第10話「目覚めの選択(前編)」
龍が砕けたあと、夢の世界はひどく静かだった。
さっきまでの轟音が嘘みたいに、耳が詰まる。自分の呼吸だけが大きく聞こえる。凪斗は足元を確かめるように一歩踏み、ひびの入った床に体重を乗せた。石畳の感触はあるのに、硬さが一定じゃない。水面を踏むときみたいに、ほんの少し沈む。
「……終わった、のか?」
声が空気に吸われる。返事はない。
時計塔の頂上。崩れた壁の向こうに、霧ヶ丘の夜景が見えた。見える、というより、覗いている。空に走る亀裂から、現実の街がちらちら映る。車のライトが流れ、信号が点滅する。それが、夢の空に貼り付いた映像みたいに揺れていた。
「ねえ、凪斗」
真白の声が背中から届く。いつもみたいに強気な調子ではない。喉の奥に砂が詰まっているみたいな、乾いた声。
凪斗は振り向く。真白がそこに立っていた。制服姿だ。髪も乱れていない。でも目だけが、眠れない夜の色をしている。
その少し後ろに瑛士がいる。腕を組んでいるのに、指先が落ち着きなく動いていた。彼もまた、笑っていない。笑う余裕がない、というより、笑う必要がなくなった顔だ。
足元に、白い光の粒が降っていた。龍の破片だろう。粉雪みたいに舞い、床に触れると消える。消え方が妙に優しい。痛みを残さない消え方だった。
「終わってないと思う」
瑛士が低く言った。
「こういうのって、だいたい後始末が本番だろ。ほら」
彼が顎で示した先。
寝台のような装置が鎮座していた。人ひとりが横たわれるサイズ。いや、横たわるために作られた、と断言できる形だ。金属のフレームに、柔らかそうな黒いマット。そこに、若い男が横たわっている。
夢山柊司。
凪斗は、あの仮面の輪郭を思い出す。歪んだ笑み。黒い目。伸びるコード。目の前の男は、確かにそれと同じ顔をしていた。ただし、笑っていない。眉間の皺もない。眠っている人の顔だ。
顔には無数の接続痕がある。コードが刺さっていた穴が、赤く残っていた。さっき龍が崩れたとき、コードがぶつりと抜け落ちた。装置の側に、切れた蛇みたいに黒い束が散らばっている。
胸が、かすかに上下していた。
「生きてる」
真白が息を呑む。
「当たり前だろ。じゃなきゃ、夢の中のあいつも立ってられない」
瑛士の声が現実的すぎて、凪斗は少し腹が立った。生きてるのが当たり前のはずなのに、当たり前でいられなかったのが、この数日だった。
周囲に、ガラスのカプセルが並んでいる。人が眠っていた。大人もいる。若い人もいる。子どももいる。みんな顔色が悪かった。だけど今は、頬に色が戻りつつある。
呼吸が整っていくのが、目で見える気がした。胸が上下するリズムが揃っていく。
「……これ、現実で昏睡ってことだよな」
凪斗が言うと、瑛士が頷く。
「多分な。ニュースとかでもたまに見るだろ。原因不明の長期昏睡。家族が付き添って、医者が首を捻って、本人は眠ったまま」
真白が視線を落とし、唇を噛む。
「じゃあ、これって……今まで、何人も」
「うん。夢の中の『素材』だ」
瑛士は言い切った。いつもなら不謹慎な言い方だ。でも今は、飾りの言葉で救われる状況じゃない。
凪斗は拳を握った。爪が手のひらに刺さる。痛みがある。夢の痛みとは違う。はっきりした痛みだ。それだけで少し落ち着く。
視界の端に、黒いものが落ちているのが見えた。
仮面。
ドリーマーの仮面が、床に転がっていた。さっきまで笑っていた顔。裂けた口。黒い目。あれが、ただの物になって落ちている。
凪斗は一歩踏み出し、拾い上げようと手を伸ばした。
指先が触れた瞬間、仮面が崩れた。
