鈴鹿の屋敷
塀の中は、四季折々の花木が生き生きと満ちていた。
平屋建ての立派な邸宅を中心に、その四方を四季の庭が囲んでいる。
東の庭は、梅や桃、桜といった春の花木が植えられ、冬の終わりと共に華やかな色と香りを屋敷にもたらしてくれる。
南の庭は、天に遮るものの無い池の上、夏の訪れとともに一面に蓮の花が咲き乱れる。
西の庭では、撫子や桔梗の花で秋の訪れを感じ、楓や銀杏の葉の色付きで秋の深まりに思いを馳せる。
北の庭は、松や椿、山茶花といった木々が多く、雪景色にその色がよく映える。
東の春から北の冬、そしてまた東の春へと季節は巡り、それぞれの庭が、それぞれの季節に最も映える。永遠の美しさではない。自然の流れ、時の流れを大切にする。そんな景色だった。
まだまだ残暑厳しく、緑生い茂る庭木を見ながら「いち」は歩いていく。いちは、この庭がとても好きだった。極楽の景色とは、きっとこのようなものに違いないとも考えていた。栄枯のある、この庭が、である。
昔は、この庭も、それこそ人間の想像する極楽浄土のように美しく華やかであった。
東には、春の景色に、ウグイスのさえずり。
南には、夏の景色にセミの声、夜には蛍が舞い踊る。
西には、秋の景色に虫の声、夜天に輝く天の川。
北には、冬の景色に一面の白雪。
それらすべてが、季節を問わず楽しめる。
さらには、主と自分たちの暮らす邸宅も、黄金の柱に、瑪瑙の天井、翡翠の床に、錦の敷物といった絢爛豪華なものであった。
初めてそれらを見た時は、この絢爛豪華さこそが極楽浄土なのだと、いちも感じていた。しかし、永遠に変化のない景色は、いつしか飽きてしまうものなのか。今では、主が求め今のように変わった、この栄枯のある自然の景色こそが、極楽というものに相応しいのではないかと考えるようになっていた。
門から邸宅までの道は長く、敷地がいかに広大であるかを語っている。その長い道は、いちが歩みを下ろすたびに「ジャッジャッ」という小気味よい音を立てていた。それは、玉砂利のこすれ合う音。玄関までの道には、真白な玉砂利が敷き詰められ、その際立つ白さは、朝日に照り映えると黄金色に輝いて見えるほどであった。
途中、庭木の手入れや掃除をしている者たちを見かけるが、皆「いち」と同じような姿をしている。その内の一人、ちょうど近くにいた者に、いちは声を掛けた。
「ふた。鈴鹿様は、もう起きたかな」
「うん? ああ、いちか。この時間なら、まだ寝てるんじゃない?」
『ふた』と呼ばれた者は、低木の手入れをしている所だったが、その手を休め「いち」の方に顔を向ける。その顔、姿形、いちに良く似ている。違う所といえば、少しばかりの体の大きさと、額にある二つの黒い点くらい。一方、いちの額には、一つの黒い点があった。
「何か用事?」
「烏天狗殿から、急ぎの用だと渡されたんだが」
そう言って、いちは烏天狗から受け取った封筒を懐から出して見せる。
「だったら、小鈴様に渡しておけばいいんじゃない?」
「それが、良いか」
「今なら、朝食の準備をされているだろうから」
「そうだな。そうする」
いちは、その場を後にして先へと進んだ。
その道の先には大きな池があり、様々な色をした鯉たちが泳いでいる。そこに架かる反り橋を渡ると、主の待つ邸宅はすぐだった。
邸宅に着くと、いちは玄関を横に、勝手口へと向かう。そこは炊事場である土間への入り口であり、扉を開けると、中は朝食の準備で活気づいていた。忙しく働いている者たちは、庭にいた者たちと同じく、皆「いち」と似た姿をしている。しかし、その中に一人だけ、姿が異なる者がいた。
「小鈴様」
「は~い?」
いちが、皆の邪魔にならないように扉付近から声を掛けると、一人だけ姿の異なるその者が顔を向ける。それが、『小鈴』だった。
小鈴は、いちの姿を見つけると、和服にエプロン、頭には三角巾を結んだ姿で、ぱたぱたと近づいてくる。
年の頃、二十代前半だろうか。若々しい肌に、整った顔立ちをした人間の女性であった。
「どうしたの。何かあった?」
膝を折り、自分の視線を「いち」の視線に合わせる小鈴。朝食の係ではない「いち」が炊事場に現れたので、何か問題でも起こったのかと少し心配する表情を見せている。
「いえ。こちら、鈴鹿様宛でしたので」
そう言って、いちは先程の封筒を小鈴に渡す。
「烏天狗殿が、急ぎのお届けということでした」
「ふむ」
小鈴は、受け取った封筒の差出人を確認し、次いで柱に掛かっていた時計を見る。針は、六時半頃を指していた。
「そろそろ、起きてるかな。ありがとうね、いち」
小鈴は立ち上がり、エプロンと三角巾を外しながら炊事場の奥へと向かう。
「よつ。ちょっと、鈴鹿様の所に行ってくるから」
「はい。わかりました」
『よつ』と呼ばれた者が返事をする。「いち」と「ふた」に良く似た姿であるが、額にある四つの黒い点で見分けがつく。今日の調理担当の責任者であった。
「皆、あとはお願いね」
そう言うと、小鈴は土間から板の間へと上がっていった。
小鈴がいなくなった現場では、残された者たちが一層の忙しさにてんてこ舞いとなる。猫の手も借りたい事態に、手伝わされそうになった「いち」だったが、すんでのところで逃れ自分の仕事へと戻っていった。
廊下を歩く小鈴の姿は、美しかった。
先程は三角巾に隠れていた髪も、今は自然に肩まで流している。その一本一本に生命力が満ち、毛先まで不足のない艶が黒髪を引き立たせていた。
透き通るように澄んだ瞳は、見る者によって印象は異なるだろう。悪しき者が見れば、すべてを見透かされるような恐怖を覚え、それ以外の者が見れば、優しさを受け取る。
スラリと伸びた手足、さらには日本人女性の平均よりも少しばかり高いその姿は、一つ一つの所作に見栄えがある。
それらが相まった美しさは、平安の世であれば「かぐや姫の物語」のように帝が求婚に訪れるほどだろう。
小鈴を見た者は、その美しさを称賛する。しかし、小鈴と会った者は、外的な美しさは彼女の一ではないという。母のように包み込む優しさ、傍にいるだけで安心することのできる温もり、つまり母性こそが彼女の一番の魅力なのだそうだ。
小鈴は、鈴鹿の寝室へと廊下を進む。
すると、ちょうどその寝室から出てくる者があった。
「みつ」
小鈴に、『みつ』と呼ばれた者。その姿は、前の三人と良く似ていたが、額にある三つの黒い点で見分けられる。
みつは、後ろ手に障子を閉めながら、呼ばれた方に顔を向けた。
「小鈴様。どうされました?」
「鈴鹿様に用事。もう、起きた?」
寝室を指さして小鈴が聞くと、みつは首を振った。
「こちらには、いませんでした」
「あらま……。となると、あそこかな」
「そのようで」
「まったく、もう」
小鈴と「みつ」は、合わせてため息をつく。そして、二人そろって、ある部屋に向かって歩き始めた。