光と闇
クロノスとセリュサがガーランド帝国に行ってから二週間が経った。
「それでわたしのセリュサと例の受付係君の二人組はちゃんと学生をやっているの? 」
「セリュサは持ち前の理解力で毎日楽しいスクールライフを送っているそうよ。うちの受付係はそれすら必要ないぐらい優秀らしくて友達と一緒に授業をサボり続けているみたい。本当、不真面目にかけては右にも左にも出るものはいないかもね、嫌な意味で」
期待と予想を裏切らない魔術師たちの行動をマリアは渋面で後ろに立つ女に言った。
ソニア・ウォーロック・レイン。元三騎士の三剣の一人『薔薇騎士』であり、東都アイシンに存在するギルド『夢導く光』のギルドマスター。セリュサが中央支部に行くまで育て上げた人物だ。
「あの娘には強くなることしか教えてないから普通の生活を与えてあげられなかったことが心残りだったのよね」
「そうでもないよ。学業と並行してギルドの仕事もこなしているから忙しいのは一緒よ」
「少しでもセリュサが望む幸せを見つけることができればわたしはいいのよ」
ソニアの言葉は亡き両親の気持ちを代弁しているというよりも、彼女自身の真摯な思いなのかもしれない。
「世界中の魔物たちはギルド連盟の力で沈静化されつつある。このままのペースで進めばあと一週間もかからないかな」
「違うでしょ。一週間もかかるなら同じ。うちはただでさえ、世界中に人員派遣しているから、本来の業務に手がつかないよ」
「だから、こうして毎日早く仕事が終わるように手伝いにきているでしょ。戦闘能力がないのによくギルドマスターなんて志願したものね。ギルド員が増えてから書類相手しかしてこなかったけど、魔物討伐もたまにはするものね」
ソニアの頬を伝う雫をマリアは物珍しそうに見つめた。静かに雨が地面を打つ音だけが聞こえる。汚れた地面を洗い流すには足りない雨でも、漂う鉄の臭気を緩和するだけの効果は持っていたようだった。足下には合成魔獣の肉片が死してなお、筋肉収縮を続けていた。
ダースレーブ王国より北西に位置するこの場所は土地柄なのか人口密度が少ない代わりに魔物が大量に潜んでいる。そして、合成魔獣の巣窟として有名だ。魔物では珍しく“戦った相手を捕食して自身の血肉にして肉体強化を図る”特殊な生態を持つ彼らは生命力が高く魔術師たちの間では嫌われている。しかし、それとは打って変わって合成魔獣が肉体強化を図るのは近い未来に危険が迫っているという意味合いがある。
それが今回の騒動に適用されるかは判断できないが、だからといって除外していいことではないと思うのがマリアの考えだ。
「本当の理由は羽根のことなのかな? 」
マリアは肉片一つを手に取ると地面に剣で彫った魔法陣の中心に置いた。そこに魔力を流して肉片は動きを止めた。わずかな肉片からでも膨大な時間をかけて再生する合成魔獣を完全停止させる手段として、青海属性『解離』の特性を利用した構築術式は波打つように個全てを完全停止させる。
「セリュサをガーランド帝国に送り出す案はソニア、あなたが言い出したことよね。彼女に普通の生活を体験させてあげたい親心はわからなくもないけど、実力的に危険すぎると思わなかったの? 」
「実力に見合った相手よりも上の相手と戦わせたほうが後々の成長するのよ。わたしが子供の頃なんて闘技場に通いつめて鍛えていたわよ。思い出せば、あの時の――」
器用に喋りながら雨で刺突剣に付着した血を洗い流している。その一方で、彼女はどこからか小さな筒を出しては投げてきた。
「一応わたしが自分で調べてまとめたから信頼性は保障するけど、背後関係と組織の目的とかはわからなかった。これ以上の情報収集は危険すぎて神経が馬鹿になりそう」
「これは本当のこと? 」
確かに真剣に考えるにはいささか神経が馬鹿になりそうだ。だが、マリアにはこの危険について深く考えることはしない。身内からなによりも率先して教え込まれた危険は多い。
世の中に広まっているものよりも正確無比の情報は危険の質を高め、接触することで被るリスクの予測を立てやすくなる。
危険以上の領域に足を踏み込ませるのは、ギルドマスターでも二の足を踏まざるを得ない。
「羽根と大翼が急に動き出しているのは多分これが深く関わっている可能性がある。可能性だけで絶対はないけどね。分かっていると思うけど、なるべく漏洩は控えてね」
そんなソニアの態度をマリアは察していた。世間一般に広がらない情報は連盟の圧力で揉み消されていることが多く、物事に隠された真実さえも隠蔽されることがある。それは上層部の限られた黒歴史、本来あってはならない正義の汚点だ。
「黙っているよりは行動しなさいってことよね」
「それが賢いやり方。少数精鋭って言葉が人気なのはこういうためにあるのかもね。羽根の連中は猪突猛進なところがあるから、いいとして問題は大翼のほう」
雲の隙間から零れる光がソニアの表情を照らした。
「大翼。天空の使者に心酔し、結成された少数精鋭集団。彼女を除いて一〇人。各個人の戦闘能力はギルドマスター以上。能力情報も一切不明。たった三人の者を除けば彼らの実力は世界最強の名を手にしたでしょうね」
「死ぬ瞬間を知らない者は多いけど、死の概念を受け付けない者はその三人だけ。決して人間には超えることの出来ない境界を破ってしまった存在は己の限界を知らない。同じ器にして別の個体。同じ姿をして別の生物。本当に世界はどこで狂ったのやら」
「最初から……最初からこの世界は狂っていたわ」
世界から争いの火種が尽きることはない。自らが意識し、自覚し、行動しても世界規模で実行されない限り変革は起こらない。世界に対して人間の力は小さすぎる。人間が争うようになって高度な知恵と技術を得ることに成功した。だが、いまの醜い景色を代償にして得るのに本当に必要だったのか疑問は残る。一つの文明を築き上げたその時から、洗礼として武器を手に取り同族と戦うことは宿命だったのかもしれない。
死なないことは生物の遺伝子に組み込まれた願望かもしれないが、それと殺し合いをイコールで結んではいけないと思う。だが、これまで繰り返されてきた歴史は血で固められた上に成り立っている。尊い犠牲の支払いに罪悪の念を抱かなくなったとき、人間はどうなってしまうのだろうか?
