⭐︎ 治国平天下 ―山田方谷の生涯― 九名村の油菜の花から、備中聖人と呼ばれるまでの生涯を描いた、全四十一幕と外伝三篇からなる物語
⭐︎ 治国平天下 ―山田方谷の生涯―
*九名村の油菜の花から、備中聖人と呼ばれるまでの生涯を描いた、全四十一幕と外伝三篇からなる物語*
---
⭐︎⭐︎ 第一部 油菜の花咲く村
⭐︎⭐︎⭐︎ 第一幕 誕生
備中国川上郡九名村。
幾重にも重なる吉備の山影が、谷を抱くように連なっている。その谷間を縫って流れる細い川のほとりに、一軒の農家があった。
文化二年(一八〇五年)、早春。
「――生まれた! 男の子じゃ!」
産屋の外で待っていた五郎吉は、弾かれたように立ち上がった。中から響く赤子の泣き声。それは小さいながらも、しっかりと谷にこだまするほどの強さを持っていた。
「梶……よくやった」
汗にまみれた妻の枕元に膝をつき、五郎吉はその手を握った。梶は息も絶え絶えに、それでも微笑んでみせた。
「見てやってください……あなた。この子の顔を」
差し出された赤子を、五郎吉はおずおずと抱き上げる。小さな拳を握りしめ、まだ開かぬ目でこちらを見上げるような仕草をする我が子。
その時、開け放たれた戸口から、風が吹き込んできた。裏山の斜面いっぱいに咲き始めた油菜の花――その匂いを乗せた風だった。
五郎吉は赤子を抱いたまま、戸口に立った。黄色い花々が、風に吹かれて波のようにうねっている。まるで山肌そのものが、生きて呼吸をしているかのようだった。
「……阿璘」
ふと、そう呟いた。
「これが、この子の名じゃ。この黄色い海のように、大きゅう育ってくれ」
梶が布団の中から、掠れた声で問うた。
「あなた……この子には、何が見えるのでしょうね」
五郎吉は答えなかった。ただ、赤子を抱く腕に、わずかに力がこもった。貧しい農家に生まれた子に、何を望むことができるだろうか。せめて健やかであれ――そう思う一方で、五郎吉の胸の奥には、言葉にならない予感めいたものが、確かに宿っていた。
---
⭐︎⭐︎⭐︎ 第二幕 土間の文字
「阿璘、ここをこう書くのですよ」
梶の指が、土間の土の上を滑る。灯火はか細く、影が壁に大きく揺れていた。三つになったばかりの阿璘は、瞬きもせず、母の指先を目で追っている。
「……できた」
小さな指が、母の書いた文字をなぞる。歪みながらも、確かにその形をなぞっていた。
「まあ」
梶は思わず声を上げた。他の子であれば、とうに飽きて泣き出すか、外へ駆け出していく頃合いである。だが阿璘は、癇癪を起こすでもなく、ただ黙々と、母の動きを真似続けた。
「阿璘は、字を覚えるのが楽しいのですか」
梶が尋ねると、阿璘は少し首を傾げてから、こう答えたという。
「文字は……形が、決まっておるから」
幼い言葉で、それが何を意味するのか、梶にも定かではなかった。だが、その目には、遊びに興じる子供のものとは違う、静かな光が宿っていた。
四つになった年のことである。阿璘は大きな板額に字を書き、村の神社に奉納した。
「これを、あの子が……」
集まった村人たちは、額に書かれた字と、その傍らに立つ小さな阿璘とを、何度も見比べた。
「山田さんとこの子は、只者じゃないぞ」
「五郎吉さん、梶さん、育て方がよほど厳しいと見える」
村人たちのざわめきを背に受けながら、五郎吉は複雑な面持ちで我が子を見つめていた。誇らしさと、そしてどこか――この子の行く末を思う、漠とした不安と。
(この逸話がどこまで史実に忠実かは定かでない。方谷の名が高まるにつれ、後年語り継がれるうちに、幾分か彩りを加えられていったのかもしれない。しかし、この家に流れていた「学問への渇望」だけは、疑いようもなく本物であった。)
---
⭐︎⭐︎⭐︎ 第三幕 油の匂いのする問答
搾油場に、菜種の匂いが満ちている。臼がきしみ、油が滴る音が、単調に繰り返されていた。
「阿璘、油というのはな」
五郎吉は額の汗を拭いながら、傍らに座る阿璘に語りかけた。
「一度に多く搾ろうとすると、かえって濁る。急がず、ゆっくりと圧をかけるのが肝要じゃ」
阿璘はじっと臼を見つめ、頷いた。だが、すぐにこう問い返した。
「父上。なにゆえ、種は同じなのに、搾り方で油の量が変わるのですか」
五郎吉は言葉に詰まった。
「それは……その、な」
「圧のかけ方が違えば、種の中から出てくるものも違う、ということでしょうか」
「阿璘……お前は」
五郎吉は、搾油の手を止めて、我が子の顔をまじまじと見つめた。五つやそこらの子供が発する問いではない。近隣の者たちが「九名村に神童あり」と噂するのも、無理からぬことだった。
「父上、教えてくださらぬのですか」
「いや……いや、そうではない。父にも、よう分からんのじゃ。それより、なぜそんなことが知りたいのだ」
阿璘は少し考えてから、静かに答えた。
「知れば、もっと良い油が搾れるかもしれませぬ。それに……」
「それに?」
「知らぬままでいるのが、なんだか、心地悪うございます」
五郎吉は笑った。だがその笑いの裏に、この子の行く末への、言い知れぬ期待と怖れが同時に去来していたのかもしれない。
---
⭐︎⭐︎⭐︎ 第四幕 入門
文化六年(一八〇九年)、阿璘数え五歳。
隣国・新見藩の藩儒、丸川松隠のもとへの入門が許された。
「五郎吉、そなたの倅は、噂に違わぬ才を持っておるようじゃな」
松隠は、まだあどけなさの残る阿璘の顔を、じっと見つめた。
「先生、どうか……どうか、この子に学問を」
五郎吉は幾度も頭を下げた。貧しい農家の主が、藩を代表する学者の前で頭を下げ続ける姿を、阿璘は黙って見ていた。
「面を上げよ、五郎吉。――阿璘とやら、こちらへ参れ」
呼ばれて、阿璘はおずおずと進み出た。書物が積まれた部屋の匂い、墨の香り。緊張に身体が強張るのが、自分でも分かった。
だが、目の前に一冊の書物が広げられた瞬間、その緊張は嘘のように消え失せた。文字を追う目に、迷いはなかった。
松隠は、しばらくその様子を見つめていたが、やがて静かに、傍らの息子に声をかけた。
「慎斎、当面はお前がこの子の面倒を見よ。まだ幼い。塾生としての作法もままなるまい」
「かしこまりました、父上」
慎斎に手を引かれ、塾の奥へと消えていく小さな背中を、松隠はいつまでも見送っていた。
だが、歳月を重ねるうちに、松隠自身が阿璘に注ぐ情は、次第に深いものへと変わっていった。血の繋がらぬ孫を見るような眼差しで、松隠は阿璘の学問を見守り続けたという。のちに方谷は、晩年に至ってなお、こう語ったと伝えられる。
「あの慈しみは、父母の慈しみをすら超えていた」
学問とは、己一人の栄達のためにあるのではない。世の中をよくするための手立てである――松隠が繰り返し説いたこの言葉を、阿璘は幼い胸に深く刻みつけていった。
---
⭐︎⭐︎⭐︎ 第五幕 藩主の御前にて
文化七年(一八一〇年)、阿璘数え六歳。
新見藩主・関長輝の御前において、揮毫を披露する日がやってきた。広間には居並ぶ重臣たち。その中央に、小さな阿璘がただ一人座らされている。
「これへ、筆を」
家臣の声に、阿璘は静かに筆を取った。周囲のざわめきが、一瞬にして静まり返る。
紙の上を、迷いなく筆が走った。
「……おお」
誰かが小さく声を漏らした。幼い手とは思えぬ、力強く、しかし乱れのない筆致。藩主・長輝もまた、身を乗り出すようにしてその様子を見つめていたという。
(その場でどのような言葉が交わされ、阿璘がいかなる面持ちでいたか――それを正確に知る術は、今はもうない。だが、貧しい農家に生まれた子が、藩主の御前にまで召されるほどの評判を得ていたこと自体は、確かに伝わっている。)
九名村へ帰った阿璘を、五郎吉と梶は言葉少なに迎えた。だが、その沈黙の中に、家の再興という願いが、いよいよ現実味を帯びて宿っていたのではなかったか。
---
⭐︎⭐︎⭐︎ 第六幕 客人の問い
回陽塾には、阿璘よりずっと年上の塾生たちが机を並べていた。その中で、まだ小さな体を折り曲げて書物に向かう阿璘の姿は、ひときわ目を引いた。
ある日、塾を訪れた客人が、その姿に目を留めた。
「坊や。そんなに小さいうちから、何のために学問をしておるのだ」
軽い戯れのつもりだったのだろう。だが、顔を上げた阿璘は、少しも迷う様子を見せずに答えた。
「治国平天下にございます」
客人は絶句した。しばらく声も出せず、ただ、この幼い塾生の顔を見つめていたという。
『大学』の一節そのままの、大人でも容易には口にできない言葉であった。
(この逸話の言葉が一字一句正確であったかどうかは、確かめようがない。しかし、後年方谷が成し遂げた藩政改革、そして生涯を通じて示し続けた教育への情熱を思うとき、この幼い日の答えは、単なる早熟の産物ではなく、すでに彼の内に芽生えていた志の萌芽であったように思われてならない。)
---
⭐︎⭐︎⭐︎ 第七幕 母の叱咤
阿璘、数え十三の年。
新見の塾に、早馬が駆け込んできた。
「阿璘様! お国元より、火急の知らせにございます! お母上様が、ご危篤とのこと!」
阿璘は書物を取り落とした。
「――母上が」
取るものも取りあえず、幾里もの山道を駆けた。息が上がり、足がもつれても、止まらなかった。
九名村に辿り着き、病床の母のもとへ駆け込む。だが、そこで阿璘を迎えたのは、優しい言葉ではなかった。
「阿璘……お前は、何をしに戻ってきたのです」
痩せ細った体で、それでも梶は声を張った。
「学業の半ばで、私の看病などのために帰ってくるとは、何ということです」
「母上……」
「すぐに、塾へお戻りなさい。お前には、なさねばならぬことがあるはずです」
阿璘は、何も言い返すことができなかった。ただ涙が、次から次へと零れ落ちた。
「……分かりました、母上」
もう一度、母の顔を見つめる。痩せて、頬のこけたその顔に、かつて土間で文字を教えてくれた、あの優しい面影を探した。
深く頭を下げ、阿璘は来た道を戻っていった。その後ろ姿を見送る梶の胸中が、いかなるものであったか――それを推し量る術は、今となってはもうない。
新見へ戻ってからわずか十日後、梶は息を引き取った。
母の死に目に会うことは、ついに叶わなかった。
---
⭐︎⭐︎⭐︎ 第八幕 相次ぐ喪失
悲しみも癒えぬまま、季節は巡った。
翌年、阿璘数え十四の年。今度は父・五郎吉が、急な病でこの世を去った。
「父上……父上!」
冷たくなった父の手を握りしめ、阿璘はただ呆然と立ち尽くした。両親を、わずか一年余りの間に、共に失ってしまった。
残されたのは、幼い弟と継母、そして家業に伴う借財だけであった。
その夜、阿璘は誰もいない土間に座り込み、かつて母が指でなぞってくれた文字の跡を、ぼんやりと見つめていた。