砂みたいに、さらさらと。
「え」
真白が小さく声を出す。瑛士も目を見開いた。
仮面は、風もないのに崩れ続けた。凪斗の掌に残ったのは、白い欠片だった。爪の先くらいの小さな破片。ガラスにも似ているが、割れたガラスより温かい。触れると、胸の奥が少しだけ軽くなる。
「何それ」
真白が覗き込む。凪斗は答えられなかった。
欠片を見ていると、妙な映像が浮かぶ。誰かが顕微鏡を覗いている。ノートにびっしり文字を書きつけている。夜明け前の研究室。コーヒーの匂い。画面に映る脳波。誰かが笑って言う。
知りたい。
ただ、それだけ。
凪斗は息を吐いた。
「……最初は、こうだったのかもしれない」
「最初?」
「夢山柊司の、最初の気持ち」
自分の声が、やけに遠い。欠片がそう言っている気がした。言葉はないのに、意味だけが胸に落ちる。
人の夢を知りたい。
それ自体は、罪じゃない。凪斗だって、真白が何を考えているか知りたいときがある。瑛士が何を怖がっているか知りたいときだってある。
けれど。
「やり方が最悪すぎる」
瑛士が代わりに言った。凪斗が頷く。
そのときだった。
空気が変わった。
塔の頂上に、誰かが立っていた。
いつの間に。足音はない。風もない。光の粒が舞う中で、その人物だけが輪郭をはっきり保っている。
白い人影ではない。人の形をしているが、服装が妙に現代的だった。黒いスーツのような、でも縫い目がない。胸元に小さなプレート。文字が読めないほど細かい。
顔は、はっきり見えるのに、覚えられない。目鼻立ちを捉えた瞬間に、印象が滑っていく。
「……誰だ」
凪斗が構える。鎖になった武器は、今は手の中で落ち着いている。龍戦の熱がまだ残っているのに、武器は冷たい。
その人物は、首を少し傾げた。
「警戒は正しい。ただし、攻撃は不要」
声は男女の区別がつかない。機械みたいに無感情ではないのに、温度が一定だ。
「あなたは誰ですか」
真白が前に出る。怖いはずなのに、逃げない。その背中を見て、凪斗は苦笑しそうになった。守る側、守られる側。そんな線引き、ここにはない。
「私は運用担当。オペレーター」
人物は淡々と言った。
「この夢域と現実域の境界管理。夢の連結プロトコルの監視。異常発生時の介入」
瑛士が目を輝かせる。最悪のタイミングで。
「うわ、マジで管理者側の人だ。いるんだ、こういうの」
オペレーターは瑛士を一瞥した。感情がないはずなのに、見られた瞬間、瑛士が少しだけ黙った。
「夢山柊司による悪夢システム暴走は、現時点で一旦収束」
オペレーターは続ける。
「龍型集合悪夢の消滅を確認。夢連結の強制解除を進行中。昏睡群の呼吸安定を確認」
凪斗は、寝台とカプセルを見た。確かに、みんな穏やかになっている。胸の上下が整っている。助かったのか。助けられたのか。
胸の奥に、遅れて熱が来た。怒りでも喜びでもない。ようやく現実が追いついてくる感覚。
「じゃあ、もう終わりですか」
凪斗が問う。
オペレーターは否定も肯定もしなかった。
「収束は終了ではない」
その言い方が、凪斗の胃を冷やした。
「……何が残ってる」
「あなたたち」
オペレーターははっきり言った。
「あなたたちは、この騒動の中心に深く関与した。夢と現実の境界を複数回横断。夢域干渉を繰り返し、因果を改変した」
真白が肩をすくめる。
「改変って言われても。死ぬ人が出るなら、止めるしかないじゃん」
「動機は評価対象外」
オペレーターは言った。
「問題は負荷」
その言葉と同時に、凪斗の胸の痣が疼いた。痛みが、思い出したみたいに戻ってくる。足首も、腕も、首筋も、全部だ。
