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古書店街の魔女  作者: 田丸 彬禰


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 After story Ⅰ 夢の続き

「須磨」の後日談的話となります

 ふたりの蒐書官が熊谷市で紫式部直筆の「須磨」を破格値で手に入れてから一週間後。

 その彼らの姿は東京駅八重洲口から広がる地下街にひっそりと佇むあの喫茶店にあった。

 彼らがここにやってきた目的は、次の仕事に出かけるための打ち合わせだったのだが、後輩蒐書官にはそれより前にどうしてもやっておかなければならないことがあった。

 もちろん、あの時に浮かんだ多くの疑問の解消である。

 後輩蒐書官が口を開く。

「事後処理とその後の休暇で延び延びになってしまいましたが、あの時の交渉についていくつか質問があるのですが、よろしいでしょうか」

「もちろん。だが、それはこのカラになったコーヒーカップをなんとかしてしてからだ」

 実を言えば、彼は知っていた。

 目の前に座る若い男がこうやってこの前の交渉について訊ねてくることを。

 そして、その内容も。

 だが、彼はそのことを口にはしない。

 ただ、心の中でこう呟いただけだった。


 ……まあ、気づかぬふりをしてやるのが先輩の務めなのだろうな。


「さて、コーヒーで口の中を湿らせたところで、そろそろ聞くことにしようか。君が知りたいというそれを」

 やってきたコーヒーをそのすべてを味わうように一口含んだ彼の言葉に後輩が大きく頷き、堰が切れたかのようにその口から溜め込んでいた言葉が流れ出す。

「まず、どの時点であのヘボ画家がまだ持っていることに気づいたのですか?あれを」

 ……まあ、そうなるな。

 あまりにも予想通りの問いに彼は薄い笑みを浮かべる。

 それから、もう一度コーヒーを味わってから言葉を紡ぐために口を開ける。

「結構早く」

「ということは、どこからか情報を得ていたのですか?」

「その答えについてはイエスでもあり、ノーでもある」

「どういうことですか?」

「それについて答える前にまず君に問いたい。君は我々が必要としている情報は常に能動的に得るものだと思っていないかね」

「芦名さんは日頃から下調べは大いにやるべしと言っています」

「そうだ。だが、それだけではない」

「と言いますと?」

「重要情報が向こうからやってくることもあるのだよ。今回はその一例だ。君はアトリエで千秋氏が自らの作品の説明をおこなっているときどうしていた?」

「もちろん時間を無駄にせぬように周辺に目を配っていました」

「つまり、千秋氏の話は上の空だったということだな」

「つまらぬ自慢話でしたから。芦名さんは?」

「当然聞いていた。しかも、真剣に。それが私と君の違いであり、君が手にしなかった情報を私が手に入れ、最終的な交渉で千秋氏が私だけを相手にした理由でもある」

「……なるほど」

「どうやら納得していないようだから、もう少し詳しく説明しよう。まず前者から。彼は絵画の説明の中で制作方法と制作順について語っていた。特に私が興味を示した五枚の絵にはついて念入りに。その結果、『須磨』が描かれた一枚は最近完成したこと、それから次回の絵にも『須磨』を小道具に使うか検討中だということがわかった。ここから、どのような推測が導き出せるかね?」

「……『須磨』はまだ手元にある」

「そういうことだ。さすがにそれが式部の手によるものだとはわからなかったが、それでも、それは彼の絵に金を出すくらいの根拠にはなるというわけだ。さて、次は後者となるわけなのだが、そちらについても詳しく説明したほうがいいのかな」

「……いいえ」

 もちろん後輩蒐書官はわかっている。

 それが説明というよりも説教であることを。

 ……自分の話を聞こうとしない者と、真剣に話を聞いている者。相手がそのどちらと目を合わせて交渉をしようとするかなど蒐書官でなくてもわかる話だ。

 ……失敗だった。


「こ、今後は十分に気をつけます」


「芦名さんはあの『須磨』が本物だと確信したのはいつだったのですか?」

 この店での三杯目となるコーヒーを飲み始める彼に、同じく三杯目のコーヒーに口をつけた後輩蒐書官が再び訊ねる。

 少しだけ言葉をつけ加えて。

「もちろん現物を見れば私だって本物かどうかの判断はできます。ですが、芦名さんはそれよりもかなり早い段階でそう確信していたのでしょう。それがどうしてなのかということが知りたいのです」

