第二十一章 別れ、雨の城門
翌朝、王都の空は、灰色だった。
朝早くから、細い雨が宮殿の屋根を、しっとりと濡らしていた。
俺は客間で、東京から来たときと、同じ服装に着替えた。
紺色のシャツ、黒のスラックス、薄い上着。
胸ポケットにペンを一本。
藍色の、ペルソナ大臣の正装は、椅子の背に丁寧に、かけた。
左胸の開いた本とペンの紋章が、室内の灯りに淡く光っていた。
ノートを、抱えて、客間を出た。
廊下では、ベルカ翁、ガレウス、ニナが待っていた。
彼らの顔はいずれも晴れやかで、しかしわずかに寂しげだった。
ニナの目には薄く涙が、滲んでいた。
「司殿」
ガレウスが片膝をついた。
銀の鎧が廊下の床に軋んだ。
「我ら、騎士団員は、貴殿の指示書を、これからも、守り続けます。剣ではなく、設計で、王国を、守ります」
「ありがとう、ガレウス団長」
ニナが両手を合わせて頭を下げた。
「商人ギルドは、毎年、貴殿の生誕の日に、街路の市場で、祝祭を、開きます。きっと、子供たちに、設計師の名を、語り継ぎます」
俺はニナの肩に軽く手を置いた。
「市場の改革を、これからも、頼みます」
ベルカ翁は何も、言わずにただ頷いた。
彼の白い髭の下から、一粒、涙がこぼれた。
俺は彼の手を握った。
節くれだった、長い時間を生き抜いてきた、薬師の手だった。
「ベルカ翁、五百年、お疲れ様でした」
「儂はようやく、休める」
翁はぽつりと答えた。
「お前を、見送れた。それで、儂の役目は、終わった」
宮殿の中庭に、儀式の場が整えられていた。
中央に、五百年前の設計師の、最後の長リエンが、書庫の地下に残していた円形の魔法陣が白い石で、描かれていた。
その四隅に、王女、ベルカ翁、ガレウス、ニナが立った。
俺は、魔法陣の中央に、足を踏み入れた。
細い雨が頬を撫でた。
宮殿の鐘楼から、低い鐘の音が、ごうん、ごうんと、三度、響いた。
王がバルコニーから、こちらを見下ろしていた。
彼の隣に、王太子。
王太子はもう、剣を持っていなかった。
代わりに、新しい、白いノートを抱えていた。
彼もまた、ペルソナを書こうとしている、徴だった。
「司大臣」
王の声が響いた。
「貴殿の功績は王国の永い歴史に、刻まれる。我らは、貴殿を、忘れぬ」
「光栄でございます」
俺は頭を深く下げた。
王の隣の、王太子が進み出た。
「設計師殿、私からも、一言、お礼を」
彼の声は、緊張で震えていた。
「私はこれから、貴殿のノートを、引き継ぎます。妹アリーシャと、ともに、王国を、設計し直します」
「兄上、お頼みします」
王女が答えた。
俺は頷いた。
胸の奥が温かくなった。
これで、リエンガルド王国はもう、大丈夫だった。
魔法陣の中央で、俺は、王女と向かい合った。
王女は銀のドレスを纏っていた。
雨の中で彼女の銀の髪が、しっとりと、頬に貼り付いていた。
睫毛は、雨と、涙で濡れていた。
だが、彼女の灰色の瞳は、まっすぐ、俺を見ていた。
「司」
彼女はささやいた。
「最後のペルソナ、書いてくれましたか」
「ええ」
俺はノートを開いた。
昨夜、徹夜で書き上げた彼女の、最後のペルソナを、声に出して読んだ。
「アリーシャ・フォン・グランエル・第三王女・銀の髪・灰色の瞳。
雨の日に、いちばん、自分らしくいられる女性。
父王の代理として、王国の改革を続ける者。
兄王太子の隣で、民の声を、王に届ける者。
いつか自分の名前で、自分の判断で、人々を、導く者。
本当に、必要なのは誰かに、認められることではなく、
自分の判断を、自分で信じられること」
王女の頬に、雨と区別のつかない涙がいくつも流れた。
彼女は、それを拭わなかった。
ただ頷いて、聞いていた。
書き終えるとノートが強い、青い光を放った。
雨に濡れた魔法陣の白い石がその光に、応えて淡く、輝き始めた。
王女が、俺の手を両手で握った。
彼女の指は、冷たかった。
だがその冷たさの奥に、確かな、温もりがあった。
「司」
彼女は目を、潤ませながら、ささやいた。
「私はあなたに、出会えて自分を、自分として生きる勇気を、もらいました」
「アリーシャ様」
「あなたも、東京で、自分を自分として生きてくださいね」
