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悪夢を殺せるのは、夢の中で死んだ人間だけ  作者: 妙原奇天


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第10話「目覚めの選択(前編)」

 龍が砕けたあと、夢の世界はひどく静かだった。


 さっきまでの轟音が嘘みたいに、耳が詰まる。自分の呼吸だけが大きく聞こえる。凪斗は足元を確かめるように一歩踏み、ひびの入った床に体重を乗せた。石畳の感触はあるのに、硬さが一定じゃない。水面を踏むときみたいに、ほんの少し沈む。


「……終わった、のか?」


 声が空気に吸われる。返事はない。


 時計塔の頂上。崩れた壁の向こうに、霧ヶ丘の夜景が見えた。見える、というより、覗いている。空に走る亀裂から、現実の街がちらちら映る。車のライトが流れ、信号が点滅する。それが、夢の空に貼り付いた映像みたいに揺れていた。


「ねえ、凪斗」


 真白の声が背中から届く。いつもみたいに強気な調子ではない。喉の奥に砂が詰まっているみたいな、乾いた声。


 凪斗は振り向く。真白がそこに立っていた。制服姿だ。髪も乱れていない。でも目だけが、眠れない夜の色をしている。


 その少し後ろに瑛士がいる。腕を組んでいるのに、指先が落ち着きなく動いていた。彼もまた、笑っていない。笑う余裕がない、というより、笑う必要がなくなった顔だ。


 足元に、白い光の粒が降っていた。龍の破片だろう。粉雪みたいに舞い、床に触れると消える。消え方が妙に優しい。痛みを残さない消え方だった。


「終わってないと思う」


 瑛士が低く言った。


「こういうのって、だいたい後始末が本番だろ。ほら」


 彼が顎で示した先。


 寝台のような装置が鎮座していた。人ひとりが横たわれるサイズ。いや、横たわるために作られた、と断言できる形だ。金属のフレームに、柔らかそうな黒いマット。そこに、若い男が横たわっている。


 夢山柊司。


 凪斗は、あの仮面の輪郭を思い出す。歪んだ笑み。黒い目。伸びるコード。目の前の男は、確かにそれと同じ顔をしていた。ただし、笑っていない。眉間の皺もない。眠っている人の顔だ。


 顔には無数の接続痕がある。コードが刺さっていた穴が、赤く残っていた。さっき龍が崩れたとき、コードがぶつりと抜け落ちた。装置の側に、切れた蛇みたいに黒い束が散らばっている。


 胸が、かすかに上下していた。


「生きてる」


 真白が息を呑む。


「当たり前だろ。じゃなきゃ、夢の中のあいつも立ってられない」


 瑛士の声が現実的すぎて、凪斗は少し腹が立った。生きてるのが当たり前のはずなのに、当たり前でいられなかったのが、この数日だった。


 周囲に、ガラスのカプセルが並んでいる。人が眠っていた。大人もいる。若い人もいる。子どももいる。みんな顔色が悪かった。だけど今は、頬に色が戻りつつある。


 呼吸が整っていくのが、目で見える気がした。胸が上下するリズムが揃っていく。


「……これ、現実で昏睡ってことだよな」


 凪斗が言うと、瑛士が頷く。


「多分な。ニュースとかでもたまに見るだろ。原因不明の長期昏睡。家族が付き添って、医者が首を捻って、本人は眠ったまま」


 真白が視線を落とし、唇を噛む。


「じゃあ、これって……今まで、何人も」


「うん。夢の中の『素材』だ」


 瑛士は言い切った。いつもなら不謹慎な言い方だ。でも今は、飾りの言葉で救われる状況じゃない。


 凪斗は拳を握った。爪が手のひらに刺さる。痛みがある。夢の痛みとは違う。はっきりした痛みだ。それだけで少し落ち着く。


 視界の端に、黒いものが落ちているのが見えた。


 仮面。


 ドリーマーの仮面が、床に転がっていた。さっきまで笑っていた顔。裂けた口。黒い目。あれが、ただの物になって落ちている。


 凪斗は一歩踏み出し、拾い上げようと手を伸ばした。


 指先が触れた瞬間、仮面が崩れた。


 砂みたいに、さらさらと。


「え」


 真白が小さく声を出す。瑛士も目を見開いた。


 仮面は、風もないのに崩れ続けた。凪斗の掌に残ったのは、白い欠片だった。爪の先くらいの小さな破片。ガラスにも似ているが、割れたガラスより温かい。触れると、胸の奥が少しだけ軽くなる。