「学問を、続けねば……」
だが、現実はそれを許さなかった。数え十四にして、阿璘は一家の主とならねばならなかった。
塾を辞し、故郷九名村へ帰った阿璘は、田畑を耕し、菜種油を搾り、天秤棒を担いで行商に歩く日々を始めた。それでも、学問への志を絶やすことはなかった。夜、家人が寝静まった後、ひとり書物に向かい、灯火の下で読み耽ったという。
---
⭐︎⭐︎⭐︎ 第九幕 裏山にて
ある日、阿璘は独り、裏山に登った。
かつて自分が生まれた日、父がこの黄色い海を眺めながら「この子には、何が見えるのだろうか」と呟いたという、あの斜面。
だが、そこにはもう、油菜の花はなかった。花期はとうに過ぎ、青々とした葉だけが、風に揺れている。
阿璘は、しばらくその景色を見つめていた。
母が息を引き取る前、幼い頭を撫でながら、こう言い聞かせたことがあった。
「お父さんの志を、成し遂げるのですよ。ただし、時代の勢いに乗って走りすぎては、つまずきます。どうか、生涯を立派に終えておくれ」
この言葉を、阿璘は生涯忘れることがなかったという。
やがて阿璘は踵を返し、静かに山を下りていった。その後ろ姿は、幼子のものにしては、どこか揺るぎのない、大人びたものであったという。
かつて生まれた日に見た、あの油菜の花の景色を胸に、阿璘はふたたび、九名村の日々へと戻っていった。だが、この村での日々も、いつまでも続くわけではなかった。
---
⭐︎⭐︎⭐︎ 第十幕 搾油場の夜
九名村に戻ってからの阿璘は、もはや書物を開く少年ではなく、菜種を運び、臼を回し、天秤棒を担いで村々を歩く、一家の主であった。
「山田さんとこの若いのは、量を誤魔化さねえ」
「油の質も、ちいとも落ちねえ。あの若さで大したもんだ」
近隣の者たちの間で、そんな評判が囁かれるようになっていた。阿璘は取引において、一切の誤魔化しを己に許さなかった。目方を計るときも、油を注ぐときも、寸分の狂いも見逃さなかった。だが、その誠実さの裏で、阿璘の胸には、絶えず一つの焦りがくすぶっていた。
夜、幼い弟や継母が寝静まった後、阿璘は行灯の灯りの下でひとり書物を開いた。だが、日中の疲れは重く、文字を追う目は幾度となく霞んだ。
ある夜、阿璘は硯に向かい、新見の松隠へ宛てて筆を執った。
「先生」
書きながら、独り言のように呟く。
「私は、このままで良いのでしょうか」
筆先から、抑えきれぬ思いが零れ落ちていった。
――家業に追われ、学問に費やせる刻はわずかにございます。日々付き合うのは、俗事にまみれた人々ばかり。このままでは、私もまた凡庸な人間に成り下がり、これまでの学問のすべてが、無に帰してしまうのではないかと、恐れております。
書き終えた文を、阿璘はしばらく見つめていた。弱音を吐くことを、自分に許してよいものか。迷いながらも、結局、その文を封じた。
返信が届くまでの幾日か、阿璘は搾油場で臼を回しながら、幾度も自問した。
(父上がかつて仰った。急がず、ゆっくりと圧をかけるのが肝要だと。学問もまた、そういうものなのだろうか)
だが、答えは容易には出なかった。油の匂いに包まれながら、阿璘はただ、目の前の仕事に手を動かし続けるほかなかった。
---
⭐︎⭐︎⭐︎ 第十一幕 二人扶持
文政八年(一八二五年)の暮れ、九名村に一報が届いた。
「山田阿璘殿へ、御用の筋にて――」
使者の声に、阿璘は思わず立ち上がった。
「備中松山藩主・板倉勝職様より、二人扶持の奨学の御沙汰にございます。以後、藩の学問所への出入りをお許しになるとのこと」
阿璘は、しばらく言葉が出なかった。長らく胸の底に押し込めていた渇望が、堰を切ったように込み上げてくる。
「まことに……まことに、有難きことにございます」
深々と頭を下げながら、阿璘の脳裏には、幼い日、土間で文字をなぞってくれた母の姿、油を搾りながら「阿璘は只者ではない」と語り合っていた村人たちの声が、次々と蘇っていた。
この報せを受けて、それまで沈黙を保っていた親族たちの間にも、変化が生まれた。
「あの子の才を、家業に埋もれさせてはならぬ」
「お家再興のためにも、学問に専念させるべきじゃ」
親族の一人が、そう阿璘に告げた。
「良いのか。お前たちには、これまで苦労をかけどおしであったのに」
阿璘が問うと、その者は静かに首を振った。
「阿璘、お前が背負ってきたものを、わしらは見てきた。今度は、わしらがお前の学問を支える番じゃ」
文政十年、そして同十二年。阿璘は家業を家族に託し、二度にわたって京都へ遊学した。松隠の紹介で寺島白鹿の門をくぐり、また藩の勧めで鈴木撫泉のもとにも学んだ。
撫泉の門下で、阿璘は一人の男と出会う。
「山田阿璘と申します」
「春日潜庵じゃ。……ほう、そなたが噂の」
年の近いその男と交わした最初の言葉が、生涯にわたる友誼の始まりになろうとは、この時の阿璘はまだ知らなかった。
京の学舎で交わされる議論は、九名村の搾油場では決して得られぬものであった。夜を徹して語り合う友を得て、阿璘の胸にくすぶっていた焦りは、少しずつ、確かな手応えへと変わっていった。
---
⭐︎⭐︎⭐︎ 第十二幕 家名再興
文政十二年十二月。二度目の京都遊学から帰って、三月ほどが経った頃であった。
「山田阿璘、これへ」
藩の重臣に呼び出され、阿璘は御前に進み出た。
「藩主・板倉勝職様より、御沙汰である。そなたに、苗字帯刀を許す」
阿璘は、その場に平伏した。込み上げるものを堪えながら、声を絞り出す。
「――謹んで、お受けいたします」
ほどなく、阿璘は士分に取り立てられ、中小姓格、八人扶持を与えられた。同時に、藩校・有終館の会頭にも任じられることとなった。
その夜、阿璘は独り、九名村の方角を見やった。
(父上、母上)
胸の内で語りかける。
(山田の家名を、再び興すことができました。あなた方が胸に抱き続けてこられた願いを、ようやく――ようやく、果たすことができました)
かつて武士であった山田の家が、田畑を耕し、油を搾る貧しい農家へと落ちぶれ、そしてまた武士の家へと戻る。この報せを、亡き五郎吉と梶が知る術はない。だが、幼き日、油を搾る父の傍らで問いを重ねていたあの子が、二十五の齢にしてこの日を迎えたことを思うとき、両親の願いは決して空しく潰えたのではなかったのだと、静かに頷かずにはいられない。
阿璘は、この時からいよいよ「方谷」と名乗るようになる。
---
⭐︎⭐︎⭐︎ 第十三幕 焼け跡
家名を興したのちも、方谷の歩みは平坦なものばかりではなかった。
文政十三年、松山城下に屋敷を賜り、藩校の会頭として日々を送っていた方谷であったが、天保二年二月のある夜、異変が起きた。
「火事だ――! 会頭様のお屋敷から火が!」
叫び声に飛び起きた方谷が外に出た時には、すでに炎は屋敷を舐め尽くし、風に煽られて隣接する藩校・有終館へと燃え広がろうとしていた。
「水を、水を持て!」
方谷自身も声を張り、消火に加わったが、火の勢いは衰えることなく、ついに有終館は全焼した。
翌朝、黒く焼け焦げた柱の前に立ち尽くす方谷の姿があった。
「私の……不徳の致すところにございます」
方谷は、その責を一身に負った。ほどなく、城下の松連寺にて一月の謹慎を命じられることとなった。
寺の一室に籠り、方谷は焼け落ちた藩校の姿を、幾度も思い返した。
(積み上げてきたものが、一夜にして崩れ去ることもある)
その思いは、苦く、重かった。だが同時に、この謹慎の日々の静けさの中で、方谷はこれまで駆け抜けてきた歳月を、初めてじっくりと省みる機会を得たのかもしれない。
---
⭐︎⭐︎⭐︎ 第十四幕 伝習録
謹慎ののち、天保二年七月。方谷は藩からふたたび京都遊学の許しを得た。三度目となる、寺島白鹿の門である。
この頃すでに二十七であった。幼き日より朱子学を学び続けてきた方谷であったが、学びが深まるにつれ、その教えに対する疑いを、胸の内に抱くようになっていた。
天保四年の秋、方谷は一冊の書物と出会う。
「――王陽明の、『伝習録』」
繰り返し読み込むうち、方谷はそれまでとは異なる思想の地平に触れることとなった。知ることと行うこと、その二つを分かたぬ「知行合一」の教え。書物の頁を繰る手が、幾度も止まった。
「これは……」
朱子学が説く理と、目の前で日々起こる現実との間に、方谷はかねてよりある種の隔たりを感じていた。理を極めることと、実際に世の中を動かすこととの間にある、埋めがたい溝。陽明の説く教えは、その溝に橋を架けるもののように思われた。
同年十二月、さらなる学びを求め、方谷は藩からの許しを得て江戸へと向かうこととなる。だが、その道中、故郷からの便りが届いた。
「大飢饉にて、親族一同、困窮しております。どうか、ご帰郷を――」
文を読む方谷の手が、震えた。しばらく黙考した後、方谷は筆を執り、返事をしたためた。
「今は、学問に専心したい。必要とあらば、家財や田畑を処分してでも、しのいでほしい」
短く、しかし迷いのない文字であった。この返信を書きながら、方谷の脳裏に何が去来していたか、それを知る術はない。ただ、かつて母が病床で口にしたという戒め――家の再興を果たしながらも、時代の勢いに乗って走りすぎてはならぬという、あの言葉が、なお胸の底に息づいていたかどうか。学問への一途さと、両親から託された志との間で、方谷が何かを量り続けていたことだけは、想像に難くない。
天保五年一月、方谷は佐藤一斎の門下に入った。一斎の私塾で、方谷はめきめきと頭角を現し、やがて塾頭に推されるまでになる。後に入門してきた佐久間象山とともに、「佐門の二傑」と並び称せられる日も、遠くはなかった。
九名村の裏山で、幼き日に見た油菜畑の黄色い波は、もはや遠い記憶であったろう。だが、その景色を胸に宿したまま歩み続けた一人の少年が、やがて備中松山藩の財政を立て直し、「備中聖人」とまで呼ばれる日が来ることを――この頃の方谷自身、まだ知る由もなかったに違いない。
---
⭐︎⭐︎ 第二部 藩政改革
⭐︎⭐︎⭐︎ 第十五幕 牛麓舎
天保七年(一八三六年)正月、方谷は大小姓格に昇った。九月には藩主・板倉勝職の参勤の列に供奉して松山へ帰り、十月には藩校・有終館の学頭に任じられ、御前丁に新たな屋敷を賜った。
屋敷の廊下を歩きながら、方谷はふと足を止めることがあった。
(九名村の、あの土間とは、ずいぶん違うものだな)
農家の子であった頃の面影を知る者は、もはや少なくなっていたかもしれない。だが、方谷自身の胸の内には、幼き日に見た九名村の景色――裏山を染めた油菜の花の色が、なお色褪せずに残っていた。
天保九年、方谷は私邸内に私塾を開いた。名を「牛麓舎」という。
「先生、入門を願います」
