1. バルダーの使者
暗い水面下からうごめく姿をじっと見つめていた。
お互いにぶつかり合いながら大きくなり、さらに速く動き出した。
宝石のように輝く白い泡が水面に浮かび上がり、弾ける音を聞いていると、頭の中で私を苦しめていた無駄な考えも、その泡のように消えていく。
だがそれもつかの間、後ろからかすかに聞こえる音が、私を空想から引き戻そうとしていた。
ぼんやりしていた目の焦点が合い始めた。
私を邪魔する音を探すため、《リンゴソーダ》を見つめていた視線を上げ、周囲を見回した。
濃い灰色の粗い石で作られた壁には、小さな窓がぽつりぽつりと並んでいた。窓から差し込む日差しに照らされて、空気中のほこりが舞い上がっているのが見えた。
高い天井には、夜空の星のようにリオスカシがかすかに輝いていた。
2階の欄干には倒れた人たちが見えた。
その横には杯と食べ残した皿があちこちに散らばっていた。
1階の暗い奥まった台所の片隅では、従業員たちがお客さんと騒いで笑いながら、仕事はそっちのけだった。
周辺の黒い木のテーブルの上には温もりが消えた食べ物が残ってる皿が散らばっている。しかし、誰もそれを片付けようとしなかったし、気にもしなかった。
テーブルの下では小さなまだら猫が軋む床で転がる食べ物のかすかすにじゃれついていた。
気持ち良い食べ物の匂いより、ゴミの匂いとホコリの匂いがもっとしてる。
それに酒の匂いが混ざって吐き気がした。
心地よい食べ物の匂いはなく、ゴミの臭いやほこりの匂いが部屋中に充満していた。そこに酒の匂いが混ざって思わず吐き気を催した。
明るい白昼に熱い鉄の塊みたいに真っ赤な顔で意味のない言葉を口から出す。そんな人たちがテーブルに集まって腹を抱えて笑いながら騒いでいた。 彼らは誰一人、他の人は気にせず、自分の話をより大きな声で話すことだけに関心があるように見えた。
もう一方では演奏者たちが疲れているような顔で演奏していた。
彼らの顔は青白く、死者のような表情をしていた。
彼らは自分たちの演奏を誰が聞いているかなど気にする様子もなく、一曲が終わるとしばらくお互いを見つめ合い、うなずき合った後、次の曲を演奏し続けた。
(ふむ、違うな…)
演奏の音が私を邪魔したわけではない。
また、騒いでいる人々の声が私を邪魔したわけでもなかった。
このような音に包まれていること、まるで静かな風が吹いて木が鬱蒼とした森の中を一人で散歩するように、むしろ私は【空想の世界】に深く入り込んでいくことができる。
私を邪魔した《音》はみんなの視線を自分に引きつけようとする【乱暴な音】だった。
瞬間、まるで荒々しい獣たちが吠えるように荒々しく、下品な笑い声が空間を埋め尽くした。
それは《臆病な動物》が強く見せたいと思って大きく膨らませるような、うるさくて強引な音だった。
<ガハハハハ>
裂けそうな笑い声は私の背後に集まっている群れから聞こえてきた。
そこには倒れかけた古い木の柱と黒く焦げた梁が見えた。
その古びた構造物は黒い石で粗雑に積み上げられた壁で囲まれて、いつ崩れてもおかしくないように見えた。壁と柱の間には長いテーブルが置かれており、その後ろに座っている人は群れを何気なく見つめながら苦笑いを浮かべていた。
荒々しい笑い声が収まると柔らかくも力強い声が空間を満たした。
「私の依頼を引き受けてくださる方は本当にいらっしゃいませんか?」
その声はまるで焼きたてのパンの香りが深い眠りに落ちた人を目覚めさせるように、柔らかく温かかった。
柔らかく空間を温かく包む響きに酔いしれていた私は、突然響き渡った野蛮な笑い声で、自分がカビ臭い場所に座っていることを再び思い出した。
私は彼らが何をしているのかもっと詳しく見ようと席を立った。
気づけば、周りの人々も私と同じようにこの光景を見守っていた。
隣のテーブルに座っていた老人は面白い見物ができて嬉しいのか、
ぶるぶる震えてうまく動けない腕をゆっくりと動かして何度も自分の椅子を
持ち上げたり離したりして騒がせていた。
その騒々しい音に人々の表情が滑稽に変わり、何人かは耳をふさぎながら老人に怒って叫んだ。
しかし周りの反応を気にすることなく、老人は椅子に座りながら言った。
「ハハハ。若いバルダーの使者よ。
腹いっぱいになることもできず、
如何なる栄光も享受せんことを誰がなすだろうか?
まずは喉の渇いた者たちに水を与えるべきではないかね?」
他の人たちも彼の言葉に笑い出した。
彼が腕を上げると皆は自分たちの木樽ジョッキを高く掲げた。
老人に続いて他の人たちも一言ずつ声を上げた。そして、自分の言葉に同意を求めるように自分の木樽ジョッキを持ち上げた。人々もそれに合わせて自分たちの木樽ジョッキを高く掲げて声を合わせて叫んだ。
興奮した彼らはジョッキを振り回しながら怒った波のように立ち上がって暴言を吐いて嘲笑した。
起きてまともに話すこともできず倒れる人もいたが、誰が何を言おうと関係なく皆がテーブルを叩きながら騒いでいた。酒に酔って眠ってた人は何が起きているのかも知らないまま目を覚まして笑いながら椅子の後ろに倒れる人もいた。
ある人は笑いすぎてお腹が痛くて苦しいのか、一方の手でお腹を押さえ、もう一方の手で木樽ジョッキを持って立ち上がり叫んだ。
「しかもここは【ローズル】じゃないんだ!