「何それ」


 真白が覗き込む。凪斗は答えられなかった。


 欠片を見ていると、妙な映像が浮かぶ。誰かが顕微鏡を覗いている。ノートにびっしり文字を書きつけている。夜明け前の研究室。コーヒーの匂い。画面に映る脳波。誰かが笑って言う。


 知りたい。


 ただ、それだけ。


 凪斗は息を吐いた。


「……最初は、こうだったのかもしれない」


「最初?」


「夢山柊司の、最初の気持ち」


 自分の声が、やけに遠い。欠片がそう言っている気がした。言葉はないのに、意味だけが胸に落ちる。


 人の夢を知りたい。


 それ自体は、罪じゃない。凪斗だって、真白が何を考えているか知りたいときがある。瑛士が何を怖がっているか知りたいときだってある。


 けれど。


「やり方が最悪すぎる」


 瑛士が代わりに言った。凪斗が頷く。


 そのときだった。


 空気が変わった。


 塔の頂上に、誰かが立っていた。


 いつの間に。足音はない。風もない。光の粒が舞う中で、その人物だけが輪郭をはっきり保っている。


 白い人影ではない。人の形をしているが、服装が妙に現代的だった。黒いスーツのような、でも縫い目がない。胸元に小さなプレート。文字が読めないほど細かい。


 顔は、はっきり見えるのに、覚えられない。目鼻立ちを捉えた瞬間に、印象が滑っていく。


「……誰だ」


 凪斗が構える。鎖になった武器は、今は手の中で落ち着いている。龍戦の熱がまだ残っているのに、武器は冷たい。


 その人物は、首を少し傾げた。


「警戒は正しい。ただし、攻撃は不要」


 声は男女の区別がつかない。機械みたいに無感情ではないのに、温度が一定だ。


「あなたは誰ですか」


 真白が前に出る。怖いはずなのに、逃げない。その背中を見て、凪斗は苦笑しそうになった。守る側、守られる側。そんな線引き、ここにはない。


「私は運用担当。オペレーター」


 人物は淡々と言った。


「この夢域と現実域の境界管理。夢の連結プロトコルの監視。異常発生時の介入」


 瑛士が目を輝かせる。最悪のタイミングで。


「うわ、マジで管理者側の人だ。いるんだ、こういうの」


 オペレーターは瑛士を一瞥した。感情がないはずなのに、見られた瞬間、瑛士が少しだけ黙った。


「夢山柊司による悪夢システム暴走は、現時点で一旦収束」


 オペレーターは続ける。


「龍型集合悪夢の消滅を確認。夢連結の強制解除を進行中。昏睡群の呼吸安定を確認」


 凪斗は、寝台とカプセルを見た。確かに、みんな穏やかになっている。胸の上下が整っている。助かったのか。助けられたのか。


 胸の奥に、遅れて熱が来た。怒りでも喜びでもない。ようやく現実が追いついてくる感覚。


「じゃあ、もう終わりですか」


 凪斗が問う。


 オペレーターは否定も肯定もしなかった。


「収束は終了ではない」


 その言い方が、凪斗の胃を冷やした。


「……何が残ってる」


「あなたたち」


 オペレーターははっきり言った。


「あなたたちは、この騒動の中心に深く関与した。夢と現実の境界を複数回横断。夢域干渉を繰り返し、因果を改変した」


 真白が肩をすくめる。


「改変って言われても。死ぬ人が出るなら、止めるしかないじゃん」


「動機は評価対象外」


 オペレーターは言った。


「問題は負荷」


 その言葉と同時に、凪斗の胸の痣が疼いた。痛みが、思い出したみたいに戻ってくる。足首も、腕も、首筋も、全部だ。


 凪斗は思わず息を詰める。


「……これ」


「痕跡。あなたが悪夢を斬り、救った代償」


 オペレーターは淡々と言う。