凪斗は思わず息を詰める。
「……これ」
「痕跡。あなたが悪夢を斬り、救った代償」
オペレーターは淡々と言う。
「あなたたちは、通常の睡眠感受性を逸脱した。今後、夢域に引きずられやすくなる。再び異常が起きた場合、巻き込まれる確率が高い」
瑛士が口元を歪めた。
「それ、要するに『お前らもう普通には戻れないかもね』って話?」
「要約として正しい」
真白が舌打ちした。
「最悪」
でも、その声は震えていない。怖いからこそ、強がる声だ。
オペレーターは、三人を順番に見た。
「選択肢を提示する」
凪斗の背筋が伸びる。嫌な予感はいつも当たる。
「一つ。記憶を保持したまま覚醒する。今回のすべてを覚えたまま、現実へ戻る」
「もう一つ。悪夢に関する記憶のみを切除して覚醒する。関連する感受性も低下し、平穏な日常へ戻りやすい」
凪斗は言葉を失った。
記憶を失う。
忘れる。
あの夜の廃遊園地も。拓海の教室も。真白の公園も。時計塔も。龍も。
そして、ここにいる二人と一緒に走った感覚も。
「そんなの、選べるの?」
真白が唇を噛みながら言う。
「選べる。今この瞬間のみ」
オペレーターは冷たいほど正確だ。
「夢域が解ける前に、決定が必要」
瑛士が笑った。いつもの軽い笑いではない。喉が乾いた笑い。
「記憶消すって、都合良すぎるだろ。そんなスイッチみたいに……」
「技術的に可能」
オペレーターは事務的だ。
「ただし完全ではない。身体感覚は残留する可能性がある」
凪斗は自分の胸を押さえた。痣の痛み。これが残るなら、忘れても意味がない気がする。
「忘れたら……助けた人たちのことも、覚えてないってことですか」
凪斗の質問に、オペレーターは一拍置いた。
「助けたという認識が消える。結果だけが残る」
結果だけ。
昏睡状態の人が目覚める。死にそうだった人が生き延びる。だけど、誰がそれをやったかは、やった本人も知らない。
凪斗は喉が詰まった。そんなの、空っぽだ。意味があるはずなのに、手触りがない。
真白が小さく言った。
「正直……もう二度とあんな夢、見たくない」
その言葉は、痛いくらい素直だった。
凪斗は真白を見た。彼女の目の奥に、砂時計の黒い砂がまだ残っている気がした。探しても見つからない恐怖。足元が崩れる感覚。誰かを忘れる怖さ。
真白は続ける。
「でもさ……もしまた誰かが、ああいう目に遭うなら。あたし、知らない顔できるかな」
言った直後、真白は自分の言葉に驚いた顔をした。強がりじゃない。本音だ。
瑛士が肩をすくめる。
「俺は忘れるのはごめんだね。こんな面白い経験、二度とないかもしれないし」
「面白いで済ませるなよ」
真白が噛みつく。
「知ってるよ」
瑛士は笑った。でも、その目は揺れている。
「面白いって言わないと、怖いのがバレるだろ」
凪斗は息を止めた。
瑛士は、怖い。
彼はいつも醒めていて、余裕があるふりをしていた。情報を集め、仮説を立て、言葉で世界を分解する。怖いものを覗き込むことで、自分の怖さをごまかすタイプだ。本人がそれを認めたのは、時計塔の途中だった。
だから、忘れたくない。
怖かったことを、意味のあることにしたい。
凪斗は二人を見比べた。胸が痛む。痣が疼く痛みと、別の痛みが混ざる。
選べと言われても。
覚えていたら、また巻き込まれるかもしれない。普通の高校生活は遠のく。眠ることが怖くなる。夜が敵になる。
忘れたら、守らなくて済むかもしれない。普通に戻れるかもしれない。学校のテストに悩み、部活に遅刻し、くだらないことで笑う日々。
でも。
忘れたら、何が残る?
