9
"この赤ん坊はかつて森の精霊であった。
森の近くには人里があり、人々が慎ましく暮らしていた。
精霊といえどその心は幼子のようなもので、人が訪れれば小さな悪戯を仕掛けることも多々あった。精霊は人間が好きだったのだ。
精霊は美しき森をよく守った。人もまた精霊の存在を知り、崇め、二者の絆は軽んじられることはなかった。
あるとき、この人里は他国に攻め込まれ、焼き払われた。村人は皆殺しとなり、森もまた兵に踏み込まれ荒れ地となった。幼き精霊はこれを退ける術を持たなかった。
変わってこの地を征服した国は、恐るべき独裁政治を執り行った。国家元首の悪口を一言でも言おうものなら、翌日には憲兵が家の扉を叩いた。森の跡地には粛清された民の亡骸が打ち捨てられ、山積みになった。死んだ親を探して子供が彷徨い、数日のうちには骸の仲間入りを果たした。
長きにわたる恐怖政治の後、革命が起き、権力者は処刑された。
その刑場も、森の跡地であった。
かつて美しい森であったその場所には、数多の魂の悲嘆、苦痛、憎悪、怨嗟が染み付いた。
それは悲しみのあまり心を閉ざした森の精霊を核として、真珠が育つかのごとく蓄積し、やがて巨大な怨念の塊となった。
革命の後、粛清の恐怖が去った後も、生き残った民の暮らしが良くなることはなく、ただ絶望だけが地を覆っていた。
ある日、一人の魔術師がこの地を通りがかった。
森だったその場所を見て、魔術師は驚愕した。
"なんという強い怨念だろう。強大な呪いとなって周囲の全てを蝕んでいる。それは呪いに苦しめられた人々の悲しみや怒りを吸ってますます大きくなっている"
このままでは怨念は膨れ上がり、より多くの人間に厄災をもたらすだろう。
魔術師は人間としては世界でも類を見ないほど高度な魔法を操ることができた。その力を最大限に活かし浄化の魔法を試みたが、呪いはあまりに強く、効果はなかった。
魔術師は考えた。
この怨念を完全に消し去る方法は一つしかない。
己がやらねば数多くの人間が苦しむことになる。
そして、魔術師は禁忌を犯した。
怨念そのものを天使に作り替えたのだ。
膨大な呪いの力も、天使に換えてしまえばもはや、人を害することはない。
この術を行うために、魔術師は己の全てを犠牲にした。当然、生命も。
かくして、強大な怨念は完全に浄化され、魔術師は死に、人間たちは長きにわたる呪いから解放された。
その場には小さな赤ん坊が残された。
それこそが、錬成によって誕生した「天使」であった。
天使たちは、ひとまず赤ん坊を現世より連れ帰った。
そして持て余した。
どの天使も関わり合いになることを激しく嫌った。
人の手で作られた天使!存在そのものが禁忌!
それは天使にとってはこの世で何よりおぞましいものだったのだ。
唯一興味を示したのが、我が主であった。
最も寛大で、最も偉大な天使である我が主は、誰もが避けるこの赤ん坊を引き取り、眷属とした。
そして、このような取り決めを作った。
『この赤子はまだ名前がない。通常は名付けを行うはずだった作り手がその前に死んだからである。名前をつけると、天使として完全体となり、禁術である天使錬成が完成してしまう。この赤子には決して、いかなる名前もつけてはならない』
かくして、禁忌の赤ん坊は未完成であるという名目で存在を許された。
我が主は死を司る天使。その眷属となった赤ん坊にも、彷徨える魂を昇天させる能力が授けられた。
最も賢明な我が主は、赤ん坊に現世での務めをお与えになった。それゆえに赤ん坊は、あの忌々しい蛇女のもとに遣わされることとなったのである。"