《バルダー》なんて私たちと何の関係もないんだよ!
ここからさっさと消えうせろ!ハハハ」
私は自分の耳を疑った。
(バルダーの使者? こんな所に?)
感情が高ぶっている人たちに囲まれている《バルダーの使者》を見ようと、私はつま先立ちをした。
(見えないな…)
《バルダーの使者》は《バルダー》を神として仕える【アルダフォード】の魔法使いだ。
【ブリミル大陸】は【ガイルバルド】と呼ばれる巨大な山脈を中心に西と東に分かれている。
西を【ローズル】、東を【ヘーニル】と呼ぶ。
はるか昔、凶悪で乱暴なドラゴンやヨツンが現れた。
ーー彼らは目に入るものすべてを燃やし、破壊した。
ドラゴンとヨツンを避けて隠れて暮らす人々もいたが、荒廃した生活基盤を捨てて高く険しいガイルバルド山脈を越えてヘーニルからローズルに移住した者たちもいた。
ローズルに到着した彼らは目の前に広がる壮観に魅了されたという。
果てしなく広がる青い平野が彼らの視線をとらえたと言われる。
柔らかく流れる澄んだ水の音が心を穏やかにしただろうね。
確かにここへーニルよりも、ローズルは平和な雰囲気を持っている。
美しい自然の中で新たな人生の機会を見つけた彼らは、
ローズルに定着して新しい人生を始めることを決心した。
しばらくしてガイルバルドに住む赤いドワーフたちの助けを借りて
より簡単に山脈を越えることができるようになると多くの者がローズルへ移った。
時が流れ、平和に浸っていたローズルにもついにドラゴンとヨツンが現れ、すべてが炎に包まれた。結局、ローズルの人々もドラゴンを避けて暮らすようになり、深い闇の時代を過ごすことになる。
暗闇が続くある日にどこからともなく現れた戦士が活躍してドラゴンとヨツンはガイルバルドへと逃げ去ったと言われてる。人々は再び光を見ながら暮らせるようになった。巨大な剣とバルダーの魔法を使っていた彼女は《初代アルダフォードの女王》となったのだ。
アルダフォードの人々は自分たちに恐怖が襲ってくるたびにバルダーの強力な力と彼女の剣にますます頼ることになっていった。
憧れて頼りにしていた心は時間が経つにつれて
バルダーへの信仰心になり、《魔法》という言葉すら禁じるようになった。
また、一般の人々が魔法を使うことを禁じた。
アルダフォードにあるバルダーの神殿で、長い修練を経て選ばれた者だけが
《バルダーの魔法》を使うことが許された。
そして、そのようにバルダーの魔法を使う者たちを、魔法使いと呼ばずに
《バルダーの使者》と称するようになった。
バルダーの使者を《魔法使い》と呼ぶのは 《シードホートの魔法使い》だけだ。
そのため、シードホートとアルダフォードの関係は非常に険悪である。
とにかく、バルダーの使者を取り囲む群れが、あれほど荒々しく無礼で、威嚇している理由が分かった。
闇の時代に、多くの人々がローズルへ渡ったが、最後までここに残ってヘーニルを守った《ヘーニル人》は、自分たちの戦いに誇りを抱いていた。
もちろん、すべてのヘーニル人がそうであるわけではないが、彼らのように、その自負心を他人を見下して嘲笑し、軽蔑することで表現する愚かな者たちがいる。
自負心は、自分の生き方から自然に現れるものだ。
後悔や恥を感じるのは、むしろ逃げた者たちが自ら感じるべきことだと思う。なのに、なぜこういうふうに振る舞うのか理解できない。本当に頭が悪いと思う。
それに、ここは《フレイヤ》を《神》として仕える者が多い場所だから、狂信的にフレイヤを信じる人たちは、《バルダー》を信じる者を見ると、避けたり敵意を示したりする。
魔法学校でも同じことがあった。昨日まで親しかった友人が、今日は急に別のチームになった途端、意地悪をしてきたり、喧嘩を仕掛けたりすることがあった。一体、みんなどうしちゃったんだろう?
ひげと長い髪で顔も目もよく見えない人が叫んだ。
「おい、ちびっ子! アルダフォードに戻ってバルダーに告げてみろよ! ハハハ!」
私は、最も嫌いな言葉を聞いて思わず呪文を唱えてしまった。
「スバプニール!」
呪文は人々の騒がしい音に埋もれて、非常に小さく短い音だったが、空間を徐々に揺るがし、見えない大きな波紋を作り出した。
バルダーの使者を取り囲む群れは、自分たちが酒に酔って揺れるのか、建物が揺れているのか、混乱した表情を浮かべていた。まぶたが重くなり、何とか目を開けようとする者たちは、頭を傾けたり、手で顔をこすったりしていた。
そして、バルダーの使者を取り囲んでいた群れは、重い丸太が倒れる音を出しながら次々と倒れていった。そして嘲弄していた嘲笑も消えた。
音楽を演奏していた演奏家たちは目を覚まし、変な音を立てて演奏を止めた。演奏家たちは眠そうだった目を大きく開き、再び活気を取り戻して周囲を見渡し始めた。
倒れた群れの真ん中には、小さな子供が姿が見えた。
(小さいと言ったが、私よりは少し大きく見えるな…いや、そんなに変わらないかも…)
彼女は古びているが清潔感のある白いローブを着ており、暗闇の中でも明るく輝く金色の巻き毛が自由に広がっていた。悪口や嘲笑を何とも思っていないような冷静な表情を浮かべ、冷たく深い海辺の水を思わせる青い瞳でこちらをじっと見つめていた。
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