ギルドマスターになる前にマリアが望んでいたものはなにか? 誰もが笑っていられる世界。世界中の人々が争うことを放棄する。そんな途方もない夢物語の一端に貢献したいと思ったのがマリアの奥底にあるものだ。それは一人の人間が生涯をかけて実行する夢としては約束できるものではない。だからこそ、これを夢にしたともいえる。同じ夢に共感する仲間と共に戦うこと、魔術師としてこれほどやりがいのあることはないだろう。だけど、あの人物との出会いによってマリアの夢は叶いつつある。
「この世界の未来を作るのはわたしたちでもこれから生まれてくる子供たちでも、いまを生きる少年少女たちでもない。たった三人の魔術師。彼らだとわたしは思っている」
ソニアからの返答はない。その顔には理解することで生まれる苦悩があった。雨音が鳴り止むと、微かに鉄の臭いがした。無言の時を終わらせたのは、空から落ちてきた一通の封書だった。異常魔力の悪影響で長距離の通信が使えないとわかってから、ずっとこの形で届けられる。
第三者に開封されてもいいようにマスターたちにしかわからない暗号術式付きという手の込んだ仕様にはため息だけがでてくる。魔力を流すと複雑な魔法陣が浮かび上がってきた。誰が見ても解くのに一月はかかりそうなものをマリアは何事もないように一つずつ解呪していった。隣でソニアが黙って作業を見つめては頭を捻っていた。
「子供たちに未来を託すのは少し気が引ける」
「あら、仮にも世界を支える三本柱よ。ぶらさがるにしてはものすごく豪華な気じゃない」
最後の陣が解呪されると白書の中から文字が浮かび上がってきた。
今度は一度文面に目を通してから指先でなぞる。規則性のあるものとは違い、マリアの実力を測っているように初期に比べ難易度が上がっているのは気のせいではない。
現に隣にいるソニアの頭からは煙が出ている。それでも簡単に解けてしまうのは誇れることだ。
「わたしとあなたに新しい指令よ」
「まったく……ギルド連盟も人遣いが荒すぎよ」
先程までのやり取りを忘れて、二人は数行しかない文章に顔を見合わせた。
「偶然にしてはできすぎているわね」
「偶然じゃなくて必然だったということでしょ」
「連盟の重役たちは相手の戦力とか理解しているのかしら? 」
「まさか、能無しの盆暗どもが懐を満たすだけの地位でしょうが、もしも暗殺の依頼があったならわたし直々に手を下してあげたいところよ」
「滅多なことを言わないの、いい大人がみっともない」
マリアのその言葉でソニアは持っていた紙から手を離すと細切れに切り裂いた。
『ボルダラ大陸、ガーランド帝国とエルザーク公国との国境付近にて大翼の一人と思われる魔術師を確認。至急、現場に赴き捕縛あるいは情報を得よ』
機嫌が悪いソニアを宥めているマリアもこればっかりは沸々と怒りが湧いてくる。
「これが終わったら長期休暇でも申請してみようかな」
岩場に隠してある荷物の中身を確認するとマリアは、遠くのほうから聞こえる汽笛に耳を傾けた。
「交通費って経費で落とせたっけ? 」
「鈍行で行けばそれなりには落ちるけど、ギルドマスターの権限で全て無料だから、心配しなくてもいいでしょ」
こんな時代でもギルドマスターの権利は劣ることなく威厳を発揮する。それに対しての感想はなにもない。ギルドは正義として人々の前にあり、それを管理するマスターは当然とされている。だが、マリアにしてはそれが重く感じる時がある。正義の裏側を知ってしまってから、全てが真っ黒だ。
「ここを離れても三騎士の動きは把握できるの? 」
マリアが尋ねる。三騎士のトップ三人が抜けたことでいままで保たれていた統率力が欠かれるのではないかと考えていたが、アヴェロスの志は部下たちに深く浸透していた。今回の騒動も彼らが連盟に申請したことで、共同戦線が実現された。過去を振り返るとありえないことだ。
「離れても信頼における部下がいる」
「羨ましいこと」
世界中で活躍する団員のことを思い出すと、無性に会いたくなる。これから行く先によっては二度と会えないかもしれないからだ。不安な色が顔を支配する。負けるつもりはないけど、体は正直だ。
「こんな世の中だからいつ世界が崩壊してもおかしくないかもしれない。だから、その前に一つ賭けをしない? その時に世界が終わったら仕方がないけどね」
「あなたとの腐れ縁も末期だと少し名残惜しいけど、そういうことなら、喜んで」
マリアは口頭でソニアに向かって小さな願いを託して町に向かって歩き出した。次第に小さくなる背中が消える頃にはソニアもまた歩き出した。
「まったく……とんでもないことを言うのね」
受け取りを拒むように留まるそれを飲み込めないままソニアは青海のように広がる空に言った。
「……馬鹿」
胸一杯に広がる彼女の想いがどれだけ深いものか知っているからこそ、ソニアの顔には応えることを拒みたい様子が表れる。ギルドマスターであると同時に一人の人間として、マリア・フロラリア・ルーチェの持つ輝きは失われないだろう。だが、この賭けの結末はすでに決まっている。彼女の望みはもう、この世界には存在しないのだから。
†
双子に出会ってから奮闘は続いている。一日中気配を探っては感知するとフィンは姿を消す。見えないところでアギトも同じことをやっていると思うと苛烈な生活に悲哀の情がでてくる。無傷で帰ってきても人間味のない表情は見ていて気分がいいものではない。戦いは最悪だ。
「フィンはアギトみたいに戦わないのか? 」
渓流の流れを助長するように背後から迫る濁流の音を聞きながら、クロノスはフィンに尋ねた。
「わたしはアギトと違って魔術を発現するまでに時間がかかるから、戦えないのが本音。戦えるけど戦えない微妙な立ち位置にいるの」