「あなたたちは、通常の睡眠感受性を逸脱した。今後、夢域に引きずられやすくなる。再び異常が起きた場合、巻き込まれる確率が高い」


 瑛士が口元を歪めた。


「それ、要するに『お前らもう普通には戻れないかもね』って話?」


「要約として正しい」


 真白が舌打ちした。


「最悪」


 でも、その声は震えていない。怖いからこそ、強がる声だ。


 オペレーターは、三人を順番に見た。


「選択肢を提示する」


 凪斗の背筋が伸びる。嫌な予感はいつも当たる。


「一つ。記憶を保持したまま覚醒する。今回のすべてを覚えたまま、現実へ戻る」


「もう一つ。悪夢に関する記憶のみを切除して覚醒する。関連する感受性も低下し、平穏な日常へ戻りやすい」


 凪斗は言葉を失った。


 記憶を失う。


 忘れる。


 あの夜の廃遊園地も。拓海の教室も。真白の公園も。時計塔も。龍も。


 そして、ここにいる二人と一緒に走った感覚も。


「そんなの、選べるの?」


 真白が唇を噛みながら言う。


「選べる。今この瞬間のみ」


 オペレーターは冷たいほど正確だ。


「夢域が解ける前に、決定が必要」


 瑛士が笑った。いつもの軽い笑いではない。喉が乾いた笑い。


「記憶消すって、都合良すぎるだろ。そんなスイッチみたいに……」


「技術的に可能」


 オペレーターは事務的だ。


「ただし完全ではない。身体感覚は残留する可能性がある」


 凪斗は自分の胸を押さえた。痣の痛み。これが残るなら、忘れても意味がない気がする。


「忘れたら……助けた人たちのことも、覚えてないってことですか」


 凪斗の質問に、オペレーターは一拍置いた。


「助けたという認識が消える。結果だけが残る」


 結果だけ。


 昏睡状態の人が目覚める。死にそうだった人が生き延びる。だけど、誰がそれをやったかは、やった本人も知らない。


 凪斗は喉が詰まった。そんなの、空っぽだ。意味があるはずなのに、手触りがない。


 真白が小さく言った。


「正直……もう二度とあんな夢、見たくない」


 その言葉は、痛いくらい素直だった。


 凪斗は真白を見た。彼女の目の奥に、砂時計の黒い砂がまだ残っている気がした。探しても見つからない恐怖。足元が崩れる感覚。誰かを忘れる怖さ。


 真白は続ける。


「でもさ……もしまた誰かが、ああいう目に遭うなら。あたし、知らない顔できるかな」


 言った直後、真白は自分の言葉に驚いた顔をした。強がりじゃない。本音だ。


 瑛士が肩をすくめる。


「俺は忘れるのはごめんだね。こんな面白い経験、二度とないかもしれないし」


「面白いで済ませるなよ」


 真白が噛みつく。


「知ってるよ」


 瑛士は笑った。でも、その目は揺れている。


「面白いって言わないと、怖いのがバレるだろ」


 凪斗は息を止めた。


 瑛士は、怖い。


 彼はいつも醒めていて、余裕があるふりをしていた。情報を集め、仮説を立て、言葉で世界を分解する。怖いものを覗き込むことで、自分の怖さをごまかすタイプだ。本人がそれを認めたのは、時計塔の途中だった。


 だから、忘れたくない。


 怖かったことを、意味のあることにしたい。


 凪斗は二人を見比べた。胸が痛む。痣が疼く痛みと、別の痛みが混ざる。


 選べと言われても。


 覚えていたら、また巻き込まれるかもしれない。普通の高校生活は遠のく。眠ることが怖くなる。夜が敵になる。


 忘れたら、守らなくて済むかもしれない。普通に戻れるかもしれない。学校のテストに悩み、部活に遅刻し、くだらないことで笑う日々。


 でも。


 忘れたら、何が残る?


