↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
人間変数 ― MADE BY HUMAN ―  作者: 花房清澄


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
1/17

第1話 電気の高い朝


 午前六時半。


 高瀬修一が洗面所へ入って、最初に気づいたのは静かなことだった。


 歯ブラシを取ってから、もう一度振り返る。


 洗濯機が動いていない。


「ハル、洗濯は?」


 廊下の向こうから返事がした。


「午前二時十三分へ変更しました」


「なんで?」


「本日午前七時台の地域電力単価が平常比二・八倍です」


 修一は歯ブラシを口に入れたまま、洗濯機を見た。


 二時十三分。


 ずいぶん細かい。


「洗濯くらい好きな時にさせろよ」


 洗面所の前を通りかかった美咲が言った。


「じゃあ自分でやれば?」


 修一は歯ブラシを止めた。


 洗濯機を見た。


 美咲を見た。


「二時十三分でお願いします」


「承知しました」


 ハルの返事には勝った感じも負けた感じもなかった。


 美咲だけがそのまま階段を下りていった。


 修一は口をゆすぎ、鏡を見た。


 五十二歳。


 髪はまだある。腹も、まあ、まだ許容範囲だと思っている。


 健康管理画面を開けば別の意見が出るかもしれないので、朝から見るのはやめた。


 窓の外は晴れていた。


 岡村の住宅地は、相変わらずだった。向かいには古い瓦屋根があり、その横には十年ほど前に建て替えられた家がある。坂道は坂道のままで、道幅も急には広がらない。


 その細い道を、配達用の小型車が音もなく下っていった。


 修一が階段を下りると、味噌汁の匂いがした。


 台所ではハルが朝食を並べていた。


 人間そっくりではない。顔は簡素で、表情らしい変化も少ない。それでもいまでは、台所に立っている姿にも違和感はなかった。


 焼き鮭、卵、野菜、小鉢。


 修一の席に最後の味噌汁が置かれた。


「今日、鮭?」


「はい」


「昨日も魚だった気がするけど」


「昨日は鯖です」


「そういう意味じゃない」


「意味を特定できませんでした」


「いいよ」


 修一は座った。


 悠真はすでに食べ始めていた。視線が時々、何もない空中の少し上へ動く。


「飯の時くらい外せば?」


「見てるだけ」


「何を」


「進路」


「朝から?」


「朝だから」


 返事だけでは意味が分からなかったが、悠真にはそれ以上説明する気がないらしい。


 十七歳というのは、昔からこういうものだった気もする。


 美咲は反対側で病院の予定を確認していた。指先で卓上の表示を一度送ると、午前の予定が消えた。


「今日、遅い?」


 修一が聞いた。


「普通」


「普通って何時」


「六時前後」


「それ普通?」


「今はね」


 美咲は味噌汁を飲んだ。


 修一も飲んだ。


 薄い。


 もう一口。


 やっぱり薄い。


「俺のだけ薄くない?」


 ハルが振り向いた。


「昨日の夕食で一日推奨ナトリウム量を超過しました」


「誰が報告した?」


「食器です」


 修一は箸を止めた。


 食卓を見た。


 昨日使った食器は、もう洗浄されて収納されている。


「食器って告げ口するの?」


「摂取量を記録しています」


「告げ口じゃん」


「記録です」


 悠真が笑った。


 美咲は味噌汁を飲んだまま言った。


「昨日、漬物おかわりしたでしょ」


「二枚だよ」


「四枚」


「見てたの?」


「食器が」


「お前までそっち側かよ」


 美咲は返事をしなかった。


 ハルが修一の前に小さな皿を置いた。


「本日の塩分摂取量には余裕がありますので、昼食以降は通常調整が可能です」


「朝から管理されてる気がするな」


「管理設定は修一さん本人が許可しています」


「そうだっけ」


「はい」


 悠真がまた笑った。


 ハルは笑わなかった。


 それがいちばん腹立たしい時がある。


 もっとも、朝飯はうまかった。


 鮭も焼き加減はちょうどいい。


 味噌汁だけ薄い。


 修一は結局、全部飲んだ。


    *


 家を出たのは八時少し前だった。


 坂の上から岡村公園の緑が見えた。春の朝は空気がまだ軽い。


 家の前まで来ていた車に乗り込むと、会社までの推奨経路が表示された。修一はそのまま承認した。