噂を聞きつけた者たちが、次々と門を叩いた。武家の子弟だけではない。農家の倅も、商家の息子も、分け隔てなく方谷はその門をくぐらせた。
「先生は、なにゆえ身分を問われぬのですか」
ある門人が問うたことがあった。方谷は静かに答えた。
「学問に、身分の貴賎などない。かつて私も、油を搾る農家の子であった」
その言葉に、門人は目を見開いた。
門人の数は、たちまち数十人に膨れ上がった。この塾からは、のちに方谷の改革を支えることになる三島中洲、進鴻渓といった人材が育っていくこととなる。
---
⭐︎⭐︎⭐︎ 第十六幕 若き世子
弘化元年(一八四四年)、桑名松平家より板倉家の養嗣子として迎えられていた勝静が、初めて松山への国入りを果たした。
「方谷、そなたに、勝静様への御進講を頼みたい」
有終館の前学頭・奥田楽山とともに、方谷は隔日で若き世子に経書を講じることとなった。領内巡視にも同行し、道すがら、勝静はしばしば方谷に問いを重ねた。
「方谷、この村の実り具合を、そなたはどう見る」
まだ年若い世子のその問いに、方谷は一つ一つ丁寧に答えた。単なる書物の知識にとどまらず、目の前の田畑の現実を踏まえた答えに、勝静は幾度も感心の色を浮かべたという。
弟に宛てた手紙の中で、方谷は勝静の学問への精励ぶりと、みずからを律する姿勢への賛辞を綴った。
「勝静様は、まことに稀有な御方じゃ。あの若さで、みずからを厳しく律することができる御人は、そうはおらぬ」
この頃より、勝静もまた、方谷に厚い信頼を寄せるようになっていった。師弟とも、主従ともつかぬ、深い結びつきが二人の間に育まれていったのである。
弘化四年、方谷は三島中洲を伴って津山藩を訪れた。一月にわたる滞在の中で高島流砲術を学ぶ一方、津山藩士たちには王陽明の『古本大学』を講じた。
「学問と、砲術と……先生は、何を学ばれておいでなのですか」
三島中洲が問うと、方谷は笑って答えた。
「どちらも、同じことよ。世の中をよくするための手立てを学んでおるのじゃ」
松山に帰るとすぐ、方谷は大砲を鋳造させ、藩士たちに西洋砲術を伝えた。学問と実務とを分かつことのない、方谷らしい歩みであった。
嘉永二年(一八四九年)、勝静は江戸で藩主の座に就いた。同じ年の八月、方谷をかつて士分に取り立ててくれた恩人、前藩主・板倉勝職が、江戸で病没した。
訃報を受けた方谷は、しばらく言葉を失っていたという。
(勝職様……あなた様のおかげで、この身がございました)
恩人の死と、新たな藩主の誕生を見届けた方谷は、ある決意を固め、江戸の勝静に隠居を願い出た。
---
⭐︎⭐︎⭐︎ 第十七幕 狂歌
だが、勝静は方谷を隠居させはしなかった。
「方谷、そなたに頼みがある」
嘉永二年十一月、江戸へ召し出された方谷を前に、勝静は改まった調子で告げた。
「藩の財政を、そなたに任せたい。元締役、およびその補佐にあたる吟味役を兼ねてもらいたいのじゃ」
方谷は、しばし絶句した。
「勝静様……私は、農民の出にございます。財政の全権を担うなど、あまりに――」
「出自など、この際どうでもよい。そなたの学問と誠実さを、私は誰よりも見てきた」
「しかし……」
方谷はなおも固辞した。だが、勝静の重ねての説得に、ついに引き受けるところとなった。
この人事は、藩士たちの間に驚きをもって迎えられた。江戸の松山藩邸では、揶揄する狂歌が流行ったという。
山だしが 何のお役に たつものか へ曰くのやうな元締
山出し――田舎者の儒者である山田氏が元締になったところで、何ができるものか。そう笑う声であった。
御勝手に 孔子孟子を 引き入れて なほこのうへに 唐にするのか
御勝手(藩の財政)に孔子や孟子を持ち出す儒者を引き入れて、この上さらに事態を悪化――唐(空)にするおつもりか。勝静その人を難じる歌も、あわせて詠まれたという。
こうした歌が、江戸の藩邸内で幾度となく口の端に上り、方谷の耳にも届いていたであろうことは想像に難くない。ある夜、供の者がそっと耳打ちしたことがあった。
「先生……巷では、あのような歌が」
方谷は苦笑した。
「聞いておる。山出しの儒者、か。まことに、その通りではないか」
「先生、お腹立ちにはなりませぬのか」
「腹を立てて、何が変わる。歌を詠む暇があるなら、その者たちにも帳簿の一枚でも繰らせてみたいものじゃ」
そう言って、方谷はまた静かに書見に戻ったという。だが、その胸の内に何も去来しなかったわけではあるまい。ただ、それに動じる風もなく、方谷はやがて黙々と、松山への帰途についた。
その道中、方谷は独り言のように呟いたという。
「言わせておけばよい。結果で示すまでのことじゃ」
---
⭐︎⭐︎⭐︎ 第十八幕 十万両の闇
帰国した方谷は、ただちに藩の財務状況の洗い出しにかかった。帳簿を繰る手が、次第に重くなっていく。
「これは……」
調べが進むにつれ、明らかになったのは、想像を超える窮状であった。
年々の会計は先送りにされ続け、飢饉や不時の出費のたびに借財を重ね、その返済のためにさらに借財を重ねるという悪循環が、幾年も続いていた。元本だけで十万両を超える負債。藩士の俸禄の借り上げや、年貢の臨時徴収が常態と化していた。
「表向き五万石とされてきたが……実収は、一万九千石余りに過ぎぬ」
方谷は帳簿を前に、深く息を吐いた。これまでの元締役たちは、この実情を債権者に隠し続けたまま、借財を重ねてきたのであった。
嘉永三年三月、松山に帰国した勝静は、みずから藩政改革の大号令を発した。
「改革に異を唱える者、背信を働く者は、厳罰に処す。方谷への誹謗中傷も、これを固く禁じる」
藩全体に倹約令が布かれた。藩士の俸禄を年月を定めて減じ、身分に応じた衣服・装飾の制限を設け、奢侈を戒め、役人が領民から賄賂や接待を受けることも固く禁じられた。
---
⭐︎⭐︎⭐︎ 第十九幕 大坂の帳場にて
方谷が選んだ道は、藩の窮状を隠すことではなかった。あえて、正直に明かすことであった。
財務の実情をまとめた報告書を、勝静と藩の上層部に提出し、危機的な状況をありのままに示す。そのうえで、方谷はみずから大坂へ赴いた。
集まった債権者たちを前に、方谷は帳簿の内容を包み隠さず並べた。
「ご覧の通りにございます。松山藩の財政は、まことに苦しい状態にございます」
債権者たちのどよめきが広がる。ある者は色をなして声を荒げた。
「それで、我らへの返済はどうなるのじゃ!」
方谷は動じず、静かに続けた。
「十年、いや五十年という長期にわたり、返済の延期をお願いしたい。その間に財政を立て直し、産業を興し、そこから得る利益によって、必ずやお返しいたす」
一同は顔を見合わせた。
「儒者風情に、そのようなことができるのか」
「しかし……この者の目には、嘘がない」
方谷が示した再建の見通しは、綿密かつ具体的であった。やがて債権者たちは、渋々ながらも、その提案に頷いていった。
改革の手始めに、方谷は大坂の蔵屋敷を廃止した。それまで蔵役人と米問屋との癒着によって、多くの損失が生じていたのである。廃止によって年に千両もの維持費が浮き、借財の形に取られていた年貢米も藩の手に戻ってきた。
取り戻した米は、領内四十か所の貯倉に納められた。相場を見ながら藩みずからが取引を行うことで、年に三千から六千両の利益を生むようになったという。貯倉はまた、飢饉の折には民に米を配る義倉としての役目も果たした。
---
⭐︎⭐︎⭐︎ 第二十幕 相生町の鉄
備中北部は、古くより良質な砂鉄を産することで知られた土地であった。
「この地の力を、眠らせておくには惜しい」
方谷は領内の鉄山・銅山の開発を藩の直営とし、高梁川を挟んだ近似村に製鉄の工場を次々に建てた。この地を「相生町」と名づけた。
工場から響く槌の音を聞きながら、方谷は満足げに頷いた。
「三本歯の鍬か……これは、土を深く耕せるとの評判じゃな」
備中鍬は、たちまち名産となった。
山野には杉や竹、漆、茶が植えられ、葉煙草や檀紙、ゆべしといった従来の特産品の増産も奨められた。とりわけ煙草は「松山刻」の名で知られるようになる。
「これらの品を、商人の手を通さず、直に江戸へ運べぬものか」
方谷はそう考え、特産品の専売を担う役所「撫育所」を新設した。集められた産物は、高梁川を下って玉島港から藩の廻船に積まれ、大坂を経ずに直接江戸へと運ばれた。中間の商人による搾取を避けるためであった。
専売の利益は、開始から三年目の嘉永五年には一万両を超え、翌年には五万両に迫るまでになった。負債の返済は前倒しで進み、道や川の整備も進んだ。
「利益を、藩だけで独占してはならぬ。生産者にも、正当な対価を払うのじゃ」
方谷のこの方針により、領内の暮らしは潤い、旅人がその佇まいだけで松山領に入ったと分かるほどになったという。新田の開発も奨められ、開墾地には租税が免除されたことで、耕地と農村の人口はともに増えていった。
---
⭐︎⭐︎⭐︎ 第二十一幕 藩札を焼く日
各地の藩が独自に発行していた藩札は、本来は正貨と引き換えられるべきものであった。だが財政の逼迫した藩では、その準備金がしばしば流用され、藩札の乱発が繰り返された結果、その価値は紙切れも同然となっていた。
松山藩の五匁札もまた例に漏れず、偽札まで出回るほど信用を失っていた。
嘉永三年、方谷は藩札の発行を止めた。
「三年の期限を切って、市中に出回るすべての五匁札を、額面どおりに買い取る」
その触れに、領民は半信半疑であった。だが方谷は約束を違えず、未発行の分も併せて、金に換算して一万一千両を超える額を藩の手に集めていった。
嘉永五年九月五日。近似川原に、人々が集まっていた。
「今日、買い集めた藩札のすべてを、この場で焼き払う」
方谷の宣言に、藩士や領民が固唾を呑んで見守った。朝の八時頃、火が放たれる。紙の山は瞬く間に燃え上がり、黒い煙が空へと立ち上っていった。
方谷は、その場を一歩も動かず、燃え上がる炎を見つめ続けた。夕方の四時頃、すべてが灰と化すまで、方谷はその場に立ち会い続けたという。
「これで……この地に、新しい信用を築くことができる」
炎を見つめる方谷の目に、かつて九名村の裏山で見た、あの油菜畑の黄色い波が、重なって見えていたのかもしれない。
藩札のすべてを処分したのち、方谷は専売の利益の一部を積み立てて両替の準備金とし、「永銭」と名づけた新しい藩札を発行した。この新しい札はたちまち厚い信用を得て、松山藩内はもとより、近隣の藩の領内でも通用するようになった。
安政四年には十万両の負債が完済され、さらに十万両の余剰まで蓄えるに至った。当時の松山藩の財力は、表向きの石高をはるかに超える二十万石以上とまで評されるようになったという。
---
⭐︎⭐︎⭐︎ 第二十二幕 鍬と鉄砲
