49 裂ける防壁、届かぬ叫び
夜明け前――街の壁上に立つカイの視界は、徐々に紫がかった空へと移りつつあった。
交代の合間にふと見やった遠方には、砦の炎がかすかに揺れている。
それだけで十分だった。リアーネが、まだ戦っていることを意味していた。
■ 不意の轟音
ドン──ッ!
地を割るような轟音と、砂煙が壁の内側を覆う。
西側内壁の裏路地から黒煙が立ち上り、古い倉庫群が崩れ始めていた。
補修途中の区域。人員配置も薄く、避難経路としての整備も不十分だった――街の弱点。
リュカが弓を降ろし、低くつぶやく。
「……投石が貫いた」
マリナが表情を引き締めた。
「避難所、あの先よ!」
ゾルドは盾を鳴らし、声を張る。
「鳥足歩兵隊、カイ! こっちは俺たちで行くぞ!」
フェイはローブの裾を握り、きっぱりと言い切った。
「負傷者、必ずいる。私も行く!」
その瞬間、カイの耳に、壁下からかすかな音が届いた。
(……金属の爪が、屋根瓦をかくような音?)
空が明るむ直前の静寂が、逆に不気味だった。
■ 裏通りの悲鳴
倉庫街。投石で砕かれた石壁の隙間から、ゴブリンの突撃隊がなだれ込んでいた。
崩れた通路に散った家財と火薬の臭い。
逃げ遅れた住民の悲鳴が、夜の空気に裂けるように響く。
「前に出る! フェイ、庇護なる光!」
ゾルドの叫びに、フェイが両手で祈りを掲げる。
「祈りは届く……!」
温白色の光が盾と剣に宿り、ゾルドが突撃。
大盾で二体を弾き潰し、剣を返す――その一連の動作は鉄のように滑らかだった。
だが、隙を突かれた。
若いCランク冒険者――数日前に補充されたばかりの青年が、背後から放たれた槍に貫かれた。
「やめろッ!」
カイが怒声を上げ、剣を横薙ぎに投げるように振るう。
槍手は崩れたが、間に合わなかった。
青年は、ほんの少しだけ笑ってから、崩れ落ちた。
リュカは奥歯を強く噛み締める。
(……一本、外した。俺の矢が……遅かった)
怒りを押し殺し、無言で次の矢を番えた。
マリナもまた、心臓を刺すような衝撃に身をすくめながら、それでも両手の剣を強く握り直していた。
■ 住民と火
崩れた家の戸口。
瓦礫に挟まれた老人が、身動きもできずうめいていた。
ゴブリンが歪んだ口で飛びかかる。
「下がれッ!」
ゾルドが身体ごと老人を抱え、盾でゴブリンの刃を受け止めた。
火花が散る。カイが間をすり抜けて敵を弾き飛ばし、マリナが素早く背後を切り払う。
「わ、わしは助かるのか……?」
フェイが杖をかざし、光の帯を老人の足へ走らせた。
「大丈夫、動けます。中央広場へ急いでください!」
だがすぐ横で、別の住民が瓦礫に埋もれたまま、二度と動かなかった。
リュカの矢がゴブリンを貫いたよりも、命の灯火は早く消えていた。
■ 千人将代理の乱入
突然、カイの背後で音が弾けた。
――屋根が爆ぜる。
倉庫の瓦礫を蹴散らし、ホブゴブリン・ウォーチーフが跳び下りた。
「……来たか!」
リュカが即座に矢を向ける。
指揮官の代行――千人将を失った部隊の、力任せの制御役。
ウォーチーフの粗槍が唸り、マリナへ弧を描いて迫る。
「──っ!」
避けきれず、マリナの肩が裂かれた。血が地面に飛び散る。
「痛っ……でも、まだ動ける!」
視界が揺れる。が、剣は落とさない。
フェイが傷を見てすぐに呪文を走らせたが、ウォーチーフの身体は再び円を描き、次の突進先を――フェイに定める。
「させるかッ!」
ゾルドが正面からぶつかる。
盾ごと体当たり。肋骨がきしむ音。痛み。だが、その背後にいる者だけは通さない。
カイが背中から斬り込み、マリナが返す双刃で喉を裂く。
リュカの矢が、寸分の狂いなく心臓へ突き刺さる。
「グガァッ……!」
黒血が噴き出し、巨体がぐらりと揺れて崩れ落ちた。
瞬間、周囲のゴブリンが叫びながら散り散りに逃げていく。
■ 残ったもの
砂埃の混じった空気を、重い呼吸が濁す。
フェイがマリナの肩の傷を癒しているあいだ、
リュカは倒れた青年冒険者の瞼を静かに閉じた。
ゾルドが盾を地面に立て、低く呟く。
「……俺たち、全員は守れなかった」
カイは拳を握り、悔しげに呻く。
「でも、守れた命もある。逃げ込めた人も、いた……!」
フェイが顔を上げ、かすかに揺れる声で応じた。
「だから、立とう。ここで止めないと……もっと多くが、死ぬ」
一瞬の沈黙のあと。
遠くで、また鐘が鳴った。
第七波襲来の合図。潮のように押し寄せてくる気配。
マリナは剣先を地に突き、震えるような息を吐いた。
だが、すぐに顔を上げ、強い瞳で仲間を見回す。
「泣くのは朝にしよう。今は、派手に返り討ちよ!」
リュカが静かに矢羽根を整え、
「……了解。外さない」
と短く言う。
ゾルドは盾を胸に、声を張り上げた。
「背中は俺が預かる! 二度と通させるな!」
カイは剣を握り直し、夜明け前の空を仰ぐ。
紫から橙へ変わりつつある、戦いの空。
(守れなかった命も、たしかにある。だけど、守れる命もある。だから……この剣を振るう)
六人は再び、壁の方角へ駆け出した。
倉庫裏では炎がぼうっと燃え続け、
風が、誰かの叫びの残響を揺らしていた。
夜はまだ終わらない。
それでも、彼らの足は止まらなかった。




