖昧だって。医師が言ってた。『自分が何をしていたかは分からない』って」
真白が眉をひそめる。
「でもね、怖いこと言ってた」
「何を」
凪斗が問う。
真白は唇を噛んで、吐き出すみたいに言った。
「『夢がうるさい』って」
凪斗の背中が冷えた。
「うるさい?」
「そう。目を覚ました瞬間から、いろんな人の声が聞こえるみたいに感じるって。『寝てるのに起きてるみたいだ』って」
瑛士が補足する。
「それってつまり、夢のネットワークが完全に切れてない可能性がある」
凪斗は胸の痣を押さえた。
完全に切れてない。
境界が戻ったように見えて、薄い糸が残っている。
真白が続ける。
「それと、もう一個。柊司の病室の前で、変な人見た」
「変な人?」
凪斗が聞くと、真白は頷く。
「スーツっぽいの着てて、でも普通のスーツじゃなくて。顔が……覚えられない感じ」
凪斗の喉が詰まった。
「オペレーター……?」
瑛士が目を細める。
「多分な。俺も見た。ほんの一瞬。看護師に混ざってた。いや、混ざってたって言うより、そこにいるのに誰も気づいてない感じだった」
凪斗は息を吐いた。
いる。
現実にも、いる。
夢の管理システムのオペレーターが、現実に干渉している。
それはつまり、これがまだ「運用中」だということだ。
真白が凪斗の顔を覗き込む。
「ねえ、あんたさっき変な顔してた。何かあった?」
凪斗は正直に言った。
「さっき、一瞬だけ。病室の影が濃くなった。……夢の匂いがした」
真白がぞっとした顔をする。
「やめてよ」
「ごめん。でも、本当だ」
瑛士が腕を組む。
「俺も同じ。病院の廊下で、音が遠くなる瞬間があった。境界が薄い」
凪斗は二人を見た。
選択の代償は、もう始まっている。
濃い夢。濃い現実。境界が近い。
「どうする」
凪斗が言うと、瑛士が即答した。
「やることは二つ」
「二つ?」
真白が聞く。
「一つ。柊司が再接続できないように監視する。本人が意図的にやらなくても、残留システムが勝手に暴走する可能性がある」
「もう一つは」
凪斗が促すと、瑛士は少しだけ言いづらそうに言った。
「オペレーターと接触する方法を探す」
真白が眉を吊り上げる。
「そんなの、どうやって」
「向こうが『運用』なら、異常があれば出てくる。つまり、向こうの出番を作れば出てくる」
「出番って……」
真白の声が震える。
凪斗は言った。
「危ないことはするな」
瑛士が肩をすくめる。
「分かってる。でも、待ってるだけじゃまた同じことが起きる。今回だって、俺たちが気づかなかったら何人死んだか分からない」
真白が小さく呟く。
「……もう、誰も死なせたくない」
その言葉が、凪斗の胸に刺さる。
真白は、あの砂時計の中で「忘れられる」恐怖を味わった。もう二度と見たくないはずなのに、誰かが同じ目に遭うなら放っておけないと言った。
それが真白だ。
凪斗は、二人を見て言った。
「俺も同じ。……でも、今は俺は動けない」
「だから」
真白が言う。
「私と瑛士で動く。凪斗は頭を使って。作戦考えるほう」
瑛士が頷く。
「それが一番合理的」
凪斗は苦笑した。
「合理的って言葉、今嫌い」
「現実的って言い換える?」
「……それも嫌い」
真白が小さく笑った。ほんの一瞬だけ、いつもの空気が戻る。
でも、すぐに真白の表情が引き締まる。
「凪斗。柊司に会う?」
凪斗は迷った。だが、答えは最初から決まっている気がした。
「会う」
「今は無理でしょ」
「今じゃない。体が動けるようになったら」
凪斗は言った。
「……俺は、言いたいことがある。夢の中で言ったのは、あれは夢だから言えた。現実でちゃんと言う」
