第四章 歪み
「聞きまして?ヴィクトル殿下と新入生の噂…」
順調だったルキアの学園生活へ歪みが入り始めたのは、ルキアが高等部へあがってからだった。
陽光が傾き、羽を震わせた虫たちが合唱し始めた頃、その少女は学園の高等部へ入学した。
ミルクティーのような甘い茶色の髪が肩に触れ毛先が遊んでいる。子猫のような愛らしい大きな瞳、形の整った鼻筋、溌剌とした健康そうな血色、彼女が柔らかく微笑むと誰もがつられて笑顔になる。
その上、入学式に代表として挨拶を述べていた。つまり、新入生の中で成績が一番であった。
ヘレナ・スピカ、流星の如く現れた男爵令嬢の名前だった。
黄葉しているポプラの下、涼しくなった風の心地よさを頬へ感じながら、中庭の片隅でルキアは本を読んでいた。
「貴女のような身分の方が馴れ馴れしく高貴なお方と名前で呼びあうのはいかがかしら?」
何処からともなく声が聞こえる。少し興奮気味に女性が誰かを非難しているようだ。
「それは…。ヴィクトル様のことですか?ヴィクトル様からは許可をいただいています。ヴィクトル様は誰にでも垣根のない方ですよ。気軽にお話しかければ良いんじゃないかな?」
応戦している女性は鈴の音を転がすような清らかな声の持ち主だ。
「なっ!何を仰っているの⁉︎」
甲高い声がルキアの耳へ飛んでくる。会話の内容から誰が叱責されているのか察したルキアはベンチから立ちあがった。声をたどって場所を探る。行き着いた先は、学園の窓から死角になった人目のない場所だった。
「おやめなさい…」
案の定、一人の女生徒がヘレナと口論していた。
「るっルキア様っ⁉︎私はただ…」
少女はルキアのことを知っているようだ。王太子のヴィクトルの婚約者であるルキアは生徒たちから一目置かれる存在である。学園の生徒で知らないものはいないだろう。
ヴィクトルは類い稀なる美男子だ。沢山の女生徒からも慕われている。ヘレナは平気なようだが、この国の王太子であり、婚約者もいる身のヴィクトルへ親しく話しかけるなど、一般生徒には極めて難易度が高い。
「私は…。ルキア様のことを思って…」
「貴女に心配されなくても、私のことは私で解決いたします。早くお行きなさい…」
狼狽えながら、目に涙を浮かべ女生徒は走り去った。
「別にとめなくても…。私も私のことは自分で解決できますよ…」
ヘレナは満面の笑みをルキアへ向ける。確かに可憐な少女であるが…。
ルキアは咎めた少女のことを気の毒に思った。
ヘレナは入学して以来、注目を浴びていた。美しく聡い少女へヴィクトルも興味があったようだ。最初に話しかけたのはヴィクトルだと噂で聞いた。
「あの方が仰ることも間違えではありませんのよ」
ルキアはため息を静かに吐く。ヘレナは怯むことなく反論した。
「学園は身分関係なく等しく学問を学ぶための場ですよね?」
「えぇ…。その通りです。ですが、ヴィクトル様は婚約者…。つまり、私がおりますので、淑女でいらっしゃるヘレナ様は弁えなければなりません」
分かりやすく説明をしようとルキアは試みるも、ヘレナには通用しなかった。
「それって…。婚約者がいる男子生徒には話しかけてもいけないってことですか?」
ヘレナはヴィクトルと何度も密会し、二人は腕を絡ませて談笑していたと噂が流れている。
「…。そう言うわけではありません」
だが、それは噂であってルキアが実際に見聞したわけではない。二人はクラスメイトとして会話を交わしていただけかもしれない。
「もうお話は結構です。失礼いたします」
踵を翻したルキアの去り際、ヘレナが言った。
「ルキア様も私を責めるんですね…。私はヴィクトル様と仲良しになりたいだけなのに…」
「婚約者の貴女を差し置いて、お食事をご一緒されているとか…。宜しいのですか?」
食堂のバルコニーでアガタがルキアへ告げた。
人もまばらで閑散としているのは、肌寒くなり冬が近づいているためだろう。
ブランケットを膝へ掛けて、二人は昼食の時間を過ごしていた。
「えぇ…。ヴィクトル様の交友関係をとやかく言う資格は私にはございませんわ…」
「貴女は婚約者ですのよ…」
先日、王太后であるペラギアが崩御した。ペラギアは病床でルキアの今後を憂慮していた。