改革にあたり、藩士たちには倹約とともに文武の鍛錬が奨められた。銃砲を主体とする洋式の軍制も試みられたが、山深い内陸の松山藩では、外国への危機意識は薄く、旧来のやり方に拘る藩士たちの間に、なかなか受け入れられなかった。
「武士だけでは、足りぬ」
方谷はそう見切りをつけた。代わりに選んだのは、領内人口の八割を占める農民を軍の主体とする、農兵の制であった。
「里正の子弟から、屈強な者を選べ。洋式歩兵の訓練を施し、帯刀を許して指揮官に育てる」
猟師を集めて銃隊を編成し、農閑期には若者たちに射撃の訓練を課した。
年に一度、松山城下に農兵を集めて行われた大がかりな演習には、他国からも見物人が訪れた。長州藩士・久坂玄瑞もその一人であった。
「これは……とても我が藩の及ぶところではない」
久坂は演習を見て、そう感嘆したと伝えられる。この農兵の構想は長州へ持ち帰られ、のちに高杉晋作の奇兵隊にも影響を与えることとなった。
山国ゆえに入り組んだ地形を持つ松山藩では、城下を守る要となる山間の土地の多くが未開のままであった。方谷は倹約令で困窮していた下級藩士たちをそこへ移住させ、平時には開墾に従事させて収穫には租税を免除するという、防衛と救済とを兼ねた制度を発案した。
「武士の身分を奪われるのではないか」
当初はそうした誤解から反発も受けた。だが、やがて実入りの良さが知られるようになると、移住を望む者が続出するようになったという。この仕組みは、のちに明治政府が北海道の開拓に用いた屯田制の先駆けであったとも言われている。
安政二年には津山藩から泳法の師を招き、城下郊外に水泳場を設け、六十歳以下の藩士すべてに泳法の稽古を義務づけた。文久二年には、アメリカ製のスクーナー船を買い入れ、「快風丸」と名づけた。平時は物資の輸送に、非常時には軍艦としても用いられるよう整えられていたという。
方谷はまた、庶民の教育にも力を尽くした。城下や飛地に「教諭所」と呼ばれる学校を設け、藩校・有終館の会頭が交代で出向いて講義を行い、庶民の出身者が助教を務めた。成績の優れた生徒には、士分への道さえ開かれていたという。
ある日、教諭所を訪れた方谷は、農家の子と思しき生徒が、真剣な面持ちで書物に向かう姿を目にした。その姿に、かつての自分自身の面影を重ねたのかもしれない。
「励めよ。学問に、身分の貴賎はない」
そう声をかけると、方谷は静かにその場を後にした。
かつて九名村で、油の桶を天秤棒に担いだ父の後ろ姿を見送っていた幼子は、いま、藩の内に鉄を興し、鍬を作り、農兵を育て、庶民の子に学問の門を開く一人の為政者となっていた。
学問とは、世の中をよくする手立てである――幼き日、丸川松隠から授けられたその教えは、ここに至って、ようやくその全貌を現しつつあった。もっとも、これらの改革は数年、時に十数年をかけて積み重ねられたものであり、この先に語られる参政としての日々や、幕末の動乱の中でも、なお続けられていくことになる。
---
⭐︎⭐︎ 第三部 参政としての日々
年々の改革を積み重ねてきた方谷であったが、ここでふたたび、年月を追って、その歩みを見ていくこととしよう。
⭐︎⭐︎⭐︎ 第二十三幕 生神
嘉永六年(一八五三年)、備中松山は深刻な干ばつに見舞われた。
「田が……田が、干上がってしまう」
領内のあちこちで、そんな声が上がっていた。青々と茂るはずの稲が、力なく項垂れている。
方谷は、すぐさま動いた。
「貯倉を開け。困窮する零細の農民たちに、米を配るのじゃ」
かねて備えていた義倉の米が、次々と村々へ運ばれていった。役人の一人が、恐る恐る方谷に問うたことがあった。
「先生……このように放出しては、来年以降の備えが」
「今、目の前で飢えておる者を救わずして、何のための備えか」
方谷の答えは、迷いのないものであった。この措置により、松山領内では一人の餓死者も出さずに済んだと伝えられる。
事態が落ち着いたのち、ある村を巡視していた方谷は、一軒の農家の前で足を止められた。
「お役人様……いえ、方谷様」
老いた百姓が、地に膝をつかんばかりに頭を下げた。
「あなた様のおかげで、わしらは生き延びることができました。あなた様は、この村の生き神様にございます」
「よさぬか。私は、なすべきことをなしたまでじゃ」
方谷はそう言って、その場を立ち去ろうとした。だが、村々では、方谷を祀る小さな祠を建てる動きが、すでに始まっていたという。
かつて九名村で、油の桶を担いで村々を行商して歩いた父の姿を見送っていた子が、いまや一国の民に祀られる身となっていた。この報せをどのような思いで方谷が受け止めたか、記録に残るものは多くない。ただ、飢えた者に米を配るというその行いは、幼き日、貧しさの中で学問を求め続けた自身の来し方と、決して無縁ではなかったろう。
---
⭐︎⭐︎⭐︎ 第二十四幕 参政
翌安政元年(一八五四年)、方谷は藩政の実質的な頂点である参政の地位に就いた。改革の開始から五年、藩の財政が回復の兆しを見せ始めていた。
「勝静様。改革も、ここまで参りました。今こそ、民と藩士とに報いる時にございます」
方谷は藩主・勝静に三つの策を献じた。
「倹約令で減じてきた藩士の俸禄を、もとに戻しましょう。重い年貢に苦しんできた村々への救済も図らねばなりませぬ。そして、藩の蓄えを町人に貸し出し、交易を盛んにいたしましょう」
勝静は、方谷の顔をじっと見つめた。
「方谷、そなたはこれまで、あれほど厳しい倹約を課してきたではないか。今になって、なぜ」
「倹約は、目的ではございませぬ。すべては、この地に生きる者たちが、いずれ豊かになるための道筋にございました」
勝静は深く頷いた。方谷の改革が、単なる緊縮ではなかったことを、この時あらためて実感したのかもしれない。
安政二年十月、江戸を大地震が襲った。松山藩の江戸屋敷も被害を受けたが、日頃方谷が誠実に向き合ってきた江戸・大坂の両替商たちから、思わぬ寄付が寄せられた。
「先生が、これまで正直にわしらと向き合ってくださったゆえに」
そう言って差し出された金子により、屋敷は早期に再建された。信を積み重ねてきた歳月が、思わぬところで実を結んだのであった。
---
⭐︎⭐︎⭐︎ 第二十五幕 寺社奉行の座
この頃、勝静は幕閣への道を歩み始めていた。
安政四年、江戸から一通の手紙が届いた。
「勝静様に、寺社奉行就任の打診が――」
方谷は、その文を幾度も読み返した。
(幕府の重職に就けば、就任の礼金、交際費、役所の運営費……藩財政が、ふたたび圧迫されかねぬ)
方谷は難色を示す返書をしたためた。だが、頭から拒んだわけではなかった。
「賄賂を用いずとも、就任の命が下るのであれば、それは天の命。避けるべきではございませぬ」
そうも書き添えたという。
だが、この一件は国元の藩士たちの間に、思わぬ不満を呼び起こした。
「方谷は、殿の出世の機会を潰そうとしておる」
倹約令に耐えてきた上級藩士の中から、そんな声が上がった。下級藩士の移住策を「武士の身分を奪われる」と誤解する者たちの反発も、なお燻り続けていた。
「方谷を、闇討ちにすべきではないか」
そうした噂すら、まことしやかに囁かれるようになったという。改革者が常に払わねばならぬ代償であったのかもしれない。
この頃、藩命で松山を訪れた会津藩士・南摩綱紀は、勝静と方谷の改革を評価しつつも、こう漏らしたと伝えられる。
「これほどまでに急進的な改革は、いずれ大きな反動を招くやもしれぬ」
同年八月、方谷の助言に従い猟官を控えていた勝静に、寺社奉行就任の命が下った。方谷の改革が、幕府にも評価された結果であった。
方谷は祝いの手紙を送るとともに、老齢と改革の目途がついたことを理由に、隠居を願い出た。
「藩士の移住策への反感を和らげるためにも、私自身が土地を得て帰農いたしとうございます」
勝静はしばらく参政の留任を求め、結局、元締役の兼務のみを解くという妥協案を示した。方谷はこれを受け入れた。後任の元締役には、方谷の弟子であり板倉家譜代の大石隼雄が就くこととなった。
安政五年九月、安政の大獄が始まった。寺社奉行であった勝静も、その取り調べに関わることとなる。
国元の方谷は、志士たちへの温情ある処置を献策した。
「厳罰のみが、正しき道とは限りませぬ。寛大な処置をこそ」
勝静もこれを容れ、寛大な処分を主張した。だが、これが大老・井伊直弼の不興を買った。翌年二月、勝静は寺社奉行を罷免されることとなる。
その報せを受けた方谷は、しばらく黙したのち、静かに呟いたという。
「正しきことを為して罰せられるならば、それもまた、一つの道であろう」
---
⭐︎⭐︎⭐︎ 第二十六幕 長瀬の草庵
安政六年四月、方谷は勝静の許しを得て、松山城下から十一キロほど離れた長瀬の地に移り住んだ。
この土地に目をつけたのは、移住の二年前のことであった。「長瀬」という地名も、方谷みずからが名づけたものであったと伝えられる。すでにその翌年には「無量寿庵」と名づけた草庵を、この地に構えていた。
「先生、なにゆえこのような山間の地を」
門人の一人が問うと、方谷は答えた。
「新見藩領から松山へ攻め入る敵を迎え撃つには、この地がふさわしい。それに……」
方谷は、遠く山並みを見渡した。
「静かなところで、己を省みたい歳になった、ということもあろうな」
参政の職はそのままに、方谷は月の半分を松山城下の別邸で政務にあて、残りの半分を長瀬で過ごす生活を続けた。禄高はさほど高くなく、多忙を理由に断り続けてきた入門希望者を迎えるための大きな屋敷まで構えたこともあり、この頃の山田家の家計は、決して楽なものではなかったという。
同年七月、長瀬の草庵に、一人の若者が訪れた。
「越後長岡藩士、河井継之助と申します。先生に、弟子入りをお願いしたく参りました」
方谷は、この若者をすぐには受け入れなかった。半月ほどの時をかけて、じっとその人物を見定めた。
継之助は、その間も草庵に留まり続け、方谷の日々の振る舞いを、黙って見つめていたという。
やがて方谷は、静かに告げた。
「継之助、そなたの入門を許す」
継之助への教えは、机上の講義に留まらなかった。方谷や門弟たちとの対話に加え、教諭所や藩士たちの入植地を見学させ、松山を訪れた他藩の士たちとも交流させた。
「先生、なにゆえこれほどまでに、外へ連れ出されるのですか」
継之助が問うと、方谷は答えた。
「書物だけでは、学問は死んだものになる。目で見て、人と語り、初めて学びは生きたものとなるのじゃ」
継之助は、その言葉を深く胸に刻んだという。
方谷が江戸へ召し出された間、継之助は一旦九州・四国を遊歴した。その年の暮れ、継之助は再び長瀬の方谷宅に住み込むことを許され、翌万延元年四月まで、この地で師の教えを受け続けた。