「ええ」
俺は頷いた。
そして、彼女に、最後の一言を伝えた。
「アリーシャ様、あなたは夢で、俺を呼んでくれた人です。あなたの声がなかったら、俺はいまここに、いません」
「司、あなたが来てくれたから、私は私を見つけられた」
「俺もです」
王女は薄く笑った。
雨の中でようやく、晴れた、優しい、笑顔だった。
魔法陣の光が強くなった。
俺の足元から、白い光の柱が立ち上った。
それはふんわりと、俺の身体を包み込んだ。
「司、行きなさい」
王女はささやいた。
「あなたの世界へ」
「いってきます」
俺はささやき返した。
光が強くなった。
王女の手が俺の手からゆっくり、離れた。
最後に、指先と指先が触れてそれから、空気だけが残った。
ベルカ翁が片手を上げた。
ガレウスが深く頭を下げた。
ニナが両手を、振った。
王女は、まっすぐ、こちらを見ていた。
俺はノートを抱えて、彼らに頷いた。
そして、白い光の中に、ふわりと溶けていった。
最後に、見えたのは、雨の中で銀色の髪を、揺らしている、王女の姿だった。
彼女の頬の涙はもう、雨と、区別がつかなかった。
だが彼女の灰色の瞳だけはいつまでも、まっすぐ、俺を見送ってくれていた。
光が視界を、白く、染め上げた。
俺は自分の身体が、ふわりと軽くなるのを、感じた。
重力が、ない場所を漂っているような、不思議な感覚だった。
雨の音も、鐘の音も、王女の鼓動も、全部、遠くなった。
代わりに、東京のオフィスの蛍光灯の、ジー、という音が耳の奥に、戻ってきた。
電車のレールを走る、鋼鉄の振動も、肌に戻ってきた。
雑踏のざわめき、コンビニの自動ドアの音、駅のホームのアナウンス。
俺の世界の、音だった。
落ちていく途中で、もう一度、王女の声が聞こえた気がした。
「いってらっしゃい、司」
俺は頷いた。
胸の奥で頷いた。
ノートを強く抱きしめた。
それは東京で書いた五冊、王都で書いた数冊、氷の村で書いた一冊、地方巡業で書いた十二冊、合計、二十冊近い俺の書く、ということの結晶だった。
これを、東京に持って、帰ろう。
そして、もう一度、書こう。
東京の電車で、見かける、誰かのために。
オフィスで、無理をしている、誰かのために。
そして、何より、自分自身のために。
「行ってきます、アリーシャ様」
俺は光の中でささやいた。
「俺は東京で、書きます。あなたがここで、王国を設計しているように」
光の中で銀の髪が、最後に一度だけ揺れた気がした。
それが夢だったのか、現実だったのか。
俺にはもう、わからなかった。
俺の身体がゆっくりゆっくり降下していった。
雨の感触はもう、なかった。
代わりに、コンクリートの冷たさが、頬の片側に戻ってきた。
誰かの足音が、近づいてくる音が、聞こえた。
「すみません、大丈夫ですか!」
「人、呼んで!」
「救急車!」
それは東京の、駅のホームの人々の声だった。
俺は、そこに戻っていた。
意識がふっと浮かんできた。
瞼の裏の、白い光がゆっくり、退いていった。
代わりに、ホームの蛍光灯の、強い、白い光が見えた。
俺はまだノートを抱いていた。
東京で、買ったあの五冊目のノート。
表紙は、雨に濡れたあとが薄く残っていた。
そしてその内側の、最後のページに、ひとつだけ、見覚えのない字が書かれていた。
俺の字ではない、繊細な、銀のインクの流れるような筆跡。
「司、お元気で。
私たちは、王国で、設計を続けます。
あなたも、東京で、ペルソナを書き続けてください。
アリーシャ」
俺はその字に、指先を当てた。
インクはもう、乾いていた。
だが、温かかった。
「あの、立てますか?」
若い駅員が、俺の肩に、手を当てていた。
「救急車がもう、来ますから」
俺はゆっくり頷いた。
そして、ささやいた。
「大丈夫、です」
駅員は、心配そうに、俺を見ていた。
だが俺の頬が雨に、濡れているような奇妙な感覚だけがいつまでも、残っていた。
東京は、晴れていた。
雨は、降っていなかった。
だが頬には確かに、雨の感触があった。
それは雨ではなかった。
別世界の、誰かの、涙の感触だったのかもしれない。




