第1話 電気の高い朝
午前六時半。
高瀬修一が洗面所へ入って、最初に気づいたのは静かなことだった。
歯ブラシを取ってから、もう一度振り返る。
洗濯機が動いていない。
「ハル、洗濯は?」
廊下の向こうから返事がした。
「午前二時十三分へ変更しました」
「なんで?」
「本日午前七時台の地域電力単価が平常比二・八倍です」
修一は歯ブラシを口に入れたまま、洗濯機を見た。
二時十三分。
ずいぶん細かい。
「洗濯くらい好きな時にさせろよ」
洗面所の前を通りかかった美咲が言った。
「じゃあ自分でやれば?」
修一は歯ブラシを止めた。
洗濯機を見た。
美咲を見た。
「二時十三分でお願いします」
「承知しました」
ハルの返事には勝った感じも負けた感じもなかった。
美咲だけがそのまま階段を下りていった。
修一は口をゆすぎ、鏡を見た。
五十二歳。
髪はまだある。腹も、まあ、まだ許容範囲だと思っている。
健康管理画面を開けば別の意見が出るかもしれないので、朝から見るのはやめた。
窓の外は晴れていた。
岡村の住宅地は、相変わらずだった。向かいには古い瓦屋根があり、その横には十年ほど前に建て替えられた家がある。坂道は坂道のままで、道幅も急には広がらない。
その細い道を、配達用の小型車が音もなく下っていった。
修一が階段を下りると、味噌汁の匂いがした。
台所ではハルが朝食を並べていた。
人間そっくりではない。顔は簡素で、表情らしい変化も少ない。それでもいまでは、台所に立っている姿にも違和感はなかった。
焼き鮭、卵、野菜、小鉢。
修一の席に最後の味噌汁が置かれた。
「今日、鮭?」
「はい」
「昨日も魚だった気がするけど」
「昨日は鯖です」
「そういう意味じゃない」
「意味を特定できませんでした」
「いいよ」
修一は座った。
悠真はすでに食べ始めていた。視線が時々、何もない空中の少し上へ動く。
「飯の時くらい外せば?」
「見てるだけ」
「何を」
「進路」
「朝から?」
「朝だから」
返事だけでは意味が分からなかったが、悠真にはそれ以上説明する気がないらしい。
十七歳というのは、昔からこういうものだった気もする。
美咲は反対側で病院の予定を確認していた。指先で卓上の表示を一度送ると、午前の予定が消えた。
「今日、遅い?」
修一が聞いた。
「普通」
「普通って何時」
「六時前後」
「それ普通?」
「今はね」
美咲は味噌汁を飲んだ。
修一も飲んだ。
薄い。
もう一口。
やっぱり薄い。
「俺のだけ薄くない?」
ハルが振り向いた。
「昨日の夕食で一日推奨ナトリウム量を超過しました」
「誰が報告した?」
「食器です」
修一は箸を止めた。
食卓を見た。
昨日使った食器は、もう洗浄されて収納されている。
「食器って告げ口するの?」
「摂取量を記録しています」
「告げ口じゃん」
「記録です」
悠真が笑った。
美咲は味噌汁を飲んだまま言った。
「昨日、漬物おかわりしたでしょ」
「二枚だよ」
「四枚」
「見てたの?」
「食器が」
「お前までそっち側かよ」
美咲は返事をしなかった。
ハルが修一の前に小さな皿を置いた。
「本日の塩分摂取量には余裕がありますので、昼食以降は通常調整が可能です」
「朝から管理されてる気がするな」
「管理設定は修一さん本人が許可しています」
「そうだっけ」
「はい」
悠真がまた笑った。
ハルは笑わなかった。
それがいちばん腹立たしい時がある。
もっとも、朝飯はうまかった。
鮭も焼き加減はちょうどいい。
味噌汁だけ薄い。
修一は結局、全部飲んだ。
*
家を出たのは八時少し前だった。
坂の上から岡村公園の緑が見えた。春の朝は空気がまだ軽い。
家の前まで来ていた車に乗り込むと、会社までの推奨経路が表示された。修一はそのまま承認した。
幹線道路へ出るまでは低速で走り、広い道に入ると運転はほぼ車に任せた。
車内には今日の業務予定が出ていた。