凪斗は自分に問う。
悪夢がなくなった世界は、平和なのか。
それとも、痛みのない空っぽなのか。
「凪斗」
真白が名を呼ぶ。凪斗は返事ができない。
オペレーターが言う。
「決定は個別でも可能。ただし、同調した場合、負荷分散が起きる」
「同調?」
瑛士が眉を上げる。
「三人が同じ選択をするなら、ってこと」
オペレーターは頷いた。
「異常負荷の偏りを減らせる」
真白が凪斗を見た。
「ねえ、あんたはどうしたいの」
凪斗は口を開いた。言葉が出ない。
頭の中に、拓海の声が蘇る。
誰も、本気で助けてくれなかった。
あの教室で、凪斗は何もしなかった。安全な場所で笑った。止めなかった。正義のふりもしなかった。ただ、目を逸らした。
その記憶を忘れたら。
また同じことをする気がした。
今度も、目を逸らす。
誰かが苦しんでいるのに、知らないふりをする。
凪斗は歯を食いしばる。
「……考えさせて」
それが精一杯だった。
オペレーターは淡々と頷いた。
「猶予は短い」
時計塔の床が、さらに小さく揺れた。亀裂が走る。空の裂け目から、現実の霧ヶ丘の街が大きく映る。道路を走る車が見える。誰かが外に出て空を見上げている。人影が点のように動く。
夢が現実に触れている。
境界が薄い。
「……現実のほう、大丈夫なの?」
真白が空を見上げる。
「地震とか、起きてるかも」
瑛士が言う。
「龍の咆哮が、現実の振動に変換されてる。多分ニュース速報、出てる」
凪斗は眉をひそめる。
「見えるのか」
「勘だよ、勘」
瑛士が笑う。その笑いは少しだけ、いつもの調子に戻っていた。
凪斗は白い欠片を握り直した。掌の中で、小さな温度が残っている。
夢山柊司の最初の好奇心。
知りたい。
それは、罪じゃない。けれど、知るために奪ったら、罪になる。
凪斗は寝台に近づいた。夢山柊司の顔を覗き込む。閉じた瞼。長いまつ毛。頬がこけている。眠り続けた人の骨格だ。
この男は、目覚めるのだろうか。
目覚めたら、何を思うのだろう。
自分がやったことを覚えているのか。
覚えていないのか。
凪斗は喉が鳴るのを感じた。
後ろで、真白が小さく息を吐く。
「もしさ、忘れたら。あたしたちって……また友だちでいられるのかな」
凪斗は振り向いた。
真白は笑おうとして、うまく笑えない顔をしていた。
「だって、今はさ。こうして一緒にいる理由、全部これじゃん。悪夢とか、戦いとか。忘れたら、ただの幼馴染に戻るの?」
瑛士が口を挟む。
「幼馴染って、十分強いだろ。イベントなくても続く関係って、それだけでレア」
「うるさい」
真白が睨む。でも、その目に少しだけ光が戻った。
凪斗は胸が締め付けられる。
ただの幼馴染。
それが、今の凪斗には眩しい。戻りたい。戻りたいけど、戻ったら、誰かを見捨てる自分に戻る気がする。
「凪斗」
瑛士が呼ぶ。珍しく真面目な声だった。
「選ぶのは、お前だ。お前が中心だろ」
「中心って言うな」
「じゃあ、きっかけ」
瑛士は肩をすくめた。
「お前が一回死んだところから始まってる。お前が決めたら、俺らも決めやすい」
真白が頷く。
「……うん。あたしも、凪斗の答えを聞いてからにする」
凪斗は二人を見た。
背負うな、と言われても背負う。巻き込むな、と言っても巻き込んだ。守るな、と言っても守りたかった。
ここまで来て、ひとりだけ楽になる選択をしていいのか。
凪斗は空を見上げた。裂け目から見える現実の街。そこに暮らす人たち。学校。教室。帰り道。コンビニの明かり。全部、当たり前の景色。
当たり前を守るために、当たり前じゃないことをした。