 凪斗は自分に問う。


 悪夢がなくなった世界は、平和なのか。


 それとも、痛みのない空っぽなのか。


「凪斗」


 真白が名を呼ぶ。凪斗は返事ができない。


 オペレーターが言う。


「決定は個別でも可能。ただし、同調した場合、負荷分散が起きる」


「同調?」


 瑛士が眉を上げる。


「三人が同じ選択をするなら、ってこと」


 オペレーターは頷いた。


「異常負荷の偏りを減らせる」


 真白が凪斗を見た。


「ねえ、あんたはどうしたいの」


 凪斗は口を開いた。言葉が出ない。


 頭の中に、拓海の声が蘇る。


 誰も、本気で助けてくれなかった。


 あの教室で、凪斗は何もしなかった。安全な場所で笑った。止めなかった。正義のふりもしなかった。ただ、目を逸らした。


 その記憶を忘れたら。


 また同じことをする気がした。


 今度も、目を逸らす。


 誰かが苦しんでいるのに、知らないふりをする。


 凪斗は歯を食いしばる。


「……考えさせて」


 それが精一杯だった。


 オペレーターは淡々と頷いた。


「猶予は短い」


 時計塔の床が、さらに小さく揺れた。亀裂が走る。空の裂け目から、現実の霧ヶ丘の街が大きく映る。道路を走る車が見える。誰かが外に出て空を見上げている。人影が点のように動く。