飛沫に顔を濡らしながら、フィンはそう言った。学園の帰り道に気配を掴んでからセリュサと別々の場所に散った先で罠が張られていた。奇襲として大量の爆発に巻き込まれ深い谷底に落下し、それを追うように降ってきた岩石はクロノスが撃ち壊した。
「それにしても珍しいな。創造魔術しか使えない魔術師とは」
特殊属性の中でも特殊な位置付けにされる『創造属性』が主属性になるなんて話は聞いたことがない。この属性はクロノアやマリアのようにオリジナル属性を生み出す時の繋ぎとして使われないからだ。
そもそも無から有を生み出すには集中力もさることながら、形作るまでの魔力に加えフィンの言うように発現まで時間が掛かる。
話しだけを聞けばなんでも起こせる素晴らしい属性に思えるが、極めるにはデメリットのほうが大きい。岩を蹴って進んではフィンの動きに合わせて、クロノスは後方に衝撃波を放って対抗する。そのたびに周囲の岩を巻き込んで濁流は弱くなるが足場がすぐに呑み込んで襲い掛かってくる。
一気に終わらせてもいいのだが、現状の整理がつかないこの状況で相手側に自分の存在が漏れることが好ましくないと判断した。
「アギトからそれは強く言われている。理由はわからないけど命の危険が訪れない限り、自分から魔術は使えない」
「理由がわからないか。いまはそれだけを知りたいのにひどい連中だ。手数の一つでも疲労してくれればいいのに」
「それは多分わたしがいるからでしょう。わたしの能力は一般の領域を超えていますから」
「双子でも狙うのはフィンのほうか。だとしたらアギトは邪魔者と考えたほうが妥当か……」
「クロノスさんを頼りにしていますよ」
「誰かに頼りに去れるなんて初めてのことだ。どう応えればいいのかわかったものじゃないが、少なくともフィンを前に誤魔化しは通用しないか」
「なんのことですか? 」
「フィンはいつから俺が“外れ”だって気がついた? 」
ここ数週間行動を共にすることで、以前よりもアギトとフィンを本格的に狙っていることがはっきりしてきた。襲ってくる時間帯に制限がなくなったのか見境なしに行動しなければいけなくなったのか、理由まではわかっていない。その中でフィンを見ていてどこかぎこちないと思ったのは最近のことだ。
呪印によって昼と夜で様子が違うのはアギトが気付いた段階でフィンにも知られていると思っている。魔力制御と重複結界でセリュサレベルまで落としていれば、多少“外れ”でも確信まで到達することはないと踏んでいた。実力が違いすぎると相手の能力が小さく感じるときがある。無意識に制限をかけてしまうそれを利用していたのだが、彼女には悟られている。
知覚する技術というものなら知っていて当然といえるだろうが、フィンがそこまでしてクロノスを調べているようには思えない。内部には干渉されないように障壁で知覚誤認をするように細工してある。これはマリアでも突破するのに苦労していた。
(フリードのように歴戦の魔術師っていうなら話は分かるが、こいつらは訳が違うからな)
「言いたくないならそれで構わない。だが、言ってくれるならこっちも肩の荷が下りて接し易い」
濁流の音を気にもせず考え込むフィンにはどこか不思議な魅力がある。
(……数にして一人、かなりの距離があるがいつでも攻撃できるように準備万端ってわけか)
この国に来てから自分の持つ知識を超えていることが連続して起きているのが落ち着かないと思うのは、自分ではなく彼女を中心に物語が進んでいるためだろうか。物事を考える上での仮説ならたくさん出した。しかし、説明できるものも、できないものも個人的なものや過去の騒動から結果として得られるものはなにもない。明確な答えが出てこない以上、全ては無駄に終わる。
「最初からですよ」
射程範囲ギリギリから動くことのない相手に意識を向けているとフィンが小さく呟いた。
「クロノスさんの身体から発せられる魔力波がわたしの中に眠るものと同じでしたので」
「それって……」
「アギトは知りません。ただ、時間がないのも本当の話です。だから周りが焦っているのかもしれない」
仮説から除外されていた項目の一つに矢が立った。濁流の奥から高濃度の魔力を感じる。直後、爆発の音か、激流の報せか、その区別がつかないほどの轟音が二人に向かって押し寄せてきた。衝撃波では対抗できないと判断すると、フィンを脇に抱えて速度を上げた。その時、体の一部が急に熱を帯び始めた。一瞬、動きが鈍ったところ長距離から高速で撃たれたそれを水の刃で迎撃する。
「この反応……まさかフィン――」
体に触れたのはこれが初めてだったにせよ、どうしていままで気が付かなかったのか。クロノスは驚愕した。
「クロノスさん」
絞り出すような声に言葉は出なかった。
「…………」
フィンもなにかを言いかけたまま一端言葉を切った。一気に顔色が悪くなり、背けたままクロノスの目を見ようとしなかった。
「こんなことを言える立場ではありませんが、わたしはクロノスさんを信じています。だから、お願いします。アギトのやりたいようにさせてあげてください」
それが願いだったのかクロノスにはわからない。
「それがどんな事態を引き起こすのかわかっていっているのか」
「止まれないところまでわたしたちはきてしまいました。もう引き返せません」
「そうか。なら、お前をこんなところで死なすわけにはいかないな」
「ごめんなさい」
誰にも言わなかったのはきっとアギトのためを思ってのことだ。フィンの表情はきっといままで溜め込んできた苦悩で歪んでいる。彼女は自分を責め続けていることだろう。最初に出会ったときに見せた狂気は抑えつづけてきた苦悩が体現した、悲痛な叫びに思えてくる。
「謝らなくていい。フィンがそうならなくてもきっと誰かが同じことをしていた」