「だが、そうは言うが、君だってあの絵に描かれているものが『須磨』だということはわかったのだろう」

「もちろんです。そう書いてありましたから」

「では、自分をそう卑下することはなかろう」

「ですが、『須磨』と読み取れたことと、それを手に入れるべきなのかを判断できるのかは別の話です。まして、それを手に入れるために二億円もの大金を払うなど……」

「……なるほど」

 彼はそう小さく呟き、少しだけ意地悪そうな笑みを浮かべる。

「同じだ」

「えっ?」

「だから、私も同じだと言っている」

「ですが……」

「では、もう少しはっきり言おう。つまり、私だって気の利いた書店ならどこでも手に入るようなものにそんな大金を支払う気はまったくなかったということだ。伊達や酔狂で買い物をしているわけではあるまいし」

「ということは……」

「最終的には商品を見て決めるつもりだった。もちろん、それほど古くない江戸時代のものであっても写本であれば約束通り金は支払うつもりだった。だが、そうでなければ、幾ばくかの違約金を払って破談だ」

 ……真顔で言っている。

 ……つまり、芦名さんの今の言葉は嘘ではない。

 ……それにしても……。

 ……それを堂々とやるところがさすが芦名さんというところか。

「そ、それは酷い話ですね。色々な意味で」

「まあ、あのときの我々は所詮胡散臭いバイヤーだ。約束を反故するなど十分あり得ることだろう。とにかく、そういうことで、大風呂敷を広げたあの時の言葉はすべて話を進めるための空手形のようなものだ。ただし、絵を見た段階で本物の写本である可能性があるのではないかと思っていたのも君の言葉のとおり事実だ」

「その根拠は?」

「朝霧さんが見つけ出した『花宴』が同じ紫色の表紙だったらしいから、もしかしてと。つまり、期待半分というところだな。まあ、偶然本物、しかも紫式部直筆の源氏物語を引き当てたので、彼も我々も嫌な思いをせずに済んだというわけだ。損をしたのは彼にタダ同然で『須磨』を売った闇商人だけなのだからメデタシ、メデタシという実によい終わり方ができた」

「なるほど」

 ……おそらく嘘は言っていないのだろうが、この煙を撒くような言い方。

 ……何かを隠している。

 ……だが、とりあえずそちらは後回し。

 ……ここでまず聞くべきは……。

「その闇商人ですが、なぜあんな安値で売ったのでしょうか?アレの価値に気づかなかった商人は実に愚かだといえますが、それでもその商人に売った者までそれがわからなかったというのは妙な感じです」

「そのとおりだ。そして、そのようなことはほぼありえないことだ」

「では……」

「こればかりは想像でしかないのだが、この世界であのような商売をやっている以上、少なくても彼にあれを売った商人はあの書が相当な値打ちものであることはすぐにわかっただろう。だから、我々はその商人が高く売らなかったのではなく、高く売りたくても売るわけにはいかなかったと考えるべきだろうな。そういうことならある程度の説明はできる」

 彼はコーヒーを飲むために、ここで一度言葉を切った。

「つまり、その商人は通常取引以外に商品の仕入れルートを持っていた。そして、『須磨』はそちらのルートからのものだったということだ」

「別の仕入れルート?」

「そう。簡単に言えば、自ら手に入れてきた。所有者に黙って」

「つまり、盗み?」

「そういう言い方もできる。だが、手に入れた商品を改めて確認して驚き後悔した。これは手に入れてはいけないものだったと。そこで、引いてきてしまったジョーカーを追手に気づかれないうちに素早く、かつ足がつかないように本来の価値からすればタダ同然の安値で売り払った。ちょうど絵の小道具を探していた千秋氏がやってきたのをこれ幸いとばかりに。だが、少しだけ色気を出した。結果的にそれによってその取引は我々の目に留まった。もし、千秋氏が購入したものがすべて六桁の買値だったら私もあの家に足を運ばなかっただろうから」