 夢が現実に触れている。


 境界が薄い。


「……現実のほう、大丈夫なの?」


 真白が空を見上げる。


「地震とか、起きてるかも」


 瑛士が言う。


「龍の咆哮が、現実の振動に変換されてる。多分ニュース速報、出てる」


 凪斗は眉をひそめる。


「見えるのか」


「勘だよ、勘」


 瑛士が笑う。その笑いは少しだけ、いつもの調子に戻っていた。


 凪斗は白い欠片を握り直した。掌の中で、小さな温度が残っている。


 夢山柊司の最初の好奇心。


 知りたい。


 それは、罪じゃない。けれど、知るために奪ったら、罪になる。


 凪斗は寝台に近づいた。夢山柊司の顔を覗き込む。閉じた瞼。長いまつ毛。頬がこけている。眠り続けた人の骨格だ。


 この男は、目覚めるのだろうか。


 目覚めたら、何を思うのだろう。


 自分がやったことを覚えているのか。


 覚えていないのか。


 凪斗は喉が鳴るのを感じた。


 後ろで、真白が小さく息を吐く。


「もしさ、忘れたら。あたしたちって……また友だちでいられるのかな」


 凪斗は振り向いた。


 真白は笑おうとして、うまく笑えない顔をしていた。


「だって、今はさ。こうして一緒にいる理由、全部これじゃん。悪夢とか、戦いとか。忘れたら、ただの幼馴染に戻るの?」


 瑛士が口を挟む。


「幼馴染って、十分強いだろ。イベントなくても続く関係って、それだけでレア」


「うるさい」


 真白が睨む。でも、その目に少しだけ光が戻った。


 凪斗は胸が締め付けられる。


 ただの幼馴染。


 それが、今の凪斗には眩しい。戻りたい。戻りたいけど、戻ったら、誰かを見捨てる自分に戻る気がする。


「凪斗」


 瑛士が呼ぶ。珍しく真面目な声だった。


「選ぶのは、お前だ。お前が中心だろ」


「中心って言うな」


「じゃあ、きっかけ」


 瑛士は肩をすくめた。


「お前が一回死んだところから始まってる。お前が決めたら、俺らも決めやすい」


 真白が頷く。


「……うん。あたしも、凪斗の答えを聞いてからにする」


 凪斗は二人を見た。


 背負うな、と言われても背負う。巻き込むな、と言っても巻き込んだ。守るな、と言っても守りたかった。


 ここまで来て、ひとりだけ楽になる選択をしていいのか。


 凪斗は空を見上げた。裂け目から見える現実の街。そこに暮らす人たち。学校。教室。帰り道。コンビニの明かり。全部、当たり前の景色。


 当たり前を守るために、当たり前じゃないことをした。


 その記憶を、手放す。


 それは救いか。逃げか。


 凪斗は白い欠片を見つめた。温かい。最初の気持ちは温かい。けれど、その先は冷たかった。


「……決める」


 凪斗が言うと、真白が息を止めた。瑛士も目を細めた。


 その瞬間、時計塔全体が大きく揺れた。


 床の亀裂が広がる。カプセルのガラスが一斉にきしむ。夢山柊司の胸が、大きく上下した。


 オペレーターが静かに告げた。


「解け始めている。決定を」


 凪斗は目を閉じた。


 息を吸う。


 吐く。


 恐怖が胸に溜まる。痛みが痣を通って広がる。逃げたい。全部忘れて眠りたい。何も知らない朝に戻りたい。


 でも。


 凪斗は、拓海の教室を思い出す。真白の公園を思い出す。救われた後輩の顔を思い出す。自分が握ったナイフの重さを思い出す。鎖の輪に宿った光を思い出す。


 それらは全部、凪斗の中に残るべきものだ。


 残らなきゃいけない。


 でなきゃ、同じことを繰り返す。


 凪斗は目を開けた。


「……全部、覚えておく」


 声が震えた。震えても、言い切った。


「怖いけど。それも含めて俺の人生だから」


 真白が凪斗を見つめる。涙が浮かぶ。でも落ちない。


「……じゃあ、あたしも」


 真白は一拍置いて、頷いた。


「忘れたら、絶対後悔する。あたし、そういうの嫌」


 瑛士が笑った。今度は少しだけ軽い笑いだった。


「俺も同じ。忘れるなんて、もったいない」


「もったいないって言うな」


 真白が叩く。瑛士は肩をすくめる。


「でもさ。怖いのも本音だよ」


「うん」


 凪斗は頷いた。


 オペレーターが短く言った。


「了解」


 その言葉が合図みたいに、時計塔の空気が変わった。重さが薄れる。空の裂け目がゆっくり閉じ始める。現実の街の映像が遠ざかる。


 けれど同時に、凪斗の感覚が鋭くなった。


 音が増える。遠くで鳴る車の音。どこかの犬の吠え声。風に揺れる電線の震え。全部が、夢の中なのに手触りを持って襲ってくる。


「これから先、普通の夢も悪夢も、前より濃く感じることになる」


 オペレーターの警告が、今になって現実味を帯びた。


 濃い夢。


 濃い悪夢。


 それは、眠るたびに世界が開くということだ。