優しく喋る。フィンは恐る恐る顔を向けてクロノスの目をまっすぐに見つめた。
「……クロノスさん」
「今日まで普通の学生を演じてきたつもりだったが、それも仕舞いだな。俺自身あんまり派手に動くことは好みじゃないからいままでしたことはなかったが、たまには羽目を外すのもいいだろう」
(ああ、本当に俺はどうかしている)
「俺の強さはフィンの能力でわかった通りのものだ。それに呪印の影響で多少制限が付いてはいるが、そこら辺の魔術師に遅れをとることはない。一応、アギトの望みとして守護を第一に考えるがなにか他に望みがあったらいってくれ」
(本当に嫌な力だ)
自己嫌悪から立ち直っているフィンに向かって、本心とは違うことを喋っている自分が恐くなってきた。闇が大きく動き出している。そこには双子と羽根と大翼がいることは変えようのない事実だ。そして、フィンの秘密から全体の像が浮かび上がった。クロノスのやることは危険からフィンを守ることから取り除くことへと変更することができる。
アギトの動きは別としてもセリュサの仕事の負担を減らし、上手くいけば元の生活に戻ることができる。マリアに学園生活でのことを言われる……かもしれないが、それも次の危険が起こるまでの束の間に過ぎない。戻ったときには受付係のメンバーと一緒に接客相手にひと悶着を起こすだろう。
クロノスの助言を無視して突っ走る輩を力で捻じ伏せながらも、ギルド創設の目的を説く。呆れたマリアが顔を歪め、他のメンバーからどっと笑いが起きる。
それが、クロノスの五年で得た日常なのだ。いままで自分が物語だったから、クロノスはこの戦いに深く参戦しなかった。
「これは俺の戦いか」
クロノスの戦う理由はもう少し先の未来だと思っていた。確証のない妄言になんの意味があるのかわからないが、いままでの自分らしくない考え方には迷いがあった。
(やる気の問題だったら最低だな)
ここにきて目的について深く考えてみる。危険という概念に鈍感なのは、“どうすれば相手を倒せるのか”ということを真剣に考えたことがなかったからで、いうなれば先の一件が初めてだったといえる。そしていま、クロノスの隣には全ての鍵となる少女がいる。
物語を加速させることも減速させることもできる存在は喉から手が出るほど貴いだろう。よもや、積み重ねて進む道筋を飛び越えることだってできる。
「アギトのようにはいかないが、一方的な暴力を始めようか」
「あの……一つだけいいですか。羽根とはいえ、クロノスさんは不殺主義。殺さないでこの場を切り抜けられますか? 」
枷を外して多重結界を展開しながら、クロノスはその言葉を聞いた。月の加護が働くことで魔力消費を最小に留める。
「月魔術――月と闇の羽衣」
フィンと共に薄い鎧を纏う。闇属性を付加した魔力は周囲の魔力を自動吸収し最硬度の防御壁となる。長距離砲撃の威力完全に殺す。殺した魔力を取り込みエネルギーとして循環させる。無限のエネルギー回路といったところか。
限界速度のまま直角に折れ曲がる。視界から忽然と消えたクロノスに相手も動き出す。アルビノの能力が自然と肉体に反映されると、肌に感じるように敵の位置を捕捉した。暴風を引き連れて開けた平野に、クロノスは着地する。
「フィンの願いだ。命の保障はしてやる」
両手にはトンファー。月の女神が宿る変幻自在の美しい魔導具。
「すぐに終らせる」
姿の見えない敵に宣言し、クロノスは疾走する。世界を震撼させた魔術師は、今宵、悪魔となる。
追跡していた側からすれば、なにが起こったのか理解するのに時間が必要だった。対象の隣にいる時点で腕利きだと判断していた。それでも双子の半身でないことを理由に押して勝てる相手だと思っていた矢先に、こちらの動きを的確に読んで潰される。
仲間は誰もきていない。この程度の実力者に人数を割くことは必要ないと仲間内で決まったからだ。勝てると思ったのは傲慢に育った自己欲が原因だろう。自分が選ばれた魔術師だからそう思っていた。数よりも質。世界最強の魔術師に選ばれた魔術師だからこそ敵はいない。
たった一人の少女を連れ去ること。だが、その少女の半身が厄介者だ。ガーランド帝国では『双子の悪魔』の異名で有名な魔術師は、別の世界では『真紅の悪魔』と名乗りを上げている。その実力は自分たちにも届いている。下位である羽根の連中を狩り殺す仕草は本物だ。
なんらかの対応策を講じても変幻自在の創造属性を前にしてはどんな策も分が悪くなる。勝敗を捻じ曲げてしまう切り札ともいえる。自分たちの動きというよりも目的そのものを潰してしまう可能性がある。その行動によってはギルド連盟や三騎士との望まない戦いまで演じることになる。
そんなことが起こってはいけない。連盟と三騎士が出払っているこの期を逃しては時間が掛かりすぎる。時間が掛かっても我々の目的が露見することはないが、できるなら早いほうがいいに決まっている。そのために、危険を冒してまで羽根の連中もフィンを手に入れようと躍起になっている。
それが絶対に敵わないと知らずに死に逝く様は無様とも、哀れともとれる。
運命は変えられないことを知ってしまったから。
「わたしは天空の使者の力によって命を繋いでいます」
クロノスに抱えられている間にフィンの口から告げられたことを消化するのは早かった。体が触れているだけで熱を帯びる反応は中心を基点に全身を循環している機構を組んでいた。純粋な魔力からなる結晶体は、全属性よる反発のない完全融合を果たしていた。
「そんなことが可能なのか……」
世に知れたら引っくり返るのが容易に想像できる。
「非常識にも限度があるだろ・・・・・・」
天空属性『調和』。その特性は属性の完全融合とも生命調和ともとれるまさに神の力。自然界に存在する全ての属性に干渉することが許され、また他者が起こした魔術の影響を完全に無効化する。