9:30 商品戦略レビュー。
11:00 開発候補選定。
13:00 承認案件2件。
以上。
「以上って」
思わず声が出た。
不満はない。
昔は九時から十八時まで予定が詰まっている日の方が普通だった。それを思えば、今の方がはるかにいい。
修一は座席を少し倒した。
*
東央生活システムの本社は、みなとみらい地区にあった。
中身は、昔とはだいぶ変わった。
人間の社員は減った。
だからといって会社が小さくなったわけではない。扱っている商品もサービスも、昔よりはるかに多い。
修一が生活設計部のフロアに入ると、すでに最初の会議資料が揃っていた。
席に座り、昨日までの市場分析を開こうとする。
その前に画面が切り替わった。
要約を再生しますか。
31秒。
修一は一度、元資料の頁数を見た。
数百頁。
「もうこれでいいか」
再生を押した。
市場伸長率。
主要競合。
原価変動。
年齢別需要。
地域差。
試験販売時の反応。
販売予測。
三十一秒後には、一通り分かった気になった。
向かいの席にいた同僚が言った。
「これ、昔なら三日かかったよな」
「三日どころか一週間揉んでた」
「今日これ見て承認したら仕事終わり?」
「たぶんな」
二人は少し笑った。
会議が始まった。
といっても、人間が最初から意見を出し合うわけではない。
予測条件に問題がないか。
法務上の例外がないか。
ブランド上、避けたい表現はないか。
AIが作った案に対し、人間側が確認する。
修一は二か所だけ質問した。
一か所は説明を聞いて納得し、もう一か所は価格条件を変えて再計算させた。
二十秒ほどで新しい結果が出た。
「これならいいんじゃない?」
部門責任者が聞いた。
修一は数字を見た。
「いいと思います」
承認。
画面の端に処理完了が出た。
それで終わった。
修一は指を机から離した。
次の予定まで四十三分ある。
メールは自動整理済みだった。
返信が必要なものは三件。
一件目はAI案のままで問題なし。
二件目は文章を少し短くした。
三件目は返信不要と判断した。
四分。
残り三十九分。
修一は椅子にもたれた。
窓の向こうに海が見える。
仕事が楽なのはいい。
本当にいい。
昔のように、意味の分からない資料を夜まで直したいとはまったく思わない。
それでも、机の上に何もなくなると、たまに妙な感じがした。
今日はまだ午前十時にもなっていない。
俺、今日何したっけ。
考えてから、自分で笑った。
ちゃんと仕事はした。
承認した。
二か所確認した。
一件の文章も直した。
会社も給料を払っているのだから、それでいいのだろう。
修一は立ち上がった。
コーヒーでも飲むことにした。
*
十一時の開発候補選定は、六人で行われた。
壁面には、AIが提示した十二の商品案が並んでいた。
生活用品の次期シリーズだった。
用途はどれも同じ。
家庭内で使う小型収納ケース。
温度と湿度を自動調整し、食品でも日用品でも中身に応じて保存条件を変える。
大したものではない。
それだけに、売れる形を選ぶのが難しい。
一番は薄い。
軽い。
収納効率がいい。
色も部屋に合わせて自動変更できる。
需要予測でも一位だった。
十二案の横には、それぞれ販売確率、原価、返品予測、利用継続率が並んでいた。
一番の総合評価が最も高い。
修一以外の五人が一番を選んだ。
修一は七番を押した。
部門責任者が顔を上げた。
「高瀬さん七番?」
「うん」
「理由は?」
修一は七番をもう一度見た。
一番より厚い。
少し重い。
容量に対する外寸効率も悪い。
蓋の端が妙に丸く、持ち手も無駄に太い。
数字だけなら選ぶ理由はない。
「店にあったらこれ手に取りそう」
「なんで?」
「なんでだろ」
責任者が笑った。
「そこ聞いてるんだけど」
「いや、分かんない。なんかこれ」
七番を拡大した。
画面上の模型がゆっくり回った。
やはり一番の方がすっきりしている。