夜、長瀬の草庵で、方谷は継之助と語り合うことがあった。
「継之助、そなたはいずれ、故郷に帰り、藩のために働くことになろう」
「はい」
「その時、忘れるでないぞ。学問とは、己一人の栄達のためにあるのではない。世の中をよくするための手立てじゃ」
継之助は、深く頭を下げた。かつて丸川松隠から授けられたこの言葉を、方谷は今、遠く越後から来た若者へと、確かに手渡していたのである。
九名村の裏山から見た油菜畑の景色を胸に、貧しさの中で学問を求め続けた一人の少年が、いまや遠く越後の若者を迎え、みずからの学びを分かち合う齢になっていた。
---
⭐︎⭐︎ 第四部 政治顧問として
⭐︎⭐︎⭐︎ 第二十七幕 愛宕山の喀血
桜田門外の変で井伊直弼が斃れた翌年、文久元年(一八六一年)二月。勘定奉行に再任された勝静は、方谷を伴って江戸へ上った。
「方谷、そなたには、私の政治顧問として働いてもらいたい」
勝静の言葉に、方谷は静かに頭を下げた。齢すでに五十七。かつて九名村で搾油の臼を回していた少年は、いまや幕政の中枢近くに身を置く老臣となっていた。
だが、その務めが始まって間もない三月のある日、方谷は愛宕山近くの路上を歩いていた。
「……ぐ」
不意に、喉の奥から込み上げるものがあった。方谷はよろめき、地に膝をついた。
「先生!」
供の者が駆け寄る。方谷の口元から、赤いものが滴り落ちていた。
「大事ない……大事ない」
そう言いながらも、方谷の体はぐったりと崩れ落ちた。長年にわたる激務が、この頃すでに身の内を蝕んでいたのであった。
一月ほどの静養ののち、病がひとまず落ち着いたのを見て、方谷は松山へ帰った。湯原温泉に湯治に赴き、湯煙の中で、方谷はしばし目を閉じた。
(学問と実務とに、生涯をかけてきた。この体も、もはや若い頃のようには効かぬ)
だが、政の場から退くという考えは、方谷の中には浮かばなかった。
---
⭐︎⭐︎⭐︎ 第二十八幕 勅使、江戸へ
文久二年三月、勝静は老中へと異例の昇進を遂げた。病の癒えた方谷もまた、四月に江戸へ上り、ふたたび勝静の側近としての務めに戻った。
六月、勅使・大原重徳が、島津久光の率いる薩摩藩兵に守られて江戸へ下った。
「島津の兵に守られての下向とは……朝廷も、いよいよ本気と見える」
老中として交渉にあたる勝静の傍らに、方谷は常に控えていた。人前に出ることの少ないその姿を、大原重徳は見逃さなかったという。
京の岩倉具視に宛てた手紙の中で、大原はこう記したと伝えられる。勝静その人は凡庸な人物であり、格別の見識があるとも見えない。だが、その傍らに控える山田安五郎――方谷は、表立って動くことこそないが、なかなかの人物であり、勝静の意見はおおむねこの者から出ているのではないか、と。
交渉の結果、徳川慶喜が将軍後見職に、松平春嶽が政事総裁職に就くこととなった。だが、その夜、方谷は弟子への手紙に、こう綴った。
「交渉は、思うようには運ばなんだ。外様大名の勢いに、驚かされるばかりであった」
筆を持つ手に、隠しきれぬ疲労がにじんでいた。
十月、朝廷はふたたび三条実美らを勅使として送り、幕府に攘夷を迫った。
「勝静様。誠心を第一に、鎖国であれ開国であれ、いったん定めたことは速やかに実行すべきにございます」
方谷は意見書をしたため、勝静に提出した。優柔不断が、いかなる混乱を招くか――方谷はそれを、誰よりも案じていたのであろう。
十一月、将軍・徳川家茂への謁見が許された。方谷はその御前で、静かに、しかし明確に述べた。
「事ここに至っては、速やかな攘夷の実行をおいて他にございませぬ」
十二月、勝静は方谷を年寄役に任じ、大事あらば必ず参与するようにと申し付けた。この時、方谷は家督を養子・耕蔵に譲った。
「もはや、隠居の扶持を受ける身となった、ということじゃ」
政の中枢に身を置きながらも、家においては、すでに次の世代へと道を譲る支度を、方谷は静かに整えていたのであった。
---
⭐︎⭐︎⭐︎ 第二十九幕 攘夷という幻
文久三年二月、方谷は勝静に迫った。
「勝静様。老中職を、お辞めくださいませ」
「……分かった。約束しよう」
その約束を取りつけ、方谷は松山へ帰った。だが三月、将軍・家茂の上洛に伴い、勝静もまた老中として随行することとなる。四月、方谷はふたたび京都へ召され、三度目となる顧問の任についた。
朝廷の圧力を受けた幕府は、五月十日をもって攘夷を実行すると約束させられた。だが、当日になっても、幕府は何ら行動を起こさなかった。
「……これは」
方谷は、その報せを受けて、深く息を吐いた。約束したことを、いざとなれば果たさぬ。その場しのぎの態度に、方谷は深く失望した。
ふたたび勝静に老中辞任を迫り、勝静も一度はこれを承諾した。だが、家茂に説得され、辞意を撤回した。
方谷は六月、顧問の任を辞して松山へ帰国した。長瀬の屋敷に籠り、老いと病を理由に、出仕さえも拒んだという。
夜、無量寿庵の一室で、方谷は独り、行灯の灯りを見つめていた。
(理想を説いても、現実はそれとは違う方へ流れていく)
理想と現実の隔たりに、この頃の方谷がどれほどの無力感を抱いていたか、記録の多くを語るものはない。だが、長瀬の草庵にひとり籠る老臣の胸中には、幼き日、母から諭されたという戒めが、あるいは静かに去来していたのかもしれない。
――時代の勢いに乗って走りすぎては、つまずきます。
その言葉を、方谷は静かに反芻していたのであろうか。
元治元年(一八六四年)六月、攘夷の不履行や生麦事件の賠償問題で家茂の不興を買った勝静は、老中を罷免され、第一次長州征討の先鋒を命じられて松山に帰った。
方谷もまた、藩政に復帰した。勝静出陣の後、松山の兵権を預かり、本陣の置かれた頼久寺に入った。
「先生、我が藩兵の練度は、他藩に劣りませぬ」
かねて整えてきた洋式装備の松山藩兵は、他藩を圧倒する練度を誇っていた。だが、長州藩が戦わずして幕府に恭順したため、戦闘に及ぶことはなかった。
「戦わずに済むのであれば、それに越したことはない」
方谷は、そう呟いたという。
---
⭐︎⭐︎⭐︎ 第三十幕 三つの策
慶応元年十月、勝静はふたたび老中に任じられた。翌慶応二年に始まった第二次長州征討では、薩長同盟によって最新式の装備を得ていた長州軍の前に、幕府軍は大敗を喫した。さらに、将軍・家茂までもが世を去った。
長瀬の屋敷に、早馬が駆け込んだ。
「勝静様より、火急の書状にございます!」
方谷は文を開いた。事の次第を知らせ、この後どう動くべきかを問う、勝静直筆の書であった。
方谷は、しばらく目を閉じた。それから筆を執り、返書をしたため始めた。
「三つの策を、お示しいたす」
一つ。徳川慶喜を新たな将軍とし、開国の政策を進め、長州や他の雄藩をも迎え入れて幕府の体制を一新する。これを「大挽回」の策とする。
二つ。慶喜がこれを固辞した場合には、代わりに前尾張藩主・徳川慶勝を将軍とし、長州と直接交渉して寛大な条件のもとで休戦へ導く。これを「小挽回」の策とする。
三つ。幕府が過剰に寛大な条件を示したり、朝廷や他の大藩に調停を委ねたりすれば、幕府はいよいよ軽んじられ、大乱を招くであろう。
「これを……『一時姑息』と呼びましょう」
方谷は、この三つ目の策に、みずから最大の愚策であるとの断りを付した。
「最も避けるべき道を、あえて示しておかねばならぬ」
そう独りごちながら、方谷は文を封じた。
事態は、幕府が朝廷から停戦の勅命を引き出し、九月に幕府と長州との間で停戦が成立するという、方谷が「一時姑息」と呼んだ道に近い結末をたどった。
理想の策を示しながらも、現実がそれとは異なる方へ流れていくのを、方谷は幾度となく見届けねばならなかったのであろう。長瀬の庭先に立ち、方谷は遠くの山並みを見やりながら、深く息を吐いた。
(すべてが、思うようには運ばぬ。それでも――)
---
⭐︎⭐︎⭐︎ 第三十一幕 深夜の密書
慶応三年六月、方谷は勝静に召されて、再び京都に上った。だが八月には、松山へ帰った。すでに齢六十三。長旅は、この老臣の体に、以前にも増して重くのしかかっていた。
十月十二日の夜半。長瀬の屋敷の戸を、激しく叩く音がした。
「先生! 京より、密書にございます!」
方谷は寝所から起き出し、震える手で文を開いた。
――将軍・慶喜殿、大政奉還を決意せられ候。その上奏文の文案を、至急お考えいただきたく。
文字を追う方谷の手が、止まった。
(大政奉還……ついに、この日が来たか)
二百数十年続いた武家の世が、終わろうとしている。その報せを前に、方谷はしばし瞑目した。それから、静かに硯に向かった。
行灯の灯りの下、方谷の筆が、紙の上を走り始める。夜が更けても、その手は止まらなかった。
明け方近く、方谷は文案を書き上げた。
「これを、急ぎ京都へ」
早馬が、闇の中を駆けていった。
この文案は慶喜自身の手で清書され、十月十四日、朝廷へと上奏されたという。もっとも、この大政奉還上奏文の起草者については、従来より幕臣・永井尚志が実務にあたったとする説が学術的にも有力視されており、方谷がその原案に関わったとする見方は、一部の資料や証言に基づくものにとどまり、確証があるとまでは言えない。ただ、方谷が急ぎ認めたという文案と、実際に上奏された文とが、その骨子において近しいものであったと伝えられていることは、確かである。
長瀬の草庵で、一人の老臣が夜を徹して筆を執っていた、あの夜。もしその文言が、二百数十年続いた武家の世の終わりに、いくばくかの形で立ち会っていたのだとすれば――
それは、九名村の貧しい農家に生まれ、幼き日、客人の問いにただ一人「治国平天下」と答えた少年の歩みの、一つの到達点であったのかもしれない。
夜明けの光が、長瀬の草庵にも差し込み始めていた。方谷は文机の前に座ったまま、しばらく動かなかった。窓の外には、まだ夜露の残る山々が、静かに横たわっていた。
---
⭐︎⭐︎ 第五部 戊辰戦争と藩の再興
⭐︎⭐︎⭐︎ 第三十二幕 消えた藩主
明治元年(一八六八年)正月三日、鳥羽・伏見に戦端が開かれた。
「旧幕府軍、敗れる――」
その報せが松山に届いた時、方谷は長瀬の屋敷で、しばし言葉を失っていたという。
一月六日深夜、徳川慶喜は大坂城を脱し、軍艦・開陽丸で江戸へと逃れた。老中であった勝静は、護衛の熊田恰ら百五十名の松山藩士に帰国を命じたのち、みずからは慶喜に同行し、以後、消息を絶ったと伝えられる。
「殿は……いずこに」
家臣たちの間に、動揺が広がった。方谷のもとにも、次々と不穏な報せが届いた。