その記憶を、手放す。
それは救いか。逃げか。
凪斗は白い欠片を見つめた。温かい。最初の気持ちは温かい。けれど、その先は冷たかった。
「……決める」
凪斗が言うと、真白が息を止めた。瑛士も目を細めた。
その瞬間、時計塔全体が大きく揺れた。
床の亀裂が広がる。カプセルのガラスが一斉にきしむ。夢山柊司の胸が、大きく上下した。
オペレーターが静かに告げた。
「解け始めている。決定を」
凪斗は目を閉じた。
息を吸う。
吐く。
恐怖が胸に溜まる。痛みが痣を通って広がる。逃げたい。全部忘れて眠りたい。何も知らない朝に戻りたい。
でも。
凪斗は、拓海の教室を思い出す。真白の公園を思い出す。救われた後輩の顔を思い出す。自分が握ったナイフの重さを思い出す。鎖の輪に宿った光を思い出す。
それらは全部、凪斗の中に残るべきものだ。
残らなきゃいけない。
でなきゃ、同じことを繰り返す。
凪斗は目を開けた。
「……全部、覚えておく」
声が震えた。震えても、言い切った。
「怖いけど。それも含めて俺の人生だから」
真白が凪斗を見つめる。涙が浮かぶ。でも落ちない。
「……じゃあ、あたしも」
真白は一拍置いて、頷いた。
「忘れたら、絶対後悔する。あたし、そういうの嫌」
瑛士が笑った。今度は少しだけ軽い笑いだった。
「俺も同じ。忘れるなんて、もったいない」
「もったいないって言うな」
真白が叩く。瑛士は肩をすくめる。
「でもさ。怖いのも本音だよ」
「うん」
凪斗は頷いた。
オペレーターが短く言った。
「了解」
その言葉が合図みたいに、時計塔の空気が変わった。重さが薄れる。空の裂け目がゆっくり閉じ始める。現実の街の映像が遠ざかる。
けれど同時に、凪斗の感覚が鋭くなった。
音が増える。遠くで鳴る車の音。どこかの犬の吠え声。風に揺れる電線の震え。全部が、夢の中なのに手触りを持って襲ってくる。
「これから先、普通の夢も悪夢も、前より濃く感じることになる」
オペレーターの警告が、今になって現実味を帯びた。
濃い夢。
濃い悪夢。
それは、眠るたびに世界が開くということだ。
真白が肩を抱く。寒いのか、怖いのか。多分両方だ。
「……やっぱり、選んじゃったね」
「選んだ」
凪斗は言う。
「後悔しても、忘れない。覚えたまま後悔する」
瑛士が頷く。
「それでいい。後悔もデータだ」
「またそれ」
真白が呆れる。でも、少し笑った。
時計塔の床が光に溶け始めた。砂みたいに崩れていく。白い粒が舞い、足元が透けていく。
凪斗は最後に、寝台へ向き直った。
夢山柊司の顔は穏やかだ。まるで何も知らない人みたいに眠っている。
凪斗は近づき、低く呟いた。
「……あんたの最初の好奇心は、多分間違ってなかった」
誰に聞かせるでもない。自分に言い聞かせる声。
「でも、その先で選んだやり方が最悪だった」
夢山柊司の瞼は動かない。
凪斗は白い欠片を握った。温かさが少しだけ薄れた。
「もし目が覚めても」
凪斗は続ける。
「もう二度と、人の悪夢を勝手に食うなよ」
それが祈りなのか、呪いなのか、自分でも分からなかった。
時計塔の光が強くなる。真白の輪郭が薄くなる。瑛士の声が遠くなる。
最後に、オペレーターが言った。
「覚醒を開始する」
凪斗の視界が白く染まり、音が消えた。
落ちる感覚だけが残る。
眠りの底へ。
そして。
目覚めへ。
第10話「目覚めの選択(後編)」
凪斗は、息ができなかった。
水の中にいるみたいに、肺が重い。胸が焼ける。痣が全部いっせいに疼く。胸、足首、腕、首筋。痛みが地図みたいに体をなぞる。