十二属性の特性全てを受け継ぐ特性、天空属性こそ究極の属性に相応しい。
「羽根の目的は皆無だが、大翼の目的はフィンの中にある天空の使者の魔力体を使って異次元空間を抉じ開けるつもりか」
攻撃の嵐を受けつつひたすらクロノスは走り続ける。どうして、と叱咤するよりも第一にフィンの安全を優先する必要があったからだ。
手に汗がにじむのをクロノスは感じていた。イリティスタがクローン体を取り込んだときの共鳴反応は触媒が原因で半ば暴走を伴う形だった。異次元空間という不確定要素の大きな場所から影響なく彼女を解放する。
次元崩壊を発生させないためにフィンが狙われている。
平静を装えないほど動揺しているのが自分でもわかる。彼女は自分たちの戦いに巻き込み、そういう役割にしてしまったことに対する罪悪感。
「クロノスさん、顔色が悪いですよ」
「大丈夫だ。なんでもない」
月明かりが届かない場所を選んで移動しているのに、フィンの視線は確実に表情を読み取っている。冷静になれない自分は魔術師として失格だ。
いままでクロノスがくぐり抜けてきたどの修羅場よりも己を保っていられない。命を狙われるよりもクロノスの動揺は激しい。心配されることに無縁だったから対処の仕方がわからない。ただ、深呼吸をして気を落ち着かせることしかできなかった。
「クロノスさんなら、大丈夫ですよ」
小さな声でフィンは言った。自分を守ってくれる存在に寄せる信頼は言葉にして染み渡る。クロノス自身、特に意識して聞いていたわけじゃではない。それなのに、自然と心が落ち着いていった。この変化に対してクロノスは黙った。自分のことを深く考えようと思ったことがないから、考えても言葉が出てくる気配がなかった。だから、この感情がわからない。
「もう大丈夫だ、しっかり捕まっていろ」
でも、クロノスは笑っていた。
たった一つの言葉に救われた。それが、いまを生きるために必要なものだったとしたらフィンの言葉にはどこか不思議な魅力が込められているのかもしれない。
「月魔術――月と地の森林」
地面を強く踏みつけるとそこから土でできた木々が急成長し、山のように視界を覆い尽くした。そこに発射された魔弾が着弾するとその方角に向かって枝葉が鋭利に変化し、伸びていった。が、その程度の攻撃にやられるような相手ではない。
進路を塞ぐ山の僅かな隙間をくぐり抜けてきた。
「だったら……月魔術――月と風の旋律」
何も言わずフィンを上空に投げると空いた両手と腕の身振りで周りの大気をコントロールする。悲鳴を上げて落下するフィン目掛けて発射される魔弾をクロノスの動作から生み出される形のない刃が弾き返す。
追跡する先に風の牢獄を配置するクロノスは腕の中にフィンの存在を確認すると、圧縮した風を足の裏で爆発させて一気に距離を広げた。
「今度の魔術はどう防ぐ? 音魔術――音と鉄の籠守」
月と風の旋律で戦場を支配した時、クロノスは牢獄の陰になるように二重の罠を仕掛けていた。音を媒介にする音魔術。本来なら防御に使う技を攻撃用にアレンジした。牢獄の外側に風よりも早く体を切り刻む不規則に変動する音が巨大な巣として襲い掛かる。
空気の流れを読めば対処できる風と違い、五感では察知することのできない術に対処することができず、次の瞬間、衣服を切り裂いた。フィンの願いで威力を最小限に抑えているから衣服が切れただけだが、本気だったら刹那の間に血風が舞っている。
音の使者の代名詞といわれている音魔術、構築術式と魔力制御の難解さから扱えるものは極めて少ない。だから、魔術に対する効果的な防御策も世に広まっていない。
「次ぎやったら怒りますからね!」
器用に暴れる少女を無視して攻撃を続ける。同時にクロノスを中心に魔力感知を行い、自分たち以外に生存者がいないか確認をする。一応、人気がない方向に移動してきたつもりだが、クロノスは人間よりも動物や魔物の気配を探していた。
どんな状況でも価値ある命を無闇に奪うのは気が引ける。それがクロノスの信念であり、唯一残っている人としての部分だと自覚している。なにもいないことを確認すると、通信機から声がした。
『クロノス、そっちは大丈夫? 』
「俺のところは問題ない。お前のほうはどういう状況だ」
セリュサの口から告げられたのは魔物の暴走。現在、森林地帯から町に向かって進軍しているとのことだ。すでにセリュサを始めとするガーランド帝国の魔術師が総出動で迎撃体制の準備中だ。
(こんな時に面倒なことばかり)
魔物の暴走。それだけを聞けばイリティスタの影響だと思わざるを得ないが、ボルダラ大陸に潜入してからクロノスは毎夜魔力体の排除を行なっていた。だから、この瞬間を狙うように魔物が暴れだすことは不自然だった。なにより、一直線に町に向かうところに人為的な不安を覚える。距離がありすぎてここからのサポートは不可能と判断した。いつかの山岳地帯に入ると銃声によって足を止めた。
『こっちが終わったらすぐに行くから、無理しないでね』
頷いて、不安定な山道を走る。
「俺よりもアギトを探してくれ。少し厄介なことになってきた」
『わかったけど、それじゃあクロノスのほうが……』
「俺のほうは心配無用だ。イリティスタのような規格外クラスがこの世界にいるわけじゃないだろ」
『そう言われると、そうかもね』
「これから戦闘に入る。終わったらまた連絡する」
向こう側の爆発音を最後に通信は途切れた。
(俺の射程に入らないつもりか)
そこで走っていると、疑問が出てきた。どうしてこのタイミングで騒動を起こすのか。
今度はアギトとフィンだけではなく、無関係な人々まで危険の対象となっている。全方位見渡せる中心にフィンを下ろす。