戦いの直後、勝静は慶喜、松平容保・定敬兄弟に次ぐ第三等の朝敵とされた。岡山藩をはじめとする中国地方の諸藩に、松山藩を討つべしとの勅命が下ったのである。
「征討総督・伊木忠恭の軍勢が、すでに国境に迫っております」
その報せをいち早く得た方谷は、間を置かず動いた。
「冬季演習の名目で、農兵隊を総動員せよ。国境を固めるのじゃ」
かねて鍛え上げてきた農兵たちが、次々と国境へ展開していった。洋式の銃砲を備え、他藩を圧倒する練度を誇る松山藩兵であった。それを率いて戦うことも、あるいは可能であったかもしれない。
だが、城に重臣たちを集めての協議の場で、方谷は静かに口を開いた。
「戦うてはならぬ」
「先生……しかし、我らの兵は」
「兵の強さを誇るためではない。この地の民と家臣とを、生かすために、これまで力を蓄えてきたのではなかったか」
一同は、押し黙った。
「城を明け渡す。降伏し、開城するのじゃ」
その結論に、異を唱える者はなかった。城下には、藩を挙げての謹慎が布告された。
---
⭐︎⭐︎⭐︎ 第三十三幕 大逆無道の四文字
一月十四日、大石隼雄、三島中洲、横屋謹之助の三名が謝罪使として、美袋の征討軍本陣へ遣わされた。征討軍は松山藩に謝罪書の提出を求め、その草案を示した。
草案を携えて戻った三島中洲は、方谷のもとへ急いだ。
「先生、これを」
方谷は文を広げた。目を通すうち、その顔色が変わった。
「……大逆無道、とな」
文中に記されたその四文字を、方谷はしばらく見つめていた。やがて、静かに、しかし強い口調で言った。
「これは、容れるわけにはいかぬ」
「先生、しかし相手は征討軍にございます。逆らえば」
「たかが四文字と、思うか」
方谷は三島に向き直った。
「この文言一つが、松山藩とその領民の名誉を、後々までどう伝えるかを決めるのじゃ。子々孫々に至るまで、大逆無道の藩と呼ばれ続けることになる」
「では、いかがなさるおつもりで」
「征討軍に、こう伝えよ。『大逆無道』の四文字を、『軽挙暴動』と改めていただきたい、と」
「もし、容れられなんだ場合は」
方谷は、しばし目を閉じた。それから、静かに、しかしはっきりと告げた。
「そのときは、私が切腹し、藩主に代わって謝罪いたす」
三島は息を呑んだ。
「先生……」
「行け。この老骨の命一つで、藩と領民が救われるならば、安いものじゃ」
三島は、震える手で文をたたみ、征討軍本陣へと引き返していった。
征討軍側もまた、練度と装備に優れた松山軍と事を構えれば苦戦を免れず、また方谷を死なせれば、彼を慕う領民までも敵に回しかねないと判断したのであろう。数日の後、返答が届いた。
「先生、征討軍が、要求を容れましてございます」
「そうか……」
方谷は、深く息を吐いた。安堵とも、疲労ともつかぬ表情であった。
一月十七日、松山城は血を流すことなく明け渡された。城下の藩士は、領民を除いて一時退去することとなった。総督・伊木忠恭は、方谷には「隠居の身」であるとして行動の自由を認め、望む岡山藩士には方谷への入門さえ許すなど、格別の礼をもって遇したという。
明け渡された城を遠く望みながら、方谷は独りごちた。
「城は、失うた。だが、人は失わずに済んだ」
---
⭐︎⭐︎⭐︎ 第三十四幕 行方知れぬ主君
藩士と領民の命を救った方谷であったが、なすべきことはまだ残っていた。行方の知れぬ藩主・勝静と世嗣・勝全の行方を捜し、藩の再興を図らねばならなかったのである。
「勝静様は……どこに」
方谷は幾度も、そう自問したことであろう。だが、勝静らの消息はようとして知れなかった。
やむなく方谷は、一つの決断を下した。
「僧籍に入るため、江戸郊外の小梅村・常泉寺に身を寄せておられる、栄次郎様――第四代藩主・板倉勝政公のお孫にあたられる御方を、新たな世嗣として迎えたい」
方谷の命を受けた目付・川田剛は、ひそかに江戸へ潜んだ。危険を冒しながらの探索の末、川田は栄次郎を見出し、松山へと連れ帰った。栄次郎は板倉勝弼と名を改め、松山藩はこの若者を相続人として、藩の再興を朝廷に願い出た。
その年の十二月、新政府による朝敵諸藩への処分が始まった。だが藩主父子の行方が知れぬ松山藩への処分は、保留とされた。
官軍の支配下で、領民の暮らしは困窮を深めていた。一揆が頻発するようになり、方谷の胸にも、焦りが募っていったであろう。
「殿を……なんとしても、見つけねば」
---
⭐︎⭐︎⭐︎ 第三十五幕 プロシア人の船
同じ頃、勝静が榎本武揚の艦隊とともに蝦夷地にいるとの情報が、松山にもたらされた。
「西郷、そなたに頼みがある」
方谷は、年寄役・西郷熊三郎を呼び、ひそかに蝦夷地へ潜入させた。
「殿に、新政府への自首を勧めてまいれ。それが、殿と藩とを、共に救う唯一の道じゃ」
西郷は、命がけの潜入の末、蝦夷地の勝静のもとへたどり着いた。だが、死を覚悟していた勝静は、頑としてこれを聞き入れなかったという。
「殿は、なお戦い抜くおつもりにございます」
戻った西郷の報告に、方谷は深く眉を寄せた。
(このままでは、殿は……)
やむなく方谷は、別の手を打った。
「松山藩と取引があり、勝静様とも面識のある、プロシア人の商船長ウェーフ殿に、依頼いたす」
一万ドルという、決して安くはない礼金が用意された。
明治二年(一八六九年)四月、ウェーフは陣中見舞いと称して勝静を船に招き入れた。そして、そのまま出港した。
勝静が、自分でも気づかぬうちに救い出されていく――その報せを受けた方谷は、しばらく無言であったという。
五月、江戸に着いた勝静は、家臣たちの説得を受けた。六月、嫡子・勝全とともに新政府に自首し、安中藩へ永預けとされたという。
長瀬の屋敷で報せを受けた方谷は、静かに手を合わせた。
「殿……ご無事で、何よりにございます」
---
⭐︎⭐︎⭐︎ 第三十六幕 高梁の名
九月、松山藩には三万石の減封をもって、勝弼を藩主とする再興が許された。十月、藩の名は高梁藩と改められたと伝えられる。
かつて武士であった山田の家名を興したいという、亡き父母の願いを、方谷はすでに三十九年前、みずからの代において果たしていた。だが、この戊辰の年に方谷が守り抜いたのは、家名というよりも、松山の地に生きる人々の命そのものであったのだろう。
長瀬の草庵の縁側に腰掛け、方谷は遠く山並みを見渡していた。
(父上、母上)
胸の内で、方谷は語りかけた。
(家名は、すでに興しました。ですが、それよりも大切なものを、この歳になって、ようやく知ったように思います)
かつて幼き日、油を売り歩く父の背に従いながら見た、あの村の景色――九名村の裏山を染めていた、油菜の花の黄色い波。方谷はこの時、それを遠く思い出していたかもしれない。
風が、長瀬の庭先を吹き抜けていった。老いた体に、その風は、どこか懐かしいものとして感じられたのではなかったか。
---
⭐︎⭐︎ 第六部 晩年
⭐︎⭐︎⭐︎ 第三十七幕 長瀬塾ふたたび
城を明け渡した後も、方谷の日々は休まることがなかった。長瀬の屋敷に籠りながら、戦後処理や藩再興のための指令を、次々と発し続けた。
だが、その合間を縫うように、方谷はふたたび塾を開いた。
「先生、また門を開かれるのですか」
門人の一人が問うと、方谷は静かに頷いた。
「これからの世を作るのは、政ではない。人じゃ」
その言葉通り、長瀬塾には各地から入門を望む者が押し寄せた。翌年までに、塾舎を六棟にまで増築せねばならぬほどの盛況であったという。
そんな折、江戸――いや、もはや東京と呼ばれるようになったその地から、思わぬ誘いが届いた。
「先生、岩倉様、大久保様、木戸様より、会計局へのお招きが」
新政府に登用された岩倉具視、大久保利通、木戸孝允らは、かつての門人であった三島中洲や川田甕江を介し、方谷を招こうとしていた。
方谷は、しばし文を見つめた。
「有難きお話じゃ。だが……」
「お断りになるのですか」
「わしはもう老いた。病もある。それに」
方谷は、庭先の山並みに目をやった。
「中央の政に身を投じるより、この地に足をつけて、人を育てることを、わしは選びたい」
方谷は、たびたび寄せられるこの誘いを、その都度、丁重に断り続けたという。
明治三年十月、方谷は長瀬の屋敷を養子・耕蔵の一家に譲った。みずからは、高弟で庄屋を務めていた矢吹久次郎の厚意により、阿哲郡小阪部の地に移り住み、新たな塾を開いた。
小阪部塾には、方谷の教えを慕って、全国から数百名もの若者が集ったという。方谷は自塾のみならず近隣の学校でも教壇に立ち、請われれば学校の名づけ親にもなった。
「先生、この学校に、名をいただけませぬか」
そう頭を下げる村の者に、方谷は筆を執り、静かに文字を書き与えたという。
---
⭐︎⭐︎⭐︎ 第三十八幕 閑谷への招き
明治五年正月、板倉勝静の永預が特旨によって解かれたとの報せが、小阪部に届いた。
「殿が……ようやく」
方谷は、その報せを聞いて、しばし目を閉じた。長い歳月であった。
同じ頃、岡山の有志たちが、小阪部の方谷のもとを訪れた。
「先生、私どもは、新しい学校を設立したいと考えております。ぜひ、お力添えを」
方谷は、これまで幾度となく、こうした誘いを断り続けてきた。新政府の要職も、都会の華やかな地位も、方谷はことごとく固辞してきたのである。有志たちも、それは重々承知していた。それでも、頼らずにはいられなかった。
「して、その学校とは、どこに造るおつもりか」
方谷が問うと、有志の一人が答えた。
「岡山の街中に、新しく――」
方谷は、静かに首を横に振った。
「それならば、行かぬ」
有志たちの顔に、落胆の色が浮かんだ。だが、方谷はすぐに続けた。
「もし、歴史ある閑谷学校を再興するというのであれば――喜んで、力を貸そう」
「閑谷を……ですか」
「左様。あの地には、かつて岡山藩主・池田光政公が掲げられた、庶民のための教育という精神が、確かに息づいておる。それを、ふたたび興そうというのであれば、これほど本望なことはない」
有志たちは、思いがけぬこの言葉に、大きく動かされたという。
方谷が閑谷学校の再興をこれほど喜んだ背景には、江戸初期の偉大な陽明学者・熊沢蕃山への、強い憧れと尊敬があった。蕃山は、閑谷学校を開いた岡山藩主・池田光政の側近として活躍した人物である。方谷自身も同じ陽明学者として、蕃山ゆかりの聖地であるこの地を踏み、そこで講義ができることに、深い喜びを感じていたのであろう。
閑谷へ赴くことが決まった夜、方谷は久方ぶりに、筆を執って詩を詠んだという。蕃山の遺した学び舎への敬慕と、そこへ赴く己の喜びとを、静かに一篇の詩に託したと伝えられる。書き上げた紙を眺めながら、方谷はしばし、若い頃に思いを馳せていたかもしれない。