いや、痛いだけじゃない。
現実の匂いがする。
消毒液。シーツの洗剤。機械の熱。人の気配。
凪斗は目を開けた。
白い天井。蛍光灯。薄いカーテン。隣のベッドの影。点滴のスタンド。
病院。
「……は?」
声が出た。自分の声なのに、やけにかすれている。
身体を起こそうとして、すぐに無理だと分かった。全身が鉛みたいに重い。喉が乾いて、舌が紙みたいだ。
心電図の音が一定のリズムで鳴っている。ピ、ピ、ピ。機械の音が、世界がまだ動いている証拠みたいに聞こえた。
頭の中は、夢の残り香で満ちている。
時計塔。龍。鎖。光の粒。寝台。カプセル。オペレーター。
全部、覚えている。
覚えているのに、現実の白さがそれを押しつぶそうとする。夢は夢だ、と言い張るみたいに。
凪斗は自分の胸に手を当てた。制服じゃない。病衣の布。胸の奥が痛む。痣は見えない。でも、痛みはある。焼けるような熱が残っている。
「相原くん?」
カーテンの向こうから声がした。女の声。看護師だ。
カーテンが引かれ、看護師が顔を出した。驚いた顔をして、次の瞬間には走り出した。
「先生! 起きました! 相原くん、起きてます!」
足音が廊下に消える。
凪斗は目を瞬いた。
どうして病院にいる?
最後に覚えている現実は、家で眠ったことだ。いや、その前は、夢の中で時計塔にいた。そこから白くなって、落ちて、目覚めた。
「……現実で、何が起きた」
凪斗は自分に問う。答えはまだない。けれど、ひとつだけ確かなことがある。
生きている。
そして、覚えている。
ドアが開き、医師と看護師が入ってきた。医師は白衣の中年。眼鏡の奥の目が忙しく動く。
「相原凪斗くんだね。意識ははっきりしてる? 名前言える?」
「相原……凪斗です」
「今日は何日か分かる?」
凪斗は口を開いた。そこで止まる。夢の中の時間が長すぎて、現実の日付が曖昧だ。だが、記憶の端に、夕方のニュースがある。真白の悪夢が途切れた夜。龍が崩れた夜。
「……分かりません」
「大丈夫。混乱は普通だよ」
医師は優しい声を出す。でも、その優しさの裏に、理解できないものを前にした困惑がある。
看護師がバイタルを確認する。医師がペンライトで目を照らす。凪斗はそれを受け入れながら、頭の中では別のことを考えていた。
真白は。
瑛士は。
目覚めたのか。
覚えているのか。
選んだのは三人一緒だった。負荷分散が起きると言っていた。なら、三人とも目覚めているはずだ。
凪斗の指がシーツを掴む。手のひらが汗で湿っている。
「……友だち、来てますか」
医師が一瞬きょとんとした。
「友だち?」
「真白……真白って、来てますか」
言った瞬間、凪斗は自分の言葉に安心した。名前が出る。覚えている。忘れていない。
医師はカルテを見て、看護師に目で合図した。看護師が頷き、また走り出す。
「連絡が行っているはずだよ。家族もね」
「家族……」
凪斗の胸がきゅっと縮む。母さんと父さんは。どんな顔をするだろう。寝ている間に死ぬ若者のニュース。あれが現実だった。自分は一度、死んだ。夢の中で死んだ。それが現実を変えた。
医師が言う。
「君は今朝、意識を失って倒れた。心拍が乱れて、一時は危険だった」
凪斗の背筋が冷えた。
「今朝?」
「そう。学校でね。保健室に行ったあと、倒れた」
凪斗は目を見開いた。
学校。
夢の中で戦った夜のあと、すぐ朝が来た。その朝、学校へ行ったのか。自分は。
記憶が飛んでいるわけじゃない。夢の記憶が濃すぎて、現実の時間が薄くなっている。
オペレーターの警告。
普通の夢も悪夢も、前より濃く感じる。
