Chapter 29 : 終わりなき闇……そして誘拐犯の遊戯
その瞬間――
夜明けの光がゆっくりと空を染め始め、淡い朝日が建物の隙間から差し込んでいた。
時刻は、すでに午前五時を過ぎている。
レンはしばらくその場に立ち尽くしていたが、不意に目を見開いた。
「……ルナ」
無意識のうちに、その名が唇からこぼれる。
そして、あることを思い出した瞬間――
身体が凍りついた。
「真夜中……」
かすれた声で呟く。
「もう零時は過ぎていた……俺は家にいなかった」
奥歯を強く噛み締める。
「端末……家に置いたままだ」
胸に重たい不安がのしかかった。
(誘拐犯は連絡してきたのか?)
(俺を待っていたのか?)
(応答しなかったせいで……何か起きたのか?)
思考が次々と頭を駆け巡る。
だが、レンはゆっくりと目を閉じ、深く息を吐いた。
(さすがに……朝の五時まで電話をかけ続けるはずがない)
再び目を開く。
(今、俺がやるべきことは――)
工場の奥へ視線を向けた。
(……まずはカイを助けることだ)
そして、小さく目を細める。
「どうか……手遅れじゃありませんように」
◇ ◇ ◇
レンは工場へ戻る方法が分からず、巨大な建物の周囲を歩き回っていた。
しかし、正面の大きな門は固く閉ざされたままだ。
数分後――
ふと顔を上げる。
そこには、高い位置にある窓。
そして数時間前、カイと一緒に作ったナイフの足場があった。
ゆっくり息を整え、一歩ずつ慎重に登っていく。
やがて窓へたどり着き、そのまま中へ飛び込んだ。
だが――
着地した瞬間、違和感が身体を走る。
レンは目を見開いた。
「……待て」
辺りを見回す。
「俺とカイはここから入った……」
呼吸が速くなる。
「それに、この部屋は二つに割れていたはずだ」
慌てて周囲を確認する。
「……でも、割れていない」
壁は元通りだった。
怪物が暴れた痕跡もない。
レンは窓へ視線を向ける。
ナイフも――
跡形もなく消えていた。
静寂が流れる。
(ユリ隊長と降りてきた時も……ナイフはなかった)
背筋を冷たいものが駆け抜けた。
(別の部屋だったのか?)
(それとも……部屋そのものが入れ替わっている?)
答えは見つからない。
その時――
重々しい金属音が響いた。
レンは素早く振り向く。
部屋の奥にある巨大な扉が、
ゆっくりと、ひとりでに開き始めていた。
その先に広がるのは――
果てしない闇。
以前と、まったく同じ光景だった。
レンは立ち止まり、再びナイフが飛んでくるのを警戒する。
しかし――
何も起きない。
代わりに、闇の奥から聞き慣れた叫び声が響いた。
「うわあああっ!!」
レンの瞳が大きく揺れる。
「……カイ!」
一瞬も迷わず、レンは闇の中へ駆け出した。
◇ ◇ ◇
進めば進むほど、
闇はさらに深く濃くなっていく。
やがて前すら見えなくなった。
その時――
聞き覚えのある笑い声が響く。
冷たく、
人を嘲るような笑い。
誘拐犯だった。
「ハハハ……」
そして、いつもの声で告げる。
「それ以上進むな……」
一拍置き、
嘲笑を混ぜて続けた。
「死ぬぞ、愚か者」
レンの胸に怒りが燃え上がる。
「お前……!」
怒鳴り声が闇へ響いた。
「何者なんだ!」
「妹を誘拐して……!」
「今度はカイまで連れ去るつもりか!」
誘拐犯は笑い続けるだけだった。
レンは声のする方向を探そうと辺りを見回す。
しかし、闇はすべてを飲み込んでいた。
その瞬間――
ルナの言葉が脳裏によみがえる。
(何も見えない……)
(聞こえるのは……音だけ)
レンは息を呑んだ。
ここは、
ルナが話していた場所とまったく同じだった。
誘拐犯は再び笑う。
「無駄だ」
あざ笑うように言う。
「俺は……
ここにはいない」