買うなら一番、と言われれば納得する。
なのに七番の方が気になった。
室内AIが音声で告げた。
「七番を支持する定量的根拠が不足しています」
「知ってる」
誰かが小さく笑った。
修一も笑った。
「別に七番で売れって言ってるわけじゃないよ。俺なら、ってだけ」
「一番は?」
「いいと思う」
「買う?」
「分かんない」
「七番は?」
「触る」
「買うか聞いてる」
「だから、触ってから考える」
責任者が腕を組んだ。
「面倒くさい客だな」
「普通じゃない?」
同僚が言った。
「普通の客は五人とも一番なんだけど」
「じゃあ俺がおかしいんじゃない?」
それで話は終わった。
修一は特に気にしなかった。
午後の二件の承認も予定より早く終わり、十五時前には会社を出た。
帰りの車の中で、朝から何をしたか考えてみる。
会議。
承認。
七番。
また承認。
十分働いた気もする。
働いていない気もする。
眠くなったので、途中で考えるのをやめた。
*
夕食は鶏肉だった。
「やっと魚じゃない」
修一が言うと、ハルが料理を置きながら答えた。
「魚料理は二日間のみです」
「二日続いたら十分だろ」
「栄養上の問題はありません」
「栄養の話してない」
美咲はまだ帰っていなかった。
悠真は先に座っていた。
食卓の端に進路候補が表示されている。
修一が横から見た。
一番上だけ数字が大きい。
適合率96%。
「高いな」
「まあね」
「ここ行くの?」
「まだ決めてない」
悠真が表示を送った。
次に研究分野との適合。
生活環境。
友人関係への影響。
健康面。
卒業後の進路。
所得予測。
居住地域まで出てきた。
修一は眉を寄せた。
「ここまで決めるの?」
「決めてないよ」
「お前、何でもAIに決めてもらうなよ」
悠真が修一を見た。
「決めてもらってない。候補出してもらってるだけ」
「一番上行くんだろ」
「良ければ」
「自分で考えろよ」
悠真は箸を置いた。
「父さん今日の晩飯、自分で決めた?」
「それとこれとは違う」
台所からハルが言った。
「本日の夕食は私が選択しました」
「お前は黙ってろ」
「承知しました」
悠真が笑った。
「何が違うの」
「進路と晩飯は違うだろ」
「規模?」
「大事さだよ」
「大事ならAIに聞かない方がいいってこと?」
「聞くなとは言ってない」
「じゃあ俺、聞いてるだけじゃん」
修一は鶏肉を一切れ口に入れた。
うまい。
「まあ、最後は自分で決めろってこと」
「決めるよ」
「ならいい」
悠真もそれ以上は言わなかった。
表示を消して、食事に戻った。
修一も戻った。
ハルが選んだ鶏肉は普通にうまかった。
何を基準に選んだのか聞こうかと思ったが、やめた。
どうせ栄養と在庫と帰宅予定と、その他いろいろだろう。
腹に入れば同じだ。
美咲が帰ってきたのは十八時を少し過ぎてからだった。
「おかえり」
「ただいま」
「飯、鶏」
「見れば分かる」
美咲は上着をハルへ渡した。
「今日どうだった?」
「普通」
「また普通か」
「そっちは?」
修一は少し考えた。
「普通」
「じゃあいいじゃない」
「まあね」
それで終わった。
*
夜十時前。
修一はリビングのソファで、明日の予定を眺めていた。
午前は在宅。
十一時に一件確認。
午後は特にない。
「明日も楽だな」
独り言に、ハルは反応しなかった。
頼んでいない時まで返事をしない設定になっている。
修一自身がそう変えた。
以前はいちいち返されて面倒だった。
端末に新しい予定が一件入った。
会社からだった。
修一は開いた。
明日 15:00 人材分析部との個別面談を設定しました。
「ん?」
見直した。
人材分析部。
個別面談。
「俺、何かやったっけ」
ハルが答えた。
「直近三十日間に重大な社内規定違反は確認されていません」
修一は端末から顔を上げた。
「そういうこと言われると余計怖い」