明治六年、旧閑谷学校は「閑谷精舎」として再興を果たすこととなった。そして方谷は、その初代総理――校長として、迎え入れられることとなったのである。
---
⭐︎⭐︎⭐︎ 第三十九幕 知本館と恩知館
同じ明治六年(一八七三年)、柵原の地から、小阪部の方谷のもとへ、門弟子たちが訪ねてきた。
「先生、私どもはこの地に、新しく郷学を開こうと存じます。つきましては、ふさわしい校名を、先生に授けていただきたく」
方谷は、その願いを聞き、しばし目を閉じた。それから、静かに筆を執った。
「『大学』に、こうある。『これ本を知ると謂う』とな」
墨をすりながら、方谷は続けた。
「学問とは、枝葉を追うことではない。物事の根本――本質を、正しく見極めることじゃ。この学校は、そうした場になってほしい」
紙の上に、力強い文字が記されていった。
「知本館」
「知本館……」
門弟子たちは、その二文字を、幾度も口の中で繰り返した。
「良き名を、有難うございます」
深々と頭を下げる門弟子たちに、方谷はもう一枚、紙を差し出した。
「もう一つ、書いておこう」
「もう一つにございますか」
「近くに、いずれもう一つ学校ができるであろう。その時のために」
翌明治七年、知本館の近郷に、もう一つの郷学が開校することとなった。この時のために方谷が用意していたのが、「恩知館」の名であった。
「人は皆、多くの恩を受けて生きておる。親の恩、師の恩、そして天地自然の恵み……」
方谷は、かつて丸川松隠から受けた慈しみを、静かに思い起こしていたのかもしれない。
「その恩を、正しく『知る』ことこそが、人を人たらしめるのじゃ。この学校では、そのことを、子らに伝えてほしい」
「恩知館」――その名にも、方谷の深い願いが込められていた。
名付けるだけで、方谷は満足しなかった。閑谷学校の再興へ行き帰りする道すがら、方谷は必ずこの知本館と恩知館に立ち寄り、みずから講義を行ったという。
「先生が、わざわざお立ち寄りくださるとは」
村の者たちは、そのたびに深く感謝したという。だが方谷にとって、それは特別なことではなかった。
「名づけたからには、その名に恥じぬ学び舎になっているか、見届けねばならぬ」
新政府からの高い地位への誘いを断り、地方の教育に生涯を捧げた方谷にとって、これらの学校は「誠の心」と「人間教育」を次世代へつなぐ、大切な拠点であった。
かつて回陽塾で、師・丸川松隠から受けた深い人間愛――学問とは、己一人の栄達のためにあるのではなく、世の中をよくするための手立てである、という教え。その教えは、形を変えて、知本館や恩知館といった地域の学び舎の名へ、そして、そこに集う子どもたちの未来へと、確かに引き継がれていったのである。
---
⭐︎⭐︎⭐︎ 第四十幕 長瀬の三晩
明治八年四月、小阪部の方谷のもとに、一通の手紙が届いた。
「祖先の墓参りのため、高梁を訪れる。再会したい」
差出人は、板倉勝静であった。
方谷は、その文を幾度も読み返した。
(勝静様……ご無事で、おられたか)
方谷は五年ぶりに高梁の地を踏んだ。勝静とは、実に八年ぶりの再会であった。
長瀬の旧方谷邸で、二人は向かい合った。かつて江戸で老中の座にあった主君と、その傍らで幾多の困難な決断を支えてきた老臣。互いに、深い皺の刻まれた顔を見つめ合った。
「方谷……息災であったか」
「勝静様こそ。よくぞ、ご無事で」
言葉少なに、二人は頷き合った。それから、静かに酒を酌み交わしたという。
戊辰の戦火、蝦夷地への逃亡、永預けの日々――語るべきことは、あまりにも多かった。だが、その夜、二人が交わした言葉の詳細は、多くが記録に残されていない。
三晩にわたり、二人は長瀬の草庵で共に過ごした。互いに戦乱の世を生き延び、それぞれの道でその後を歩んできた二人にとって、それは深い感慨を伴う日々であったろう。窓の外には、かつてと変わらぬ山々が、静かに横たわっていた。
---
⭐︎⭐︎⭐︎ 第四十一幕 閑谷、その最後の日々
明治六年九月、方谷が閑谷学校にやってくるという評判は、またたく間に広まった。全国から、熱意ある若者たちが、閑谷を目指して一斉に集まってきたという。
方谷は約束の通り、毎年春と秋、一月ほどを閑谷で過ごした。国宝である講堂の、磨き上げられた床。そこに正座し、方谷は若者たちと向き合った。
「学問とは、己一人の栄達のためにあるのではない。世の中をよくするための手立てじゃ」
かつて丸川松隠から授けられたその言葉を、方谷はここでも、繰り返し語り続けた。若者たちは、身じろぎ一つせず、その声に耳を傾けたという。
この講義は、明治九年の秋まで続けられた。廃校寸前だったこの学び舎は、方谷の尽力によって息を吹き返し、のちに日本を代表する多くの実業家や文化人を育む土壌となっていく。
明治九年七月、方谷はふたたび閑谷学校へ足を運んだ。それが、生涯最後の講義旅となった。
磨かれた講堂の床に座り、若者たちを見渡しながら、方谷は何を思っていたであろうか。九名村の裏山で、幼き日に見た油菜の花の景色を、あるいは重ねていたかもしれない。
かつて丸川松隠の塾で、誰よりも幼い体を折り曲げて書物に向かっていた少年は、いま、老いてなお全国から集う若者たちに、生涯をかけて磨いてきた学びを分け与えていた。
---
⭐︎⭐︎⭐︎ 終幕 小阪部の朝
明治十年六月二十六日。
小阪部の屋敷の一室で、方谷は静かに床に伏していた。享年七十三。腎炎が、その体を蝕んでいた。
枕元には、幾人かの門人たちが控えていた。
「先生……」
誰かが、声を詰まらせた。方谷は、うっすらと目を開けた。窓の外から差し込む朝の光が、部屋の中を静かに照らしていた。
その眼差しの先に、方谷は何を見ていたのだろうか。九名村の裏山に咲いていた、あの油菜の花の黄色い波であったかもしれない。土間で文字をなぞってくれた母の指先であったかもしれない。臼を回しながら「なにゆえ」と問いを重ねた、幼い日の自分自身であったかもしれない。
やがて、静かに、その息は絶えた。
遺骸は、故郷・西方村の山田家の墓地に葬られた。戒名は「方谷院深文純徳居士」。墓石に刻まれた「方谷山田先生墓」の文字は、板倉勝静みずからが揮毫し、墓碑の文面は勝静の命により三島中洲が起草したと伝えられる。今日、その墓所とその周辺は「方谷園」として整えられている。
九名村の裏山で、幼き日に見た油菜の花の黄色い波。菜種油を絞る臼の音に耳を澄ませていた、貧しい農家の子。両親を早くに失いながらも、学問への志を絶やさず、「治国平天下」とただ一人答えたという幼子。その子は、備中松山藩の財政を立て直し、戊辰の戦火から領民を救い、晩年には全国から集う若者たちに生涯の学びを伝え、「備中聖人」とまで称えられる生涯を歩んだ。
母がかつて病床で語ったという、「お家再興を果たしつつも、時代の勢いに乗って走りすぎてはならぬ」という戒め。方谷はその言葉を、生涯の折々に、静かに胸へ立ち返らせていたのではないか。少なくとも、地位や名誉に驕ることなく、常に民の暮らしと教育とに寄り添い続けた方谷の歩みの中に、その戒めが息づいていたことは、疑いようのないことのように思われる。
九名村の風景は、彼が世を去ったその日まで、変わらず彼の内にあり続けたのであろう。
(了)
---
⭐︎ 外伝
⭐︎⭐︎ 外伝一 松隠の眼差し
丸川松隠は、その日も書斎の窓から、庭先で書物を広げる小さな背中を眺めていた。
阿璘――九名村から来たあの子が、回陽塾の門をくぐってから、もう幾月が経ったろうか。
「先生」
障子の向こうから、息子の慎斎が声をかけてきた。
「阿璘のことでございますが」
「うむ」
「あの子は、他の塾生たちとは、明らかに何かが違います。年嵩の者たちが手こずる書を、事もなげに読み解いてしまう」
松隠は、筆を置いた。
「慎斎、お前はどう思う。あの才を」
慎斎はしばし考え、答えた。
「畏れながら……危うさも、感じております」
「危うさ、とな」
「あまりに早く花開く才は、時に折れやすいもの。周囲がもてはやせばもてはやすほど、本人が見誤ることもございましょう」
松隠は、静かに頷いた。慎斎の懸念は、松隠自身も抱いていたものであった。
その夜、松隠は独り、庭に出た。空には星が瞬いている。
(阿璘よ)
胸の内で、松隠は語りかけた。
(お前の才は、確かに稀有なものじゃ。だが、才だけでは、人は道を誤る。わしがお前に授けねばならぬのは、字でも、書でもない。人としての在り方、そのものじゃ)
翌朝、松隠は阿璘を自室へ呼んだ。
「阿璘、そなたに問う。学問とは、何のためにあると思うか」
阿璘は、少し考えてから答えた。
「己が身を、立てるためかと」
松隠は、首を横に振った。
「それだけでは足りぬ。よいか、阿璘。学問とは、己一人の栄達のためにあるのではない。世の中をよくするための手立てじゃ。そなたがどれほどの才を持とうとも、それを己のためだけに用いるならば、その学問は死んだも同然じゃ」
幼い阿璘の目に、何かが灯るのを、松隠は見た。
「世の中を……よくする、ため」
「左様。忘れるでないぞ」
この日交わされた言葉を、阿璘は生涯忘れることがなかったという。
歳月が流れた。九名村から早馬が駆け込み、阿璘の母・梶の危篤を告げた日、松隠は迷わず阿璘を送り出した。
「行け、阿璘。今は学問より、母上のもとへ」
阿璘が村へ駆け戻ってから、松隠はその帰りを、じっと待ち続けた。だが戻ってきた阿璘の顔には、隠しきれぬ悲しみと、そして――何かに耐えるような、固い決意のようなものが浮かんでいた。
「先生……母が」
「聞いておる。何も言わずともよい」
松隠は、それ以上何も問わなかった。ただ、幼い弟子の肩に、そっと手を置いた。
それから間もなく、五郎吉の訃報も届いた。阿璘が塾を去り、九名村へ帰らねばならぬと告げに来た日、松隠は初めて、この弟子の前で言葉に詰まった。
「先生に、これまでのご恩、生涯忘れませぬ」
深々と頭を下げる阿璘に、松隠はようやく、掠れた声で応じた。
「阿璘……いや、良いのじゃ。学問の書は、いつでもまた開ける。だが、家を守らねばならぬ今この時は、二度とは来ぬ。行きなさい」
小さな背中が、塾の門を出て、山道へと消えていく。それを見送りながら、松隠は独り言のように呟いたという。
「あの子は、必ず戻ってくる。学問の道へ、必ず」
その予感は、のちに現実のものとなる。だが、この日の松隠に、それを知る術はなかった。ただ、幼い弟子の後ろ姿が見えなくなるまで、松隠はいつまでも、その場に立ち尽くしていたという。
のちに方谷は、晩年に至ってなお、この師から受けた慈しみを「父母の慈しみを超えていた」と回想した。その言葉の重みを、あるいは松隠自身は、生前知ることがなかったのかもしれない。
(了)
---