それは、現実の輪郭が薄くなる危険でもある。
「……地震、ありましたか」
凪斗は聞いた。医師は頷く。
「夜中にね。霧ヶ丘周辺で揺れがあった。大きな被害はなかったけど、驚いた人は多い」
やっぱり。
龍の咆哮は、現実の揺れになった。
「それと」
医師が言葉を切った。
「奇妙な話だけど。今日、同じ病院で、長期昏睡の患者が何人も目を覚ました」
凪斗の心臓が跳ねた。
夢の中のカプセル。
「原因不明の集団覚醒、って言葉が合ってる。医療関係者としては、喜ぶべきなのに、理由が分からなくて困ってる」
凪斗は目を閉じた。
助かった。
救われた。
結果だけが残る、と言われた。けれど、覚えている自分がいる。結果の裏側を知っている自分がいる。
その重さが、胸に落ちる。
医師が出ていき、看護師が残った。点滴の調整をしながら、優しい声で言う。
「落ち着いたら、ご家族と面会できますよ。あと、お友だちも」
凪斗は頷いた。喉が痛い。
数分後、カーテンの向こうがざわついた。
「凪斗!」
聞き慣れた声。
真白。
凪斗が顔を向けると、真白が飛び込んできた。制服のまま。髪が少し乱れている。走ってきたんだろう。目が赤い。
凪斗は息を呑んだ。言葉より先に、確かめたいことがある。
「……覚えてる?」
真白は一瞬きょとんとして、次の瞬間、顔を歪めた。
「当たり前でしょ。忘れたら殴るって決めてたし」
その言い方が真白らしくて、凪斗の喉が熱くなった。
「……殴るなよ」
「殴る。あと泣く」
真白は言い切って、そして本当に泣いた。涙がぽたぽた落ちる。制服の袖で拭こうとするのに、止まらない。
「馬鹿……ほんと馬鹿。巻き込みたくないとか言って、結局一番危ないところ行くじゃん」
凪斗は笑いたいのに、笑えない。
「ごめん」
「謝るな。次、ちゃんと相談しろ」
「うん」
凪斗は頷いた。胸の痛みが少しだけ軽くなる。
そのとき、カーテンがまた揺れた。
「おーい、生還者」
瑛士の声。
凪斗は視線を向けた。瑛士が立っていた。制服ではない。私服だ。パーカー。スマホを片手に持っている。顔色は悪い。でも、目は生きている。
「……お前も」
「起きた。寝不足で死にそう」
瑛士は軽口を叩き、すぐ真顔になった。
「覚えてる。全部」
凪斗は息を吐いた。三人そろった。選択は間違ってなかったのかもしれない。
真白が瑛士に睨みを利かせる。
「で、あんた。面白いとか言ってる場合じゃないよね」
「言ってないだろ。今回は言ってない」
「顔が言ってる」
「顔は不可抗力だ」
そのやり取りが、妙に現実だった。夢の中の会話と違う。足元が崩れない。空が裂けない。心電図が鳴っている。病室の蛍光灯が眩しい。
凪斗は思った。
これが日常だ。
この日常を守るために、あの夜があった。
瑛士がスマホを見せる。
「ニュース、出てる。夜中の地震と、謎の発光現象。空が光ったとか言ってる」
「空が?」
真白が眉をひそめる。
「見た人がいるんだ」
瑛士が頷く。
「現実の空に、薄く時計塔みたいな影が見えたって。写真も上がってるけど、ブレててよく分からない」
凪斗の背筋が冷える。
境界線は戻った。でも、痕跡はゼロじゃない。
オペレーターの言葉が蘇る。
異常負荷。
再び異常が起きた場合、巻き込まれる確率が高い。
真白が小さく言う。
「じゃあ、これで終わりじゃないってこと?」
凪斗は答えられなかった。
代わりに瑛士が言う。
「終わりにしたいなら、やることがある」
「何」
真白が睨む。
「夢山柊司」
瑛士は言った。
「目覚めるって話だ。さっき廊下で聞いた。集団覚醒の中に、その人もいるって」