牽制するように周りの岩壁を破壊し、落石が移動範囲を狭めていく。それでもクロノスは動くことなく、冷静に防御姿勢を崩さない。広域知覚を展開しても分散されている気配に居場所を掴ませてくれない。
こちらの意図を把握したのか、余計に隠れるのが上手くなってしまった。常に動き回ることで狙わせないこと、逆にこちらの誤射から隙を狙うなど、数パターンの戦闘で分析完了といったところか。どんなに傲慢でも戦うことに関しては油断を生まない。プロとしての確かな力量と経験が相手にはある。
「クロノアに認められただけあるか……」
だが、経験則でも語れないのが戦いにはある。クロノスは勢いよく走り出すと、近くにある気配を殴った。肉体能力を限界まで引き上げた一撃はそれだけで地面に大穴を開けるほどの破壊力を秘めている。破砕音の炸裂に合わせて飛び散った岩石が漂う気配を一掃した。
「少し遊んでやるか」
体を巡る力を下半身に集約させると、その場で足を曲げて上に跳んだ。常軌を逸するクロノスの運動能力に相手の動きが止まったことを見逃さなかった。風に語りかけ敵が潜んでいる位置を特定する。反応がくる頃には、移動して姿を眩まそうとしているも自然を味方につけるクロノスには意味がない。空気を圧縮させ、解き放つ。手元で爆発したそれは宙で分裂し、無数の弾丸となって雨のように地表に降り注ぎ物陰になる岩を砕いていった。
静寂。
草原のように一変した地形はいつかのように大量の砂埃を巻き上げていた。風を纏いながら地面に到達したところで風を撒き散らすと風刃に絡め取られる形で視界が晴れた。肉体強化をしなくても敵は目視できる位置にいる。こちらの様子を窺いながらも肉体を満たす魔力に乱れはない。華奢な身体つきは女のように見える。外見は判断がつかないように露出を抑えている仕様、隠密行動を基礎に生み出されたのか体が闇に紛れて動きが見極めにくい。もちろん、それは接近戦を行なう時に最小の動作で攻撃を予測する手段であり、これから行なう魔術戦には一切関係ない。
「炎魔術――炎と月の玉」
言葉を合図に瞬く間に眼前に立つ相手に対して、クロノスは指先から手の平に納まる程度の火玉を撃った。当然簡単に避けられる。そこまでは予想の範疇だ。直線に進む火玉が途中で停止したところで、この魔術の真価が発揮される。漂う魔力を吸収し、巨大化すると思ったら今度は分裂を繰り返した。
「逃げられるなら逃げきってみろ」
その圧倒的な数に女は視界から消えた。だが、火玉はまるで姿が見えているかのように一斉に虚空の一部に殺到した。空の一部が濃くなるとそこから雷光が迸った。フィンからわずかに離れた場所。追尾する火玉が彼女の頭上で雷光を遮断する。行き場を失った雷撃が結界にぶつかる。雷撃を吸収して密度が上がったことに舌打ちすると水を纏い突進。剣帯から抜いた呪詛が刻まれた剣を突き出す。
肉を焦がす臭いが辺りに充満する。飛来する炎は女の前に立ちはだかり最後の砦のように人形になる。女が驚いた顔でこちらを見た。炎の中から現れたクロノスは、剣先をトンファーで受け流し相手の速度と破壊力を利用したカウンターで吹き飛ばす。
その結果、受身を取ることもなく内部を衝撃が走る。勝負はついた。トンファーに乗る形で女は倒れ、完全に剣を手放した。
最後の衝撃で骨は何本か折ったと思うが、多分命に関わるほどの重傷ではない。気絶している女を地面に下ろすと後ろからフィンが近寄ってきた。背中には銀色の羽根をモチーフにした刺繍が見つかった。
銀色の羽根は大翼の証。
おそらく、最初に感じた気配の主と同一人物だろう。羽根の連中が邪魔しないこの時をずっと密かに狙っていたということだ。だが、それでは謎がまた一つ出てくる。どうして大翼は最初からフィン個人を狙わなかったということだ。羽根の実力と大翼の実力。普通に考えれば後者に軍配はあるというのに、彼らは羽根に隠れるように行動をしてきた。最初に思いつくのはアギトの存在だ。『真紅の悪魔』に計画を阻害されるのを恐れて行動しなかったとしたら、理由としては納得できなくもない。ただし、それには気がかりがまだ残る。五年前に大翼と殺し合いを演じたクロノスは戦っていて違和感を覚えた。
記憶の中と実力が見合わない。
呪印によって能力が劣っている自分にあの時のような力はない。事実としてクロノスはフィンを守ることに成功した。しかし、勝利の中に残るものがクロノスに一つの懸念を抱かせた。女を調べるために、衣服を脱がすと二人は言葉を失った。胸の中央に獣に襲われたような五本の傷跡と心臓がある部分に穴が開いていた。腹部からはどす黒い変色した血に塗れた臓物がはみ出している。
顔を覆う布を取り払うと綺麗な顔が現れた。ただし、両の目に眼球はなかった。それでも、女の口は呼吸している。腐敗臭すらしない。普通の人間のように人形として生きている。月の魔力を流し込むと手の甲に刻印された紋章が浮かび上がってきた。本物の大翼。だが、彼女はすでに死んでいる。
「この魔力は……」
泣き崩れるフィンを隣にしてクロノスは手の中に感じるかすかな魔力にそう呟く。懸念が膨らみクロノスの中で一つの答えとなるのに時間は掛からなかった。
「急いで戻るぞ。セリュサが危ない」
それまでも、いままでもクロノスはこの事実を信じたくはなかった。フィンにとっては最悪の結果であり、クロノスにしても他人事だと言い切れないからだ。
「月魔術――月の使者の祝福」
青い炎に包まれる彼女に別れを告げると光の粒子が空に消えた。
†
腕の中にいるフィンはとても静かだった。
「どうしてこうなってしまったんでしょうね……」
青い顔でうなだれているフィンは顔を手で覆っていた。
「フィンが気にすることじゃない」
「嘘です。みんなわたしがいるから……わたしがいるから」