瑛士が静かに頷く。
「いい。言葉は必要だ。現実側のルールで止めるには、現実側の言葉がいる」
真白が唇を噛む。
「でもさ、相手は病人だよ。倒れたばっかで、訳分かんない状態かもしれない」
「分かってる」
凪斗は言った。
「責めるためじゃない。……線を引くためだ」
ここから先はダメだ、と。
夢を知りたいなら、方法を変えろ、と。
人を使うな、と。
凪斗は胸の痣を押さえた。痛みが少し強くなる。まるで「忘れるな」と言っているみたいだ。
病室の外がざわついた。看護師が走り、誰かが叫ぶ声。遠くでストレッチャーの車輪が鳴る。
瑛士が耳を澄ませる。
「……なんか、急に騒がしくなった」
真白も立ち上がる。
「何?」
凪斗は息を止めた。
また何か起きたのか。
境界が薄いせいで、別の悪夢が漏れ出したのか。
その瞬間、凪斗の視界の端で、病室の隅の影が一瞬だけ動いた。
黒い影が、波打つ。
凪斗は反射的に目を凝らした。確かに見えた。影の中に、細い線がある。コードみたいな黒い線。天井へ伸びている気がした。
凪斗の心臓が跳ねる。
瑛士も同時に気づいたらしい。目が鋭くなる。
「……凪斗、今」
「見えた」
凪斗は答えた。
真白が青ざめる。
「何が」
凪斗は言った。
「影が、夢みたいに動いた」
真白が唇を震わせる。
「やだ……ここ、病院だよ?」
瑛士が低い声で言う。
「病院は、眠ってる人が多い。夢が濃い場所だ。……引き寄せられやすい」
凪斗は冷や汗が背中を伝うのを感じた。
病院は、夢の密度が高い。
昏睡から目覚めた人が何十人もいるなら、夢の残りが大量に渦巻いているかもしれない。境界が薄い今、その渦が現実に触れる。
病室の隅の影が、また波打った。
今度は、ほんの少し形が浮かぶ。
子どもの影。
小さな手が、こちらに伸びる。何かを探しているみたいに。
凪斗は喉が鳴った。
「……取り込まれた人たち」
時計塔の街で見た。半透明になって歩く人々。虚ろな目で何かを探す手。
あれが、病院に漏れてきている?
瑛士が唇を噛む。
「まずい。境界が戻りきってない。ここで『新しい入口』ができる」
真白が凪斗の手を握った。
「凪斗、どうするの」
凪斗は息を吸う。
体は動かない。武器もない。黒いナイフも鎖も、現実では見えない。だけど。
覚えている。
夢と現実の境界を、身体が覚えている。
「……声をかける」
凪斗は言った。
「真白、瑛士。影を見て。怖くても、目を逸らすな」
「目を逸らさないって……」
真白の声が震える。
「今、逸らしたら、あれは『ここにいていい』って思う」
凪斗は言った。
自分の中学の教室で、目を逸らした。あれが罪悪感を生んだ。今度は逸らさない。逸らしたら、また同じだ。
凪斗は影に向かって、かすれた声で言った。
「……ここは、お前の場所じゃない」
影が止まる。
子どもの手が、ぴくりと動いた。
凪斗は続ける。
「探してるなら、戻れ。ここにはない。……夢に戻れ」
自分でも何を言ってるのか分からない。でも、言葉を投げるしかない。現実側の言葉で、夢側の存在に線を引く。
影が揺れる。子どもの輪郭が薄くなる。
真白が息を呑む。
「消え……」
瑛士が低く言う。
「凪斗、そのまま。『拒否』を固定する。言葉で」
凪斗は頷き、最後に言った。
「帰れ」
短い言葉。
命令に近い言葉。
影がふっと薄れ、病室の隅がただの暗がりに戻った。
三人とも、その場で固まった。
数秒遅れて、凪斗の全身から力が抜けた。心電図の音が少し早くなる。看護師が慌てて入ってきそうな気配がする。
真白が小さく呟く。
「……今の、夢?」
「多分、境界の漏れ」