「ルキア…。私は貴女をいつまでも見守りたいのです。ですけど、時間がそれを許してくれそうにないわ…」
ペラギアがルキアへ伝えた最後の言葉だった。自分が死んだ後、モニカ王妃の動向が心配だったのだ。
モニカは隣国の王女だった。母国の援助を望み嫁いできたのだ。華奢で楚々としたモニカに心奪われたマルクスは喜んで、彼女を王妃として迎えた。
王妃になったモニカは母国へ優位な条約を結び、縁戚をアストラ王国の貴族として迎えるようマルクスへ願った。危機感を覚えたペラギアや貴族たちの反抗は強かったもの、若かったマルクスは聞く耳ももたずモニカの進言を承諾する。モニカは徐々に権力を誇示するようになった。
アストラ王国で確固たる地位を欲したモニカは、ヴィクトルの婚約者は自分の傀儡となるものを選出したかった。しかし、これにはマルクスも首を縦に振らなかった。これまでの行いをマルクスは後悔していたのだ。
表面では波立つことはなかったが、ペラギアの息のかかったルキアが婚約者へ決まったことをモニカは快く思っていなかった。
「私はいつまでヴィクトル様…。ヴィクトル殿下の婚約者でいられるのでしょうか…」
哀しげに目を伏せるルキアの頬へ睫毛の影が落ちる。心許ないルキアを厳しい眼差しでアガタは見つめた。
「ルキア様!しっかりなさいっ!」
渡り鳥であろうか、空を羽ばたく鳥を眺めてルキアは呟いた。
「どこへでも自由に飛んでいける鳥のように…。私も旅をしてみたいわ…」
アーモンドの花が健気に咲き誇り、学園の彼方此方で淡い桃色が目に留まる。
最近の生徒たちの話題は王太子と男爵令嬢の身分を違えた恋愛模様だった。
二人が手を繋いで楽しそうに王都を散策したとか…。
ヴィクトルの学友たちもヘレナへ夢中だが、恋心を抑えて、二人の行末を見守っているだとか…。
ヘレナは王妃の茶会へ招かれ、王妃も二人の恋愛を応援しているだとか…。
教室で二人きりで口づけを交わしていた…。
等々、数えきれない。
ヴィクトルの教室へ訪ねていったルキアを罰の悪い顔で出迎えたのは、学園へ入る前まで護身術を指導していたフェリクスであった。
フェリクスの背後へヴィクトルとヘレナが微笑みあい何か話をしていた。
ルキアがヴィクトルとの対話を申し出ると、ヴィクトルは渋々ながらヘレナを残して席を離れた。
「殿下…。ヘレナ様とお噂になっております」
ルキアとヴィクトルの間へ、花弁がハラハラと風に儚く舞う。以前、ヘレナが女生徒と言い争っていた場所である。
「あぁ…。学友として仲良くしている。学園は身分関係なく共に学ぶ場だ。学園内であれば、誰も気兼ねなく平等に友人として接するべきであろう。私は模範となるべきではないか?」
最もらしい言葉を並べるヴィクトルへルキアは苦言を呈した。
「それでは、殿下はこの学園の生徒皆を平等に扱わなければなりませんね…」
ヴィクトルがヘレナだけを特別視しているのが問題なのだ。他の生徒達とも交流をもてば、少しは噂も収まるかもしれない。
「もちろんだ…。必要ならば、皆、私へ声をかけてくれば良い…」
ヴィクトルは前髪を掻きあげる。精悍な顔立ちへ眉根を寄せ、不快感をあらわにしている。
「貴族は身分の高いものへ自ら話しかけることはできません。同じ生徒とはいえ、殿下は王太子…。恐れ多くて、お声がけできないものが多いのです」
ルキアは懸命に伝えるも、ヴィクトルから投げやりな態度をとられた。
「ではどうすれば良いと言うのだ?私は常に皆から話しかけてくるのを待っている…」
「それでは、殿下からお声をかければ良いのです。挨拶などいかがでしょうか?」
引きさがらないルキアへヴィクトルは無性に腹が立った。
「なぜ、親しくもないものに、私から挨拶せねばならんのだ⁉︎」
ルキアは言葉に詰まってしまった。
ヴィクトルが穏やかな眼差しで語りかけてくれていたのは、たった半年前のことであるが、もう遠い出来事のようだ。二度と戻ることはないだろう…。
「もう良い…。話はそれだけか…」
待たせているヘレナのことを気にかけ、ヴィクトルはルキアへ背を向けた。
ルキアが窓を見上げると、雨が降り出しそうな曇天の空が広がっている。案の定、しばらくすると、ポツポツと雨粒がガラスを叩きだす。
「殿下にお前は相応しくない…」