フィンの中に眠る純粋な魔力の結晶体。そして、それを宿している彼女の肉体。腕の中にいる少女には酷く重過ぎる運命だと思う。小言で繰り返される言葉には、きっと意味もなく呟かれているだけかもしれない。
「フィンは自分だけの責任って思っているようだが、これには俺も深く関わっている。だから、一人で全てを背負わなくていい。俺が傍にいる。だから、心配するな。とりあえずいまは隠れるぞ。よくない流れにいつの間にか乗っかったみたいだ」
大翼の一人が殺された。死体処理はクロノスが請け負ったにせよ、この事実は放置できない。連中のことだからすぐに仲間の死に気付き制裁を与えることになる。運が悪ければ、連盟や三騎士が立ち向かっても抗うことすらできない連中によって世界が崩壊する可能性もある。
魔術師としてのプライド。
天空の使者によって選ばれた者としてのプライドが彼らにとって何物よりも替え難い勲章。
真の主に忠誠を誓った魔術師たちは仲間の死を許さない。
世界中の人々たちがどうなるかなど、関係ない。
彼らは主のために行動し、思想に共感し、実行する。
それが、大翼としての存在意義。
「一体どこに」
落ち着きを取り戻してもフィンは表情を隠し続けた。
「学園でセリュサと合流する手筈になっている。学園なら防衛結界が施されているから気休め程度にはいいだろう。下手に動くほうが状況を悪化させそうだ」
セリュサが無事かどうかは考えない。生きていると信じることしかクロノスにはできなかった。町が見えると漂う死の雰囲気に考えたくもないイメージが湧いてくる。足下に転がる人間と魔物の死骸。服を掴むフィンの気持ちを察し、クロノスは広域に青い炎を放つ。瞬く間に炎が死骸を包み込み全身の傷を塞いでいく。
だが、彼らが目覚めることはもうない。
人命救護していた一人がクロノスに頭を下げているのが見えた。学園に入る。敷地内には大勢の人が避難していた。魔物に怯えている者、避難中に怪我をして生死を彷徨っている者。フィンを見て武器を向ける連中を殴り飛ばし、同じように怪我をしている人の治療を済ますとその場を去る。
「なにが始まっているのですか? 」
フィンが顔を出してきた。途中で顔を洗ったので涙の後はないにしろ、目蓋の腫れまでは引かなかったようだ。場所は学園の屋上。学園生活で一番世話になった所だ。扉を開けると星空が迎えてくれた。あらかじめ屋上の隅に仕掛けておいた人払いの術式を発動。さきほどの連中の気配がないことを確認すると腰を下ろした。
緊張が自分を支配していくのがわかる。
「戦争だ。それもとびっきり質が悪い……」
白い吐息の乱れを感じたのは寒さに身震いしたときだった。足下から学園全体に干渉し防衛結界の強度を上げている中でこちらに向かう気配。
ゆっくりとした足取りが恐かった。鉄柵にしがみつくフィンが視線を下に向けると、一つの影が屋上に降り立った。
「……クロノス、フィンさん」
声を漏らしたのはセリュサだ。太陽の使者として戦闘衣服を着込んでいる彼女は、着地しようとして失敗した。膝から崩れ、うつ伏せに倒れた。
クロノスが咄嗟に正面から抱きかかえると、腕に温かいものが纏わりついた。フィンは無言で近寄るとセリュサの体にしがみついた。
「セリュサさん、しっかりしてください!」
激情に泣きじゃくるフィンに、セリュサはわずかな力を振り絞ってそっと手を握った。血で濡れる頬が汗と共に色褪せていく様子にフィンは急に力を失ったように、その場に崩れる。
(この残留魔力は……)
そう思いながら、急いで全身の治癒を始める。戦場やここに来る前に見た誰よりもひどい傷口からは、タンパク質の焼ける臭いが漂っている。クロノスは次々と考えられるだけの術式を構築し発動していった。傷口よりも失われた血液を心配し、生体活性を重点に行なった。
放心状態だったフィンは慌てて羽織っていたローブを脱ぐと、セリュサが冷えないように被せた。乱れた呼吸が整い始めると、顔色もよくなってきた。咳き込む口から血が吐かれても、フィンは顔を背けず手を握り続けた。
いままでにない真剣な表情にクロノスも心の中で助かることを願った。
死なせたくない気持ちが届く手前で、背後から鋭い視線に射抜かれた。
「くそ、もう少し待っていてくれればいいものを」
ガーランド帝国の魔術師たちが戦場で散っていた光景を思い返せば、こんなところにいるのは隠れていることにならない。
魔物にしてもそうだ。
あれは帝国の連中が倒したにしては死骸が綺麗な状態だった。
クロノスだったら、大規模魔術で残らないように片付けるほうを選ぶ。そして、セリュサにここまでのダメージを魔物が与えたにしては考え難い。だとしたら、あの結果を生んだのは別の誰かということになる。
「セリュサ、俺に掴まれ。フィンは俺についてこい」
ここにいるのは危険だ。
戦えば自分たちではなく関係のない人間が巻き込まれて死ぬことになる。来た道を戻るようにクロノスたちは走り出す。セリュサの体調が回復する時間稼ぎも必要だった。それと戦闘によって魔物が近寄ってきてしまうリスクを減らしたいのもあった。
高密度の魔力は周囲に悪影響を及ぼす、それは化け物にとって永遠に付きまとう問題だ。
現代の魔術師たちの中にはクロノスのように例外的な強さを持って生まれてくることがない。王の血やアルビノといったことを埒外にしてもフリードのような本当の実力を持つ者は少なくなっている。
それが環境の変化で退化している人間の性質だとするなら、人類の進化はこれ以上望めない。
周りが劣る中で生き残り続ける化け物はどうしたらいいのだろうか? その能力や考え方を理解してくれる者がいるだろうか? いつだって望むものは、同じことだ。
「ちょっと、さっきから移動してばかりだけど、どうしたの? 」
