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婚約

「私、ローゼリア=ラ=エクラ=ヴァイスは、貴方との婚約を望みます」


 レーヴェは、その言葉に思考が完全に止まった。再び思考が回り出すには、暫くの時を要するほどの衝撃だった。

 まさか、いきなり求婚されることになるとは思ってもいなかったからだ。


「求婚の言葉に聞こえたが、認識に間違いがあるか?」


 半ば混乱しながら確認を取るとローゼリアは小さく首を振った。


「本気で言ってるんだな?冗談でもないな?」

「私は、本気。受けてくれるなら、直ぐにでも耳飾り(オーアリング)を耳に付ける」


 これだけ決定的な言葉を返されれば、ローゼリアが本気で言っていることが分かる。


「自分が伯爵令嬢であることを自覚した上で言ってるのか?」

「そのつもり」


 今度は、小さく首を縦に振った。

 すなわちローゼリアは、様々な要因を秤に掛けた上で求婚をして来たのだ。

 ここに来てようやく思考が正常に働き出した。ローゼリアの言動を踏まえ、レーヴェは現状を冷静に分析する。

 『婚約』によってもたらされる彼女の利。利益の面は、ある程度予想は付く。しかし、どうやって「その発想に行き付いたのか?」が分からない 。


(本気なのは間違いないが、ここまで大胆なことを口にするか?)


 ローゼリアのイメージと余りにも口にした内容が掛け離れているのだ。

 レーヴェの中の彼女のイメージは、旅をして少しだけ世間の常識を知ったお嬢様だ。性格は、思慮深く穏やかで秩序への従属意識も強い。汚れた金の話をすれば不快感を示す正義感持っている。

 良い意味で、貴族社会に染まっていない。それがローゼリアという人物だと認識している。


 そんな人物が、己の「婚約」を道具として振りかざすだろうか?

 貴族の世界で浸かり切った令嬢が口にするなら分かるが、彼女はそうでは無い。家族の愛情を受け、大事に育てられて来たように見受けられる。

 だから、彼女の口からこのような提案が出る事実に対し、違和感を感じた。


 はっきり言えば彼女らしくない。別の誰かが、入れ知恵をしたとしか考えられない。となると、この発想の出所はひとつしかない。


「入れ知恵したのが誰なのか容易に想像がつくな」


 僅かな時間にも関わらず、レーヴェは舞台を整えた首魁を割り出していた。

 視界の端で状況を楽しむ従者に頭を抱えつつ、レーヴェは申し出に対する検討を始めた。

 至った経緯がどうであろうと本人の判断の元、正式に申し込まれたモノであることに変わりない。レーヴェとしても真剣に検討する必要性があった。


「君が婚約を申し出たのは、露払いの為だな?」


 問いかけに対し、コクリと頷くローゼリア。

 何の露払いをする為のものなのかを確認するほど馬鹿ではないので、レーヴェは言葉を端折った。


「婚約をしても婚姻する気はないな?」

「婚姻だと家に言い訳が出来なくなるから困る」

「だろうな」


 意図は理解できるし、考えには賛同できる。

 家の協力さえ得られればリスクは無いに等しい。懸念している問題が発生する確率も大幅に減る。本来であれば手放しで受け入れて良い提案だ。しかし、それは対象が己自身でなければの話だ。

 視界に映るローゼリアの姿を再度確認し、レーヴェは己自身に問い掛けた。

 結果、導き出された答えはひとつ。


「すまん。無理だ」


 実現不可能と判断した。


「どうして?」

「オレの精神状況の問題だ」


 レーヴェには、拷問に耐えきる自信を欠片程も見出すことが出来なかった。

 婚約と言う関係は、男のとって生殺しに近い状態だ。相手に手を出すこともできなければ女を買うこともできない。

 普通なら我慢した先に、婚姻という関係が待っている。ある種人生の成功と言ってもいい。それらの為に、耐え忍ぶのが男の婚約者だ。


 しかし、今回の場合はどうだろうか?