瑛士が言った。
「つまり、これからこういうのが増える可能性がある」
凪斗は天井を見上げた。喉がひりひりする。
「……オペレーターの警告、もう始まってる」
真白が唇を噛む。
「じゃあ、どうすればいいの」
凪斗は言った。
「俺たちが覚えてる意味は、こういう時に目を逸らさないためだ」
瑛士が頷く。
「対処できるのは、今のところ俺らだけ」
真白が凪斗を見る。
「やっぱり、普通には戻れないね」
凪斗は苦笑した。
「戻りたいけどな」
「戻りたいけど、戻れない?」
「戻りたいけど、戻らない」
凪斗は言い直した。
それが選択だ。覚えている方を選んだ。だから、見える。感じる。怖い。でも、対処できる。
病室のドアが開いた。看護師が入ってきて、心電図を確認し、凪斗の顔色を見る。
「相原くん、大丈夫? 心拍が少し上がってる」
凪斗は「大丈夫です」と答えた。嘘でもあるし本当でもある。現実の医療では、大丈夫にしておかないといけない。
看護師が出ていくと、瑛士が小さく言った。
「……病院を拠点にするのは危険だな。夢が濃すぎる」
「でも凪斗はここにいるしかない」
真白が言う。
「だから俺と真白が外を動く」
瑛士が言った。
「柊司の周りと、霧ヶ丘の街。境界が薄い場所を探す」
凪斗は頷いた。
「頼む。俺はここで、起きた現象をメモする。夢と現実のズレ。影の出方。感覚の変化」
瑛士が少し笑う。
「真面目だな」
「お前が言うな」
真白が即座に突っ込む。瑛士が肩をすくめる。
「でも、正しい。データがないと勝てない」
凪斗は息を吐いた。
勝つ、という言葉は好きじゃない。でも、負けたら誰かが死ぬ。それだけは嫌だ。
真白が凪斗の手を握り直した。
「ねえ、凪斗」
「ん」
「あたし、怖いよ」
真白が言った。珍しいほど、まっすぐな声だった。
「また夢に引きずられるのも、誰かが消えるのも。……でも、あんたが『帰れ』って言った時、ちょっとだけ、あたしもできる気がした」
凪斗は真白の手を握り返した。
「一緒にやろう」
「うん」
真白が頷く。
瑛士がそのやりとりを見て、少しだけ目を逸らした。照れ隠しみたいにスマホを取り出す。
「じゃ、動く。連絡は随時」
真白も立ち上がる。
「凪斗、無理すんなって言ったけど、無理しないといけない時はある。……でも、倒れるな」
「倒れない」
凪斗は言った。
倒れたら、今度こそ、取り返しがつかない気がする。
二人が病室を出ていく。ドアが閉まる。凪斗は一人になる。
静かだ。
静かすぎる。
凪斗は枕元のメモ帳を手に取った。看護師が置いていったボールペン。現実の道具だ。
凪斗は書き始める。
影が動いた時間。どのくらい薄くなったか。言葉に反応したか。自分の胸の痛みの強さ。匂い。音の遠さ。
書くことで、現実に杭を打つ。
ここが現実だ、と。
夢に呑まれないために。
書き終えて、凪斗は窓の外を見る。空は完全に明るくなっていた。朝だ。霧ヶ丘の朝。
いつもの朝に見える。
でも、凪斗は知っている。境界が薄い。夢はまだどこかに残っている。病院の廊下に、さっきの影みたいなものが出るかもしれない。
そして。
夢山柊司が目覚めた。
彼が空っぽなのか、静かなのか、まだ分からない。だが、彼の周りにオペレーターらしき存在がいた。それは、運用が続いている証拠だ。
凪斗は息を吸う。
吐く。
「……終わってない」
呟く。
それは絶望じゃない。
選んだ世界の確認だ。
覚えている。だから、続きがある。
そして、その続きに、今度は「終わらせる」ための手段を見つける。
凪斗は目を閉じた。
眠りはまだ怖い。
でも、怖いまま眠る。
怖いまま起きる。