図書室の角で壁を背にもたれかかり、本のページを捲ることもなく、空を見上げているルキアへグイドが冷たく言い放った。
「お兄様…。突然、何を言いだすのですか?」
王都の邸宅からアストラ王立学園中等部へ通うように、アマデウスはグイドへ指示をしていたようだが、グイドは従うことなく病に侵されたマリアへずっと寄り添っていた。
マリアが亡くなり、喪に服してから一年後、グイドは高等部から学園へ編入した。グイドが学園に在籍してからルキアもグイドもお互い顔を合わせることなく過ごしていた。
このような場所まで押しかけて…。何が仰りたいのかしら…。
「ヘレナ嬢の方がよほど相応しい…。彼女の朗らかな笑顔は皆を癒してくれる。優しくて、快活なヘレナ嬢へ惹かれないものはいないだろう…。そのような寛大な女性が国母になるに相応しい…」
これが兄妹の数年ぶりの会話だろうか…。ルキアは記憶を辿ったが、思えば、あの秋の庭園からグイドと言葉を交わしたことがなかった。
そうよね…。私はいらない子だったのですもの…。お兄様が私へ話しかけることはなかったわ…。
ルキアと会わないうちに、グイドは愛くるしかった少年から見目麗しい青年へと変わった。
お母様とは違ったお顔立ちでらっしゃるのね…。
家庭の内情を把握しているルキアはグイドの容姿は父親似だと察した。
明るい鳶色は緩やかな曲線を描き、そのくせ毛は天使を思い起こす髪型で、目は濃い茶色で円かな形をしている。
あどけなさの抜けない眼差しは母性本能をくすぐるらしく、ヴィクトルには及ばないがグイドも女生徒から人気があった。
「…。さようでごさいますね。私もそう思っております…」
ヴィクトルがルキアを必要としていないのなら確かにそうだろうと、ルキアはグイドの意見へ肯定する。
グイドは蔑むような視線でルキアを見下した。
「なら、お前から退けばよいだろう?」
「…。この婚約は王家から仰せつかったものですのよ…」
侯爵令嬢であるルキアからは申立てできないと仄めかしたかったのだが、グイドはルキアへ追い打ちをかけるように抗議する。
「何を言う?お前の後ろ盾であったペラギア様ももう居ないのだ…」
「私からは父へ打診いたしました…」
そう…。先週、お父様へお伺いしました…。
月に一回あるかないかのアマデウスとの会食…。アマデウスは相変わらず執務に忙しく、ルキアとの時間もままならなかった。
この時期、王国は雨季へ移行する。土砂災害や川の氾濫を未然に防ぐためにも、また、万一に災害が起きたときの対処など、的確な予算を各部署へ割り当てなければならない。
指揮を執るのは宰相のアマデウスである。
久しぶりの父との食事の場でルキアは言った。
「殿下のお心には特別な女性がいらっしゃいます」
アマデウスは訝しげな表情でルキアを見つめたが、無言のまま、ナイフで肉を裂く手を止めなかった。
「殿下のためにも、この婚約を無効にしたいのですが…」
静かな室内へアマデウスの咀嚼音だけが響く。使用人たちは心なしか居心地が悪そうだ。
「王命だ…。私にはどうすることもできん…」
食卓の中央へ飾られた花を照らす蝋燭の火が揺らいだ。
お父様…。では私は…。どうすればいいの…。
「アークトゥルス家から申立てすることはできないと仰っていました」
父の意志をグイドへ伝えると忌々しそうに顔を顰めた。
「はっ?余程、権力を保持したいとみえる…。それでお前は諦めたのか?」
アマデウスは権力に興味はない。王へ仕える臣下として尽くしているだけだ。
そうでなければ、王太后亡き後、ルキアの立場がこれほど危うくなることはなかっただろう。他、有力貴族へ根回しするほどの力がアークトゥルスにはないのだ。
「…。ここは図書室です。お静かにいただけないようなので私から失礼いたします」
兄の言葉へ辟易したルキアは、グイドから逃げるように図書室を後にした。
「なっ!待てっ!話は…」
背中から声は追いかけてくるも、振り向くつもりはない。
降り始めた雨は激しく窓へぶつかり無数の雫の筋が流れていた。
ご報告いただき誤字訂正を致しました。
ありがとうございます。
誤字脱字が多いと自覚しております。
至らないことも多々ございますが今後とも宜しくお願いいたします。