 禁欲生活を強いられる上に、耐えきった後にもたらされる報酬はない。それどころか隣に、美人を置いた状態で耐えなければならない。もし決壊しようものなら取り返しのつかない事になる。

 己を信用していない訳じゃないが、そんな危険な橋を渡る気にはなれなかった。


「あら、そのぐらい余裕でこなして頂けなければ主として認められませんよ」

「女に、この苦しみが分かってたまるか」

「主の言うとおりだ」


 この一言で、ヴィテスへの評価がひとつ上がった。やはり男同士、通じ合うものがあるのだろう。今度、娼館にでも連れて行ってやろう。


「男同士で庇い合い?」

「ですね。互いの意思の弱さを庇い合っているように見えます」


 開き直るような口調の男二人に、ローゼリアとレクティは軽蔑の眼差しを向ける。


「色欲に負けるのは、ダメな男の証拠」

「大半の男はそんなもんだ。例外は、男を止めた奴だけだ」

「実は、女好き?」

「違う。自然の摂理だ」


 この世のどこに女が嫌いな男がいようか。男が女を求めるのは自然の摂理と言うものだ。

 レーヴェの持論であり経験則だ。騎士をしていた頃、部下の男女間の問題に頭を悩ませて様々な手を考えてみたが、全てを解消する事は出来なかった。


 日頃は、気にならないが性欲というものは非常に厄介だ。突如として発生し、無性に人肌が恋しくなる。女を知るまでは無縁の感覚だったが、知ってしまうと忘れるのは無理だ。共にあることに対する安心感と自らを受け入れてくれる包容力は、別物にかえ難い物がある。ある種の中毒と言ってもいいかもしれない。


「砂山のように脆い男の自制心の話はともかく。問題へ対処は、必要と思います。彼女を首にでもしない限り、いつまでも付いて回る問題ですよ」

「それは困る。食べ放題の食事付きで給料もいいから続けたい」


 暇を出されると聞いてローゼリアが動揺し、レーヴェに詰め寄る。


(食費目当てで、働いているとしか思えんな)


 底無しの胃袋を増える事のない懐で賄うのは、さぞかし大変だったはずだ。雇い続けていれば、懐は縮むどころか膨らむ一方だから今の言葉は本心だろう。


「辞めたいと言わない限り、暇を出すつもりはないから安心してくれ」


 正直な本心だ。

 雇われている意図がどうであろうと厄介事が付いてまわることになろうとローゼリアを手放す気は、レーヴェには無い。

 それだけの価値があると思っている。


「それにレクティが問題としている件は、見た目の良い従業員を雇う度についてまわる。その度に、従業員を嘘の婚約させる羽目になるぞ」

「貴族の令嬢が、従業員をやるような事態は、そうそう発生しないと思いますが……」


 流し目で睨みを利かせるレクティ。


「それに、主様も他人事ではすみません」

「雇い主なんだ当然だろ」

「そうではありません。主様も女性に言い寄られたり、結婚を迫られるという事です」

「冗談だろ。オレは放浪者。商人と考えても駆け出しのド素人だぞ」


 放浪者は無職同然だから論外。放浪者同士の結婚は在り得るが、断ることに困ることが無い。商人としては、まだ店を開いてもいない若造なので、言い寄られる要素にはなり得ない。


「今は、そうだと思います。ですが、これだけの店を切り盛りする人物となれば必ず縁談を持ちかける人間が出て来くる。そう思いませんか?」

「断れる程度の話だろう。同列には比べられんよ」


 反論を鼻であしらうレーヴェ。


「断ったら角が立ちますよ。回数が積み重なれば自ずと商いに影響を与えるはずです。影響力がある方がいれば、面子を潰されたと怒りを買うと思いますけど」

「うっ……」

「私見ですがロプスとのやり取りを見た限り、主様にはそれなりに才があるようです。その内、必ず誘いが掛かります。そうなる前に、何かしらの対策を取って置くべきかと」


 詰まるレーヴェに、レクティが畳み掛ける。

 先ほど思いついた方法だが、勢いで押すよりレーヴェを説得しやすいと判断したからこその言葉だ。


「しかしだな。話があると言っても数年後のことだろう」

「私、そんなに駄目?」

「オレの話を聞いてたかのか?精神が持たんと言ってるんだ。てか、縋るような目でオレをみるな」


 レクティの理詰めとローゼリアの視線に当てられ、レーヴェは頭が痛くなって来た。


「婚約すると都合よく抱ける相手がいなくなるから応じられない。そういう事ですね」


(何故だ。いつの間にか、一方的に悪者にされている)