意識が戻ってきたセリュサが、景色の変化に疑問を投げた。
「クロノスさん……」
「俺たちはフィンを羽根から守ればいいと思っていたが、状況が変わった。ここに来る前に大翼の一人と戦ったが、相手は誰かに操られていた」
死体を生前の肉体同様に幻覚を掛けられる使い手をクロノスは知らない。
眼球と心臓が抜かれていたのは、実力を示すというよりは、ついやってしまったとクロノスは思う。残虐性に背筋が凍りつく。それでも、大翼に同情することがクロノスにはできない。
天空の使者に心酔している時点で彼らは世界の敵となった者に情けは不要。存在するだけで悪とされ、存在するだけで罪を負い、存在するだけで罰を科される。
悪の概念に大翼が当てはまらなくても、犯した悪事はどの犯罪行為よりも劣悪なものだろう。
たとえ、目の前に瀕死の女がいたとしても、救うのか問われればクロノスは救わない。彼らの主が考えを改めない限り、それはない。
戦いは終わらない。
「俺とセリュサも狙われている」
護衛任務は暗躍という形で遂行してきたが、身のこなしや戦闘姿勢から読み取れるものは多い。
どこからか監視されそこから素性を知り抹殺対象としたのかもしれない。死体を使ったのはセリュサと違い手の内をさらさない自分の能力を知るためだろう。
名もなき捨てられた廃墟街に入り、高い見晴らしのいい建物に入る。どこからでも迎え撃てるように感覚を研ぎ澄ましていく。
時間はまだ十分にあるから、出し惜しみは必要ない。
「二人ともごめんなさい」
二人の前でフィンが頭を下げた。
「わたしのせいでこんなことに巻き込んでしまって……」
「気にするな、俺たちが勝手に首を突っ込んだだけだ」
セリュサにしたら依頼通りに助けたことで始まったことでも、能力が安定しないクロノスが巻き込まれる必要はなかった。彼女に任せて放っておけば最初の件でここまでの関係には至らなかったと思う。
でも、羽根に追われているフィンを見てクロノスは自分から関わろうと決めたのだ。
「俺にとって初めてできた友達だ。見捨てるなんてできない」
そう言われて、フィンの顔に笑顔が戻ってきた。
「本当にありがとうございます」
手を握られて顔を赤らめるクロノスがおかしかったらしく笑い声が響いた。
「セリュサ、笑う暇があるなら捨てるぞ」
睨まれるとセリュサは痛む体を手で押さえながら、ゆっくりと立ち上がった。
首を鳴らすとその場で二、三度跳んだ。
床が抜けて足が取られるも、体調面はここにくるまでに完全に戻ったようだ。セリュサを見てフィンはホッと息をついた。品定めするような視線で二人を眺めながらセリュサが言った。
「クロノスがここまで感情を表に出すなんてよっぽどフィンさんのことが好きなのね」
壁が爆発した。
「好きなのはいいが、フィンの気持ちも考えてくれよ」
吹き飛んだ壁から不機嫌な声と視線が二人を睨む。
「こんな茶番劇を披露するやつに気持ちについて説かれたくないな」
「どういう意味だ」
「そんなこと俺が説明しなくてもお前自身がよく知っているだろ」
クロノスはセリュサに視線を送ると、フィンの前に移動した。アギトは鼻を鳴らして、部屋に入ってきた。
「俺の話を聞いてくれそうにも見えないか」
感情の抜けた目はフィンを見ずに、クロノスを向けられた。室内に充満しようとする尋常ではない殺気に当てられたセリュサが震えながら後退した。恐怖が彼女の中で別の思いに変化しつつあった。自分を圧倒的な力で捻じ伏せた正体不明の敵。一瞬の隙を見て逃げるときに感じた恐怖。
「ばれているなら仕方がないか……悪いがここで消えてもらう」
「兄さん!」
突然のアギトの言葉に、クロノスの背後からフィンが叫んだ。
「地上を徘徊する羽根は全て殺し尽くした。そして、それを構成する翼も消した。いまの状態ならフィンにお前たちは必要ない」
「なるほど」
光に映る真紅の装いにクロノスは頷いた。
「待って兄さん! この人たちはなにも悪くない」
「フィン、その二人は知りすぎた」
吐き捨てるように言い放つと、アギトはクロノスに向かって歩き出す。
「大丈夫だ。セリュサ、とにかくフィンを守れ。足手まといはごめんだ」
迫るアギトに剣を復元すると、自分を抑制する枷を外した。
魔力量が変化したことに獣の目付きが変わった。
「一応怪我人にその口の聞き方はないと思うよ。この場を切り抜けられたらあなたの心情について一から十まで聞いてあげる必要がありそうね」
そんなことをこんな状況で言ってくるところに、クロノスのフィンに対する変化に驚いていることが表れている。隔離するように結界を張ると、フィンが強く叩いた。
「クロノスさんもやめてください。兄さんの身体から異なる魔力波を感じます。おそらく、誰かの影響を受けています」
「わかっているさ。だけど、手を抜いた状態でアギトから無傷で逃げることはできないのはわかっているよな? 」
「……それは」
あっさりとそんなことをいうクロノスにフィンは言葉を止めた。真紅の悪魔。狙った獲物は確実に殺す、無影の暗殺者。
「俺はお前と戦いたくなかった」
「俺も同じ気持ちさ。フィンがそこまでお前に心を許すなんて想定外だ」
「誰に支配されているのか、素直に教えてくれないか? 」
一瞬のうちにクロノスが距離を詰めて腕を伸ばす。アギトの右肩に向かって距離は縮まっていく。それを見てセリュサは背後を爆破し、フィンを抱えて外に消える。
「それなら……」
答える気になったのか、アギトはいままでとはまるで違う、満面の笑みでクロノスを見上げ、言った。
脱出したセリュサが再び駆け出そうとした直後、大爆発が建物を包み込んだ。巻き上がる煙を背にセリュサは信じることしかできなかった。
だが、それすらもこの戦いには許されなかった。
その瞬間、光が死んだ。
その瞬間、闇が生れた。