⭐︎⭐︎ 外伝二 幽谷を出でて
明治三年(一八七〇年)、久世の地に、近隣の有志たちが集い、一つの私塾を開いた。
「学校の名は、『明親館』としようと存ずる」
集まった有志の一人が、そう告げた。この地に暮らす子らに、読み書きと算術を、そして人としての在り方を教えたい――そうした願いを込めての開塾であった。
「して、この開塾の由、方谷先生にお伝えしてはどうであろうか」
「山田方谷先生に、でございますか」
「うむ。先生は、いま阿哲郡小阪部にて塾を開いておられると聞く。閑谷の学校にも、深く力を尽くしておられるとか」
「先生に、この明親館の話をお届けすれば、あるいは……」
有志たちは、期待を込めて、方谷のもとへ使いを送ることとした。
小阪部の塾に、久世からの使者が訪れたのは、それからほどない頃であった。
「先生、久世の地にて、有志の者たちが私塾を開きましてございます。名を『明親館』と申します」
方谷は、その報せに、静かに目を細めた。
「ほう。子らのために、学び舎を開かれたか」
「先生にも、ぜひこのことをお伝えしたく、参上いたしました」
方谷は、しばらく黙って考えていた。かつて丸川松隠のもとで学び、九名村の裏山に咲く油菜の花を見つめていた、あの幼き日々が、脳裏をよぎったのかもしれない。
「それは、喜ばしいことじゃ。して、その学び舎に、いずれ何か、記念になるものを贈りたいものじゃな」
使者は、目を輝かせた。
「先生に、何かお言葉を頂戴できますれば、これに勝る喜びはございませぬ」
方谷は頷き、筆と紙を用意させた。しばし目を閉じ、心を静めてから、墨をすり始めた。
(この村の子らが、いずれ大きく育ってゆくために……何を贈るべきか)
方谷の脳裏に、若き日に読み込んだ『詩経』の一節が浮かんだという。
「出自幽谷 遷于喬木」
幽谷を出でて、喬木に遷る――暗く狭い谷間から出て、高く聳える木へと移り登る。それは、人の成長や立身出世を言い表す言葉であった。
方谷は、静かに筆を執り、その一節を額に揮毫した。
「これを、久世の学び舎に贈ろう」
「これは……」
使者は、書き上げられた額を、恭しく押し戴いた。
「幽谷より出でて、喬木に遷る、と申すか」
「左様。子らは、いま暗い谷間におるようなものじゃ。だが、学問を積み、いずれ高く聳える木へと登ってゆく。この学び舎で学ぶ子らが、皆、そのように育ってくれることを、願うておる」
方谷から贈られたこの額は、久世の明親館に大切に掲げられることとなった。
「先生が、これほどのお言葉を……」
有志たちは、その一節に込められた願いを、幾度も噛みしめたという。
歳月が流れ、明親館は、やがてその歩みを変えながら、地域の子弟教育を担う学校として、形を整えていくこととなる。方谷が揮毫したこの額の由来――「出自幽谷 遷于喬木」の一節は、やがて学校そのものの名として引き継がれていった。
「遷喬」
暗い谷間から、高い木へと遷る。その言葉は、単なる校名以上の重みを持って、この地に根づいていった。
方谷が世を去ってのち、幾度もの時代の移り変わりを経て、久世の学び舎は、真庭の地に「遷喬尋常小学校」として、その名を残し続けることとなる。
木造の校舎に掲げられたその名を見上げるたび、そこに学ぶ子どもたちの中には、この二文字の由来に、思いを馳せる者もあったであろう。
かつて九名村の貧しい農家に生まれ、幼き日に「治国平天下」とただ一人答え、備中松山の財政を立て直し、戊辰の戦火から領民を救い、晩年は全国から集う若者たちに学びを分け与え続けた、一人の儒者。
その人物が、久世の地にわずかに揮毫した一枚の額――そこに込められた「幽谷を出でて、喬木に遷る」という願いは、時代を超えて、なお一つの学び舎の名として、この地に生き続けている。
九名村の裏山に咲いた、あの油菜の花の黄色い波を胸に、貧しさの中から学問を積み上げていった少年の歩みもまた、幽谷より出でて喬木に遷る、その言葉そのものであったのかもしれない。
(了)
---
⭐︎⭐︎ 外伝三 方谷驛
⭐︎⭐︎⭐︎ 一 中井駅、という名
昭和三年(一九二八年)、伯備線の開業を控え、中井村に一つの駅が新設されることとなった。
「駅の名は、中井駅、と聞いておる」
村の寄合で、そんな声が上がった。鉄道省の意向では、この地の村名をそのまま冠するのが順当であるという。
だが、その話を聞いた老人の一人が、静かに首を振った。
「待たれよ。この駅の用地を、よう見てみられよ」
「用地が、どうかしましたか」
「あの土地の半分は……山田方谷先生の、旧宅跡じゃ」
その場が、しんと静まり返った。
「先生が子弟を教えられた、長瀬塾の跡地でもある」
かつて方谷が城を明け渡した後、政務の合間を縫って開き続けた塾。全国から数百の若者が集ったという、あの長瀬塾。その跡地の上に、いままさに、駅のホームが敷かれようとしていたのである。
「ならば……この駅に、先生の名を残せぬものか」
誰からともなく、そんな声が上がった。
「方谷先生は、この村の誇りじゃ。備中松山の財政を立て直し、戊辰の戦火から領民を救い、晩年はこの地で若者たちを育てられた。その先生の名を、後の世に伝えぬ手はない」
「せめて、駅の名にだけでも」
村人たちの間に、熱がこもっていった。かくして、「方谷」の名を駅名に冠するべく、村を挙げての請願運動が始まることとなった。
⭐︎⭐︎⭐︎ 二 前例なし
「人名をつけた駅など、前例がない」
村の代表者たちが鉄道省へ願い出るたび、返ってくる答えは同じであった。
「しかし、この地には特別な由縁が」
「由縁のあるなしにかかわらず、駅名に個人の名を冠するわけには参らぬ」
役人の態度は、けんもほろろであった。代表者たちは、肩を落として村へ帰った。
「やはり、無理な話だったのでしょうか」
「いや……ここで諦めるわけにはいかぬ」
村の寄合は、幾度となく続いた。灯りの下、大人たちが額を寄せ合い、知恵を絞る夜が続いた。
そんなある晩、一人の男が、膝を打った。
「待たれよ。方谷先生は……たしか、みずからを『方谷』と号された。あの号は、いったいどこから来たものであったか」
「号、と申されると」
「先生は、九名村のご出身であったが、後年、この地――西方の谷に居を構え、『方谷』と号されたと聞く。つまり」
男は、一同を見渡した。
「『方谷』とは、人の名である前に、この土地――西方の谷を指す、地名でもあるのではないか」
一同は、顔を見合わせた。
「なるほど……人名ではなく、土地の名だと言えば」
「鉄道省の申す『前例がない』という壁を、越えられるやもしれぬ」
一計を案じた村人たちは、ふたたび鉄道省へと向かった。
「この駅名は、人名ではございませぬ。西方の谷――すなわち『方谷』という、土地の名にございます」
役人は、怪訝な顔をした。
「土地の名、と申すか」
「左様にございます。方谷先生ご自身も、この地に因んで、みずからの号とされたのでございますから」
理屈としては、いささか強引であったかもしれない。だが、村人たちの粘り強い訴えは、次第にその筋を通していった。
⭐︎⭐︎⭐︎ 三 小川平吉、その名を聞く
この請願は、やがて、当時の鉄道大臣・小川平吉の耳にも届くこととなった。
小川は、山田方谷という人物を、かねてより私淑していたという。備中松山藩の財政を立て直し、地位や名誉に驕ることなく生涯を教育に捧げた、あの儒者の名を、である。
「方谷先生の名を、駅名に――とな」
小川は、届けられた請願書に目を通した。土地の名だという、村人たちのいささか強引な理屈にも、頬を緩めたかもしれない。
「面白い。方谷先生ほどの御方であれば、これも一つの供養であろう」
こうして、前例のないはずの「人名の駅」が、特例として認められることとなった。
「方谷駅」
その名が正式に定まった時、中井村には、歓喜の声が上がったという。
⭐︎⭐︎⭐︎ 四 跡地に立つ駅
昭和三年十月、方谷駅は開業した。木造平屋建て、切妻造りの駅舎が、高梁川に面して建てられた。
ホームに降り立てば、そこはかつて、方谷が幾百人もの若者たちに学びを説いた、長瀬塾の跡地であった。東舎、西舎、中舎と名付けられた塾舎が、かつてこの地に立ち並んでいたのである。
汽笛が鳴り、列車がホームに滑り込んでくる。乗降する人々の誰もが、この駅名の由来を、深く意識しているわけではなかったろう。だが、その名を聞くたびに、かつてこの地で学び、育っていった若者たちの姿が、あるいはどこかに残り続けていたのかもしれない。
九名村の裏山に咲いた油菜の花から始まり、丸川松隠の教えを受け、備中松山の財政を立て直し、戊辰の戦火から領民を救い、そして晩年、この長瀬の地で若者たちに学びを分け与え続けた、一人の男の生涯。
その名は、こうして、国鉄唯一の人名の駅として、ふたたび形を変え、後の世に残されることとなった。
平成二十三年(二〇一一年)三月、この駅舎は登録有形文化財に指定された。高梁川に面して建つその姿は、今もなお、静かにそこに佇んでいるという。
かつて方谷が幼き日に見た、九名村の油菜の花の黄色い波。あの景色を胸に歩み続けた一人の少年の名が、時を超えて、一つの駅の名として、いまも人々の耳に届き続けている。
(了)
---
*本書は、幕末の儒学者・藩政改革家として知られ、後に「備中聖人」とも称えられた山田方谷の生涯を、幼少期から晩年、そして没後にまで及ぶ後日談を含め、史実の骨子を踏まえつつ小説として構成したものです。生誕の地や生家の家業、幼少期の逸話、丸川松隠への入門と師弟の交流、両親の死、家業を継いだ日々、藩からの奨学と京都遊学、苗字帯刀・士分取り立てと藩校会頭就任、火事と謹慎、陽明学との出会い、江戸遊学と佐藤一斎への入門、藩政改革の諸策、参政としての日々、政治顧問としての幕末動乱への関与、戊辰戦争と藩の再興、晩年の教育活動、閑谷学校再興と各地郷学の命名、そして没後の方谷駅命名にまつわる逸話――これらは、いずれも伝えられる史実に基づいています。
一方で、会話や心情の細部、また一部の逸話(幼少期の言行、両親との別れの場面、狂歌をめぐるやり取り、閑谷での漢詩の内容など)については、史実として確定しているわけではなく、資料によって記述に差異があるか、後世の伝承・逸話としての性格が強い部分です。本書では、これらについて「〜と伝えられる」「〜という」との留保を随所に付しつつ、小説としての創作を加えて描いております。とりわけ大政奉還上奏文の起草をめぐる方谷の関与については、学術的に確証があるとまでは言えない伝承的要素を含むことを、あらためて申し添えます。史実そのものをお調べになりたい方は、専門の伝記・研究書を併せてご参照いただければ幸いです。*