 真白が肩を抱く。寒いのか、怖いのか。多分両方だ。


「……やっぱり、選んじゃったね」


「選んだ」


 凪斗は言う。


「後悔しても、忘れない。覚えたまま後悔する」


 瑛士が頷く。


「それでいい。後悔もデータだ」


「またそれ」


 真白が呆れる。でも、少し笑った。


 時計塔の床が光に溶け始めた。砂みたいに崩れていく。白い粒が舞い、足元が透けていく。


 凪斗は最後に、寝台へ向き直った。


 夢山柊司の顔は穏やかだ。まるで何も知らない人みたいに眠っている。


 凪斗は近づき、低く呟いた。


「……あんたの最初の好奇心は、多分間違ってなかった」


 誰に聞かせるでもない。自分に言い聞かせる声。


「でも、その先で選んだやり方が最悪だった」


 夢山柊司の瞼は動かない。


 凪斗は白い欠片を握った。温かさが少しだけ薄れた。


「もし目が覚めても」


 凪斗は続ける。


「もう二度と、人の悪夢を勝手に食うなよ」


 それが祈りなのか、呪いなのか、自分でも分からなかった。


 時計塔の光が強くなる。真白の輪郭が薄くなる。瑛士の声が遠くなる。


 最後に、オペレーターが言った。


「覚醒を開始する」


 凪斗の視界が白く染まり、音が消えた。


 落ちる感覚だけが残る。


 眠りの底へ。


 そして。


 目覚めへ。


第10話「目覚めの選択(後編)」


 凪斗は、息ができなかった。


 水の中にいるみたいに、肺が重い。胸が焼ける。痣が全部いっせいに疼く。胸、足首、腕、首筋。痛みが地図みたいに体をなぞる。


 いや、痛いだけじゃない。


 現実の匂いがする。


 消毒液。シーツの洗剤。機械の熱。人の気配。


 凪斗は目を開けた。


 白い天井。蛍光灯。薄いカーテン。隣のベッドの影。点滴のスタンド。


 病院。


「……は?」


 声が出た。自分の声なのに、やけにかすれている。


 身体を起こそうとして、すぐに無理だと分かった。全身が鉛みたいに重い。喉が乾いて、舌が紙みたいだ。


 心電図の音が一定のリズムで鳴っている。ピ、ピ、ピ。機械の音が、世界がまだ動いている証拠みたいに聞こえた。


 頭の中は、夢の残り香で満ちている。


 時計塔。龍。鎖。光の粒。寝台。カプセル。オペレーター。


 全部、覚えている。


 覚えているのに、現実の白さがそれを押しつぶそうとする。夢は夢だ、と言い張るみたいに。


 凪斗は自分の胸に手を当てた。制服じゃない。病衣の布。胸の奥が痛む。痣は見えない。でも、痛みはある。焼けるような熱が残っている。


「相原くん?」


 カーテンの向こうから声がした。女の声。看護師だ。


 カーテンが引かれ、看護師が顔を出した。驚いた顔をして、次の瞬間には走り出した。


「先生! 起きました! 相原くん、起きてます!」


 足音が廊下に消える。


 凪斗は目を瞬いた。


 どうして病院にいる?


 最後に覚えている現実は、家で眠ったことだ。いや、その前は、夢の中で時計塔にいた。そこから白くなって、落ちて、目覚めた。


「……現実で、何が起きた」


 凪斗は自分に問う。答えはまだない。けれど、ひとつだけ確かなことがある。


 生きている。


 そして、覚えている。


 ドアが開き、医師と看護師が入ってきた。医師は白衣の中年。眼鏡の奥の目が忙しく動く。


「相原凪斗くんだね。意識ははっきりしてる? 名前言える?」


「相原……凪斗です」


「今日は何日か分かる?」


 凪斗は口を開いた。そこで止まる。夢の中の時間が長すぎて、現実の日付が曖昧だ。だが、記憶の端に、夕方のニュースがある。真白の悪夢が途切れた夜。龍が崩れた夜。


「……分かりません」


「大丈夫。混乱は普通だよ」


 医師は優しい声を出す。でも、その優しさの裏に、理解できないものを前にした困惑がある。


 看護師がバイタルを確認する。医師がペンライトで目を照らす。凪斗はそれを受け入れながら、頭の中では別のことを考えていた。


 真白は。


 瑛士は。


 目覚めたのか。


 覚えているのか。


 選んだのは三人一緒だった。負荷分散が起きると言っていた。なら、三人とも目覚めているはずだ。


 凪斗の指がシーツを掴む。手のひらが汗で湿っている。


「……友だち、来てますか」


 医師が一瞬きょとんとした。


「友だち?」


「真白……真白って、来てますか」


 言った瞬間、凪斗は自分の言葉に安心した。名前が出る。覚えている。忘れていない。


 医師はカルテを見て、看護師に目で合図した。看護師が頷き、また走り出す。


「連絡が行っているはずだよ。家族もね」


「家族……」


 凪斗の胸がきゅっと縮む。母さんと父さんは。どんな顔をするだろう。寝ている間に死ぬ若者のニュース。あれが現実だった。自分は一度、死んだ。夢の中で死んだ。それが現実を変えた。