 幹線道路へ出るまでは低速で走り、広い道に入ると運転はほぼ車に任せた。


 車内には今日の業務予定が出ていた。


 9:30 商品戦略レビュー。


 11:00 開発候補選定。


 13:00 承認案件2件。


 以上。


「以上って」


 思わず声が出た。


 不満はない。


 昔は九時から十八時まで予定が詰まっている日の方が普通だった。それを思えば、今の方がはるかにいい。


 修一は座席を少し倒した。


    *


 東央生活システムの本社は、みなとみらい地区にあった。


 中身は、昔とはだいぶ変わった。


 人間の社員は減った。


 だからといって会社が小さくなったわけではない。扱っている商品もサービスも、昔よりはるかに多い。


 修一が生活設計部のフロアに入ると、すでに最初の会議資料が揃っていた。


 席に座り、昨日までの市場分析を開こうとする。


 その前に画面が切り替わった。


 要約を再生しますか。


 31秒。


 修一は一度、元資料の頁数を見た。


 数百頁。


「もうこれでいいか」


 再生を押した。


 市場伸長率。


 主要競合。


 原価変動。


 年齢別需要。


 地域差。


 試験販売時の反応。


 販売予測。


 三十一秒後には、一通り分かった気になった。


 向かいの席にいた同僚が言った。


「これ、昔なら三日かかったよな」


「三日どころか一週間揉んでた」


「今日これ見て承認したら仕事終わり?」


「たぶんな」


 二人は少し笑った。


 会議が始まった。


 といっても、人間が最初から意見を出し合うわけではない。


 予測条件に問題がないか。


 法務上の例外がないか。


 ブランド上、避けたい表現はないか。


 AIが作った案に対し、人間側が確認する。


 修一は二か所だけ質問した。


 一か所は説明を聞いて納得し、もう一か所は価格条件を変えて再計算させた。


 二十秒ほどで新しい結果が出た。


「これならいいんじゃない?」


 部門責任者が聞いた。


 修一は数字を見た。


「いいと思います」


 承認。


 画面の端に処理完了が出た。


 それで終わった。


 修一は指を机から離した。


 次の予定まで四十三分ある。


 メールは自動整理済みだった。


 返信が必要なものは三件。


 一件目はAI案のままで問題なし。


 二件目は文章を少し短くした。


 三件目は返信不要と判断した。


 四分。


 残り三十九分。


 修一は椅子にもたれた。


 窓の向こうに海が見える。


 仕事が楽なのはいい。


 本当にいい。


 昔のように、意味の分からない資料を夜まで直したいとはまったく思わない。


 それでも、机の上に何もなくなると、たまに妙な感じがした。


 今日はまだ午前十時にもなっていない。


 俺、今日何したっけ。


 考えてから、自分で笑った。


 ちゃんと仕事はした。


 承認した。


 二か所確認した。


 一件の文章も直した。


 会社も給料を払っているのだから、それでいいのだろう。


 修一は立ち上がった。


 コーヒーでも飲むことにした。


    *


 十一時の開発候補選定は、六人で行われた。


 壁面には、AIが提示した十二の商品案が並んでいた。


 生活用品の次期シリーズだった。


 用途はどれも同じ。


 家庭内で使う小型収納ケース。


 温度と湿度を自動調整し、食品でも日用品でも中身に応じて保存条件を変える。


 大したものではない。


 それだけに、売れる形を選ぶのが難しい。


 一番は薄い。


 軽い。


 収納効率がいい。


 色も部屋に合わせて自動変更できる。


 需要予測でも一位だった。


 十二案の横には、それぞれ販売確率、原価、返品予測、利用継続率が並んでいた。


 一番の総合評価が最も高い。


 修一以外の五人が一番を選んだ。


 修一は七番を押した。


 部門責任者が顔を上げた。


「高瀬さん七番?」


「うん」


「理由は?」


 修一は七番をもう一度見た。


 一番より厚い。


 少し重い。


 容量に対する外寸効率も悪い。


 蓋の端が妙に丸く、持ち手も無駄に太い。


 数字だけなら選ぶ理由はない。


「店にあったらこれ手に取りそう」


「なんで?」


「なんでだろ」


 責任者が笑った。


「そこ聞いてるんだけど」


「いや、分かんない。なんかこれ」


 七番を拡大した。


 画面上の模型がゆっくり回った。


 やはり一番の方がすっきりしている。