「……なるほど」

「まあ、私が話したことが正しいかどうかは、いずれこの商人に確認しようではないか。『須磨』の出どころも確認しなければならないわけだし」

「はい」


 二時間後、アップルパイとともに五杯目のコーヒーを楽しむ彼に後輩蒐書官が最後の、そして最大の謎を問いかける。

「実を言いますと、そもそも芦名さんが情報屋ごときの安っぽい泣き言でこの話に乗ったというところにずっと引っ掛かるものを感じていました。実は別の理由があるのではないかと」

「失礼な。困っている人が目の前にいれば絶対に見捨てられない人道主義者兼博愛主義者である私なら当然のことだろう。しかも、相手は私のために動いている友人のような者だ。不思議と思う方が不思議だ」

「……人道主義?ドライの極致のような芦名さんはそのような話とは対極な存在でしょうに」

「せっかくのいい話をひとことで台無しにするとは、言ってくれるね。水月君も」

 そう言いながら、彼は心の中で別の言葉を呟いていた。

 ……そのとおり。

 ……よく見ているな。

 彼は大きく息を吐きだした。


「真実を言い当てた褒美として白状しよう。まあ、言ってしまえば、それは幼少期のトラウマと気まぐれの賜物だ」


「……つまり、芦名さんが救いたかったのは情報屋でも画家本人でもなく画家の家族だったというわけですか?」

「そうだ」


 そして、彼が語るその驚くべき話はさらに続く。


「私も子供の頃、彼の子供と同じような体験をしていたのだよ。もっとも、父親が自称する稼業は画家ではなく小説家だったのだが」

「……自称ということは……」

「今も昔も書いたものが本になったなどという話を父親から聞いたことがない。もっとも、最近はようやく自分に文才がないことを気づき、孫の世話を自分の一番の仕事としている。あの歳になってようやく家族の幸せに貢献しているのだよ。私の父親は」

「……つまり、子供の頃の生活が大変だったと?」

「それが不思議なことにそうでもなかった。というか、今考えると平均以上の生活をしていたような気がする。見栄のために方々から借金をしていたのか、そうでなければ母親の才覚によるものなのだろうな。まあ、最終的には家屋敷を売り払い都落ちにして青梅の山奥に住むことになったのだが」

「芦名さんは何に対して不満を持っていたのですか?」

「父親が稼ぎもせず昼間から家にいたことだ。私がまだ都心に住んでいたころ友人は皆サラリーマン家庭で、当然平日の昼間には父親は家にはいなかったのだが、我が家では……。小学生の高学年から中学生の頃はそれが非常に恥ずかしかった」

「私の家はそのサラリーマン家庭でしたが、昼間どころか休日にもまったく顔を見ない日があったので、いつでも家にいて自分の遊び相手になってくれる父親がいる友達がいれば羨ましく思ったことでしょう」

「それは見解の相違というものだ。とにかく、このダメな父親の代わりに自分が働かなければならないと思っていたときに、本人も気づかなかった才能をどこからか嗅ぎつけた橘花のスカウトが我が家にやってきた。もちろんその申し出に断る理由などない」

「いつの話ですか?」

「高校二年のときだ。一人前になればエリートサラリーマンよりも稼げると聞いた私は一刻も早く蒐集官になるために高校などやめるつもりでいたのだが、いつもは私のやることに何も言わない父親がその時は猛反対した。それどころか金もないのに大学にまで行かせられ、そのおかげでアプレンティスから蒐集官に上がるのに時間がかかった。本当に余計なことしかしない父親だと今でも思っている」

「芦名さんの幼年時代と父上に対する恨み辛みについてはよくわかりました。ですが、それと芦名さんが千秋氏の家族を救おうとすることとはどのように結びつくのですか?」

「わからないのかね?」

「まったく」


「だから、そこが気まぐれということなのだよ」

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