 解釈としては間違ってはいないが、著しく誤解を生みそうな言葉だった。それこそ、耳にした人間全てを敵に回しそうな表現だ。

 レクティの言葉に影響され、打って変わったように軽蔑する眼差しを向けるローゼリア。


「最低」

「いや、待て。どうして話を断っただけで最低呼ばわりされる」


 もっともな話である。

 そもそも婚約話を持ち掛けて来たのは、ローゼリアであってレーヴェではない。唯、断っただけなのに、悪者扱いされるのは我慢ならなかった。


「『婚約するなら体を開け。』と言ってるように聞こえる。男として最低」


(間違ってない。間違ってないが違う!)


「形だけの婚約をしろと迫って来たのは君だぞ」

「互いに利があるし、なにより効果がある。問題を解消するための方法として、これ以上の案は無いはず」


 ローゼリアの指摘は正しい。この方法を取れば互いに発生し得る危険を回避することが出来る。それは間違いない。

 しかもお互いの都合で関係を解消できる良案である。


「それに、私は女を我慢しろと言うつもりはない」

「何?」

「婚約中、私は他の女性を抱いても構わない。だらしないのは困るけど節度を守る分には許容する。それが私の身の安全にも繋がる」


 暗に自分に手を出さない限りは、女遊びを許容すると言っていた。

 貴族や商人が嫁を貰う時、最後の楽しみとして女遊びに走る傾向があることは確かだ。相手も許容しているのであれば周囲の理解を得ることも可能だ。


「貴族令嬢を嫁に貰うはずの商人が女遊びか?聞いたこともないぞ」

「許可するのは私だから問題ない。前例が無ければ作ればいい」

「…………」


 ガシガシと頭を掻き毟るレーヴェ。熱くなる思考を強引に冷ますと大きく息を吐いた。


「分かった。そこまで言うなら婚約しよう」


 レーヴェは仕方なく白旗を上げた。

 唯一の懸念点を払拭(ふっしょく)する材料を出されてしまったのだ。これはもう腹を括るしかない。それに貴族との婚約は、商人としては喜ばしい要素なのだ。利用しない手は無い。


「ホントに?」

「家にはしっかり角が立たんよう説明しろよ」

「分かった」


 笑いながら頷くとローゼリアは耳飾り(オーアリング)の片割れを手に取った。レーヴェもそれに習い残った片割れを手に取る。

 互いの耳に手を伸ばし、耳飾り(オーアリング)を耳たぶに沿える。


「良いんだな?」

「はい」


 それを合図に、耳飾り(オーアリング)を身に付けさせる。そして、互いに両手を結び視線を合わせる。


「我が最愛をローゼリア=ラ=エクラ=ヴァイスに捧げる」

「私の最愛をレーヴェ=ヒルベルトに捧げます。『今、この時より我等二人でひとつ。喜びも悲しみも共に二人で別ち歩まん。』」


 二人の声が重なり見事にひとつになる。身に付けた耳飾り(オーアリング)から僅かな蒼い光が生まれる。


『大地、そして天空に頂く全ての揺蕩(たゆた)いし者よ。我らに福音を届けたまえ。』


 その言葉が紡がれた瞬間、首飾り(オーアリング)が一際強く輝き出し、美しい鐘の音が部屋に鳴り響き渡った。


 後に残されるギルド白書。

 その中でギルドの創設と言う重要な役割を果たした二人。二人の婚約は、ギルドにとって最良であり最悪の判断であったと記されることになる。

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