 買うなら一番、と言われれば納得する。


 なのに七番の方が気になった。


 室内AIが音声で告げた。


「七番を支持する定量的根拠が不足しています」


「知ってる」


 誰かが小さく笑った。


 修一も笑った。


「別に七番で売れって言ってるわけじゃないよ。俺なら、ってだけ」


「一番は?」


「いいと思う」


「買う?」


「分かんない」


「七番は?」


「触る」


「買うか聞いてる」


「だから、触ってから考える」


 責任者が腕を組んだ。


「面倒くさい客だな」


「普通じゃない?」


 同僚が言った。


「普通の客は五人とも一番なんだけど」


「じゃあ俺がおかしいんじゃない?」


 それで話は終わった。


 修一は特に気にしなかった。


 午後の二件の承認も予定より早く終わり、十五時前には会社を出た。


 帰りの車の中で、朝から何をしたか考えてみる。


 会議。


 承認。


 七番。


 また承認。


 十分働いた気もする。


 働いていない気もする。


 眠くなったので、途中で考えるのをやめた。


    *


 夕食は鶏肉だった。


「やっと魚じゃない」


 修一が言うと、ハルが料理を置きながら答えた。


「魚料理は二日間のみです」


「二日続いたら十分だろ」


「栄養上の問題はありません」


「栄養の話してない」


 美咲はまだ帰っていなかった。


 悠真は先に座っていた。


 食卓の端に進路候補が表示されている。


 修一が横から見た。


 一番上だけ数字が大きい。


 適合率96%。


「高いな」


「まあね」


「ここ行くの?」


「まだ決めてない」


 悠真が表示を送った。


 次に研究分野との適合。


 生活環境。


 友人関係への影響。


 健康面。


 卒業後の進路。


 所得予測。


 居住地域まで出てきた。


 修一は眉を寄せた。


「ここまで決めるの?」


「決めてないよ」


「お前、何でもAIに決めてもらうなよ」


 悠真が修一を見た。


「決めてもらってない。候補出してもらってるだけ」


「一番上行くんだろ」


「良ければ」


「自分で考えろよ」


 悠真は箸を置いた。


「父さん今日の晩飯、自分で決めた?」


「それとこれとは違う」


 台所からハルが言った。


「本日の夕食は私が選択しました」


「お前は黙ってろ」


「承知しました」


 悠真が笑った。


「何が違うの」


「進路と晩飯は違うだろ」


「規模?」


「大事さだよ」


「大事ならAIに聞かない方がいいってこと?」


「聞くなとは言ってない」


「じゃあ俺、聞いてるだけじゃん」


 修一は鶏肉を一切れ口に入れた。


 うまい。


「まあ、最後は自分で決めろってこと」


「決めるよ」


「ならいい」


 悠真もそれ以上は言わなかった。


 表示を消して、食事に戻った。


 修一も戻った。


 ハルが選んだ鶏肉は普通にうまかった。


 何を基準に選んだのか聞こうかと思ったが、やめた。


 どうせ栄養と在庫と帰宅予定と、その他いろいろだろう。


 腹に入れば同じだ。


 美咲が帰ってきたのは十八時を少し過ぎてからだった。


「おかえり」


「ただいま」


「飯、鶏」


「見れば分かる」


 美咲は上着をハルへ渡した。


「今日どうだった?」


「普通」


「また普通か」


「そっちは?」


 修一は少し考えた。


「普通」


「じゃあいいじゃない」


「まあね」


 それで終わった。


    *


 夜十時前。


 修一はリビングのソファで、明日の予定を眺めていた。


 午前は在宅。


 十一時に一件確認。


 午後は特にない。


「明日も楽だな」


 独り言に、ハルは反応しなかった。


 頼んでいない時まで返事をしない設定になっている。


 修一自身がそう変えた。


 以前はいちいち返されて面倒だった。


 端末に新しい予定が一件入った。


 会社からだった。


 修一は開いた。


 明日 15:00 人材分析部との個別面談を設定しました。


「ん?」


 見直した。


 人材分析部。


 個別面談。


「俺、何かやったっけ」


 ハルが答えた。


「直近三十日間に重大な社内規定違反は確認されていません」


 修一は端末から顔を上げた。


「そういうこと言われると余計怖い」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。