 医師が言う。


「君は今朝、意識を失って倒れた。心拍が乱れて、一時は危険だった」


 凪斗の背筋が冷えた。


「今朝?」


「そう。学校でね。保健室に行ったあと、倒れた」


 凪斗は目を見開いた。


 学校。


 夢の中で戦った夜のあと、すぐ朝が来た。その朝、学校へ行ったのか。自分は。


 記憶が飛んでいるわけじゃない。夢の記憶が濃すぎて、現実の時間が薄くなっている。


 オペレーターの警告。


 普通の夢も悪夢も、前より濃く感じる。


 それは、現実の輪郭が薄くなる危険でもある。


「……地震、ありましたか」


 凪斗は聞いた。医師は頷く。


「夜中にね。霧ヶ丘周辺で揺れがあった。大きな被害はなかったけど、驚いた人は多い」


 やっぱり。


 龍の咆哮は、現実の揺れになった。


「それと」


 医師が言葉を切った。


「奇妙な話だけど。今日、同じ病院で、長期昏睡の患者が何人も目を覚ました」


 凪斗の心臓が跳ねた。


 夢の中のカプセル。


「原因不明の集団覚醒、って言葉が合ってる。医療関係者としては、喜ぶべきなのに、理由が分からなくて困ってる」


 凪斗は目を閉じた。


 助かった。


 救われた。


 結果だけが残る、と言われた。けれど、覚えている自分がいる。結果の裏側を知っている自分がいる。


 その重さが、胸に落ちる。


 医師が出ていき、看護師が残った。点滴の調整をしながら、優しい声で言う。


「落ち着いたら、ご家族と面会できますよ。あと、お友だちも」


 凪斗は頷いた。喉が痛い。


 数分後、カーテンの向こうがざわついた。


「凪斗!」


 聞き慣れた声。


 真白。


 凪斗が顔を向けると、真白が飛び込んできた。制服のまま。髪が少し乱れている。走ってきたんだろう。目が赤い。


 凪斗は息を呑んだ。言葉より先に、確かめたいことがある。


「……覚えてる?」


 真白は一瞬きょとんとして、次の瞬間、顔を歪めた。


「当たり前でしょ。忘れたら殴るって決めてたし」


 その言い方が真白らしくて、凪斗の喉が熱くなった。


「……殴るなよ」


「殴る。あと泣く」


 真白は言い切って、そして本当に泣いた。涙がぽたぽた落ちる。制服の袖で拭こうとするのに、止まらない。


「馬鹿……ほんと馬鹿。巻き込みたくないとか言って、結局一番危ないところ行くじゃん」


 凪斗は笑いたいのに、笑えない。


「ごめん」


「謝るな。次、ちゃんと相談しろ」


「うん」


 凪斗は頷いた。胸の痛みが少しだけ軽くなる。


 そのとき、カーテンがまた揺れた。


「おーい、生還者」


 瑛士の声。


 凪斗は視線を向けた。瑛士が立っていた。制服ではない。私服だ。パーカー。スマホを片手に持っている。顔色は悪い。でも、目は生きている。


「……お前も」


「起きた。寝不足で死にそう」


 瑛士は軽口を叩き、すぐ真顔になった。


「覚えてる。全部」


 凪斗は息を吐いた。三人そろった。選択は間違ってなかったのかもしれない。


 真白が瑛士に睨みを利かせる。


「で、あんた。面白いとか言ってる場合じゃないよね」


「言ってないだろ。今回は言ってない」


「顔が言ってる」


「顔は不可抗力だ」


 そのやり取りが、妙に現実だった。夢の中の会話と違う。足元が崩れない。空が裂けない。心電図が鳴っている。病室の蛍光灯が眩しい。


 凪斗は思った。


 これが日常だ。


 この日常を守るために、あの夜があった。


 瑛士がスマホを見せる。


「ニュース、出てる。夜中の地震と、謎の発光現象。空が光ったとか言ってる」


「空が?」


 真白が眉をひそめる。


「見た人がいるんだ」


 瑛士が頷く。


「現実の空に、薄く時計塔みたいな影が見えたって。写真も上がってるけど、ブレててよく分からない」


 凪斗の背筋が冷える。


 境界線は戻った。でも、痕跡はゼロじゃない。


 オペレーターの言葉が蘇る。


 異常負荷。


 再び異常が起きた場合、巻き込まれる確率が高い。


 真白が小さく言う。


「じゃあ、これで終わりじゃないってこと?」


 凪斗は答えられなかった。


 代わりに瑛士が言う。


