第10話「ズレ」
あの日から、
患者Aの様子が変わった。
⸻
表面上は、
何も変わらない。
⸻
落ち着いた態度。
整った言動。
模範的な振る舞い。
⸻
——だが。
⸻
わずかに、
“間”がズレている。
⸻
⸻
会話の中で、
一瞬だけ言葉が遅れる。
⸻
視線が、
ほんのわずかに泳ぐ。
⸻
⸻
それは、
他の誰にも分からない程度の変化だった。
⸻
⸻
だが私は気づいた。
⸻
⸻
——迷っている。
⸻
⸻
患者Aが。
⸻
⸻
⸻
視線の先には、
あの人物がいる。
⸻
⸻
窓際の椅子。
⸻
⸻
相変わらず、
動かない。
⸻
⸻
何もしていないようで、
何も逃していない。
⸻
⸻
⸻
患者Aは、
距離を測るように近づいていった。
⸻
⸻
今度は、
慎重だった。
⸻
⸻
「……昨日の言葉、
どういう意味ですか?」
⸻
⸻
静かな声。
⸻
⸻
だが、
どこか探るような響きがある。
⸻
⸻
返答はなかった。
⸻
⸻
数秒の沈黙。
⸻
⸻
やがて——
⸻
⸻
「観察しているつもりで、
観察されている」
⸻
⸻
ぽつりと、
言葉が落ちた。
⸻
⸻
⸻
空気が変わる。
⸻
⸻
患者Aの表情が、
わずかに強張る。
⸻
⸻
「……どういうことですか?」
⸻
⸻
今度は、
一歩踏み込む。
⸻
⸻
だが——
⸻
⸻
それ以上の言葉は、
返ってこなかった。
⸻
⸻
⸻
沈黙。
⸻
⸻
完全な、
無反応。
⸻
⸻
⸻
患者Aは、
初めて視線を外した。
⸻
⸻
⸻
その瞬間を、
私は見逃さなかった。
⸻
⸻
⸻
“崩れた”。
⸻
⸻
⸻
ほんのわずかだが、
確実に。
⸻
⸻
⸻
それでも患者Aは、
すぐに表情を戻す。
⸻
⸻
何事もなかったかのように。
⸻
⸻
⸻
だが——
⸻
⸻
もう、
元には戻らない。
⸻
⸻
⸻
その日の夜。
⸻
⸻
記録を整理しながら、
私は気づいた。
⸻
⸻
患者Aの行動が、
微妙に変化している。
⸻
⸻
これまでのように、
他の患者に干渉しない。
⸻
⸻
距離を取っている。
⸻
⸻
——いや。
⸻
⸻
“余裕がない”。
⸻
⸻
⸻
あの人物の存在が、
影響しているのは明らかだった。
⸻
⸻
⸻
そしてもう一つ。
⸻
⸻
あの人物は、
一度も患者Aを見ていない。
⸻
⸻
⸻
見ていないのに、
理解している。
⸻
⸻
⸻
その事実が、
何よりも異常だった。
⸻
⸻
⸻
力関係が、
崩れ始めている。
⸻
⸻
⸻
だが——
⸻
⸻
これはまだ、
始まりに過ぎない。
「続きが気になった方は、ぜひフォロー・応援・感想をいただけると励みになります。」




