第6章:命名権の奪還
コンクリートの冷気があたりを支配する立体駐車場に、規則正しい音が反響していた。
コツ、コツ、コツ――。
硬質で、微塵の迷いもないヒールの音が、薄暗い空間の静寂を切り裂いていく。
怯えたように肩を震わせ、音のする方へ視線を向けた拓也と義母の前に、ゆっくりと影が伸びた。
腕を組み、口元に冷ややかな笑みを湛えた玲奈が、蛍光灯の青白い光の中に姿を現す。
そのすぐ隣に、私は静かに、けれど確かな足取りで並び立った。
「れ、玲奈……! お前、どうしてここに……」
拓也の喉から漏れたのは、情けなく引きつった震え声だった。
玲奈は彼の哀れな姿を一瞥すると、手元で愛車のスマートキーを弄び、カチリと金属音を鳴らした。
「どうしてって、お義姉さんに頼まれたからに決まってるでしょ。あんたたちの『大大爆笑・お披露目会』、特等席でじっくり見物させてもらったわよ」
「見物……? 玲奈、あなた、母親に向かって何をふざけたことを……」
義母が青ざめた顔のまま、辛うじて声を絞り出す。
しかし、玲奈はそれ以上言葉を重ねる代わりに、自身のスマートフォンを無造作に二人の目の前へ突きつけた。
液晶の明るい光が、薄暗い駐車場で二人の狼狽した顔を照らし出す。
そこに映っていたのは、先ほどフードコートで大爆笑の渦を巻き起こしていた若者たちとの、目まぐるしく動くグループチャットの画面だった。
「種明かしをしてあげる。さっきの迷子放送も、あんたたちを大爆笑で迎えてくれた若者たちも、全員私の会社のスタッフと後輩。――要するに、これ全部私の仕込みよ」
「な、なんだと……!? じゃあ、あの、あの放送は……!」
拓也が目を見開く。
玲奈は深い溜息をつき、蔑むような視線を実の兄へと向けた。
「私がインフォメーションカウンターに行って、迷子のフリをして届け出たのよ。『結城権左衛門景虎くん、4歳が迷子です』ってね。あんたたちが令和の時代にどれだけ異常で、どれだけ恥ずかしい暴挙に出ようとしていたか、身を以て理解できたかしら? 世間のリアルな目線ってやつが」
その言葉が、最後の引き金だった。
拓也の膝がガタガタと目に見えて震えだし、まるで糸の切れた人形のように、冷たいコンクリートの床へ崩れ落ちた。
全身に浴びせられた見ず知らずの人々からの嘲笑、憐れみの目、そして「ネットの晒し者」として社会的に抹殺されかけた恐怖。
それらすべてが、妹の仕掛けた罠でありながら、同時に『紛れもない世間の本音』だったのだ。
遮るもののない現実の猛毒が、彼の脳髄に直接流し込まれていく。
「ああ……あああ……っ! 俺、なんてことを……! 恥ずかしい、もう嫌だ、消えたい……!」
完全に洗脳の解けた拓也は、これまで張り合ってきた薄っぺらなプライドも何もかもを投げ打ち、冷たい床に額を擦り付けた。
「紬! すまなかった、俺が全部悪かった! 母さんの言うことを盲信して、お前をあんなに傷つけて……! 『権左衛門景虎』なんて絶対にやめる! 取り消すから! 普通の名前にしよう、だから、頼むから俺を見捨てないでくれ!」
惨めに土下座し、涙と鼻水で顔を汚しながら縋り付いてくる夫。
その姿を、義母は信じられないという目で、激しい動揺を隠せぬまま見下ろした。
「拓也……!? あなた、結城家の誇りを捨てるのですか! 玲奈、あなたという娘は、どこまで実の母親を愚弄すれば気が済むのです――」
「愚弄してるのはお母さん、あんたの方だよ」
玲奈の声が、鋭い刃となって義母の言葉を遮った。
「武士の末裔? 伝統? そんなもの、あんたの安い虚栄心を満たすためのただの道具でしょ。自分の都合で、これから生まれてくる孫に生き地獄を味わわせようとした自覚を持ちなさいよ。……もう、あんたの味方なんてこの世に誰もいないんだから」
「う、く……っ……」
義母は言葉を失い、喉を不自然に鳴らした。
いつもなら狂ったように吠え散らかすはずの口が、今はただ、水から揚げられた金魚のように力なく開閉を繰り返している。
誰も自分を敬わない。
誰も自分の歪んだ言葉に耳を傾けない。
世界から完全に切り離された圧倒的な孤独の淵に、彼女は今、ようやく突き落とされたのだ。
私は、ゆっくりと一歩、前に踏み出した。
ガタガタと震え、小さく縮こまって見える義母の目を、真っ直ぐに見据える。
「お義母様」
私自身の口から出た声は、自分でも驚くほど静かで、冷徹な響きを帯びていた。
「お義母様。私のお腹の中にいる子供を、大人のエゴで生き地獄に落とす権利は、誰にもありません。……この子の名前は、私たち夫婦で決めます。二度と、口を出さないでください」
「……っ!」
義母はよろよろと後退り、やがて力なくコンクリートの壁に背を預けたまま、ずるずるとその場にへたり込んだ。
その濁った瞳には、かつて私を支配しようとしていた傲慢な光は、微塵も残っていなかった。
――数ヶ月後。
窓から、洗いたてのレースのカーテンを透かして、柔らかな春の木漏れ日が差し込む病室。
私は、腕の中で静かに寝息を立てる、愛しい我が子を抱きしめていた。
ミルクの甘い香りと、柔らかな肌の温もりが、私の胸をじんわりと満たしていく。
「紬、お疲れ様。本当に……本当に頑張ってくれたね」
隣では、すっかり角が取れて大人しくなった拓也が、恐る恐る、壊れ物を触るような手つきで赤ちゃんの小さな小さな指を握っていた。
あの日以来、拓也は変わった。
義母からの執拗な連絡をすべて遮断し、私の意見に決して逆らわなくなった。
夜泣きのたびに起き、育児書を熱心に読み漁る彼の姿に、かつての面影はない。
赤ちゃんの名前は、私と拓也で幾夜も話し合い、響きが優しく、誰からも愛されるような、透明な光を連想させる現代的な名前に決めた。
風の噂では、義母は今、親戚一同からも「初孫にトンデモない名前を強要して絶縁されかけた狂った姑」として、完全に爪はじきにされているらしい。
相変わらず古い本家の一室で、一人寂しく「伝統が、血筋が」と虚しい文句を呟いているようだが、もはやその声が、私たちの穏やかな日々に届くことは二度とない。
「これから、いっぱいいっぱい幸せになろうね」
胸の中で小さくあくびをした我が子に、私は心からの愛を込めて、新しく決まった本当の名前を優しく呼びかけた。
その響きは、私たちの新しい世界の始まりを告げるように、どこまでも心地よく病室に響いていた。