「終わりにしたいなら、やることがある」


「何」


 真白が睨む。


「夢山柊司」


 瑛士は言った。


「目覚めるって話だ。さっき廊下で聞いた。集団覚醒の中に、その人もいるって」


 凪斗の心臓が重くなる。


 寝台に横たわっていた男。


 最初の好奇心を持っていた男。


 その先で最悪を選んだ男。


「……会えるの?」


 凪斗が問うと、瑛士が肩をすくめる。


「病院が同じなら、可能性はある。ただし、今は騒ぎになってる。医者も看護師も走り回ってる」


 真白が唇を噛む。


「会ってどうするの」


 凪斗は言葉を探した。


 殴りたいわけじゃない。許したいわけでもない。正義の説教がしたいわけでもない。


 ただ。


 確かめたい。


 目覚めた彼が、空っぽなのか。憑き物が落ちたように静かなのか。覚えているのか、覚えていないのか。


 それで、未来が変わる気がした。


「……話す」


 凪斗は言った。


「もう二度と、同じことが起きないように」


 真白が少し笑った。


「それ、結局巻き込まれに行く宣言じゃん」


「……うん」


 凪斗は認めた。


 怖い。でも、選んだ。覚えている方を。


 瑛士が頷く。


「なら、作戦は簡単だ。今は凪斗は動けない。俺と真白で情報を取る。柊司がどこにいるか、何を覚えてるか」


「ちょっと、あたしも動員されてる」


「最初から巻き込まれてるって言ったの、誰」


「……言った」


 真白は悔しそうに頷いて、深呼吸した。


「分かった。じゃあやる。ただし、無茶はしない」


「それは俺に言え」


 瑛士が言う。真白が瑛士の足を軽く踏む。


「痛い」


「反省しろ」


 凪斗はその会話を聞きながら、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。


 守る側、守られる側。


 そんな線引きはもうない。


 同じ選択をした。


 同じ記憶を持った。


 同じ怖さを抱えた。


 だから、並べる。


 病室の外がまたざわついた。看護師が駆けていく音。誰かが喜び泣きしている声。きっと家族だ。昏睡から目覚めた人の家族。奇跡だ。理由は分からなくても、奇跡だ。


 凪斗は目を閉じた。


 救われた人たちがいる。


 でも、それで終わりではない。


 凪斗は白い欠片を思い出した。掌の温かさ。今はもう手元にない。でも、感覚だけが残っている。


 最初の好奇心。


 それを、最悪にしない方法はあったはずだ。


 夢を知りたいなら、同意を取れ。相手を尊重しろ。奪うな。食うな。壊すな。


 そんな当たり前を、当たり前として守れ。


 オペレーターが言っていた。結果だけが残る。覚えていない人は、結果だけを生きる。覚えている自分は、原因まで背負う。


 背負って、歩く。


 病室のドアが開いた。母親と父親が入ってきた。母親は泣いていて、父親は顔が強張っている。二人とも、凪斗を見るなり崩れた。


「凪斗……!」


 母親が駆け寄り、手を握る。温かい。現実の温かさだ。


「ごめん、ごめん、ほんとに……」


「謝らないで」


 凪斗はかすれた声で言った。


「俺、生きてる」


 父親が唇を噛んで頷く。


「……よかった」


 それだけで十分だった。


 真白と瑛士は、家族の時間を邪魔しないように少し下がった。でも二人とも、視線は凪斗から離さない。


 凪斗は思った。


 これが、選んだ世界だ。


 痛みもある。怖さもある。罪悪感も残る。夜もまだ敵かもしれない。


 でも、誰かがいる。


 誰かと生きる。


 それを選んだ。


 だから、次が来ても逃げない。


 そして、その「次」が来る気配は、もう始まっている。


 病室の窓の外で、夜明け前の空が薄く明るくなっていく。その空が、ほんの一瞬だけ、変な色に見えた気がした。白でも黒でもない。境界の色。


 凪斗は、目を細めた。


 夢の匂いがする。


 まだ、終わっていない。


 けれど、今は。


 今だけは。


 目の前の温かさを、握っていた。

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