レンは拳を握り締めた。
「カイはどこだ!」
「何をした!」
そして叫ぶ。
「どうしてリオがいる場所に、お前までいるんだ!」
短い沈黙。
やがて誘拐犯は笑みを含んだ声で答えた。
「質問する者は……
自分で答えを見つけろ」
その直後――
声は完全に消えた。
それでもレンは走り続ける。
終わりの見えない闇を、
ただひたすら前へ。
その時――
突然、足元の地面が消えた。
「なっ――!?」
レンは落ちる。
どこまでも、
どこまでも落ち続け――
意識を失った。
◇ ◇ ◇
ゆっくりと目を開く。
だが、
視界は相変わらず真っ暗だった。
「……何が起きた?」
疲れ切った声で呟く。
「まだ……この闇の中なのか?」
その瞬間――
鋭い風切り音。
何かが猛烈な速度で飛んできた。
見えない。
それでも身体は反射的に動く。
しかし――
鋭い刃が肩を貫いた。
「ぐああっ……!」
激痛が全身を駆け巡る。
続いて、
誰かの足音が近づいてきた。
静かで、
ゆっくりとした足取り。
目の前で止まる。
剣の柄を握る感触。
そして――
肩から剣が一気に引き抜かれた。
次の瞬間、
強烈な拳がレンを地面へ叩きつける。
聞き覚えのある笑い声が響いた。
「ハハハ……」
誘拐犯が言う。
「レン……」
「愛しいレン……」
「自分からここへ来るべきじゃなかったな」
レンは歯を食いしばり、
手を伸ばして掴もうとする。
だが、
掴めたのは空気だけだった。
「お前は今……
目の前にいるんだな」
息を切らしながら問いかける。
「ルナは……
ここにいるのか?」
誘拐犯は嘲笑した。
「ああ……
もちろんだ」
その瞬間――
淡い光が闇を照らした。
レンは顔を上げる。
しかし、
誘拐犯の姿は消えていた。
代わりに――
そこに立っていたのはルナだった。
レンは目を見開く。
「……ルナ!」
考えるより早く駆け出す。
だが、
彼女は泣いていた。
あと少しで届く――
その瞬間。
黒い手が背後から伸び、
ルナを乱暴に突き飛ばした。
そこにいたのは――
誘拐犯。
人間ではない。
怪物でもない。
ただの――
黒い影。
顔も、
表情も、
何一つ存在しない。
レンはその場で立ち尽くした。
信じられなかった。
次の瞬間――
誘拐犯の笑い声が響く。
そして、
ルナはレンの目の前で命を奪われた。
レンの身体は凍りつく。
涙が、
生まれて初めて止めどなく溢れた。
信じられなかった。
叫ぶことさえできない。
ただ、
その光景を見つめることしかできなかった。
やがて――
再び闇がすべてを包み込む。
完全な静寂。
誰かがレンを地面へ押し倒した。
そして、
冷たい指先が額に触れる。
その指は――
血で濡れていた。
血がゆっくりと額を伝い落ちていく。
その時。
聞いたことのない少女の声が響いた。
静かで、
どこか不気味な声。
「遊んでくれて楽しかったよ……」
「――ケミカルマン」
その瞬間、
すべてが消えた。
◇ ◇ ◇
レンは勢いよく目を覚ました。
工場の床に倒れていた。
荒い呼吸を繰り返しながら周囲を見回す。
「……何が起きた?」
今見たものは、
現実だったのか。
それとも、
幻だったのか。
そして――
ルナは、
まだ生きているのか。
ゆっくりと額へ手を伸ばす。
その瞬間、
レンの動きが止まった。
指先には――
血が付いていた。
レンは再び目を見開く。
「なら……
一体、何が本当だったんだ?」
◇ ◇ ◇
終わりなき闇の奥。
誘拐犯の笑い声だけが響く。
「ハハハ……」
そして、
愉悦に満ちた声で呟いた。
「いつだって冷静で……」
「どんな状況でも理性を失わない」
しばしの沈黙。
やがて闇の中で大きく笑う。
「だが――」
「俺の前では、耐えきれなかった」