凪斗の心臓が重くなる。
寝台に横たわっていた男。
最初の好奇心を持っていた男。
その先で最悪を選んだ男。
「……会えるの?」
凪斗が問うと、瑛士が肩をすくめる。
「病院が同じなら、可能性はある。ただし、今は騒ぎになってる。医者も看護師も走り回ってる」
真白が唇を噛む。
「会ってどうするの」
凪斗は言葉を探した。
殴りたいわけじゃない。許したいわけでもない。正義の説教がしたいわけでもない。
ただ。
確かめたい。
目覚めた彼が、空っぽなのか。憑き物が落ちたように静かなのか。覚えているのか、覚えていないのか。
それで、未来が変わる気がした。
「……話す」
凪斗は言った。
「もう二度と、同じことが起きないように」
真白が少し笑った。
「それ、結局巻き込まれに行く宣言じゃん」
「……うん」
凪斗は認めた。
怖い。でも、選んだ。覚えている方を。
瑛士が頷く。
「なら、作戦は簡単だ。今は凪斗は動けない。俺と真白で情報を取る。柊司がどこにいるか、何を覚えてるか」
「ちょっと、あたしも動員されてる」
「最初から巻き込まれてるって言ったの、誰」
「……言った」
真白は悔しそうに頷いて、深呼吸した。
「分かった。じゃあやる。ただし、無茶はしない」
「それは俺に言え」
瑛士が言う。真白が瑛士の足を軽く踏む。
「痛い」
「反省しろ」
凪斗はその会話を聞きながら、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
守る側、守られる側。
そんな線引きはもうない。
同じ選択をした。
同じ記憶を持った。
同じ怖さを抱えた。
だから、並べる。
病室の外がまたざわついた。看護師が駆けていく音。誰かが喜び泣きしている声。きっと家族だ。昏睡から目覚めた人の家族。奇跡だ。理由は分からなくても、奇跡だ。
凪斗は目を閉じた。
救われた人たちがいる。
でも、それで終わりではない。
凪斗は白い欠片を思い出した。掌の温かさ。今はもう手元にない。でも、感覚だけが残っている。
最初の好奇心。
それを、最悪にしない方法はあったはずだ。
夢を知りたいなら、同意を取れ。相手を尊重しろ。奪うな。食うな。壊すな。
そんな当たり前を、当たり前として守れ。
オペレーターが言っていた。結果だけが残る。覚えていない人は、結果だけを生きる。覚えている自分は、原因まで背負う。
背負って、歩く。
病室のドアが開いた。母親と父親が入ってきた。母親は泣いていて、父親は顔が強張っている。二人とも、凪斗を見るなり崩れた。
「凪斗……!」
母親が駆け寄り、手を握る。温かい。現実の温かさだ。
「ごめん、ごめん、ほんとに……」
「謝らないで」
凪斗はかすれた声で言った。
「俺、生きてる」
父親が唇を噛んで頷く。
「……よかった」
それだけで十分だった。
真白と瑛士は、家族の時間を邪魔しないように少し下がった。でも二人とも、視線は凪斗から離さない。
凪斗は思った。
これが、選んだ世界だ。
痛みもある。怖さもある。罪悪感も残る。夜もまだ敵かもしれない。
でも、誰かがいる。
誰かと生きる。
それを選んだ。
だから、次が来ても逃げない。
そして、その「次」が来る気配は、もう始まっている。
病室の窓の外で、夜明け前の空が薄く明るくなっていく。その空が、ほんの一瞬だけ、変な色に見えた気がした。白でも黒でもない。境界の色。
凪斗は、目を細めた。
夢の匂いがする。
まだ、終わっていない。
けれど、今は。
今だけは。
目の前の温かさを、握っていた。




